高遠遙一は、地獄の傀儡師となりえるのか 作:wisterina
音楽室に悲壮感漂う旋律が零れる。しなやかに女のものと思わるような細い指は、それに違わぬ繊細で正確なモーツァルトの『レクイエム』を弾いている。
――暗い曲だけじゃなくてほかにも弾いてみなよ。モーツァルトとかさ。
ピアノを弾きながら春に姫野先生の言葉を思い起こしながら、高遠は皮肉を込めて口角を上げた。モーツァルトが自身への葬送曲にと魂を込めて作曲し、結局未完で終わった悲しきこの曲に似合わないような笑みを浮かべて。
姫野先生、モーツァルトには確かに明るい音楽もありますよ。けど、人間というのは必ず裏もあります。このレクイエムもそう。あの天才ともてはやされたモーツァルトが自身の死を感じ取った時に作曲したものです。人は誰にも言えない悪性を、心の闇を抱えています。僕自身も。
霧島の葬儀の後、高遠はマジック部の部室に足を運ばずに以前のように音楽室でピアノを弾く毎日を過ごしていた。マジック部の面々が高遠を連れ戻す気配は見られなかった。霧島の死がトラウマになっているのだろうという姫野先生や片倉部長の配慮であろうと高遠は感じていた。しかし辞めたわけでなくまだマジック部に籍を残しているので幽霊部員状態で高遠は所属している。ただでさえ人数が少ないマジック部に二人もいないので幽霊部員状態でも高遠は部の存続に貢献しているといえる。
しかし過去の自分を部室の忘れ物のように置いただけで、本体は昔に戻ってしまっている。本人の時が壊れてまま、時は二学期の十月に進んでしまっていた。
ボン。次の譜面に移行している時、一番低いドの不協和音が高遠の手を止めた。完璧主義な高遠が決してミスをするはずはない。そもそも高遠の手はピアノの一番端にある鍵盤に手が届かない位置にあった。
「誰の葬送曲なんだ」
「黒江先輩。お久しぶりですね」
演奏を不協和音で中断されて不快だったのか、他人行儀な言い方で、久しぶりに顔を合わせる黒江になおって座ったまま会釈する。黒江は高遠のわざとらしいものの言い方が癪に触ったのか、眼鏡の奥から蔑む視線で見下した。
「幽霊部員と化しているくせに、部員でないこっちには顔を出しているんだな」
「霧島の件がありましたから、あまり近づきたくないので」
「なら弾くならレクイエムじゃなくてもっと他の曲にしろ。あの腹が立つほど薄っぺらい笑みの下の
黒江が霧島を糾弾すると、音楽室の隅に置いてあった椅子に前かがみに座る。普段動揺を見せない高遠に一瞬緊張が走った。霧島の本性。それを知っているのはあの場、あの物置にいた本人と高遠のみが知っていることだった。
黒江先輩があの場にいた? いやありえない。マジック部からあの物置までは僕が仕掛けたあの装置以外では短時間で移動できないし、天窓以外は中を覗くことができない。仮にできたとして中の声を聞いたら、鍵が開いている物置に飛び込むはず。なぜ今この時期にそのことを話すのか。高遠は慎重に頭の中で思考を巡らせ、黒江の狙いを探る。
「故人に失礼ですよ先輩。霧島のおちゃらけが全て演技であるみたいじゃないですか」
「故人だからこそ言える。死人は口もなく耳も聞こえないからな。五月祭の前の日、あいつがゾンビボールを落としてカバンを倒したことがあっただろ。その時藤枝のカバン、霧島が漁っていたのを見かけた」
「あいつ、藤枝に修行不足だとか言われていた。その憂さ晴らしに藤枝のカバンから何か取ったはずだ。ま、結果的に藤枝の指摘通り修行不足がたたってあんな目に遭った。自業自得だ」
「霧島がそんなことを……」
わざとらしく驚く表情をつくった。むろんそんな程度で済めばかわいいものであった。実際には藤枝が高遠に近づいたことへの身勝手な行動からで、絞殺・首の切断・マジックの小道具のように扱う算段だとは黒江も知る由はない。
「人間なんてそんなものだ。どんな奴でも些細なことで嫉妬に恨みにいじめだってする。人は本来悪であるというだろ。人は一皮むけばそんな面がある。藤枝にもああいう裏の面だってあるはずだぞ」
「……それは先輩も言えないのではないですか。まあ、周知のことですが」
出鼻をくじかれた黒江は席を立ち、音楽室から出ていこうとする。ふと廊下から出たところで止まった。
「言い忘れたがマジック部の報告。藤枝が戻ってきて部長に昇進だ。俺は副部長。部員も新しく一年の奴が入って定員ぎりぎりだ以上」
「ありがとうございます。黒江副部長」
抑揚のない事務的な報告に高遠も社交辞令的な返しをすると、「死ねばいいのに」と黒江のいつもの黒い部分を包み隠さず漏らした。
高遠はまた独りになった。白黒の刃のような鍵盤の上に、被せるように手を乗せる。性悪説。人の本性は悪である中国の思想家荀子の思想。すると黒江の言葉に霧島の言葉が重なる。
――だって俺もお前も悪の犯罪者として似た者同士だからだ。
「悪の犯罪者。生まれながらにしての悪……ですか」
不敵な笑みを浮かべると、静かに鍵盤を下ろす。音楽室に深く、暗い旋律が流れる。レクイエムの悲壮と鎮魂とは違う、濁り淀んだ音が込められたような曲、リストの『暗い雲』が高遠の指先から流れ出ていく。悪の犯罪者と言われ、父からも忌みされし肉体から流れる旋律が。
すっかり日が落ちていた。久しぶりに何曲も引き続け、見回りに来ていた警備員が来なかったら夜まで高遠は弾き続けていただろう。だがそれでもよかったかもしれない。帰る家にも自分の居場所はないのだから、そしてマジック部も自分の手で壊してしまった。もう学校では、あの音楽室だけが彼の居場所だった。
携帯で時刻を確認するとまだ十八時にもなっていなかった。まだ帰りたくない。そう思って井之尾公園に足を運んだ。秋も暮れてきたこともあり、公園の電灯に灯された人工的な光が紅葉した葉をくっきりと映し出す。そして電灯は転がってきた小さなピンポン玉も映し出した。
「お兄ちゃん取って!」
小学生ぐらいの女の子がピンポン玉を追いかけて、転がる先にいた高遠を呼んだ。高遠がそれを取り、女の子が小さく息を切らせてボールを受け取ろうと小さな手を広げた。
すると、高遠はピンポン玉を軽く握りしめると中から小さな白の文鳥が飛び出した。文鳥は本物で、ピチチと鳴き声と共に手から放たれると女の子の掌の上に舞い降りた。
「すっご~い。お姉さん、このお兄ちゃんすごいよ。ボールが鳥になった!」
女の子が文鳥を乗せたまま公園の中央に向かうと、そこには藤枝がいた。彼女の手元にお得意のマジック道具であるカップが手の中にあり、ついさっきまで彼女がマジックを披露していたのが見て取れた。
彼女が子供たちをもう時間だからお帰りと解散させる。
「高遠君、久しぶり」
「先輩。だいぶ顔色が良くなってきましたね」
「高遠君は相変わらずだけどね。ちゃんと食べてる?」
ふふっと高遠は小さく笑って返した。数か月ぶりに出会った藤枝の顔色は、霧島の葬式の帰りの時と比べても戻っていた。それに、彼女にとって忌まわしい出来事であるはずの五月祭のことを話のネタにできるほど心身ともに回復しているのにホッとした。
「復帰と部長就任おめでとうございます」
「やめてよ。途中数か月も部活休んでいたのに部長って、最初辞退したのに、片倉部長の押しに負けて。あのこともあったし」
霧島の一件のことを思い起こし始めると、藤枝の顔が少し土気の色を帯びてきた。カバンにしまいかけていたマジックの小道具のボールが藤枝の手から零れ落ちる。高遠がそれを拾い、手の中でボールから白のバラに変えて藤枝の制服の胸ポケットに挿した。
「でも先輩はちゃんと部に戻ってこれたのです。未だ部に戻らず一人ピアノを弾いている誰かとは違って」
「それは、高遠君が私に続けてほしいって言ったから。いつもクールに振るまっている君が、お母さんを説得しているみたいに接したら頑張らないといけないと思って」
母親に接しているみたいに? 高遠には母親がいないとされていた。そんな彼が母親と接しているような振る舞いをどうやって湧き立たせたのか思考を巡らせたが、該当する人物がいた。近宮玲子。高遠は藤枝がどことなく近宮玲子に似ていると評した。
ああそうか。辞めてほしくない衝動は、そういうことだったのか。もし近宮玲子がマジックを辞めるなどと発言したら、
僕は間違いなく直訴するほどいらだたせるだろう。そして僕の中ではやはり近宮玲子は僕の……
藤枝は胸のバラの花びらを愛おしそうに弄りながら、マジックの道具を詰め込みチャックを締めると立ち上がった。
「だから高遠君がマジックをしていたこの公園でリハビリがてらに練習して、そしたら子供たちが寄ってきてね。何度かやっていくうちにファンもできてね」
「もしかして、僕を待ち続けていたのですか?」
高遠が指摘すると、日が落ちて暗くなった中でもわかるほど顔色が乳白色の肌を通り越して、熟れた桃のような色に変化していた。
霧島の一件の後、しばらくこの公園に立ち寄らなかった。外でするのが気が引けるのもあるが、遅くなるといけない理由ができてしまったからでもあるが……
「あ、はは。高遠君は何でもお見通しなんだ。私ね、あなたのこと憧れもあった。これは本当のことよ。でも、子供たちの中に高遠君のファンもいて見劣りするって言われちゃって。本当子供って正直だよね。この公園で君を見た時から、何で勝てないのかなってずっと嫉妬しちゃって。君がいないのをいいことに必死になって。やっぱり私って高慢な女王様だよね」
弄っていたバラの花びらが一枚ぽろりと落ちた。まるで皮が剥けたようにたやすく。藤枝の片鱗が見えたようだった。
しかし、それは可愛いものである。自己中心的な殺人を行う人よりも。父が警戒するほどに、人を殺すことに何も感じず計画を立てる人よりもずっと健全で、ずっとまともだ。
むしろあなたが羨ましい。
あなたのような
「あ、もう七時だ! ごめんね高遠君、こんな時間になるまで付き合ってもらって」
「いえ、藤枝先輩のお元気そうな顔が見れて何よりです」
「じゃあね高遠君。マジック部はいつでも帰りを待っているわ」
藤枝がそう言い残して公園を出ていく。その時、彼女の体からどこか花のような匂いが運ばれた。バラの高級感とは違う、優しいフローラルな香りが。
家に戻るころには、夜は七時半を回っていた。マジック部に出入りしていたころならば、何も言われずに済んでいたがあれ以降門限が厳しくなっていた。もちろんそれを気にする人物はこの家にただ一人だけであるが。
玄関の扉に手をかけると、家の中でガラスが割れる音が響いた。