更衣室で着替えて店内に戻ると、バータイムでもないのに父が一人でカウンターに立っていました。リゼさん、ココアさんは七夕の短冊飾りに行ってしまったので、その間父が店を預かることになったようです。父はおかえり、と一言言っただけで、私が七夕に一緒に行かなかったことについては、特に何も言いませんでした。
店は父一人で引き受けてくれるようだったので、私は私服に着替えて自分の部屋に戻ってきました。期末テストも終わった後の時期で特にやることもなく、ぽっかりと暇な時間が出来てしまいましたが、ココアさんの誘いを強く断ってしまった手前、今さらココアさん達に合流する訳にも行きません。
――七夕の誘いを断ったの、ちょっと子供っぽすぎるわがままだったかな……。
ココアさんに八つ当たりにも近いことを言ってしまったのを少し後悔しながら、机の引き出しを開けます。一番上には、この前みんなで行った山のキャンプの写真。下にいくほど古い思い出がしまわれている引出しの奥を漁っていくと、そこには、何年か前の七夕で飾った後から、ずっと入れっぱなしになっていた短冊がありました。それを見た途端、私の記憶の引き出しも、同じように開かれていきました――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「チノや。おいで。今日はこれに願い事を書く日なんだ。わしと一緒に書こう」
その日のおじいちゃんは、たっぷりとした白ひげをたくわえて、お気に入りの蝶ネクタイにベストの格好で、人間だった時のいつもどおりの姿でした。ただいつもと違っていたのは、手にカラフルな紙と細長い棒状の枝のようなものを持っていたことでした。思い出すと、短冊も笹竹も実際に間近で見たのは、この時が始めてだった気がします。
「どうした親父……。七夕なんて珍しいじゃねえか。いつもは、『こういうイベント事はわしの店には似合わん!』とか言ってる癖に。というか竹とかどこから調達してきたんだ」
すると父が店に入ってきました。こちらはラフな格好で、外に出かけていたようです。『隠れ家的な喫茶店』を目指していて、普段はイベント事を使った集客などにはあまり興味を示さない、硬派な経営理念を持つおじいちゃんの気変わりには、父も驚いたようでした。
「近くのホームセンターで買って来た安物じゃがな。まあ、たまには良いじゃろう。こういう時だから、気分転換は必要じゃ」
それから、店のテーブルで3人で願い事を書くことになりました。3人の願い事を何にするかは、決まりきっていたことでした……、というより、おじいちゃんも元よりそのつもりで竹を買ってきたのだと思います。
『『『お母さんが元気になりますように』』』
その後、流石に短冊が3枚だけでは寂しいので、一人一つに限らずいくつか願い事を書きました。書き終わった後、竹は店の入り口の外に飾ることになりました。
「……それで、あやつの容態はどうじゃったんだ」
「今日は比較的落ち着いてはいた。行った時はすやすや眠っていたが、寝顔がチノにそっくりだったよ……て、逆が正しいのか。だが、依然として予断を許さない状況だと、医者が」
「……そうか」
「……??」
私は飾りつけ作業をしながら話し込んでいるおじいちゃん達の後ろに、灰色の塊のようなものがいるのに気がつきました。何だろう……? 思わず近づいて行くと、……ドンッ!! 灰色の塊に体当たりされました。
「!?!?!?」
灰色の塊はうさぎでした。地面にしりもちをつき、勢いで短冊が手から離れてしまいます。
「あっ……」
止める間もなく、灰色うさぎが短冊をくわえて走り去ってしまいました。呆然と見つめていると、逃げる灰色の塊の後ろを、猛然と追いかける白い塊が現れました。
「ティ、ティッピー!!」
灰色うさぎを追いかけてティッピーもどこかに行ってしまいました。思い出すと、(少なくともおじいちゃんが中に入る前は)大人しい気性だったティッピーが、こんなに機敏に動いたのを見たのは、この時だけだった気がします。
「大丈夫じゃったか!? チノ!?」
「た、短冊が……」
「転んだみたいだけど、どこか痛いところとか、擦りむいたりはしてないか? 打ち身やあざは?」
「わ、私は大丈夫ですけど、短冊が、うさぎに持っていかれて……」
「怪我がなくてよかった。短冊はまた書けばいいよ、チノ」
それから30分ほどして、申し訳なさそうな顔(に、私には見えました)で帰ってきたティッピーの口には、ボロボロに千切れて半分だけになった短冊がくわえられていました。
「うさぎって短冊を食べたりするんじゃろうかのう……」
「ヤギじゃないんだから、それは無いだろ親父……」
ティッピーを見つめながらこう呟く二人でした。おじいちゃん達はまた書けばいいとフォローしてくれましたが、お母さんが元気になりますようにと、大事な願い事を書いた短冊が真っ二つに千切れた姿には、何となく良くないものを感じてしまったのでした。
――母が亡くなったとの知らせを受けたのは、その出来事から遠くない日のことでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「んぅ……ふぁ……」
昔のことを色々思い出しているうちに、椅子に座ったまま眠ってしまっていたようです。太ももに冷たいものが零れ落ちる感触で、自分が眠りながら泣いていたことに気づきました。
下を見るといつの間にか、ブランケットが体にかけられていました。父がかけてくれたのでしょうか? そういえば引き出しの中の短冊の位置も変わってるような……これも父が見ていたのでしょうか。
「チノや。夕食が出来たそうじゃぞい。ココアが怪しい隠し味を入れていたから味はどうなってるか分からんがの」
おじいちゃん(ティッピー)が呼びに来たので、慌てて頬を伝う涙を拭き、私の思考は中断されました。立ち上ってくるシチューの匂いは、匂いだけならとても美味しそうです。下りていってココアさんと顔を合わせた時は、さっきのこともあってちょっと気まずい感じがしましたが、
「チノちゃん、お姉ちゃん特製シチューの味はどうかな? 千夜ちゃんから教えてもらった隠し味、『母なる海の息吹混ざりし暗黒素(ダークマター)』を入れてみたんだけども」
「隠し味のネーミングが不穏すぎるのですが……。でも匂いは美味しそうですね。いただきます。もぐもぐ……、!!!!」
「どう、美味しい?」
「くっ、悔しいですが私の作るシチューよりも美味しいです。隠し味はだし醤油だったんですね。コンソメ味の後からほのかに上品な和風の香りが香ってくるのがいいアクセントになってます。洋風のシチューと和風のだし醤油を組み合わせるとは、まるでラビットハウスと甘兎のコラボメニューのような斬新さ、考えましたね……」
「えへへ~、チノちゃんに褒められちゃった! 私だってちゃんと上達するところは上達してるんだからね!」
「じゃあこれから毎日食事当番はココアさん一人に任せてしまって大丈夫そうですね」
「うえっ!? そ、それは、……チノちゃんのお料理も食べたいし、チノちゃんと一緒にお料理もしたいよ~!」
……こんな感じでココアさんがいつも通りだったので、特に七夕のことには触れることなく今日の食事は終わり、私もこの日の出来事はしばらく思い出すことはありませんでした。
――そう、ココアさんが行方不明になってしまう事件の起こった、あの日までは。