「……ココアさんの帰り、遅くありませんか?」
「確かに、この時間に帰ってないのは珍しいかもな……、きっとココアのことだから、どこか寄り道でもしてるんだろ」
その日は朝から憂鬱な天気が続く日でした。雨は止まないのに、気温が下がる気配はなくて、砂利が蒸されるようないやな臭いが街には立ち込めていました。そんな日なのに、ココアさんは用事がある、と言って出かけてしまい、お店の営業が終わる時間になっても戻らないのでした。
「ココアさん、明日は新作のパンをお店で出すって言ってたのに、忘れてるのかな……」
ココアさんは今日はシフトの入っていない日だったので、どこかで遊んでいたとしても、責められる筋合いはありません。が、新作メニューの「ココア特製もちもちロールパン」を明日お店にデビューさせる、と宣言していたのは、他ならぬココアさんなのです。パンをお店に出すには、前日から生地の仕込みが必要ですし、新メニューともなれば仕込みにも時間がかかるのは明白でした。そろそろ帰ってきて仕込みを始めないと間に合わなくなるはずなのですが。
「おーい、ココア、いるー?」
マヤさんの声と、ラビットハウスの扉が勢いよく開かれる音が私の思考を中断させました。
「ココアならまだ帰ってないぞ」
「ココア、帰り遅くね? これ、道に落ちてたから届けに来たんだけど」
「こ、これは……」
そう言ったマヤさんが差し出したのは、ココアさんがいつもつけている、花の髪飾りでした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「フルールにも居なかったわよ……。千夜、学校の方は?」
「こっちにもいなかったわ……。学校は職員室以外、どの教室も完全に戸締りしたって」
モカさんとお揃いだといって、ココアさんが大事にしていた髪飾り。決してココアさんが外すことのなかった髪飾り。その髪飾りが道に落ちていたというのは、ただならぬ事態を予感させるには十分でした。千夜さんやシャロさんはじめ、一通りみなさんに声をかけたのですが、誰もココアさんの行方を知らず、街に出て探し回っているのでした。
「ココア……、何か事件に巻き込まれてなければ良いけど」
髪飾りが見つかったというのは木組みの街でも人通りの少ない路地裏でした。ココアさんが用事のあるようなところには思えません。ココアさん、まさか誘拐されてしまったのでは……? いやいや、いくらココアさんでも、知らない人に着いて行ったりすることはあり得ません。でも、たとえば複数の男の人に囲まれて無理やり車に乗せられたとしたら? ……次々と湧いてくるネガティブな想像を、頭を横に振って打ち消そうと努力します。
「ところでマヤさんは何でそんなところにいたんですか?」
「自分では行ってないよ、青山さんが拾ったらしいんだけど小説のネタ探しの続きがあるから、ってことで私が預かったんだ」
「青山さんは街の色んなところに出没してるイメージがありますからね」
「とにかく、髪飾りが見つかった場所を中心に、もう一度手がかりがないか探してみましょう」
こんな時でも冷静なシャロさんの指示の下、もう一度ココアさん探しを始めます。が、8時、9時……どんなに探し回ってもココアさんは見つからず、時間ばかりが過ぎて行きます。メールも電話も、つながらないままでした。
「もう一度、情報を整理してみましょう。まずチノちゃん、ココアの部屋に書置きとかの類は無かったのよね?」
「はい、ありませんでした。ココアさん、明日は新作のパンをお店に出すって言ってたのに、自分からいなくなるとは思えないです……」
ココアさんが戻ってないか確認するのも兼ねて、私達は一度ラビットハウスに戻ってきていました。やはりココアさんが戻ってくる気配はなく、私の部屋で、シャロさん指揮の下、ココアさん捜索会議が行われることになったのでした。
「次に千夜、今日一日のココアの行動だけど……、学校で何か変わったこととか、ココアにとって嫌なことが起こったりはなかったのよね」
「何も無かったと思うわ。ココアちゃん宿題忘れて先生に怒られたりとかはしょっちゅうあるけど、今日はそれも無かったし、様子に変わったところも無かった。やっぱり、自分からの家出ではないと思うの」
「宿題忘れるのがしょっちゅうあるのはどうかと思うけど……、とにかく分かったわ。じゃあ最後に、リゼ先輩。たぶんココアに最後に会ったのがリゼ先輩なんですけど、出かける時にどこに行こうとしてるのかは教えてくれなかったんですよね」
「ああ。何か行き先は内緒と言ってたけど、こんなことになるなら無理にでも聞いておけば良かったな……」
「まとめると、ココアの用事が何だったのかは分からないけれど、明日のパンの仕込みがあるから普通に戻ってくるつもりはあったってことになるわね……。考えたくはないけど、やっぱり何かの事件に巻き込まれた可能性も……」
重苦しい沈黙が部屋を包みました。いつだったか、大雨の日のお泊り会や、マヤさんメグさんがお泊りに来たときよりも、多くの人が集まっているというのに、いるべきただ一人の人がいない、それだけのことが、部屋の雰囲気を大きく変えていました。
「ココア……本当にどこに行ったんだよ……」
リゼさんがポツンと呟いた一言が、みんなの気持ちを代弁していました。
「チノちゃんごめん……私そろそろ帰って来いって、お母さんからメールが」
「ごめんチノ、私もだ……もし明日の朝まだココアが戻ってなかったら、学校休んで一緒に探してあげるからさ」
「メグさん、マヤさん……。いえ、むしろこんな時間まで付き合ってもらってしまって、本当にありがとうございました。帰り道くれぐれも気をつけてください、マヤさんメグさんまでいなくなってしまったら私どうしたら良いか……」
そこまで話した時、部屋のドアがノックされ、父が部屋に入って来ました。
「話は聞かせてもらったよ。二人は私が家まで送っていこう。こんな状況だし、夜の暗い中を二人だけで帰らせるのは二次災害になりかねない。シャロ君、千夜君も送っていくから今日は引上げるように。リゼ君は、お父さんが迎えに来るそうだからそれまではここで待機しててくれ」
何か言おうとしたリゼさんを制して、父は有無を言わさない様子でこう続けました。
「ココア君のことは、本来ホームステイ先である香風家が責任持って対処しなければならない話だ。ここからの事は大人達に任せて欲しい。既にリゼ君のお父さんには協力を依頼して、部下達が捜索に動いてるし、学校にも一報を入れてあるので、朝までに戻らなければ先生達の力も借りることになる。当然その次には、警察に捜索願を出すという話にもなってくる。ココア君を心配する気持ちはあるだろうが、みんなを危険な目に会わせてまで動いてもらうことは出来ないということは分かって欲しい」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「チノ……」
みんなが帰ってしまった後のがらんとした部屋で、ティッピーが私に話しかけますが、今は何も答える気にならないというのが正直な気持ちでした。
既に時計の針はてっぺんを回っています。最後まで残っていたリゼさんは、天々座家の人間として自分も捜索に協力する、と言い張り、階下でリゼさんのお父さんとだいぶ言い合いになっていたようでしたが、最後には諦めて家に連れて帰られたようです。
リゼさんがお父さんと言い合いになった気持ちは、少し分かるような気がしました。こういう時、何も出来ずに待つしかないというのが一番辛いのです。夢中で手や足を動かしている間はせずに済んだ良からぬ想像が、することが何も無くなった途端に、次々と湧き起こって来てしまうのでした。私の頭の中では、警察、捜索願といった、父の口から発せられた非現実的な言葉がぐるぐると駆け巡っていました。ココアさんは本当に、……本当にいなくなってしまったのでしょうか。
「ココアさぁん……」
クッションに顔を埋めたまま、その人の名前を呼びます。
悲しみから明けたあの春に、風のように突然現れたあの人。
私にとって隣にいるのが当たり前になりつつある、あの人も――
いなくなる時は突然なのでしょうか?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
頬を流れる自分の涙の冷たさで目が覚めました。どのくらい時間が経ったんだろう? 1時間? 2時間? 慌てて時計を見ると、眠っていた時間は15分くらいでした。
階下で電話のベルが鳴る音がしていました。3回ほど鳴った後に、父が電話を取ったようです。
「もしもし、香風ですが、……えっ? えっ? はい、すぐに伺います!!」
ガチャ。電話の切れる音とともに、父が階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、ノックもなしに私の部屋のドアが開かれました。
「チノ! ココア君が見つかったぞ!」