10分後。父の車に乗せられて向かったのは、私も何回か行ったことのある温泉プールでした。中世の宮殿のような綺麗な建物は、夜の闇の中だととても威圧的で、私の心まで押し潰そうとしているかのように見えました。何でこんな深夜、こんなところにココアさんが? 考える間もないまま、父と私は真っ暗の受付ホールを通り、医務室に案内されました。
内装全体がゴシック調の建物の中で、医務室だけは唯一現代的な真っ白な内装でした。室内に通された私が見たのは、――ベッドに横たわり、彫像のように動かなくなっているココアさんの姿でした。
「ココアさん、嘘ですよね、ココアさん……!!??」
ベッドに駆け寄り体を揺さぶりますが、反応がありません。まさか、まさか……!!
「そんな、ココアさん……!!」
明日、新作のパンをお店に出すんだって張り切って材料を買い込んでいたのに。買い込み過ぎてリゼさんに怒られて、ロングヒット商品になれば材料は使い切れるよ、って言い訳してたのに。数時間前までは元気で、ちょっとしまりの無い笑顔で私に笑いかけてくれていたのに。こんな、こんなことって。今日何回目になるか分からない涙が、私の目から流れました。
……流れた涙がココアさんの頬に落ちたその時。それまでピクリとも動かなかったココアさんの口元が動き、はっきりとこう聞こえました。
「むにゃむにゃ……パンが焼けたらラッパで知らせてね……」
「えっ……、えっ……!!!???」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ラビットハウスを騒がせたココアさん失踪事件から数日。ココアさんも無事戻ってきて、表面上はラビットハウスは平和を取り戻していました。医務室のベッドの中で動かないココアさんを見たときには不覚にも取り乱してしまいましたが、まさかただ熟睡しているだけだったとは……。
改めて、あの日起こった出来事を振り返ってみます。
あの日のココアさんが出かけていた用事は、泳ぎの練習でした。私も知らなかったのですが、あの温泉プールの中には、レジャー用の温泉プールのほかに競技水泳用の本格的なプールもあって、そちらで練習をしていたそうです。が、あまりにハードな練習をし過ぎて、ココアさんはプールで溺れてしまった。幸い、監視員さんにすぐ助けられたのですが、過労の影響か、ココアさんは運び込まれた医務室のベッドでそのまま泥のように眠り込んでしまったそうです。
「意識を失ってる訳ではないしただ眠り込んでるだけ、そのまま寝かせておいたほうがいい」というお医者さんの判断もあってそのままにされていたのですが、2時間、3時間経ち、結局深夜まで目覚めませんでした。プールの職員さんも、閉館時間を過ぎても眠り姫のように眠り続けるココアさんにはほとほと困り果てたようです。しかし、ココアさんは身元の分かるものを何も持っていなかったので、家の人に連絡することも出来ませんでした。結局、職員さんの一人が搾り出すように思い出した、「この娘、どこかの喫茶店で顔を見たような……」という一言から、何とかココアさんの身元を特定して、あの電話になった、ということでした。
そして謎だった、路地裏に落ちていた髪飾りですが、問題の路地裏は、街のスポーツショップから温泉プールまで向かう道の近道になっていて、そこを通った時にココアさんが落とした、ということのようでした。スポーツショップには、本格的に泳ぐ用の競泳水着とスイミングキャップを買うために立ち寄ったそうですが、キャップを試着した時に取った髪飾りの付け直し方が甘く、歩いているうちに落ちてしまった……というのが真相だったようです。
ここまでは、ココアさん失踪事件のあったその日のうちに分かったことです。ですが一つだけ、分からないことがありました。それは、ココアさんがそこまで本気で泳ぎの練習をしようと思った「動機」です。
ココアさんに問いただせば良い話なのですが、あの日以来、何となく私とココアさんの間に気まずい空気が流れていて、聞けずにいるのでした。あの日、目覚めたココアさんは、寝ぼけていてしばらくは状況が理解できていなかったようですが、状況が分かると真っ青になり、「チノちゃんごめんね!? 本当に心配かけて、ごめんね……、大切な家族に心配かけて、私……」と、いつもの「ヴェアアア」も封印して、流石に本気で凹んでいる様子だったのでした。
私はというと、ココアさんに泣き顔を見られたのが恥ずかしいやら、私たちの心配も知らずにすやすや眠っていたココアさんが腹立たしいやらで、文句の一つでも言いたかったのですが、あまりにココアさんが凹んでいるので、どう声をかけていいか分かりませんでした。しかもその後はココアさんを探してくれたみなさんへの連絡やら、学校やココアさんの実家への顛末の報告やらで周りが慌しくなってしまって、何となくちゃんと話が出来ないまま、数日が経ってしまったのでした。
――ココアさんと、一度ちゃんと話をしないと。でもどうすれば、何かきっかけがないと……。
トントン。ぐるぐるとそんなことを考えていた時、私の部屋のドアがノックされ、父が部屋に入ってきました。
「チノ、モカ君からまた手紙が届いていたよ」
「モカさんから……?」