進撃の巨人 For the past five years 作:灰かぶり
小説はやっぱり、書くより読むほうがいいなぁ……。
*
走る、走る、走る――。
「ひっ! う、うわぁぁぁぁっ――――」
途切れた、悲鳴。
「誰か、誰かぁ!」
「どけっ! ぶっ殺すぞ!」
助けを呼ぶ叫び。罵声。
「痛い……足が、私の足……」
「おかぁさぁん!」
「あぁ、神様……」
すすり泣く声。親を求める声。祈りに似た、嘆き。
聞こえない振りをして、見えない振りをして、走る。
足を止めないのは、大地が空よりも深く、赤く染まっていくのが怖かったから。
止まってしまったら、もう走りだせない気がしたから。
誰かの為に動かしていたはずの足は、崩れていく世界と共に、その理由だけを失っていった。
*
「はい、これね」
女性がそう言って差し出すのは、四角い小さな箱。
アダムは誤って相手の手に触れてしまわぬよう、慎重にその箱を受け取る。
人見知りの緊張もあったが、そのぎこちない動作の原因は半分以上、別の所から来ていた。
「ありがとうございます、カルラさん」
「どういたしまして」
礼を述べて返ってきた柔らかな微笑みに見惚れて、アダムは箱を両手で持ったまま固まった。
思春期の少年に限らず、男ならば誰だって美人に弱い。彼の緊張は誰もが非難できないものだった――――男性に限ってだが。
そんな男性の代表例であるかのように、アダムが礼を述べた美人――カルラの目の前で背筋を伸ばし固まっていると、彼の後頭部が軽くはたかれた。
「いてっ!」
「なーに顔を赤らめてやがんだ、ガキが色気づきやがって。というか、相手は子持ちのオバハンだぞ?」
横に居た男性兵士が頭を叩いたその手を腰に当て、正気を疑うような眼差しでアダムを覗き込んだ。
男性の中でも、好みによっては非難されるものらしい。
「よくそんなことが言えるわね、フーゴ。私はアンタより一回り若いんだからね」
「けっ、子持ちの人妻が何言ってやがる。覚えとけよ坊主、女なんてのは結婚して母親になっちまうとみんな人が変わったように――」
「その言葉、アンネに伝えとくわ」
「――とてつもなく美人になるんだよ。いやー、結婚って素晴らしいな!」
「――っ! いたっ! 痛いですってフーゴさん!」
何やら教訓の様なものを説こうとしていた中年の男性兵士――フーゴは途中から笑いを引きつらせて、アダムの背中にある「盾に違い剣」の紋章――何故か引きずられた後のようにボロボロになっていた――を叩いてきた。焦って加減を忘れていたのか、つい咳き込んでしまう程の力。
会話の流れから察するに、どうやらカルラが言った「アンネ」とは彼の奥さんの名前らしいが、とんだとばっちりだ。どれだけ怖いのか分からないアダムには、所詮他人事である。
「いい加減にして下さいよもう! さっきから人の体をあちこちと! 首絞められた時なんてホント死ぬかと――」
見上げてくる視線が、鋭く細まる。
躾と称したイジメを喰らっていたアダムとしてはガツンと文句を言ってやりたかったのだが、フーゴの睨み一つでそれ以上何も言えなくなった。
「あんだ? ヒヨッコごときが先輩兵士に逆らおうってか?」
ヘビに睨まれたカエル。
という心境までには至らなかったが、フーゴの胸にあるワッペンが目に入り、アダムは「うっ……」と呻きながら一歩たじろぐ。
盾に絡みつく、薔薇の紋章。駐屯兵団の兵士たる証。
同じ型のジャケットを着ていながら違う紋章が施されているそれは、ただの訓練兵であるアダムと駐屯兵団所属の兵士であるフーゴ、2人の間にある上下関係の差を雄弁に物語っていた。
しかも目が覚めた途端に彼から事情聴取をされ、「前代未聞! 訓練期間中の訓練兵が、駐屯兵団により逮捕される!!」なんて恐怖をアダムは植え付けられており、余計に体が反応する。
全身を締め付けるような緊張。それはまるで、その胸に付いている薔薇が、盾ではなくこちらに絡みついてきたようだった。
フーゴ自身は、慣れてしまえばただの小さいおっさんなのに。
「おい坊主。お前今、俺のことチビの親父って言わなかったか?」
「――いえ! 言ってないです!」
素早い敬礼と共に咄嗟に出た言葉は、決して嘘ではない。もっと可愛いニュアンスだったはず――というより漏れていたのか、心の声。
一瞬で、そんな言い訳の結論と焦りを生みだしたアダムは、意外と余裕だったらしい。
「このクソガキは……人の話を聞かないわ、平気で嘘つくわ、一体どんな訓練受けてやがるんだコラ!」
フーゴが軽く手を伸ばし、アダムの頭を無理やり抑えつける。おかげでうっすらと頭皮が見える彼の頭頂部を捉えていたアダムの視界に、ぜい肉が余分についているだらしない腹が新たに飛び込んできた。腹はたるんでるくせに、意外な腕力だった。
「ちょっ、やめて下さいよ! 背は縮みませんって!」
アダムが頭上の手を払いのける。
「うるせー! ガキのくせに年上を見下してんじゃねーぞ!」
「フーゴさんが小さいのが悪いんじゃないですか!」
「俺は普通だ! お前がでかいんだよ!」
「俺よりでかい奴だっていますよ! 3人ぐらい!」
「そんなでかすぎる少数派を引き合いに出すな! つーかお前の知り合いなんざ知る訳ねーだろ!」
「探せばどこかにもっといると思います!」
「それじゃ探して連れてこい! ……ってそんな話をしてんじゃ――!」
パンパンッ!
混迷しかけていた言い合いを止める、連なり響く乾いた音。
音のした方へ目を向けた先に居たのは、両手を合わせて目を瞑るカルラ。
随分と強い柏手に加えて静かに何も見ないその様子は、まるで見るに堪えない醜態だと彼らに伝えているようだった。
「仲が良くなったのは結構だけど、余所でやってくれる? ご近所さんに迷惑だから」
静かにそう言って瞼を開いたカルラが、そのままゆっくりと周囲に目を向ける。その動きにつられてアダムが辺りを見渡すと、こちらを見つめるいくつもの視線とぶつかった。
夕焼けに赤く染まる街。昼間の閑静だった住宅街は、仕事を終えて家路を急ぐ大人たちや、遊び疲れて家族の元へと帰る子供たちが行き交い、安穏の夜を迎える準備で忙しそうな街中へと変貌している。
その中で、兵士2人が子供のように騒ぎながら喧嘩をする光景は、かなり目立っていた。親子連れの「ママー、あれ何?」「しっ! 見ちゃいけません!」という会話がアダムの肩にのしかかり、強制的に彼を撫で肩にしてしまう。目に入れるのも憚られるとは、かなりへこむ。
それに、ここは彼女の家の前だ。
「すみませんでした、カルラさん……」
「面目ねぇ……」
状況を同じく察したのか、フーゴがほぼ同時に謝る。その頭の位置はアダムよりも深く下げられていた。
おそらく彼の方が自分より、世間体とやらにも詳しいのだろう。アダムとしては基地以外でコミュニティーの一員になった経験が無かったので、その世間体というものも推し量ることしかできなかったが、この状況はカルラに迷惑をかけてしまうだろうことだけは理解していた。
アダムの目の前にある家。それはカルラの家であり、彼の目的地であった医者の家。
この家に来るまでの記憶の中で確かだったのは、アルミンと別れてから再び迷子になり――近所のはずだったのに再び迷ってしまうその所業は、もはや呪われていると言っても過言ではない――空腹と疲れでフラフラさ迷っていた所まで。
その後、いつの間にか気を失っていたアダムが目覚めると、目の前に綺麗な女性がいた。「……あれ、女神?」と呟いてしまったアダムがカルラに笑われてしまったのは、彼にとって火が出るような熱い記憶だ。取り戻した記憶の再出発地点としては、最悪の部類。
しかし、考えようによっては最高。目が覚めた場所は女神がいる天国では無い、ただの一軒家の室内であったが、彼にとっては紛れもなく天国だった。
目の上のタンコブのような余計な親父の苦難はあったが、それを乗り越えてカルラから事情を聞いた彼は、自分が目的地に運ばれた事を知り、喜んだ。
まさか、眠っているだけで目的地に着くなんて。夢を見ていただけに、正に夢の乗り物だ。
乗り物だったのかどうかや、馬車があるだろ、という点などはこの際だから置いておいた。
そしてこちらの目的を話すと快諾してくれて――医者は不在だったが、薬は家にもあった――別れ際に優しく微笑みながら薬を渡してくれたのが、現在の状況。
子供たちが迷惑をかけた、と彼女からは謝られたが、アダムはあまりその辺りの事は覚えていなかったし、むしろ連れて来てくれたらしいことに感謝したいぐらいだった。
だからきっと、彼女は自分に天使を使わしてくれた女神に違いない。食事を与えてくれ、なおかつ美人というだけで、彼の中でカルラへの女神認定はとっくの昔に済んでいたのだが、アダムは改めて強くそう思っていた。
そんな女神の、今後のご近所付き合いに影響を及ぼしてしまいそうな騒ぎを、よりによって自宅の前で繰り広げてしまったことがただただ申し訳なくなり、アダムは体を縮こませた。皮肉にもフーゴの望み通りに、背はちょっと縮んでいる。
「これで、ご近所からいじめられたりしちゃうんですよね…………ゴミを投げ入れられたり、洗濯物バシバシ叩きながら騒いで引っ越しを迫られたり……。本当にすみません、もうなんて謝ればいいのか……」
「それは考え過ぎ、というか――そういう経験でもしたことあるの?」
「いえ、街に住んでたらしい友達に、そういう事は日常茶飯事だって聞いたんですけど……」
相棒、悪友、ただの詐欺師。友達と呼ぶには色々語弊があるかもしれない。
アダムが赤い髪のにやつく顔を思い出していると、カルラがとても言い辛そうに言葉を返した。
「……アダム君は、その、あれね…………素直な子なのね、きっと。そこまで無いと思うから、あんまり気にしなくていいわよ?」
苦笑いしながらという点が気になるが、女神に褒められるとは。フーゴが言っていたように結婚が素晴らしいのなら、こんな人と結婚したいとアダムは思った。
同じくして聞いていた「子持ちの人妻」という言葉は、記憶に残っていない。
カルラが苦笑いを引っ込め、心配そうな色を窺わせながらアダムと向き合う。
「それよりも、本当によかったの?」
「? 何がですか?」
「その薬の事」
その言葉に飛びついたのは、喋るのを自粛していたらしいフーゴ。
「おう、それだ。俺も思ったんだけどよ、風邪薬の代わりが下痢止めで本当に良かったのか? お前わざわざ壁を越えてここまで来たんだろ?」
フーゴの言葉を聞き、アダムは自らが持つ小さな箱へと視線を落とした。
その言葉通り、それは教官の妻の風邪を治す薬ではなく、下痢を止める薬。もちろん、下痢の症状がまだ見ぬ人妻にあるとアダムは聞いていない。
ただ、医者が居ないので薬の種類が分からなく、名前と効果が分かったものが子供用の風邪薬か下痢止めだけだったので、仕方なく下痢止めの薬を選んだだけという話。
もちろん、ただの嫌がらせだった。
「まあ多分、大丈夫と思いますよ」
軽い口調で言いながら、アダムは上着の内ポケットに箱を仕舞った。
病は気からとも言うし、黙って渡しておけば案外効き目があるかもしれない。そもそもただのホームシックだし。
「多分ってお前……こんな遠くまで来て下痢止め貰いに来る奴なんて聞いたことねーぞ。そもそも誰の為の薬なんだ?」
「訓練兵にも、色々あるんですよ……」
目線と肩を大きく落としながらのごまかしに、漂うのは哀愁。
「…………まあ、詳しくは聞かないけどよ」
面倒くささと情けなさで説明しなかっただけなのだが、訓練兵時代のことでも思い出したのだろうか、フーゴが追求を止める。
その似合わない優しさが痛くて、ちょっと気持ち悪いなと思うアダムは、かなり失礼だった。
様子を窺っていたカルラが腕を組みながら頬に手を当て、どこか納得しかねるように言う。
「君がそれでいいって言うなら、私としても別にいいんだけど……」
心配する仕種も上品で女神だ。アダムは惚気ながらも、浮かない女神の表情を晴さなければという使命感に突き動かされ、口を動かした。
「むしろこれがいいです。逆に下痢になったら面白そうだし……」
「え?」
恋は盲目、災いは口元。
つい漏れたアダムの本音を、カルラが目と口を開けて聞き咎める。
これは、まずい。
「そ、それよりも! こっちこそ本当によかったんですか? 代金は要らないなんて。薬って高価な物なんでしょ?」
ごまかす為に出した話題は、真実にアダムの懸念していた事だった。
薬を売る人ならば知っているが、医者なんてものは珍しい。お医者様直々の薬ならば高価であるはずだ。
アダムはその辺りの知識に疎かったので、それはあくまで何となくの印象ではあった。風邪すらひいた事の無い彼は、薬の効果自体もよく知らない。
その結果、先程の本音のようなささやかな復讐を思いついた訳だが。
「別にいいのよ、それぐらいなら。一個ぐらい無くなっても主人だって気付かないだろうしね」
カルラが片目を瞑り、悪戯っぽく笑う。主人という言葉が若干胸に痛いが、そんな表情もやっぱり女神だ。懐にある薬代が浮いた喜びと共に、アダムはそう思った。
本来の持ち主である教官に返すという発想は、ささやかな復讐を計画している彼の頭の中にはもちろん無い。
「それじゃ、ありがたく頂いておきます」
お小遣いも、なんて余計な事は付け足さない。ちなみに、教官にも特に言う予定は無い。
ないない尽くしな少年の心の内を露知らないカルラが、微笑みを返す。
「はい、どうぞ」
視界の焦点には、美しい笑顔。女神だなんて冗談ではなく、アダムは不思議と惹かれてしまう彼女との別れに名残惜しさを感じた。
しかし、時間と親父というものはいつだって容赦ない。
「おら、礼も言い終わったならさっさと行くぞ。早く出発しねーとお前、今晩はトロスト区の門前で野宿することになるけど、それでもいいのか?」
「ぐっ……!」
本人が自覚している事実というのは、改めて他人に指摘されると受け入れ難い。カルラとの別れを邪魔された気がして、アダムは隣にいた親父に逆恨みの目を向けた。
が、またいじめられるのが嫌だったので、それ以上はやめておいた。
「言われなくても分かってますよ、それぐらい……」
百も千も承知だ。
トロスト区を抜けないとウォールローゼの基地には帰れない。だが、あまりに遅いとトロスト区の門を開けてもらえない可能性がある。
もしそうなったら野宿と共に、教官からの理不尽な懲罰が確定だった。奥の手があるにはあるが、出来れば使いたくない。
「そういえば、アダム君は壁の向こうの内地に帰るんだったわよね?」
「はい、まあ一応……」
アダムは頬を掻きながら、不承不承に頷いた。出来れば嘘であって欲しいような道のりだ。
「だったら、今晩はウチに泊まっていく? 今から帰るのは大変だろうし、あなたの怪我の事を息子にも直接謝らせたいしね」
「――? …………」
聞こえはしたが、アダムは彼女が何を言っているのか、一瞬分からなかった。そして、言葉をゆっくりとかみしめる。
ウチに泊まるかと誘ったのは、旦那が出張中の美人な人妻。または、女神。
「……………………!」
体が硬直し、妄想が四散する。
アダムはイケない香りを放つ言葉に甘い予感を嗅いだが、未体験ゆえの暴走が脳の許容範囲を超えて、思考が爆発した。残念なことに、思春期の少年の脳みそは彼女の言葉の後半部分を自動で削除してしまったらしい。
真っ赤な顔をして慌てふためく残念な少年に、「お前、変なこと考えてねーか?」というフーゴの言葉は届かない。
「い、いや、ご主人が居ない間に奥さんと2人きりになるのは、非常に遺憾というか、旦那さんに申し訳ないというか……!」
「いやだから、子供が居るだろ」
「へ、兵士として、あるまじき行為だと思いますので、その、お心遣いの感謝がご遠慮させていただきたく存じあげます!」
「…………駄目だ、こいつ」
口走る言語やら、必死に手を振る動作やら、その他諸々。全部まとめて評したフーゴの言葉は的確過ぎて、思春期というだけでは許されない気がしてくる物言いだった。
アダムの言葉を聞いて驚いていたカルラが、その顔を少し崩しながら尋ねる。
「もしかしておばさん、フラれちゃったのかしら?」
「! いえ、決して、そ、そのようなことは――!」
「冗談よ、冗談。からかっただけ。調子にのってごめんなさいね。ちょっとだけ、嬉しくなっちゃったから」
大人の余裕。それでも笑いを堪えられないのか、口元を手で隠すカルラにフーゴが白い目を向ける。
「ガキ相手に浮かれてんじゃねーよ。年を考えろ、年を」
「あら、まだまだイケるって証明じゃない?」
「…………これだから女って奴は」
「男だって一緒でしょ。特にアンタみたいなのは」
「おい、何だ『特に』ってのは」
「だってウチの主人は心配要らないもの。アンタ、若い娘に言い寄られたら絶対に尻尾振っちゃうでしょ?」
「…………尻尾なんて生えてねーよ」
否定する部分がずれているその弱々しい声は、顔の冷や汗も含めると、実体験を伴う心当たりがあるらしい。
形勢不利と見たのか、フーゴが背中を向けてその場から逃げるように足を踏み出しながら、アダムに声をかけた。
「おら、行くぞ坊主。じゃあまたなカルラ」
「あ、ちょっと待って下さいよフーゴさん!」
内門へと連れて行ってくれるというフーゴ。彼に置いて行かれたらまた迷子になる妙な自信があったのでアダムは焦ったが、カルラにもきちんとお別れを言いたかったのですぐには追いかけず、姿勢を正して彼女へと頭を下げた。
「色々ありがとうございました、カルラさん。それじゃ、お元気で」
「あ……えぇ」
名残惜しさを振り払いながら告げた別れに対して、カルラの歯切れは悪かった。
短い付き合いの中で初めて見たその戸惑っている雰囲気に、アダムは彼女も別れを惜しんでくれているのかと思い嬉しくなったが、それは違った。
カルラが静かな声で切り出す。
「ねぇ、アダム君……聞きたい事があるんだけど、最後にちょっといいかしら?」
「? なんですか?」
「えっとね、その…………」
戸惑いは、躊躇い。
彼女の様子を見て、アダムは自分が勘違いしていた事に気付いた。そしてその躊躇いは、ここではないどこかに対して。
自分との別れを惜しんでくれている訳ではない事にちょっとガッカリしたが、深刻そうな彼女にそんなカッコ悪い所は見せられない。
「何でも聞いて下さい! どんな事でも答えますよ!」
「じゃあ、世界の人口は何人だ?」
「…………え、と――ってフーゴさんには言ってませんよ!」
「試しただけだよ。どんな事でも答えられなかったな」
いつの間にか隣に戻ってきていたフーゴが、アダムのあげ足を取ってからかう。あげ足を取るにしては簡単な問題だったのだが、少なくとも答えられないアダムにはそう感じた。卑怯な親父だ。
「あ……ごめんなさい、フーゴ。この子引きとめちゃって」
「いや、別にいいけどよ……」
ぼんやりと謝罪したカルラを観察するかのように、フーゴがジッと見つめる。
「お前、どうかしたのか? 昼間会った時もなんか変だったしよ」
「…………」
「――まあ、言いたくねーなら、いいんだけどな」
アダムは首を傾げた。会話の内容もそうだが、全く似合っていないフーゴの神妙な顔が面白い――ではなく、珍しい。
「何かあったんですか?」
「ガキには関係ないこと…………でも、なさそうなのかな」
フーゴがチラッとこちらに目を遣り、背を向けて再び歩き出す。
「あれ? フーゴさん、どこ行くんですか? ちょっと待って――」
「そこ曲がった所で待っててやるから、終わったら来いよ」
そう言ってヒラヒラと手を振り、フーゴは曲がり角へと姿を消していった。全く意味が分からなかったが、彼が少し寂しそうな背中をしていた事だけは、アダムにも分かった。
「ありがとう、フーゴ……」
届かぬ呟きが、地に落ちる。感謝の言葉を口にしながらも、彼女の表情に笑顔はない。
よく分からないけれど、どうやら思っていた以上に深刻な話のようだ。その場の空気だけはしっかりと感じ取ったアダムは、ガチガチに緊張し始めた。
「えっと……そ、それでは、張り切ってどーぞ!」
「…………そう言われると、なんか言い辛くなっちゃうわね」
「あぁ! すみません!」
空気を感じられても、空気が読めないとはこの事か。咄嗟に出た敬礼を一瞬で崩しながら、アダムは心の中で激しく自分を罵った。
そんな悩める彼を安心させるかのように、カルラが微笑む。
「冗談」
「え?」
「――ふふっ。ごめんなさい何度も。君ってなんだか、からかいやすくて」
先程も見た彼女の口元を手で覆う仕種に、アダムはホッとした。からかいやすいという点は、思い返すと心当たりがいくらでもあるので反論は出来ない。悔しいような、恥ずかしいような。
でもおかげで、空気が軽くなった気がする。
「いえ、こっちこそ、変なこと言っちゃって……。なんか、こういう雰囲気に慣れてないというか……」
「たいした事じゃないから。気軽に答えてくれたら、それでいいの。…………君は――」
間を取るように息を吸って、カルラが目を瞑る。
考えているのでは無い。決意しようとしている、訳でもない。それはただ、他の誰かを想っているようだった。
そして、彼女の目と口が開かれた時――
「……どうして、兵士になるの?」
――アダムの心臓が、跳ねた。
「――え?」
乾いた、遠い声。
どこから出た声なのか、彼には分からなかった。
「俺が、どうして――兵士に、なるのか……?」
「そう。君はどうして、兵士になるのかなって」
茫然と繰り返したアダムにカルラは頷き、そのまま目を伏せる。
答えを求めて尋ねたはずなのに、答えを聞いても意味が無い。まるで口に出してからそのことに気付いたかのように、彼女は自嘲した。
しかし、アダムはもう、彼女のそんな様子が見えてはいなかった。
「ごめんなさい、やっぱり忘れて。今日会ったばかりのおばさんに、こんなこといきなり聞かれても困るわよね?」
カルラはそう言って、顔を上げてアダムを見る。彼女もアダムの様子を見てはいなくて、その時初めて、彼の顔を見た。
何かに怯える、彼の顔を。
「……アダム君?」
不思議そうな彼女と重なる、大事だった人の面影は、
『約束して。あなたは、お父さんみたいに――――――』
――分かってるよ。分かってる、から。
『絶対に、破ったり、しないでね』
――しないよ。だから、独りにしないでくれ。
『破ったら、今のシャルより、お母さん泣いちゃうから』
――泣かせないよ。だから、おいていかないで。
『いい子ね、シャル……』
――守るよ。必ず、守るから。だから。
『――ダッタラ』
――でも。
『ナンデ……』
――俺、は。
『……ドウシテ、ヘイシニナルノ?』
大事な約束を破る、罪を犯す息子を、悲しむように――怨むように、責め立てて。
「――母、さん……」
名を呟く声が、震えた。
「? お母さん?」
「――っ!」
唇が、硬い歯に叩きつけられる。
意図せぬ暴力のように手で口を塞いだアダムは、痛みを認識していなかった。
(何言ってんだ俺は!?)
髪の色も、瞳の色も、雰囲気も。何もかも、似ていない。
そう強く否定しても、消えてくれない残像。鳴りやんでくれない、鼓動。
苦しみから逃れるように、アダムは彼女から目を背けた。
「……どうか、したの?」
様子がおかしくなったアダムへ、カルラが戸惑いながら声をかける。軽くなったはずの空気が再び重くなり、今度は彼女がどうすればいいか分からないようだった。
彼女のせいじゃない。だから、謝らなければいけない。
またもや変な事を口走ってしまった無礼を、笑ってごまかさなければ。
震える思考で描いた謝罪の言葉は、彼の口から出てきてはくれなかった。
「どうして――」
どうして、兵士になるのか。
尋ねた彼女は、答えを求めていなくて、
「――なんで、そんな事……聞くんですか?」
ただ、自分が――誰かが兵士になる事を、悲しんでいた。
「そんな事って、さっきの質問……よね?」
気遣う声でそっと尋ねるカルラに小さく頷き、アダムはそのまま顔を伏せた。下ろした手の平に食い込む爪が、痛みを起こす。
それでも、拳は解けない。
「――本当に、ごめんなさい。そんなに困らせるつもりは、なかったん、だけど……」
カルラが語調を萎ませながら、深く頭を垂れる。
敬意の見えない両者のその様子は、まるで彼らの頭上の空気だけ鉛になってしまったように映し、その異様な雰囲気を見た通行人が何事かとささやきながら通り過ぎていく。
が、そんな声も、アダムには伝わってこなかった。
自らの鼓動の音だけが、アダムの世界で鳴り響いていた。
拳の中に、汗が滲む。
(何か……)
何か、言わなければ。せっつくようにして、頭の中で響く声。
それでも、体が言う事を聞いてくれない。
ずっと恐れていた事。心の奥で、怯えていた事。
いくら願ってもあり得ない事だと思っていた罪への罰が、今、目の前にある気がして。
(俺は、…………)
アダムは俯いたまま、動けなくなった。動くのが、怖い。
2人の間に広がる重い沈黙を先に破ったのは、彼女だった。
「…………あのね」
顔を上げたカルラが、静かにアダムへ声をかける。
彼の肩がピクッと微かに揺れたのを見て、彼女はそのまま続けた。
「私の息子……エレンって言うんだけど。君にも教えてたわよね?」
エレン。その名は確か、自分にぶつかったという、彼女の息子の名前。
アダムは記憶に残っていた事を伝えるため、カルラへと頷く。
「うん。その……エレンがね、調査兵団に入りたいって事を、今日、私は初めて知ったの」
一つ一つ、区切るように。
丁寧に伝えようとする彼女の優しさは子供に対する母親のもので――心が再び、締め付けられる。
「それで、って言うのもおかしいけど……。他の人がどうして兵士になるのか、理由を聞いたら、あの子の気持ちも少しは理解できるかな、と思って……」
「…………フーゴさんは?」
アダムが枯れた声で問う。
もう長い間、喋ることを忘れてしまっていたような声だった。
「フーゴは駄目よ。ただの呑んだくれだもの。それに――――君に、聞いてみたかったの」
「…………俺に?」
「訓練兵で、あの子ともそんなに年が離れてないし、それに…………」
カルラが首を振る。
「やっぱり、上手く説明出来ないけど……。何となく、君に聞いてみたかったの。こう見えて、人を見る目は確かなのよ。夫選びも間違いなかったって評判なんだから」
場を和ませるようにカルラが笑う。けれど、アダムはそれに付き合うことは出来なかった。
彼女の人を見る目とやらが、あまりにも正しかったから。
「――俺は、その…………」
「いいの」
「え?」
アダムが顔を上げて、彼女の目を見る。
「誰にだって、言いたくない事ぐらいあるわよね。私が言った事は忘れて。結局、自分がどうにかしなきゃいけない問題なんだから」
笑っているのに悲しげだった彼女の黒い瞳には、きっと、ここには居ない我が子が映っている。
それは、彼の経験から導き出した答え。いつか自分にも、向けられた事のある眼差し。
その眼差しが呼び起こすのは、罪悪感。
アダムは逃げるように、彼女へ背を向けた。
「それじゃ、フーゴさんも待たせてるし、もう行きます…………すみません」
答えられなくて、ごめんなさい。
心の中で付け足したその言葉は誰に向けたのか、アダムにはもう分からなかった。
「こっちこそ、変な事を――――あ……」
最後まで聞かずにアダムはその場を離れるが、カルラの尾を引くような声が足に絡みついてきて、上手く前へ進めなかった。
彼女は今、どんな顔をしているのだろうか。
(――関係、無い)
彼女は、母ではない。だから、自分が気に病む必要は無い。
彼女を悲しませているのは、自分では無いのだから。
――なのに、苦しい。
「――待って!」
フーゴの待つ角へと差し掛かった時、カルラの呼び止める声が聞こえて、アダムは咄嗟に足を止めた。
しかし、振り返ることは出来ない。彼女の声を無視して、逃げ出さないようにするのが精一杯だった。
その背中に、聞きたくなかった、聞かれたくなかった問いが、そっと掛けられる。
「…………君も、調査兵団に、入るの?」
「!」
再び跳ねる心臓。それに呼応するかのように、アダムの肩が大きく揺れた。
カルラが継げる。
「――ごめんなさい。もう、これ以上何も聞かないわ。でも、これだけは言わせて」
ひっそりとした、静かな夕闇。
周囲は都合の良いほどに人の往来が無く、家路を促すように鳴いていた鳥達も、自身の家に帰ってしまったようで。
まるで彼女の言葉を聞けと、誰かに言われているみたいだ。アダムは冷えた心の片隅で、そんな風に感じた。
「君が…………君に死んで欲しくないって思っている人が、きっとどこかに居るはずだわ」
知っている。自分も、死んで欲しくなかったのだから。
でも、もう居ない。
「そして、私も、君に死んで欲しくない」
「――え」
振り向いた先には、母ではない、笑顔の彼女が確かに居た。
「それだけは、覚えていて」
アダムには分からなかった。彼女の言葉の意味も。
寂しげなその笑顔が、どうして自分に向けられているのかも。
「…………どうして」
「? 何?」
「どうして、俺なんですか?」
母親でもない、ただの他人。
自分は、彼女の息子では無いはずだ。
「どうしてって……私が、君の心配をする事?」
「だって、何も知らない他人だし!」
取り乱しながら思い出したのは、故郷の人間達。
自分の事を知っている他人だって、そんな事を願ってはくれなかった。
「それに、俺とあなたは、今日たまたま会ったばかりで――!」
「でも、ちゃんと出会ったわ」
アダムの動揺する口調を、カルラがなだめるように遮る。
彼女の豊かな黒髪が、風になびいた。
「言葉も交わして、名前も知った。それだけじゃ、ダメかしら?」
流れる黒髪が、細い金糸の髪と重なる。その微笑みの後ろに、かつての家の風景が浮かぶ。
それでも、彼女は母ではない。
それでも、彼女は自分に願うのか。
「それだけで、ですか?」
「十分じゃない? それに私以外にも、君はそういう人たちに出会ってるはずよ」
カルラが強く言い切る。
そういう人たち。自分に、死んで欲しくない人たち。
「そんなの……」
母が死んで出会った他人は、皆、冷たかった。
お互いに、死ねばいいと、思っていた。
願ってくれたのは、母だけだった。
「俺には、誰も――」
「居るわ、絶対」
「っ……!」
何もかもを否定するような確信めいた言葉に、たじろぐ。
「なんで君が、そんな顔をするのか…………私には分からないけど、」
後ずさりながらも、彼女から逃げようとしなかったのは。
「一人ぼっちの人間は、君みたいに笑えないわ」
向き合うのが怖いのに、それでも、彼女と向き合ってしまうのは。
「君が今、笑えているのは、そんな人たちに出会ったからでしょ?」
――彼女の言葉が、何よりも、欲しかったからかもしれない。
「…………俺が、今」
「……私は、君のお母さんじゃないけど」
「!」
苦さと恥ずかしさを思いだし、アダムが顔をしかめる。そんな彼の反応を気にも留めず、カルラは優しく微笑みながら続けた。
「君のお母さんもきっと、今の君を見たら喜ぶと思う」
「…………喜ぶ?」
何も知らない彼女が、どうして母の気持ちを代弁するのか。
そんな疑問は、湧いてこなかった。
「自分以外の誰かに愛される我が子を、喜ばない母親なんて居ないわ」
彼女の言葉を、認めたくない。でも、受け入れたい。
「……どうして、そんなこと分かるんですか?」
だから、教えてほしい。許して欲しい。そんな甘えのような気持ちが、言葉の端に表れていた。
カルラがアダムへと近寄る。立ち止ったのは、手を伸ばせば触れる距離。
「質問したのは私なのに、『どうして』ばっかりね、君は」
「! それは、その……」
「今度は何が分からないの?」
憂いの籠もったその言葉は、どこか愛おしげで。
アダムは何だか気恥しくなっていた。
「だ、だから、母さんの事とか……。俺が今、笑えるだの、一人じゃないだの……と、とにかく全部です!」
顔を赤らめて必死に言い繕うアダムに、カルラが笑みを零す。
クスッと漏れた呼吸を隠す、彼女の口元を手で隠す所作は、不思議と見慣れてしまったもの。
「分かるわ。分からないけど」
「どっちですかそれ――!?」
彼女の腕がアダムの顔の横を通り、彼女の顔が近づく。
伸ばされた手を頭の上に置かれて、アダムは言葉を失った。
「昔の君は分からないけど、今、ここに居る君なら分かるわ」
少し逆立ってしまう硬い髪質の黒髪がそっと抑えられ、左右に揺らされているのが頭皮から伝わる。
失ってしまった手の温もり。背ばかりが伸びて、長い間忘れていたその感触は、くすぐったくて懐かしい。
アダムは心が落ち着いてくるのを感じ、カルラが撫でやすいように少しだけ頭を下げた。
彼女の手を振り払う事を、彼は思いつきもしなかった。
「だって、こんなに素直なんだもの」
「! ――っ!」
「あら?」
遠ざかる顔。遠ざけた手。
動物的な速さで飛び退ったアダムの頭から、カルラの手が離れる。顔から火が出る記憶と記録は、見事に更新されていた。
「あらあら……そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
「い、今のは、違うんです!」
「違わない」
アダムを撫でていた手を胸元で握り締め、カルラが静かに首を振る。目を瞑りゆっくりと、まるで時間の流れさえ間違っているように、彼女は否定した。
「君は、素直な良い子よ。そんな風に素直になれる相手が、一緒に笑いあえる人が、君には居るでしょ?」
「そんなの……分かりません。あなたが何を言いたいのか、俺には、何も――」
「本当に?」
カルラが再び顔を近づけて、アダムを覗き込む。
「気付いてないだけ、だったりしない?」
アダムには分からなかった。彼女が何を言っているのか。何を、言いたいのか。
父は死に、母を失い、他人から疎まれるがまま、独りぼっちになった。ただ、それだけだ。
世界が憎くて、他人が怖くて、寂しい。
――そんな自分に、手を差し伸べてくれたのは、
「――あ」
「…………思いだした、って顔してる」
「え? あ、いや、その……」
違う、とは言えなかった。
思いだした記憶。それは過去の終わりの様で、今の始まりの様なもの。
それは、初めてこのジャケットに袖を通した日の事。ポケットに入っている、汚いしわくちゃなハンカチの持ち主。
彼女との、出会い。
『大丈夫?』
知らない他人に多く囲まれた入団式で失態を犯し、死ぬまで走らされてしまった自分にただ一人だけ、自分の名前に対しての嘲笑ではなく、手を差し伸べてくれた彼女。
最悪の出会い。彼女はそう思っているし自分もそう言った事があるけど、本当は嬉しかった。
何も分からないまま笑われて、何もかもに拒まれている気がして、不安で辛いのに帰る場所は無くて。
母に会いたくて泣きそうだった。母に、会いに行こうかとも思った。
そんな自分に差し伸べられた懐かしい優しさは、独りになった世界では初めてで、嬉しくて温かかった。
怒ったり、泣いたり、笑ったり。裏表の無い彼女の表情はどこまでも素直で、他人に怯える事しか出来なかった自分もいつの間にか、その素直さに引きずられていた。
素直すぎて、介抱された後、面と向かいながら名前に関して爆笑されたが。
終わり悪ければ全て悪し。最悪の出会いという名の通り、最初の出会いのエピソードの最後が、最高に最悪だった。
「…………やっぱり、何も思いだしてないです」
「――フ、フフッ。でも君、面白い顔してるわよ?」
これは違うと感じたアダムを見て、カルラが今日一番の笑い声を上げる。顔の面白さを言及されたのは今日だけで2回目だったので、少年の心は重傷だ。
「元々こういう顔なんですよ」
「そういう意味じゃなくて、ここ」
カルラがシワを作った眉間に指を当てる。
「? なんですか?」
「シワ、さっきよりも増えてるわよ?」
「…………自覚は、あります」
エミ、それにヨハン。あの2人に関しての記憶に眉を顰めないものなど無い。いつものことであり、もう日常だ。
それは自分にとって、当たり前になった日々。
悲しみの置き場も無い、騒がしい時間。
大切な、時。
アダムは固く握りしめていた手を開き、自分の眉間のシワを確認した。
「…………いつも、こんな感じです」
ため息交じりに呟くと、眉間のシワは消えていた。
彼女の言いたかった事が、分かった気がする。
「フーゴに怒られてる時も、そんな顔してたものね」
「隠してたつもりなんですけど、ばれてましたか」
「顔に出やすいもの、君」
カルラの笑顔に、アダムは苦笑いを返した。
表情も、体も、心も。
氷が溶けてしまった様に、もうどこも固くは無い。太陽が顔を出したように、もうどこも震えてはいない。
カルラが再び、眉間へと指を当てる。
「何か、思いだした――ううん。何か、気付いた事があるんじゃない?」
自分と同じシワの無い眉間を指す彼女の言葉は、やはり確信に満ちていて、アダムはまた何も言えなかった。
でも今度は、何も言う必要が無かっただけかもしれない。彼女の言いたかった事が、彼にもやっと理解できたのだから。
「……常に人の頭を悩ませるような奴らなら、います」
金色の少年と出会って思い出した、過去の自分の悲しみと憎しみ。そして、後悔。
母と重なる彼女と出会って思い出した、過去の約束、罪と罰。
(それでも、)
アダムはポケットに入れていた物を取りだした。
汚い、しわくちゃなハンカチ。
(今、俺が笑えるのは――)
思い浮かべるのは、ハンカチの持ち主の彼女。
こちらの都合もお構いなしに、ズカズカと土足で人の心へと上がりこんでくる、彼女のコロコロ変わる表情。
そして、いつも隣に居た親友。
同じ悲しみを分かち合いながら、傷を舐め合うことなく、ただ馬鹿な日常を共にした、大事な友達。
(あいつらに、出会ったから)
帰れない事を嘆かなくなったのは、新しい帰る場所を見つけたから。
もう会えない人に涙を流さなくなったのは、心の隙間が埋まったから。
失ってから得た、今。
離れて初めて気付いたものは、アダムにとって、何よりも大事なものだった。
「…………そいつらも別に、死んで欲しくないなんて殊勝な事は考えて無さそうですけどね」
認めてしまうのが照れくさくて、アダムは乱暴にハンカチをポケットへしまった。
「心当たりがあるなら、それでいいの――――それにしても……」
ゆっくりと頷いて、カルラが微笑む。
その微笑みは、決して母とは重ならない。むしろたった今思い出していた、悪友のにやついた顔に重なった。
「もしかして、彼女?」
「はい?」
「だって今のハンカチ、随分可愛かったから。とても男の子が持ってるようなものじゃないわよね?」
「…………アハハハ――それだけは勘弁して下さい」
今の関係でさえよく振り回される――精神的にも肉体的にも――のにそんな関係になったら、きっと死んでしまう。
「あら、違うの? 今の君が笑えているのは、その子のおかげなんでしょ?」
零れる笑いを隠すように、カルラが口元を手で覆った。
どうやらまた、からかわれているらしい。
「……そもそも俺、カルラさんの前で笑いましたっけ?」
アダムがふてくされながら言う。彼女の前では、フーゴにいじめられたり、もしくは文句を言い合っていた記憶が大半だった。
「笑ってたじゃない。ご飯食べる時なんて嬉しそうにしてたし、それに今も、アハハ、って」
「それはちょっと違うんじゃ……」
「じゃあ、失格かしら?」
「? 失格って……」
アダムがどういう意味なのか聞く前に、カルラが問いを重ねる。
「私は――君が出会った、君が今、笑える理由にはならない?」
答えなど分かっている。そんな顔を、彼女はしていた。
完敗だ。
「……参りました」
「答えになってないんじゃないかしら?」
「…………失格じゃ、ないです」
「うーん、まあ、良しとしましょうか。それぐらいで」
カルラの笑いが、もう手では隠しきれない域まで達する。先程までの真面目な雰囲気はどこへ行ってしまったのか。
でも、それはきっと、彼女の優しさかもしれない。大人だからなのか、母親だからなのか、それとも彼女だからなのかは、分からない。
分からなくても、彼女と出会えて良かったと思えるその温かさに、救われる。この場の雰囲気だけじゃなく、気付いてなかった心の奥まで。
彼女には敵いそうにないと思い、アダムは降参宣言の息を吐いた。
「カルラさんって凄いですね……何でもお見通しというか」
「女の感――というより、母親の感、みたいなものかしら?」
「母親の感、ですか……」
「ええ。もう10年ぐらいになるから、母親になって」
表情を苦笑いに変えながら「まだまだだけどね」と言うカルラに、まだ少しだけ心が痛む。
アダムが顔をしかめるより早く、彼女がその苦笑いを穏やかなものへと変えた。
「君が少し、ウチの息子に似てたから」
「? 息子って、エレン君ですか?」
「ええ。何か悪い事した時、それを隠そうとする表情にそっくり」
「……そんなに子供っぽいつもりは無いんですけど」
半分は本音。半分は、ただの文句だ。
「ごめんなさい。確かに失礼だったかもね、大人の君には」
「…………また、からかってます?」
「半分、ね」
同じような心持ちだったらしいが、口元を手で隠す、からかう時の仕種が見当たらない。
彼女の残り半分は、なんだろう。
「あとは、ただのお節介」
「お節介、ですか?」
「君が――『お母さん』って、私の事呼んだ時……」
「うっ……」
今更ながら、とんでもない醜態だ。もうその事は忘れて欲しいと思い、アダムは顔をしかめた。
そんな彼の反応も気にせず、彼女の表情は優しさを湛えていた。
「悲しそうで、辛そうで……何だか、放っとけなかった」
視線は絡まず、押し戻される。
黒い瞳に映る自分自身が可哀そうに見えるほど、彼女の目は真っすぐにアダムを想っていた。
過去の自分が、情けない。
「それは…………すみません。母は、その……」
「何も言わなくていいわ。それに、もう何も聞いたりもしない。謝らなくても、いい」
そう言ったカルラの表情に、悲しみの色が混じる。
「その代わり、忘れないで」
先程と同じ、寂しげな笑顔。
「私は、君に、死んで欲しくない」
同じ言葉。
「そんな人たちが、君には居るんだって事だけは、お願いだから忘れないで」
でもそれは、本当に伝えたい人が、彼女には別に居るはずだ。
「だから……調査兵団には、行かないで欲しい、と?」
「…………私の勝手な憶測だし、もしそうだとしても、私にそこまで言う資格は無いわ」
「じゃあ、息子さんなら?」
「!」
カルラの肩が跳ね、彼女の笑顔が、悲しみに占拠される。
少し、意地悪だったかもしれない。
「すみません、わざわざ聞く事じゃないですよね。俺と違って、自分の息子なんだから、そんなの当たり前だ」
「あ……私は、別に、そんなつもりじゃ――」
「いいんです。俺にもちゃんと居ますから」
もう会えないけれど、それでも、母との約束は生きている。
それに、きっと。
(――あいつらも、そんな風に、思ってくれるかな?)
エミとヨハン。自分にとって、いつの間にか大事になっていた2人。
彼らにも言えず、ずっと迷っていた事がある。
アダムはポケットに手を突っ込み、ハンカチを強く握った。
「カルラさん。少しだけ、俺の話を聞いてくれませんか?」
母との約束。父の記憶。自分の、今。
この街に来たおかげで分かった事は、迷いを晴らすのに十分な光だった。
「もちろん、構わないけど…………時間は大丈夫?」
「いいですよ、別に」
アダムは肩を竦めながら軽く言った。時間なんて、もうどうだっていい。
気付かせてくれた彼女に、どうしても伝えたい事がある。
彼女の最初の、問いの答え。
それはきっと、彼女の救いにはならなくても、慰めにはなるはずだ。
「カルラさん、俺は――」
でも本当は、母と重なる彼女へと伝えることで、自分を慰めたいのかもしれない。
もう伝えられない母の代わりに、彼女へと伝えるのは、卑怯な事なのかもしれない。
「? 何?」
「俺は、…………」
首を傾げる彼女に、アダムは顔を下げて躊躇いを見せた。
それでも、伝えたい。たとえ自分の為だとしても、死んで欲しく無いと願ってくれた彼女に。
母と重なる彼女ではなく、今、自分に死んで欲しく無いと願ってくれている彼女に。
アダムは勢いよく顔を上げた。
「俺は――――!」
告げる少年と母親の女性。2人が交わす言葉を、夕陽だけが盗み聞く。
闇に覆われる前の最後の赤い光は、今日の終わりよりも、訪れる明日を想わせる程に綺麗で。
そして、おぞましかった。
次回、説明会。