進撃の巨人 For the past five years   作:灰かぶり

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第12話 世界に響くは鳥の鳴き声

 走る、走る、走る――。

 

「ひっ! う、うわぁぁぁぁっ――――」

 

 途切れた、悲鳴。

 

「誰か、誰かぁ!」

「どけっ! ぶっ殺すぞ!」

 

 助けを呼ぶ叫び。罵声。

 

「痛い……足が、私の足……」

「おかぁさぁん!」

「あぁ、神様……」

 

 すすり泣く声。親を求める声。祈りに似た、嘆き。

 

 聞こえない振りをして、見えない振りをして、走る。

 足を止めないのは、大地が空よりも深く、赤く染まっていくのが怖かったから。

 止まってしまったら、もう走りだせない気がしたから。

 誰かの為に動かしていたはずの足は、崩れていく世界と共に、その理由だけを失っていった。

 

「――! うおっ!」

 

 走る大地まで失ってしまったのか、アダムは急な浮遊感に襲われ声を上げた。

 失われたのは大地でなく、地続きになっていた屋根。家と家の間に拡がる道へと落ちる寸前で、咄嗟にアンカーを目前の壁上方に射ち、中指に掛かっていた引鉄――ワイヤーを巻き取るスイッチだ――を強く引く。

 ワイヤーに吊るされた瞬間、引き上げられる体。足裏に巻かれたベルトへと体重を乗せ、重力に真っ向から抗う中で、アダムはアンカーを発射する引鉄を再び引いた。その引鉄は、きっかけとしての引鉄と同意であり、回収の合図。

 カチッという手応えと共に、撃ち込まれた壁の内部で食い込むようにして広がったアンカーが元のサイズに戻り、破壊して侵入した穴から帰ってくる。

 そして腰脇の発射装置へと収まると同時に、基点を失ったアダムはそのまま上昇する引力に体を流され、勢いを無くした頂点で前方へと宙返りした。

 

「よっ……と、と」

 

 落下した先は斜めの地上。

 無意識に進んでいた先の家の三角屋根に着地したアダムは足を踏ん張り、手をついて地上へと滑り落ちそうな体をその場に留めた。

 

「あ、あっぶねぇ。ギリギリだった」

 

 安堵の息をついたアダムは、こんな時までボーっとしてしまう自分に歯噛みした。立体機動も使わずに屋根の上を走り続けるなんて自殺行為だ。

 

(何やってんだ畜生! そんな場合じゃ――――)

 

 内心でついた悪態が消え、生じた心の空白にポツッと黒い雫が落ちる。

 そんな場合って、なんだ。

 白を侵す黒い染みが内側に広がっていくのを感じながら、アダムは虚ろに地上を見渡した。

 

「――――あ、あぁ……」

 

 走る熱と鼓動が欺いてくれていた景色。それは、悲鳴を上げて逃げまどう人。建物の下敷きになり、助けを呼ぶ人。

 そして、岩に潰され、声もあげぬ物。

 夕焼けに染められた水溜まりは、人が流した血溜まりだ。ならば近くに転がるのは――人だった、物。

 

「! うっ……!」

 

 込み上がる吐き気に、アダムは手の甲で口を抑えた。

 綺麗だった街並みは、瓦礫の廃墟に。平和な喧騒は、悲痛な阿鼻叫喚に。走る人々の足を掬うのは、瓦礫であり、助けを求める人の手であり、人だった物の欠片。

 悲鳴と罵声。蹴り飛ばされた、石と瓦礫の音。壊れた家がさらに踏み荒らされ、ガラガラと崩れる音。

 そして、踏みにじられた人の手と内臓の、タスケテという音と――グチュッという音。

 混ざりあう不協和音が協奏曲になり、否が応にも耳に届く。

 ここは、どこだ。

 

「こんなの、知らない……」

 

 恐怖が慌て崩すのは、彼の眼が映す世界ではなく、彼の心が象る世界。見える世界と、知る世界。

 狂いそうになるその違和感にかぶりを振って、アダムは拒むように目を逸らした。知らない。違う。

 こんなの、間違っている。

 今にも泣き叫びたい感情を抑えつけ、必死に否定を繰り返す少年へと世界が新たに見せたのは、真実だった。

 

「――あれ、は……」

 

 見晴らしの良い屋根の上。下で蠢く地獄から逃げた先に見えたのは、いくつもの人影。

 アダムは顔を抑えつけられたように、その人影を見据えた。

 

「あれ、が……」

 

 遠くに居るのに、近くに感じる。それが精神的な距離だったらどれほど良かっただろう。

 それは、どこまでも現実な、物理的な距離感の狂いだった。

 

「あれが、巨人……」

 

 教本通りだ。それが、初めて見る存在に抱いたアダムの感想だった。

 教本の絵に載っていた通り。文字として理解した通り。

 大きく、裸で、原始的。ヨハンと落書きをしていた巨人の絵と同じ。エミへと脅かすようにからかった言葉と全く同じ。

 巨人が、人を喰らっている。アダムの心に生まれたのは、それだけだった。

 

「ホント、だったんだ……」

 

 巨人が、人を喰らうのは。人が、巨人に喰われるのは。

 そして、自分が今居るこの場所は――この世界は、元々そういう世界だったのだ。

 ストンと腑に落ちたその理解を全身が拒み、胃から逆流してせり上がる異物を堪え切れず、アダムは屋根の上に崩れ落ちながらその異物をぶちまけた。

 鼻孔を刺す異臭。それでも止まない、細い気管に無理やり何かが通過する痛み。消化しきれていなかった胃の中の物は少なく、空になって口から吐き出されるのは胃液だ。

 ひどく汚い現実を感じさせる吐瀉物にかかる透明な水は、何も覆い隠してはくれない。

 口から、そして目と鼻から。感情を司る顔の穴から溢れる水は、透明ながらも澱んでいて、余計に汚濁が混じり合う。

 

「――うぁ、あぁ……」

 

 雷にでも打たれたような痺れが、顔だけでなく全身に行き渡り、アダムは四つん這いになりながら嗚咽を続けた。

 恐怖だけじゃない。気持ち悪い。おぞましい。嫌だ。

 数えきれない、表せない負の感情を全て吐きだすように、アダムの体はしばらくの間、その状態を続けた。

 それは、彼にとって幸運だったのかもしれない。

 その自慢の瞳に捉えていた景色から、今だけは逃れられる。

 未だこちらを襲わぬ位置に居る巨人が、足元の人間をつまみ上げて喰らう姿が――どのようにして人間が喰われるのか見る事よりも、体の感覚に囚われる方が、彼には幸運だっただろう。

 それでも、脳裏に焼き付いた場面が、人間の齧られた身体と飲みこまれる瞬間の顔が、アダムをなおも苦しめ続けた。

 

「あんなの…………こんなの、嘘だ」

 

 これは全部、夢だ。これから基地に帰って、エミとヨハンから約束のパンを貰って、仕方ないからあいつらの言う事を1つ聞いて。

 そして、今日のような日常を繰り返すんだ。

 

「だから、こんなのは…………こんな、の」

 

 嘘じゃなく、夢でも、ない。

 暴かれた世界で想う仮初だった世界が、あまりにも遠く、儚く感じて、アダムは咽ぶように泣いた。

 出せば出すほど暴れる感情。強く塞いだ目から零れる涙と合わせ、指の間から洩れる嗚咽の隙間を縫うようにして、アダムの耳が誰かの声を拾う。

 

「助けて!」

 

 女性の、乞うような必死な声。

 

「助けて! お願い!」

 

 重なり響き合う狂騒から、まるで独唱のパートへと入ったかのようにつんざくその声に、アダムはふと目を向けた。涙で掠れる視界の中に、血溜まりの中に膝をつきながらこちらを見上げる女性が映る。

 

「助けてよ! あなた兵士でしょ! お願いだから助けて!」

 

 兵士。その言葉を聞いて、アダムは自分の事を呼んでいることに気付いた。

 周りにはもう、フーゴも駐屯兵も居ない。

 

「そんな所に登って高みの見物!? ふざけないでよ、私達が何のために税を払ってると思ってるの! この人でなし!」

 

 女性の激しい非難を、アダムは汚れた顔をジャケットで拭いながら聞いた。晴れる視界に映る女性の顔はあまりにも鬼気迫るものがあり、訓練兵だという言い訳は聞き入れてもらえそうにない――いや、違う。

 そんな言い訳、出来るはずない。

 

「聞いてるのかお前! 降りてこい、この卑怯者!」

 

 ますます錯乱する女性の言葉に反応するように、アダムは屋根を蹴りつけ、道を挟んだ向かいの家へと空中でアンカーを穿ち、操作装置のブレーキレバーを引いた。

 長さの固定されたワイヤーで、壁と繋がれた体。真下ではなく、振り子のように壁へと滑り落ち、激突の衝撃を曲げた膝に吸収する。

 アンカーを回収しそのまま地上へと着地したアダムは、操作装置を脇のホルダーへと仕舞いながら北へ逃げる人々を掻きわけ、声の持ち主の女性へと駆け寄った。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないわよ! 何度も呼んでるのに、どうしてさっさと来てくれないのよ!」

「あ……そ、その、すみません」

「いいから早く助けて! お願い、お願いします!」

 

 怒りの形相を懇願する泣き顔に豹変させ、女性がアダムの腕へと縋りついてくる。

 涙と擦り傷、髪もかきむしったのかぐちゃぐちゃで、そして服は血だらけ。焦点の合わない瞳からも、彼女の状態が自分よりもひどいことがアダムには分かった。

 だが、大きな怪我はどこにも見当たらない。

 

「どこを怪我されたんですか? 立てないなら俺がおぶって――」

「私じゃないわよ! 息子よ!」

「え?」

 

 女性が足元の血溜まりへと手を伸ばす。

 

「ここに居るじゃない! お願い、早く助けて! 誰も助けてくれないの!」

 

 彼女の叫びを聞いた時、アダムは全て理解し、そして後悔した。考えるよりも早くただ動いてしまった、正義感にも満たない自分の行動を。

 誰も助けないのは余裕が無いからだけじゃない。助けるべき物が、無いのだ。

 

「私だけじゃ……私だけじゃ持ち上がらないのよ!」

 

 彼女の服に付いた赤色は、血溜まりに染められたもの。けれどそれは、彼女が流したものじゃない。

 石の間を今も流れる、赤黒い小川の遡る先には、大きな岩。

 

「早く手伝って! 息子が……息子がぁ!」

 

 爪の剥げた彼女の手が持ち上げようとする岩に生えているのは、ピクリとも動かない小さな子供の足。

 膝から上が、見えない。

 

「どうして手伝ってくれないの!? 早くしないと死んじゃうわ!」

「…………あ、あの、それよりも、避難を――」

「この子を置いていける訳ないでしょっ!?」

 

 滝のような(なみだ)を降らす真っ暗な雨雲(ひとみ)。光が届いていない彼女の眼に、アダムは告げる事が出来なかった。彼女にはもう見えていないのだ。

 

「でも、早く逃げないと、巨人が――」

「だから早く、早く息子をっ!」

「でも、あの、息子さんは、その……」

「ここに居るでしょ!? 助けてって――私を呼びながら泣いてるじゃない!」

 

 そんなはずは無い。アダムは慄き、一歩後ずさった。

 岩に刻まれた彼女の赤い爪痕が怖くて、そして初めて目にする人間の狂態が怖くて、アダムの足は後ずさりながら震えた。

 

「いてっ!」

「――っ!」

 

 道の端から中央へと後ずさるアダムは誰かとぶつかり、よろける体を素早く反応した足の筋肉が支える。苦痛を訴えたのは、まるでウォールマリアを一周走ってきたかのような汗を流す男性。

 土へと転がった男性が、アダムを睨め上げる。

 

「ボーっと突っ立ってんじゃねーよクソ野郎!」

「す、すみませ――」

「兵士の癖に民衆の避難を邪魔する気か!? 俺達の金で食ってきた分、巨人の餌になってでも逃げる時間を稼げよ! この役立たず共!」

 

 謝罪を遮り返ってきた男性の唾と剥き出しの悪意に、体が強張る。怖い。

 ここは、怖い。

 動けなくなったアダムを見て、男性が立ち上がりながら逃げ出そうとする。

 

「何も出来ないなら邪魔すんじゃねーよクズがっ!」

「待って!」

「! おい離せっ!」

 

 彼の腕を掴んで止めたのはアダムではなく、息子を助けようとしていた母親。

 

「お願い、あなたも手伝って! この下にまだ私の息子が!」

「んなこと知るか! いいから離せっ!」

「お願い、お願いします! どうか!」

 

 腕を振り払われた女性が、男性の足を掴む。神にでも縋るような彼女の様子を、アダムはただ見ている事しか出来なかった。

 顔をしかめながらも動きを止めた男性が、岩に目を遣る。

 

「……下って、その岩の下か?」

「そうです! 早く、早く助けないと――」

「何言ってんだアンタ」

 

 侮蔑するように言い捨て、足を蹴り上げ母親の手を払った男性が再び口を開こうとするのを見て、アダムの背筋がゾワっとざわつく。

 駄目だ、言うな。

 

「もう死んでるじゃねーか」

「――え」

 

 母親の瞳に灯る残酷な光を見ても、アダムは固唾をのむことしか出来なかった。

 男性が岩の方向へ顎をしゃくる。

 

「見りゃ分かるだろ。可哀そうだけど仕方ねーよ、アンタも早いとこ逃げな」

「……で、でも、声が」

「声?」

「助けてって…………。『助けて、母さん』って、声が……」

「死体が喋る訳ねーだろ」

 

 余計な時間を食われた。そんな素振りで彼女を冷たい目で見下ろし、男性が舌打ちをしながら背を向ける。

 それでも彼女は、男性の足を掴んだ。

 

「! おい、いい加減にしろ!」

「待って、お願い! 生きてるの、まだこの子は生きてるの!」

「離せ、このクソあまっ!」

「!」

 

 顔を蹴られた母親に体が反応し、アダムは吹き飛ばされた彼女の肩を支えた。腕の中にある顔は、思いっきり蹴られたせいで口や鼻から出血している。

 けれど、痛みに苦しんではいない。「生きてる、生きてるの」とうわ言を呟くだけの彼女に代わるように、アダムの心が痛みを感じた。

 

「頭おかしいんじゃねーか!? どう見ても潰れてるだろ!」

 

 肩を激しく上下させ、男性が興奮して叫ぶ。

 黙ってくれ。

 

「それともそんなにグチャグチャになった我が子の姿が見てーのか!? あ!?」

 

 それ以上言うな。彼女の大きな震えが腕から伝わってきて、アダムは歯を食いしばりながら願った。早く、どこかへ行ってくれ。

 

「その足だけでも拾ってやればいいんじゃねーか!? もう少しで千切れそうだしな!」

「あ、あぁ……」

「――!」

 

 首を振る彼女の頭を抱え、耳を塞ぐようにして蹲ったアダムには見えていなかった。激しく言い募る彼の瞳も、彼女のように狂っていた事を。

 ただ、

 

「それにしても良かったな、羨ましいぜ」

 

 その嗤い声だけが、耳にこびりついた。

 

「巨人に喰われずあっさり死ねてよ! 本当に、まだマシな方だぜ!」

 

 ただそれだけが、憎かった。誰かの死を笑う、その嗤い声が。

 

「ハハハ! 俺もそんな風に死にたいぜ! あんな喰われ方するぐらいならそこのガキみたいに一瞬でグチャグチャに――」

 

 

――バキッ!

 

 

 拳に響くのは、骨がぶつかり合う感触。手を汚すのは、男性の血。

 感情を垂れ流すようにして喋っていた口を無理やり黙らせたアダムは、乱れた呼吸のまま、再び土へと転がった男性を睨みつけた。

 

「消えろっ!」

「ア、アガッ……」

 

 外れたのか、砕かれたのか。口の端から血を流し、顎を抑えた男性が揺れる瞳でアダムを見つめる。

 

「いいから消えろっ!」

 

 震える拳を抑えつけてアダムが再び叫ぶと、男性は呻き声を上げながら転がるようにして逃げ去った。

 その背中を見送り、息を整える。

 

「ハッ、ハッ、ハッ……フゥ、フゥ――」

 

 肩を大きく上げ、肺に空気を入れる。浅く連なり刻まれる呼吸が、深さを増す。

 それでもまたすぐに、あまりにも早い心臓の鼓動に引きずられて、アダムの呼吸は乱れてしまった。もう居ない、あの男はもう居ないんだ。

 

(だから落ち着け……落ち着かなきゃ……!)

 

 狂気は伝染する。必死に自分を諌める少年は、その事を知らなかった。

 自らの目もまた、狂った彼らと同じようになっている事に気付かないアダムの中で、目覚めた獣が暴れ狂う。

 

(くそっ! くそ、くそっ! くそ、くそ、くそ、くそっ!)

「――くそがぁっ!」

 

 ぶつける当ての無い感情を空へと放ち、「あぁぁっ!」と打ちつける様にして赤く染まった大地へと叫んだアダムに聞こえたのは、ピチャッという水の音。

 乾いた土を潤し侵す血溜まりが、跳ねる。

 

「あぁ……あぁ……。うあ、ぁ……」

 

 膝をつけながら血の池の中を進むのは、母親だった女性。顔を近づけ、その手で愛おしげに撫でるのは、彼女の息子だった物の欠片。

 あまりにも静謐で痛ましいその姿を見て、アダムの心は再び痛みを感じたが、滾っていた感情も凍りつくほどに冷えた。もう見たくないという思いに強く首を振り、彼女の両肩を後ろから強く掴む。

 

「早く逃げましょう。もうここも危険だ」

「いや、いや……」

 

 女性が首を振る。拒んでいるのはきっと、大切な人の死だ。それを分かりながらも、アダムは彼女を無理やり岩から引き剥がしたが、長い髪を振り乱して暴れる女性に躊躇いが生まれ、腕の力が奪われる。

 それでも、このままじゃいけない。南の方向、外門に目を遣ったアダムは、彼女の肩を抱く手へと再び力を込めた。

 

「離して! いや、いやぁぁぁっ!」

「ここに居たらあなたも死んじゃいますよ!」

 

 溢れかえっていた逃げる人の群れは、もう数えるほどしか居ない。人を喰らっていた巨人も、新たな狩り場を探すように、その多くが彷徨いだしている。

 そして何よりも、巣から出る蟻の行列のように、壁に空いた穴から次々と入ってくる巨人が見えて、アダムはかなり焦っていた。あんなに大きいのに数が多いなんて、反則どころの騒ぎじゃない。

 

「このままじゃ囲まれちまう! 頼むから、言うこと聞いてくれ!」

「泣いてるの! 置いて行かないでって、あの子が泣いてるのっ!」

「――もう死んでるだろっ!」

 

 思わず叫んだその言葉に、一瞬で涙が止まった彼女の瞳に、アダムの心臓が凍った。何を言ってしまったんだ、自分は。

 彼女の頭の、目に見えぬ傷から流れだした血が――いつの間に傷ついたのか、アダムには分からなかった――涙の跡を辿る。

 

「もう、死んでる……?」

「あ、いや、その……」

 

 時に剣と成り得る真実。斬りつけられた彼女を――斬りつけてしまった彼女の心を、アダムはこれ以上斬り刻むことができず、彼女から身を離し、目を逸らした。

 

「ここに居るのに、もう、居ないの……?」

 

 大切だった物の欠片を見つめて呟かれたその言葉は、自分ではなく、世界への問いかけ。隣に在った物を強引に奪い去り、初めから無かったかのようにしてしまう、変わってしまった世界への。

 アダムは強く目を塞ぎ、その世界を拒んだ。

 

「……今はとにかく、ここから逃げましょう。息子さんだってきっと、あなたに死んで欲しくは――」

「……随分と、勝手な事を言うのね」

 

 たゆたい移ろっていた口調が急に明確なものへ変わって、アダムは驚いて目を開き、彼女の顔を見た。

 血涙を流す女の顔は、子どもを奪われた獣の顔に似ていたが、それよりもきっと恐ろしい。

 

「お前らのせいじゃないか」

「え?」

 

 ゆらりと近寄る女に聞き返したのは、戸惑い。足が勝手に後ろへ下がる。

 

「全部、お前らが悪いんじゃないか」

「? 何を言って――」

「お前ら兵士が、あんなのを中に入れるから悪いんだっ!」

 

 憎悪に染まった激情で顔を歪ませ、女が建物の高さを超える巨人を指差す。

 ボロボロになり、赤く染まった姿の女。血の涙を流す真っ暗な瞳はどこまでも深く、粘つくような輝きを放ち、アダムの体を竦ませた。

 

「お前らが悪いんだっ! 何もかも、お前らがっ!」

「いや、お、俺は、何も……」

 

 兵士が入れたわけじゃない。そもそも自分は、まだ兵士じゃない。関係無い。

 正気の沙汰じゃない女性に怯えるまま口に出そうとした言い訳は、近くに落ちていた硝子(ガラス)の破片を拾う女の姿を見て、一瞬で消えた。

 

「何をして――」

「返せっ!」

 

 硝子(ガラス)のナイフを強く握る女の手から、血が零れ落ちる。混ざり合う先の血溜まりは、女の奪われたもの。

 

「私の子供を……返せぇぇぇっ!!」

「――っ!」

 

 叫びながら肉薄してきた女を、アダムは間一髪でかわした。が、怯えた足がすぐさま反応してくれず、胸をかばった手に、掠めた硝子(さつい)が痛みを奔らせる。

 

「冗談、だろ……」

 

 手の傷は、ほんのかすり傷。それでも逆の手で傷口を抑え、アダムは震える声で女性の姿をした狂人へと呟いた。捨て身で突進してきた女は土の上に転がっており、なおも離さぬ凶器から滴る血と、瞳からしかもう流れていなかった血で、乾いた土を新たに赤く汚している。

 女がゆっくりと立ち上がり、振り返った。

 

「返せ……」

 

 長い髪が顔を隠し、帳の隙間から窺えるのは、血に満たされた目で縁取られている、化物のような瞳。

 

「返せ……」

 

 奪ってない。自分のせいじゃない。竦む体が言葉を出してくれず、唾を飲み込む音だけが妙に響く。

 

「返せ……」

 

 壊れたオルゴールが繰り返すのは、怨嗟の雑音(ノイズ)。奏でるごとに一歩近づいてくる女に怯え、伴奏するようにアダムの歯がカチカチと小刻みに鳴る。

 竦む足を必死な思いで動かせるのは、後ろへと下がる僅かな距離だけ。「返せ……」と女が歩む。駄目だ、あっちの方が早い。

 このままじゃ――女が、来る。幽玄な死の恐怖を感じ、アダムは顔を青ざめさせ、強く首を振った。

 

「違う! 俺は……俺は何も!」

「返せ……」

「俺は、あなたを助けようと……だからやめてくれ!」

「返せ……」

「――やめろって言ってんだろっ!? 今すぐそれを下ろせっ!」

 

 もう後が無い事を背中についた壁の感触が脅すように伝えてきて、恐怖をこらえきれなくなったアダムは泣き叫んだ。

 それでも女は、自らの血で染めたナイフを突き出し、壊れたように繰り返す。

 

「カエ、セ……!」

 

 言葉を成さない擦れの音が自らの手を震わせ、隣にあった岩に当たる。その下には、女が求めるもの。

 血溜まりに浮かぶ小さな足だけになった、女の息子。

 もう治せないし、直せない。繋ぎ合わせることも、組み立てることも、拾い集めることも――

 

「――こんなの、返せる訳ないだろっ!」

 

 叫びに反応した瞳が、ギョロっと動く。

 

「……じゃあ――」

 

 かつて息子だった物を見ながら、女が近付く。一歩一歩、ヒタヒタ、と。

 

「――お前も、」

 

 再び戻る瞳と共に暴かれた彼女の顔は――嗤っていた。

 

「シネ」

 

 

 

 

 バリッ。

 

 

 

 

「…………は?」

 

 舌が感じるのは血の味。

 顔に飛び散った血が、呆けた口に入る。

 

「――なんで」

 

 ベチャ、と血溜まりに腰をつく。

 口にした疑問は、理不尽な痛みへ向けたものではない。痛みはない。刺されて、いない。

 刺そうとしていた母親は隣にいる息子と同じく、もう足だけしか見えない。

 

「きょ、じん……?」

 

 大きな口に上半身を齧られ、バタバタともがく足を見つめながらアダムは呟いた。

 肉を砕く咀嚼音が聞こえるたびに、噴出していく鮮血と、消え行く悲鳴。沈黙していく、彼女の足。

 

「あ、あぁ……」

 

 目の前に居るのは、およそ3m級の巨人。彼が背にする家の陰から表れたその巨人は、本能のままに彼女へと食いついていた。

 彼女の真っ赤に染まった足が空へと向き、巨人の口へと収まっていく。意味が分からない。

 

「なんだよ……。一体、なんなんだよ…………は、ははは」

 

 変わり果てた世界の中、変わり狂う状況。渦巻く混乱が竜巻のように暴れ、アダムの口は膝と共に笑いだした。

 いつ、どうやって、何で気付かなかったのか。助かったのか、助けられなかったのか。そんな事を考える隙間は、アダムの中にはどこにも無かった。

 そして、時間も無い。

 

「ははは、は、は……」

 

 彼女を喰らい終わった巨人の眼差しに、笑いが止まる。

 

「――ぁ」

 

 迫りくる大きな手を見て、ヒュ、と喉が空気を吸い込み、アダムの震えが収まる。

 恐怖が消えた訳ではなかった。でも、もういい。もう何も考えたくない。

 夢なら早く覚めてくれ。涙を流しながら、アダムは悪夢の終りを願った。

 

(きっと、痛みは無いよな)

 

 やけにゆっくりと感じる巨人の手の動きをぼんやり見ながら、アダムはそう思った。

 それにしても遅い、これが走馬灯というやつだろうか。なのに何も思い出が浮かばないのは、これが夢だからだろうか。

 もう現実がどこに在るのか、自分がどこに居るのか分からなくなったアダムの手に、ぬめりつく血の感触が伝わる。

 

(あの人の、息子の血)

 

 巨人の口の隙間から漏れた悲鳴は一瞬だったから、彼女もきっと幸せだっただろう。息子のように、一瞬で死ねて。息子のように、グチャグチャになれて。

 自分はどうなるのだろう。生きたまま丸呑みされるのは嫌だ。

 

(せめて同じように、一瞬で……)

 

 噛み砕かれて、グチャグチャになって、そして――

 

「――ぁ」

 

――喰われる。

 

「――ぁぁあああっ!」

 

 触れる寸前まで来ていた巨人の手を這うようにして横へと跳んでかわし、アダムはすぐさま懐に両手を入れた。

 アダムの居た空間を壁ごと破壊した巨人が、素早くこちらを向きなおし、殴りつけるように手を伸ばす。死にたくない。死ねない。

 

(嫌だっ!)

 

 高い位置から振り下ろされる手を転がって掻い潜り、逆転する視界が正常な空と大地を取り戻す前に、アダムは両手に掴んだ操作装置の引鉄を引いた。アンカーが巨人の足の横を通過し、向こう側に見える家の壁へと届くと同時に、下の引鉄を限界まで押し込む。

 刹那に伝わる腰裏の本体からの振動とガスの噴出音のすぐ後には、壁。

 

「――がっ!」

 

 無我夢中だったアダムは最大出力でワイヤーを巻き取ってしまい、地面すれすれを滑空するように飛んで、空中で姿勢も整えられぬままアンカーの刺さった壁へと叩きつけられた。咄嗟に右肩で体をかばったが、衝撃が全身に響く。

 けれど、肩も立体機動装置も外れていない。自身の状態を確認したアダムは、まだ残っていた涙を拭って視界を確保した。

 距離の離れた巨人が、こちらなどお構いなしに道の中央を走り迫る。

 

「くそっ!」

 

 回収したアンカーをもう一度、左だけ放つ。狙いは道を挟んだ反対側、巨人が来る反対方向の家の2階。

 窓の横に撃ち込まれた手応えと同時にワイヤーを巻き取り、そして空中を飛ぶアダムは右足を回し蹴りの要領で振って体を回転させ、壁に背を向けた。その最中に発射した右アンカーの標的は向かいの家、屋根に近いさらに上方と、迫る巨人のさらに遠方に位置する場所。高速で流れ回る視界の中で、アダムの目は正確にその場所を点として捉えていた。

 そして、半身の態勢で壁に張り付き、曲げた膝へと吸収した力を殺さず、壁を蹴るように膝を伸ばす。同時に引いた引鉄は、左アンカーの回収と右ワイヤーを巻き取る2つ。

 

「――ぐっ!」

 

 地上から空へ。右に左へ。

 幅広い道の上に広がる空間に、その身を跳ねさせて奇麗な直角の線を描いたアダムは、上空から見たら二つ目の線となるワイヤーを回収しながら屋根へと滑るように着地した。

 固い障害物をバネとして利用した急激な高速方向転換(ターン)は、彼の体に呻かせるほどの負担を強いてしまったが――必死な分だけ集中して成功した高等技術だが、速度を計算していなかった――その代償としての緊急離脱は、1呼吸で2回飛んだ分、巨人との距離を一瞬で稼げたはずだった。

 それを確認するため、手と膝をついて悲鳴を上げる筋肉を休ませながら、アダムがチラッと背後を見遣る。

 

(あれ?)

 

 巨人はまだ居る。が、追って来ていない。

 立ち止って崩れた家を見つめる巨人に内心で首を傾げ、アダムは振り返りながら立ち上がった。

 

(何を、し……て、)

 

 玩具(おもちゃ)箱から遊び道具を取りだすように、巨人が瓦礫を掻き分けて両手で持ち上げたのは、人形ではなく人間。建物の下敷きになり、重傷を負っていた男性。

 思考が途切れたアダムの目と、微かに意識が残っていた男性の目が合う。

 

『タスケテ』

 

 頭が勝手に再生した声へ、心が勝手に返事をする。無理だ、出来ない。

 幼児体型の巨人が――――下腹部が突き出ていて、薄い頭髪をした醜い赤子(きょじん)が、開けた口の中に人形(にんげん)の上半身を入れる。

 

『タスケテ』

 

 暗い咥内で光る涙がアダムに訴える。出来ない、怖いんだ。

 

「だから、もう、やめて……」

 

 瞼を閉じれない祈りは、巨人と男性、どちらへ向けたものか。分からないまま訪れた、開いた眼に飛び込む光景。

 歯を立てて、口を閉じる巨人が――

 

 

 ブチィッ。

 

 

――男性の体を、分かつ。

 

「やめてくれ……」

 

 巨人の喉がせり上がり、口の端を血が流れる。

 

「やめて……」

 

 巨人が握りしめる、取り残された彼の半分からこぼれる物は、赤黒い。

 

「もう嫌だ……」

 

 焼けつく恐怖が瞼につっかえ、閉じれない視界の代わりに、アダムは頭を抱えて蹲った。溢れる涙が、渇いた瞳を潤す。

 目が熱い。このまま焼けてしまえば、溶かされてしまえば、どんなにいいだろう。そうすればきっと、暗闇が世界を覆ってくれる。もう、見なくて済む。

 

「もう、見たくない……!」

 

 

 ズシンッ。

 

 

 アダムの言葉に反応するかのように、音と揺れを残して夕陽が落ち、目の前にあった屋根を照らす赤い光が消えた。

 囲む闇は色濃い影。自らの周りだけを丸く囲む黒い枠は、捕まえられた錯覚に陥りそうだ。けれど、違う。

 錯覚じゃない。警鐘を鳴らす本能が、アダムの首を後ろに回した。

 太陽は落ちない。夕陽は、()()のだ。ならばその音と揺れは、訪れた闇が生んだ物。

 

「――――」

 

 涙が逃げ出し、視界が晴れて、汗が噴き出す。

 目と鼻と口。いずれの穴に入っても、その身を隠せそうな大きさ。そして、生きては出て来られない穴。

 屋根の縁に掴まり、顎を乗せる大きな巨人の顔が、アダムを見下ろしていた。

 

 

――カパッ。

 

 

「――うわあぁっ!」

 

 開く巨人の口に一拍遅れて放ったのは、悲鳴とアンカー。腰脇から発射された2つの銀の矢が巨人の両目に突き刺さり、どこか粘つきを持った眼球の液体をアダムの体へと降り注がせ、巨人の顔が屋根から落ちる。

 痛覚があったのか、それとも至近距離で撃たれたアンカーの勢いに押されたのか。ただ驚いただけかもしれない。

 いずれにしても、腰を抜かしながら偶然指にかかった引鉄に、アダムは救われた。倒れこむ形で上向いた腰脇の発射口が巨人の両目を捉えたのも、偶然という言葉では片づけられない奇跡だった。

 それでも、アダムはその幸運には感謝せず、不運な絶望を呪った。

 

「なんで、こんな所にまで、居るんだよっ……!」

 

 息切れで途切れる恨み言に、疑問符は付かなかった。

 巨人の恐ろしさとは、永遠の時を生きられる「不老」であり、うなじ以外の部分を傷つけても再生してしまう「不死」であり、巨体に見合う力と見合わぬ素早さを持つことであり、何よりも単純に、大きい。

 しかし、最も注意しなければならないのは「群れる」こと。巨人同士の意思疎通は見られないが、それでも自然と巨人は複数で行動する節がある。だから、一体の巨人を見かけたなら、他にも巨人がその場に居る事は何ら不思議なことではない。

 まだ時間に僅かな猶予があると思っていたのは、建物の高さを越すほどの巨人がまだ近くには居なかったからで、建物の影に隠れられるほどの巨人はもう近くに居る可能性が高い。一体は先ほど目の前に現れたのだから、今この場所は、もうどこに居てもおかしくない状況になっている。

 その事を、アダムは知っていた。だから彼の言葉は、単なる恨みごとに過ぎなかった。

 それは、「知っている」とは「分かっている」とならない事を無意識に痛感したもう一人の自分が吐きだした、呪いの言葉だった。

 

「くそっ、くそっ、くそっ!」

(今度はどこから――――っ!)

 

 首を激しく左右に振って辺りを見回していると、「ここに居るよ」と教えるようにワイヤーが震える。

 思考より先に反応した人差し指が引鉄を引くと、巨人の目に刺さったままだったアンカーが今居る屋根と向かいの家の屋根の狭間から蛇のような動きで登ってきて、腰脇の発射装置へと収まった。

 

「あ、あぶ、あぶ、ねー」

 

 遅れてやってきた恐怖が息を弾ませ、安堵をどもらせる。

 引っ張られていたら、落ちて喰われていた。ただ喰らうだけの本能しか無く、あってもせいぜい捕まえるという行動しか出来ない巨人だからこそ助かったのだろう。

 アダムは教本から得た知識を思い出しながら四つん這いで屋根の縁へと進み、落ちていったはずの巨人を覗くようにして見下ろした。

 

「……なんだよ、あれ」

 

 目から出ている煙で――傷が再生している証だろう――よく見えなかったが、それでもその霧の向こうのシルエットだけで分かった。

 顔が大きすぎる。ここからだと、体が見えない位に大きい。

 

「なんて、…………っ!」

 

 ゾクッ――。走る寒気が血液を沸騰させ、爆発する足の筋肉。

 霧の向こうの瞳に捉えられた気がしたアダムは、建物と建物の間を飛び越え、一心不乱に屋根の上を走り、とにかく巨人の居ない方へ飛んだ。

 言葉で表せなかった感情に、内心で悲鳴をあげながら。

 

(気持ち悪いっ! 気持ち悪いっ! 気持ち悪いっ!)

 

 醜い赤子と、顔だけの化物。きっと「気持ち悪い」なんかじゃ足りない。

 生理的な嫌悪感。生き物としての生存本能。

 それらを全て合わせても足りないほど、あのおぞましい姿形は歪だ。同じ世界に在ってほしくない。

 感情を縋る願いへと変えても、アダムの景色は変わらなかった。

 飛び移った先に居るのは、新たな巨人。

 

「! くそっ!」

 

 涙声の混じる悪態をつき、新たな進路を取る。

 きっと追ってはこない。立ち上がるようにして現れた巨人は、指で人を摘まんでいたから、捕まえてこれから食す所なのだろう。

 だからきっと、自分は大丈夫だと安心している事にアダムは気付き、激しい自己嫌悪に陥った。

 

「なんで――?」

 

 なんで、こんな事になった。空中で浮かんだ単純な疑問が、純粋な恐怖を呼び、飛んでいられなくなったアダムは屋根の上に着地した。

 巨人の気配を探る余裕は無かった。

 

「どうして……」

 

 息を弾ませながら漏れた声はもう疑問ではなく、問いかけでも無かった。

 変わり果てた世界を受け入れられず、壊れて消えた世界への郷愁。

 それはただの、わがままだった。

 

「なんなんだよ、これ……!」

 

 どうして、こんな事に。どうして。

 誰に向けた訳でもないその呪いの言葉にアダムの頭が満たされた時、

 

 

 

 

 

 

 

 

「かぁさぁぁぁぁぁん!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと、優しい母の顔が浮かんだ。

 

「かぁ、さん……?」

 

 違う。今叫んだのは自分じゃ無い。

 アダムは声が聞こえた方へ顔を向けた。もしかしたら助けを呼んでいるのかもしれない、なんて考えはこれっぽっちも無かった。ただの無意識だ。

 

(……あれは)

 

 まだ崩れていない家々の間を、兵士が2人の子供を抱えて走っている。まだ軽いのか、それとも火事場の馬鹿力というやつだろうか、中々の速さだった。多分、急いで避難しているのだろう。

 だが、一人の子供はそれに抵抗しているようにアダムには見えた。もう一方の髪の長い少女は、ただ怯えながら前だけを見ているというのに。

 逃げることに逆らうように、必死に手を伸ばす少年。アダムはその行方を、自らの目で追った。

 

「――――え?」

 

 その先にあったのは、巨人が人を喰らおうとしている光景。

 恐怖が麻痺し始め、もう見慣れ始めていた、当たり前の世界。

 ただそこに、おぞましさも、自分では無いという安堵も、アダムは見出せなかった。

 

「――おかぁ、さん?」

 

 違う、カルラだ。

 心の中で誰かが言った。

 

「どうして、お母さんが……?」

 

 母じゃない、カルラだ。自分は彼女を助けに来たんだ。

 誰かがそう言っても、足は動いてはくれなかった。

 手で鷲掴まれた下半身と、逆さに吊られた上半身。まるで糸の切れた操り人形(パペット)が無造作に持ちあげられたような、滑稽な姿。長い髪をした巨人に捕まり、こちらを向いてだらんと体を投げ出すカルラのそんな姿を、アダムはただ見つめる事しか出来なかった。

 彼女の体が、微かにブラブラと揺れる。彼女から流れる血が、伸びきった腕と髪を伝い、他愛も無い露のようにポツポツと地面に零れる。もう生きているのか死んでいるのか分からないカルラの姿は、今日、ほんのつい先ほど会っていた、自らに微笑んでくれていた彼女とはかけ離れていて、()()がまるで見覚えのない物の様にアダムの目には映っていた。

 それでも、その表情だけには見覚えがあった。

 

「やめてくれ……」

 

 誰かの生が続く事を喜ぶ表情(かお)。誰かの生を、望む表情(かお)

 

「連れて、いかないで……」

 

 それでもあなたと生きたかった、と。あなたの側に、もっともっと、居たかった、と。

 死にたくないのに、と嘆く表情(かお)

 

「神様……」

 

 息子(じぶん)に未来がある事が嬉しくて、息子(じぶん)との未来が無い事が悲しくて、笑って泣いていた、母の死に顔。

 アダムは、ただ助けたかった。

 何も出来ず、ただ側で泣きじゃくることしか出来なかった母の代わりに。見殺しにしてしまった、母の代わりに。

 母と似た、母を思い出させる彼女を、助けたかった。

 それでも、アダムは動けなかった。

 巨人への恐怖が足を竦ませ、孤独への恐怖が喉を震わせる。そして願う先は、自らにではなく、知らない何かへ。

 幼く情けなかった頃と同じように、ただ祈った。

 

「助けて、神様……」

 

 巨人が口を開ける。

 糸の無い操り人形(パペット)が、ガクンと体を傾ける。

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

――グシャッ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっさりと、()()は喰われた。

 

「あ……」

 

 アダムは膝をついた。

 どうして動かなかったんだ。まだ助けられたんじゃないのか。

 誰かの責め立てる声に、誰かが問い返す。

 何を助けたかったんだ。()()は、何だ。

 

「あ、あぁ……」

 

 呻くと、誰の声も聞こえなくなった。

 下半身だけ残った()()が、大きな口へと入っていく。

 アダムにはもう、()()が何なのか分からなかった。

 人なのか、人形なのか。母なのか、カルラなのか。

 ()()を殺したのは、巨人なのか、自分なのか。

 薄れいく意識の中で彼が分かったことは、()()から飛び散った血が、夕陽にきらめいて鮮やかだったことと、

 

「――あああぁぁぁっ!!!」

 

 どこかで、子供が泣いていたことだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、アダムは助かった。

 だが、どうやって、何故助かったのか、彼は覚えていなかった。

 ただ、どこか懐かしい、誰かの大きな優しい手が触れ、その手に必死にしがみつくようにして体を動かしたことだけは覚えていた。繋いだ手を離されないように、手の持ち主が「立て」と言えば立ち上がり、「動け」と言えば動いた。

 他に何か言っていた気はするが、頭の中はその手の持ち主の側に居ることだけで一杯だった。

 途中、轟音が世界に響いた。手の持ち主が立ち止まったので、アダムも立ち止った。

 そして、手の持ち主は言った。

 内門が破壊された、と。

 アダムはそれを耳に入れただけで、その言葉の意味を理解しようとはしなかった。

 それよりも、真っ赤な空を飛ぶ鳥の鳴き声が、やけに平和そうに響いていたことが、どこか不思議だった。

 




 もし待ってくれていた人が居たら、最終回とか言いながら間隔空いてすみません。パニックホラー的なのとか立体機動の描写がどうやって書けばいいのか分からず、半ば諦めかけてました……。
 次回からは幕間を挟んで後編、ウォールマリア撤退戦をお送りします。
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