進撃の巨人 For the past five years 作:灰かぶり
「――――シャルロッテ」
「――――っ!」
「やっぱ起きてんじゃねーか」
だからそんな辛い黒歴史を甦らせる名で呼ぶ声は、きっと無視していいはずなのだ。
独り言の回想をそう締めくくろうとした直前に、「シャルロッテ」という名前を持つ少年――アダムは頭まで被りもぐりこんでいた毛布の中で、不覚にも敵に反応を見せてしまった。
どうやら過去を思い出すことによって、敵の降伏勧告に屈しない強靭な精神力を養うための強烈な自己暗示――心の中で必死に言い訳すること――をかけていたつもりが、自分で自分の心の傷のかさぶたをいじる結果になってしまったようだ。
「シャル」とだけ呼ばれるなら追求の呼びかけも何とか無視できる自信があったが、久しぶりに聞くその本名に、ふさがりかけていたはずのトラウマからまた血が溢れる。
人のかさぶたをはがすとはなんて卑怯な奴だと思い、アダムはややくぐもった声の聞こえる方を睨みつけた。暗闇の中、唯一母から受け継いだ青い瞳が鋭く光る。
それでもやっぱり毛布にくるまっていた。
「おら、観念しろよ。ネタはもう上がってんだ」
「…………グースカ」
「そんな寝言ねーよ」
一瞬で見破られた。
あまりに棒読みすぎたか、内容がダメだったのか。もっと熱意を込めて「うーん……もう食べられない……」ぐらい言えばよかった。
自分は寝ているのだ、と相手に分かってもらえる手段は他にないかアダムが考え始めた時、厚手の毛布で隔たれた外界からかなり呆れているような声が聞こえた。
「……はぁ。オメーさ、寝過ごしましたーって言い訳が教官に通じると思ってんの? 連帯責任で俺まで怒られんじゃねーか」
「…………じゃあお前が行けばいいだろ」
アダムが本日最初の正しく意味のある言葉を発する。健康的な朝の挨拶を交わして、さわやかな一日を始めることはかなわなかった。
「それについて議論してーなら、オメーのその無様なありさまはただの寝たフリ、という体で話を進めるけどそれでいいか?」
「……じゃあ話は進められないな」
「てゆーかもう会話が成立してる時点でアウトだけどな」
「! ……グゥッ!」
「すげーな、本気でだませると思ってたんだな」
芋虫状の毛布に包まれた物体から呻き声が漏れたことに気分を良くしたのか、窓から朝陽が差し込み照らされているであろう世界からの声は、なにやら勝ち誇っていた。どうやら完全に敵の罠にはめられたようだ。
アダムは分かってはいた、起きなければいけないということは。
そうでなければ、呼びかけを無視して寝たふりをすることにこれほどの罪悪感は感じてないし、それから逃れるためにあんな昔の話を頭の中で唱えたりなどしない。
ただアダムは声の主に伝えたかっただけだった。起き上がった先に待ち受けるその過酷な運命を、自分がどれだけ嘆いているのか。
そして出来れば、しょうがないから代わりに行ってやる的な展開の期待を込めての寝たフリ作戦だったのだが、かなり旗色が悪いようだった。結構前から起きてたので、引っ込みが付かなくなったというのもある。
「……おーい、さっきからうるせーぞーヨハン。今日ぐらいゆっくり寝かせてくれー」
「あ、ワリ。すぐ済むから」
軽い。そしてひどい。
気だるげな文句に応答する声の主の様子は、まるで「ちょっとトイレ」というぐらい気軽だった。
「…………はぁ」
先ほどからやり取りをする声が無意識に大きくなっていたのだろう。アダムはこれ以上は周囲に迷惑をかけると判断して抗うのをやめ、そして軽く廃棄物扱いされたことに傷つきながら毛布をめくり起き上がった。
闇から解き放たれた先に見えた世界は、なんてこと無いいつもの部屋の景色。
ドアから窓へとつながる道を挟むように、二段ベッドをいくつかつなぎ合わせた形の寝所が広がり、そこに何人もの人間が寝転がっている。個人の私物を置くスペースなどほとんど無い。薄い敷布団は支給されてはいるが、起き上がったアダムを支える右手から伝わる感触は固く、ベッドなどと呼べるような大層なものじゃないことが分かる。一人部屋とは言わないが、もう少しお金をかけてくれてもいいのではないだろうか、と誰もが最初は思うほどの簡素なつくり。
いつも通りの、十数人の訓練兵たちが寝泊りするために詰め込まれた寮の一室。もっと正確に言えば、ウォールローゼ南方面に配属された第99期訓練兵団の駐屯基地内、その男性用宿舎の一室だった。
この基地で、巨人から人類を、そして壁を守る兵士の卵である訓練兵たちは、正式に兵士となるために日々訓練をこなしていた。その人数はおよそ300人。
そんな大勢のたかが訓練兵に、快適な部屋を与えるための資金と場所を提供するほど世の中甘くなかったので、こうしてまとめて詰め込まれるのも仕方のないことだった。
「お、やっと腹くくったか。さっさと用意しろよ」
そう言って、先ほどからずっとこちらに語りかけていた声の主――ヨハンと呼ばれた少年はこちらから視線を外し、まるで虫を払うかのように右手を雑に振る。
「…………おい、ちょっと待て」
自分が寝ている二段式の寝所の下段、その寝台に腰掛けてブーツのヒモを結び始めていたヨハンをアダムは呼び止めた。
別に結ぶなと言った訳ではなかったが、やけにおどろおどろしい声を感じたのだろう。ヨハンはブーツのヒモを結ぶのを片方だけで諦め、怪訝な顔をしながらこちらへ振り返った。
「んだよ、腹くくったんじゃねーのか? ごねるのもいい加減にしろよ。負けたほうが行くってちゃんと昨日――」
「そこはいい。とりあえず今は置いとこう」
アダムが冷静な声でヨハンのセリフを遮る。視線を背後の壁の左側、そこに備え付けられている窓に固定したまま。
いつもより日が昇るのが少し早くなったこの時期、カーテンなど上等なものなど無い野ざらしの窓からは予想していたような、起床を促す明るい陽射しが差し込んで――――いなかった。
「……なんでこんな早く起こした」
「? なんでって、いつもと同じ時間だろ?」
「確かに、いつも通りではあるな」
訓練兵の朝は早い。
一人前の兵士になるには訓練をこなすだけでなく、まず自分の兵士としての生活能力を鍛えなければならないのだ。だから炊事、洗濯、掃除はもちろんのこと、馬術訓練で世話になる馬たちの世話や、果てはその日の訓練の準備まで自分たちでしなければならない。
当番制で回されたとしても、のんびりした朝を迎えられるものなど誰一人としていないほど、やるべきことは山のようにあるのだ。
しかし、物事には例外というものがある。
「いつも通り――訓練がある日の起床時間だな」
「…………何言ってんだオメー? 今日は訓練休みだぞ?」
「だからそれを皮肉ってるんだよ……! 休日なんだからもう少し寝かせろよ……!」
不思議そうに馬鹿にした顔のヨハンを見て、アダムは潜めた声でその調子だけを荒げた。
休日――それは、日々辛い訓練をこなす少年少女たちにとっては、何物にも変え難い宝。
もちろんやらなければいけない仕事はある。だが、いつもは合間に終わらせなければならないことを本来なら訓練中である時間にやり、それでもあまる自由な時を有意義に過ごすことは、若き訓練兵たちにとって昨日の疲れを癒し明日への活力となるものだった。
そしてそんな有意義な休日はいつだって、朝陽に照らされた暖かな空気から始まる。決して、ボロボロの窓からガタガタ言って侵入してくる、夜明けの冷たい空気が肌を刺す感覚からは始まらない。
アダムは毛布に包まっていた時から感じていた寒さの正体が天候のせいじゃないことが分かり、壁に寄りかかって毛布を首元まで引き寄せて、ヨハンをにらみつける。
しかし、怒りの眼差しを受け、頭を出して再び丸まり始めたアダムを見ても、ヨハンはその呆れかえったような表情を変えなかった。
「オメーにとっちゃ休日じゃねーだろうが。さっさと教官のとこ行ってありがたーい任務を仰せつかってこいよ。昨日負けたんだから」
「ウッ……!」
何も言い返せず、アダムはまた呻いた。正にその通りだったからだ。
アダムは昨日、ヨハンと二人でいる時に教官から非常に面倒くさい用事を言い渡されていた。朝から晩までかかり、翌日の休みが潰されるほどの。
何も一緒に行くような用事でもなかったので、神聖なる休日を賭けて二人で勝負したのだが、結果は敗北。おかげでアダムの休日は、教官の完全な私用である特別任務に潰されることとなった。
そういう意味では、確かに今日は休日だとは言えなかった。
(でも……!)
何もこんなに早く起こす必要は無い。一日がかりだとは言っても午前と午後が潰れるだけで、目覚めの朝だけは休日であることを満喫できるはず。アダムにとってはそれだけが救いだったのだ。
「あとオレが朝練行ってから帰って来るまでにお前逃げ出してそうだったから、とりあえず行く前に起こしてみた」
「! ――――…………」
「やっぱ図星か」
図星だった。とっさに顔を背けてしまった。
アダムはヨハンが休日の朝練の時間をいつもより長めにとることを知っていたので、その間にバックレてしまおうと考えていたのだ。昨日勝負に負けた瞬間から。
なのでヨハンに起こされ始めた時は、予想以上に寝過ごしたか予定より早く朝練を切り上げたのかとあせり、とっさに寝たフリ作戦に切り替えたのだが。
どうやら完全に向こうの方が一枚上手だったらしい。
「大体な、休日だからって生活リズムを乱しちゃ明日の訓練に響くぜ。それにこういう訓練が無い日こそ朝の鍛錬の時間が多めに取れるし」
「そんなのやってるのお前だけだよ、この健康優良児兼優等生が……!」
「それほめてねーか?」
「うるせーよ!!」
「オメーがな」
「グッ……!」
アダムの抑えられなかった怒りの揚げ足を、ヨハンが澄ました顔で取る。こちらをやり込めて調子に乗っているのだろう、活発な印象を与えるやや幼さの残した顔立ちが得意げな笑みを見せて、余計腹立たしい。
少し赤みがかった明るい茶髪とやや小柄な体格をしているので、見るからにまだ悪がきといった風体をしているくせに、ヨハンは訓練兵としては非常に真面目で優秀だ。自己の鍛錬に余念が無く、訓練があろうとなかろうとこのように朝早く起き訓練に励むほど。
元々の高い身体能力をその努力で磨き、そのうえ頭の回転も速いので、300人近い同期の訓練兵の中でもその成績は主席候補として挙げられる一人である。
そんな主席候補様に普通の訓練兵――中の上ぐらいはあると思う――が敵うわけは無いようだ。
「おいアダム、ヨハンの言うとおりお前が一番うるせーよ……。騒ぐなら外でやれ……」
つい先ほどヨハンに向かって気だるげに文句を言っていた声の主は、アダムの矛盾した叫びで完全に目を覚ましてしまったのか、矛先を変えて先ほどよりも明確な敵意を向けてきた。
二人のやり取りを一番近くで聞いていたのだろう。側で寝ていたその同期は完全に上体を起こし、アダムに非難の目を向けている。というか寝ていた全員が目を覚ましてしまったらしく、部屋中が「出てけ、そして寝かせろ」という空気に包まれている。
完全に悪者になっていた。
「だってよ。それじゃ皆に迷惑かけねーうちに、早く外に出るか」
ヨハンはそう言い捨てアダムから視線を外し、もう片方のブーツのヒモを結び始めた。
その背中を睨み付けながらも、この空気の中でもう一度寝れるほどの神経を持ち合わせていなかったので、アダムは仕方なく訓練用の服に着替え始めることにした。
(くそ、なんで俺がこんな目に!)
最初の罪悪感はどこかへ行ってしまったらしく、ヨハンが聞いていたら「そりゃ逆恨みだ」とすぐに返されるような想いを心の中で吐き捨てる。
しかしこのまま泣き寝入りするつもりは無い。
すでに外に出る準備を終えていたヨハンが「んじゃ早く教官のとこ行くぞ」と言いながら、ドアに向かうため立ち上がる。アダムは不敵な笑みを浮かべながら、その背中に向けて呼びかけた。
「おい、ちょっと待てよヨハン」
「? んだよ、まだ何かあんのか?」
二度も呼び止められたことにいい加減うんざりしているようだ。その顔からは少し苛立ちが見え始めている。
「今日はちょっと朝練始める前に俺に付き合ってもらうぞ」
「当たり前だろが。オメーが教官室に行くまで付いてってやるよ。逃げられでもしたらオレが行かなきゃなんなく――」
「いや違う。付き合ってもらうのは教官室へじゃない」
「? んじゃどこ?」
ヨハンの顔から苛立ちが消え、純粋な疑問の表情が浮かぶ。
さっき自分で犯したミスにも気が付いてないとは、主席候補が聞いて呆れる。
「お前さっき言ったよな。『どちらが行くかについての議論は、お前が起きてから進めよう』って」
「……オレそんな風に言った覚えねーんだけど」
どうやらとぼけているようだ。全く往生際の悪いやつめ。
アダムは完全に自分のことは棚に上げ、ヨハンを更に追求した。
「いや、絶対言った。俺が『ならお前が行ってくれ』って頼んだら、『それについて議論したいから、その寝たフリをやめて、ちゃんと起きて話を進めよう』って」
「……随分都合よく解釈したなおい」
正確に言うとちょっと違うが、その解釈も決して間違いではないはずだ。
アダムは自らの休日を救うための唯一の突破口を、死んだ魚の目をしているヨハンへ自信満々に突きつけた。
「だけどまあ俺も、一度男が勝負して決めたことを、いまさら口でどうこう言うのは間違ってると思う」
「寝たふりやら逃げ出そうとしたりする行動は間違いじゃねーんだな」
「だからここはお前のその『もう一度話し合いたい』って気持ちも汲んで公平に――」
「ていうか今すげー口でどうこう言ってるよな」
「――ってうるさいな! ちょっと黙ってろよ!」
ヨハンは「へいへい……」とつぶやきながら腕を組んで、やっと人の話を聞く体勢に入ったようだった。しかし途中で邪魔されたから、何が言いたかったのか忘れてしまっていた。
「えーっと……。! そう! ここは公平に――もう一度勝負して決めてやる!」
「オレが付き合ってもらうって形になってんだな、いつの間にか」
ヨハンが大きくため息をつく。その反動で首が直角に曲がり、顔が完全に下を向いてしまっているのでどんな表情をしているのかはよく分からない。完全に呆れているということは伝わってくるが。
もはやなりふり構っていられない。アダムはそう決意し、自分がどれだけ無茶苦茶言ってるかは、とりあえず頭の片隅に追いやった。何とか勝負に持ち込められれば、あとは運でどうにかなる。
そして、とにかく相手をうなずかせれば勝ちだ、と手段が目的になってしまっているアダムに聞こえてきたのは、あっさりとした承諾の声だった。
「いいぜ」
ヨハンはうつむいたまま言った。
「その勝負のった」
「え、マジで?」
あまりにも簡単にうなずいてくれたので、アダムはやや拍子抜けしてしまった。基本的にいつもヨハンには口で敵うことはなかったので、実はやっぱり駄目かなとも思っていたのに、意外な初勝利が突然訪れた。しかも大事な時に。
アダムは心の中でガッツポーズをとり、完全に手段と目的を取り違えてしまっている初勝利の余韻に浸っていたが、次の瞬間、その余韻は完全に消し飛んだ。
「ただし条件がある」
そう言って顔を上げたヨハンの表情は、アダムにとって見慣れたもの――。
「条件?」
「勝負の方法は昨日と同じ。だけど負けたほうは追加で、どんな命令でも1個だけ絶対服従するっていう罰をつける」
「……待った。何だそれ」
その見慣れた表情――とても楽しげな顔とともに、ヨハンはとんでもないことを言い放った。嫌な予感しかしない。
「だって同じじゃつまんねーだろ? 嫌なら別にいいんだぜ? そのまま教官室に直行しても」
「グッ……!」
「どうする? 折角の機会を棒に振るか? 勝負は時の運って言うし、そもそも運で決まる勝負なんだからオメーにもチャンスはあるはずだぜ?」
「…………」
ヨハンがニヤニヤしながらこちらを挑発する。しかしアダムはこの挑発にはのらず、軽く相手をにらみながらただ沈黙を返した。
この顔をしている時は危ない。アダムはこの訓練兵として生活してきた三年間の経験から、そのことが痛いほど分かっていた。
――――ヨハンとは最初から気が合った。後で分かったことだが、生まれや育ちといったそれまでの境遇がとても似ていて、どこか同じ匂いを――名前は「ヨハン・ヴォルフ」なんていうカッコいいもので、そこは全く違ったが――お互い感じていたようだった。
そしてヨハンは、誰もが最初馬鹿にしていた「シャルロッテ」という名前をただ一人だけ笑わなかった。母から与えてもらったその名を尊重してくれたし、父から名を受け継いだことも「うらやましい」とさえ言ってくれた。そんなヨハンにいつしか好感を覚え、母が亡くなって以来、自分にとって唯一心の許せる存在になっていった。姓ではなく、名前で呼ぶのを許すほどに。
まあそれは、「姓で呼ぶのってなんか他人行儀じゃね?」と言ってしつこく名前で呼ぶので、「せめてシャルにしてくれ……」という形で妥協した結果に過ぎないが。
それでも、同じような身の上同士、共通点も共感するところも多かったので、「親友」として認め合うのにそれほど時間はかからなかった。
しかし、それが大きな間違いだった。
2人でつるみだしてもうすぐ3年、様々なことがあった。訓練をさぼって街に出かけたり、食料庫に盗みに入ったり、女子風呂を覗こうとしたり、教官にいたずらしたり……。要するに、ろくな事してない。
しかも決まって、言いだしっぺであるはずのヨハンはお咎めを受けず、自分だけが罰を受けるのである。普段が真面目で優秀というイメージもあるのだろうが、とにかく上手く立ち回って、人を陥れることに頭がよく回る男なのだ。自分の成績がヨハンより下なのもきっとこのせいに違いない。
「親友」などではなく、「悪友」の中の「悪友」。もはやただの「悪」である。
そして決まって、ヨハンが上手く立ち回り、自分を罠にはめる時に浮かべる表情が――――
「おいどうした? 急にだんまりしやがって。今さらびびっちまったとか言わないよな?」
――――ズバリこのにやけた面だ。
この人をおちょくる顔をしている時は、つまり完全に勝算があるということなのだ。負けると分かっている勝負に挑む馬鹿はいない。
(けど、)
どう考えてもこれから行われる勝負に、必勝法などはないはずだ。あっちも言ってる通り、ほぼ運で決まるものなのだから。
アダムはそう思い、不正させなければ、事前にルールをちゃんと確認すればいけるんじゃないか、という希望も見え始めたところで、静かに口を開いた。
「――分かった。その勝負……受けて立つ!」
自分が挑んだ勝負だということを完全に忘れ、アダムは相手に叩きつけたはずの挑戦状を自分で受け取った。その青い瞳は、「3年間の恨みを今こそはらす!」という意気込みと切なさによって、炎やら充血やらで色々赤く染まってそうだった。
「おし、いい度胸だ」
ヨハンは珍しくアダムの矛盾には触れず静かにそう言って、まるで逃げるようにドアへと移動する。そしてドアを開けて少しこちらに目をやり、「外で待ってるぜ、シャル」とボソッとつぶやいて、そそくさと出て行ってしまった。
(これは……)
もしかして、自分の気合に怖気づいたのかもしれない。いやむしろ、勝算なんてはじめから無かったから、後悔して怖気づいたんじゃないか。
アダムはその、捨て台詞を吐いて逃げ去る悪役のようなヨハンを見て、まるで前哨戦で勝利したような喜びをかみ締めながら、中断していた着替えを再開した。
――そして、あまりのうるささに限界を迎え、完全に覚醒させてしまった部屋中の同期全員からヤジと物を投げつけられる中、最速で着替えを済ませて逃げるようにヨハンの後を追った。