進撃の巨人 For the past five years 作:灰かぶり
乙女の休日とは、まず身だしなみを整えることから始まる。
「――――プハァッ!」
冷たい水から解放された心が、狭い檻から開放されたような感情をあふれさせ、閉じ込められていた空気がその自由に喜び、のどを震わせ歓喜の音を鳴らす。放たれた音と空気たちの向かう空はとても青く、遠くまばらに浮かぶ白い雲は優雅にその身を漂わせている。
「ふぃー……ア゛ア゛ア゛ァ゛――」
水が入った桶に直接突っ込んでぬれた顔をタオルで拭きながら、あまりの爽快さに彼女はつい乙女にあるまじき声を漏らした。若く健康的な肌が弾いた水滴を拭き取り、「まるでお日様のようだ」と言われるいつも他人を明るく照らすその表情を、「まるでおじさんのようだ」と言われるであろうほどにその布の中で歪めていた。
上を向いたままなので、普段は肩までの長さの栗色の髪が背後まで届き、零れ落ちるしずくがシャツの背中をぬらす。頭ごと突っ込んでいたので髪の毛全体がぬれていた。特に問題ない。
「――――ふぅ」
顔を拭くのに満足したので次は髪だ。
視線を晴れ渡った空から草の生い茂る地面へ移す。頬に流れ落ちる自分の髪の毛が、痛むのを気にせずかきむしるようにタオルを動かしたので余計に頬を叩いている。
太陽は昇ったばかりだが、遮るものの無いその熱い光が涼しげな朝を暖め、冷たかった風を心地よいものへと変えていた。
ちょうどいいから勝手に乾かしてくれるのを待とう。
そうして髪へのダメージに関して風へと責任転嫁することに決め、最後にそんな苦行にも耐えながらサラサラストレートを保ってくれている髪を一振りして、彼女は乙女の休日の身だしなみを整え終えた。
色々な点で、乙女と言えないことは間違いない。
(さてと)
風が髪を乾かしてくれるのをじっと待つのも暇だったので、彼女は少し朝の散歩をすることにした。使用済みのぬれたタオルを肩に掛け、共通の洗い場である井戸の側をゆっくりと離れ、明るい木漏れ日に彩られた道を歩く。
普段は人の喧騒でかき消される木々の葉擦れの音が、人のいない静けさを壊さないように優しく耳に届く。足元の生い茂る草の匂いも、花の儚さとは違う、何だか力強さみたいなものをこの時間は感じさせる。
いつもならまだ寝ているはずの休日の朝は、日常の景色から未知の世界へと彼女を誘っていた。
(うーーん、これはナカナカ)
早起きもたまにはしてみるものだ。
本当は寝相が悪くて寝台から落ちただけだったが、彼女はそのことを忘れ、新鮮な驚きと喜びに心を弾ませがら自分の家の周りを歩き出した。
自称乙女の彼女――エミ・エーレの現在の家は、ウォールローゼ南方の僻地にある軍の基地。そこで訓練兵として、兵士となるための訓練をこなしながら暮らしていた。
とは言うものの、何も本気で使命に燃えて兵士になろうとしている訳じゃない。
エミの本当の実家はトロスト区にある。
トロスト区とはウォールローゼの南の扉、その外側部分に広がる街で、本来なら壁の外にあるのだが、そこを更に壁で囲んで扉を守るように存在している。ローゼ本来の壁と街を囲む壁、そして内地への扉とウォールマリア領へとつながる扉、つまり2つの壁と2つの扉がある少し特殊な街だ。
こういった形の街はそれぞれマリア、ローゼ、シーナの3つの壁、その東西南北の4つの扉部分にあるので他にもあと11ヶ所ある。トロスト区を含むこれら12の街は行政区と呼ばれ、他の地域に比べて結構栄えた街だった。
なぜなら、人間が多いからだ。
12の行政区には、巨人の人間が多い場所に惹かれる――と言われている――習性を利用して巨人を密集させ、本来なら長大な壁の警護に割かなければならない軍の人員と経費を集中させるという役割がある。だから多くの住民を必要としていて、その住民を呼ぶために税が優遇されている。
それを目当てに人が集まり、それに加えて常駐している警備の兵士の数も多い。その人の多さに釣られ、商人の往来も結構頻繁にあり、しかも民間組織ながらに経済だけでなく政治にも影響力を持つ商会、その支部が置かれている。
このような人の流れと形で経済はどんどん発展していき、各行政区は都会と言えるまでになった。人が多いところに金は集まるのである。同時に巨人も集めてしまうが。
そんな都会の一つであるトロスト区でエミは育った。
王侯貴族やその縁者たちが暮らす王都、ウォールシーナ内の人間には確かに裕福さでは負けるが、それでもエミは「故郷が一番!」と周りに言えるほど自分の街を愛し、誇りに思っていた。好き過ぎて他の行政区を敵視し、同じウォールローゼの行政区であるカラネス区出身の同期と「どっちの方が都会か!」について激しい口論になるほど。
それほどに故郷が大好きな自称都会っ子――まだ論争に決着がついてないので――であるエミが、故郷を離れ兵士となる道を選んだ理由、それは――
(この基地……もしかして一般開放したら、観光地としてお金取れるんじゃないかなー)
――ズバリお金だった。
エミの両親はトロスト区で酒場を経営していた。
お客さんは近所の顔見知りばかりだったが、それでも繁盛していたほうだ。エミも酒場に生まれた一人娘として、決して良い環境とは言えなかったが、小さな体で懸命に両親の仕事の手伝いをしていた。おかげで近所では評判の看板娘だった。
そんな日常が続くと思っていたある日、突然終わりは訪れた。
今から5年前、エミがちょうど10歳の誕生日を迎えた日に、父親がこう言い出したのだ。
『俺、お湯売りたかったんだよね』
意味が分からなかった。
エミはそんなことを言い出した父親を、「大人って色々あるんだなぁ」と思いながらも非常に心配した。
何に影響されたのか知らないが、何でも幼い時に抱いていた夢で、娘が10歳になった所を見てその頃の自分を思い出してしまった、ということらしい。
それからのエミの父親の行動は早かった。自分の父親から受け継いだはずの酒場を「喫湯店 エーレ」と改名し、常連にはお酒の代わりに白湯を出した。
そして店が潰れるのも早かった。トロスト区商会の御用達であったはずがあっさりと見捨てられ、もちろん常連客も離れていった。当たり前だ、酒よりお湯を飲みたい奴なんて誰もいない。
その後父親は、何とか知り合いの仕事を手伝うという形で職を得て、エミと母親を養ってくれた。住まいも小さくはなったが、トロスト区を出て行かずにすんだ。
それからの、「このろくでなしが!」と言われ母親によく尻を蹴飛ばされる、少しかわいそうな父親を見てエミは誓った。「父に酒場を取り戻してあげよう」と。もちろんお湯は無しで。
エミ自身が酒場で働くのを好んでいたというのもあるが、やはり父親と母親には仲良くしてもらいたかったし、何よりも家族でまたあの酒場で笑いながら働きたいという気持ちがあった。母親はその頃から父親を蹴っていた気がするが。
そんな目標を持ったエミはそれからとにかく頑張ったが、父親の仕事を手伝い、ご近所に尋ねて回って手に入れた仕事をこなしても、返ってくる報酬は子供のお駄賃に毛が生えた程度だった。
このペースでは酒場を取り戻す前に、父親を夢に溢れたろくでなしのまま死なせてしまう。
そんな殊勝な、母親の影響をしっかりと受けている思いに苦しんでいた時、エミの耳にある言葉が届いた。
『憲兵団だったら、もっと楽して儲けられるのになぁ……』
それもやっぱり、またろくでなしの父親が言い出した言葉だった。もう夢にも溢れていなかった。
憲兵団。それは壁の中の治安維持と王の守護を担う兵士。そして選りすぐりの兵士によって編成されたエリート集団。
エミはあまり憲兵団の兵士は見たことが無かったので、何となくそんな感じの内地の人たちとしか思っていなかった。エミにとって兵士とは壁の警備をしている駐屯兵団のことであり、仕事中にもお酒を飲みに来て酔っ払う、ただの飲んだくれだったのだ。
しかしエミはその言葉を聞いて、兵士への認識を改めた。
兵士とは、あれだけ仕事をしていなくても、毎回飲みに来れるほど給料がいいのだと。
そして、いつもの飲んだくれたちより偉いなら、酒場を取り戻す資金もすぐに稼げるに違いないと。
色々と誤解はあったが、その後父親に詳しいことを聞き、まあ概ね間違いではないと確信を強め、エミは兵士となることを決意した。父親と母親は可愛い娘がそんな野蛮な職業に就くことに反対したが、「人類最強の孝行娘に任して!」というドヤ顔を見て、大丈夫そうだと判断して送り出した。エミは、威勢と元気だけは昔から良かった。
そうして、兵士として志願することが許される12の年齢を迎え、エミは兵士となる道を選び、第99期訓練兵団としてウォールローゼ南方駐屯の部隊に配属されることとなった。憲兵団に入って、お金を稼ぐために。
「フ~ン、フ、フ、フン、フフフン♪」
そんな自称人類最強の孝行娘は、奇妙な鼻歌を口ずさみながら久しぶりの休日を満喫していた。
憲兵団になるために頑張ってきたエミだが、もう間もなく3年間の訓練課程が終わろうとしているこの時期。訓練兵の中でもある程度の順位付けは終わっていて、エミはどうやら自分は憲兵団にはなれそうに無いと自覚していた。
3年の訓練課程を終えた訓練兵は、兵士としての自らの配属先を3つの兵団から選ぶのだが、その中で憲兵団を選べるのは上位10名だけ。エミは現時点で50番以内ぐらいにはいると思っていたが、残り3ヶ月の訓練で上位10名に食い込むのは無理そうだった。
そんな自分の現状に最近は少し落ち込んでいたりもしたのだが、どうやらいつも二度寝ばかりをして出会ったことの無かった休日の早朝が、初対面の挨拶代わりに暗い気持ちをどこかへ持ち去ってくれたようだ。しかも気の利いたことに、素敵な情景という菓子折り持参で。
おかげで、駐屯兵団でも一生懸命働けば結構稼げるかな、と改めて頑張る気持ちを取り戻していた。駐屯兵団の客の月1人当たりの酒代は結構な額があったはずだから。
「んーー……ん!」
つい惚れてしまいそうなほどの静かな朝に、弾む気持ちを抑えられず大きく伸びをする。ゆっくりだった歩調も飛び跳ねはじめ、軽くスキップをしているようだった。満面の笑顔と一緒に。
それからしばらくその状態のまま建物沿いに歩き続け、そしてもうすぐ角にさしかかろうとした時、急に隣の建物の窓が空いた。
「ん?」
「え?」
そこには教官がいた。どうやらその建物は教官室だったらしい。全く気づかないまま、結構な距離を歩いてきたようだ。
バッチリ目が合い、お互いちょっと固まってしまった。
いまさらながらにエミは、自分の今の状態がかなり恥ずかしいことに気づいた。他人から見たら完全に朝から一人ではしゃいでる変な女だ。
恥ずかしくてすぐに逃げ出したかったが、それも何だか失礼な気がしたので「お、おはようございまーす」と目を伏せてつぶやきながら、何気なく立ち去った。自分でもかなり顔が赤くなってることが分かる。
教官も一応「おはよう」と返してくれたが、いつもの威勢のいい声でなく、聞いたこともないような戸惑ってる声だった。
(あぁ!恥ずかしすぎる!)
死ねる。今なら恥ずかしさだけで死ねる。
素早く角を曲がり身を隠して、そんな悲しい確信に身悶えながら苦しんでいると、エミの耳にまた新たな刺客の声が届いた。
「……おい、何やってんだエミ」
「! キャアアッ!」
災難はめったに一つでは来ない。
エミは急に目の前に人が現れた驚きと、頭を抱えてもがいてる様を見られた羞恥心で、まるで着替えを覗かれた現場にいるような悲鳴をあげた。
「――! テメッ! なんつー声出しやがる! 誰かに勘違いされたらどーすんだ、全く……」
「そ、そっちこそ急に出てこないでよ! びっくりするじゃない!」
「急に出てきて変な踊りし始めたのはオメーだけどな。こっちがびっくりしたわ」
赤みがかった髪色をした少年が呆れ混じりに切り返してくる。
向こうはどうやら冷静さを取り戻していたようなので、エミも「べ、別に、変じゃないわよ」と踊っていたことは肯定してしまう弁解をしながら、髪を整えるフリをして心を落ち着かせた。
そして改めて目の前にいる人物を確認すると、そこにはヨハンがいた。教官室のドアの横の壁に、腕を組みながら寄りかかっている。
エミの同期であり、自分よりも背が低いくせに、生意気にも主席候補と呼ばれている少年だ。
厄介な奴に見られた。
「こ、ここ、こんな所で、朝っぱらから、何してんの? ま、また、変なことでも、し、しし、しでかして、教官に、よ、呼び出しでも食らった?」
「まず落ち着けよ」
かなり動揺が尾を引いていた。何とか先ほどの醜態から目を背けさせようと話題を振ったのだが、焦りすぎてどもってしまった。
ヨハンは何やら呆れていたようだが、すぐに表情を切り替え、その幼い顔つきをさらに少年っぽくみせる、いたずらを思いついたというような笑みを浮かべた。
「別に呼び出し食らってんのはオレじゃねーし、少なくとも朝っぱらから奇妙な鼻歌を1人で大合唱するほど変なことはしてねーよ」
「!」
聞いていたのか。むしろ歌っていたのか。無意識って怖い。
冷静さを促しておいて、逆にこちらの動揺を誘ってきたヨハンの言葉を聞き、エミは自分の馬鹿さ加減に絶望して再び身悶え始めた。
エミはヨハンとは結構仲が良かった。というより、いつもヨハンの相棒を含めた3人で一緒にいることが多かったので、同期の中では一番仲が良いと言えた。基本的には、毎回変なことをする2人を諌めたり怒ったりすることが多いが。
男女の違いというものはあったけれど、幼い頃から酒場で酔っ払いたちを相手にしてきたせいか、大雑把でちょっと豪快な性格に育ってしまったエミには、繊細な女子たちよりも余程2人の方が気が合ったのだ。誰それがカッコいいなどと言う話にはどうもついていけない。
元々はこのヨハンの相棒の男との奇妙な因縁で始まった仲だったが、エミは3人でいるときは中々に楽しく、居心地の良さを感じていた。
だが、この男の悪癖には困る。
いつもは自分の相棒だけをからかうくせに、時々こちらにまでその牙をむいてくるのだ。本当に楽しそうに人をからかい陥れる。これで周りからは優等生だと思われているのだから余計たちが悪い。
そういうのは是非相方とだけやっていてくれ。
エミは頭を抱え悶えるのをやめ、そんな思いを込めてヨハンを鋭く睨み付けた。
真っ赤な顔をして「ヴ~……」という動物のような唸り声をあげるエミに、いつも通りの沸点の低さを感じたのだろう。ヨハンは早々と降参の意を示し両手を挙げて、今の自分の状況を説明してくれた。
「呼び出しを食らって、じゃなく用事があったのはオレじゃなくてシャルで……いや、用事があったのは教官か? まあ、用事を聞く用事? みたいな。そんでオレはその付き添い……いや、監視か? まあ、そんな感じで、今はアイツにどんな恥ずかしい罰をやらせっか考えながら……待機中? とも言えるような……状態?」
こちらに聞かれても困る。
エミは要領を得ない疑問符だらけの長い説明に、同じく疑問符を顔に浮かべながら首を傾げた。
「つまり、どゆこと?」
「つまり、そゆこと」
ヨハンはオウム返しに説明するだけでますます意味が分からなくなり、口より先に手が出てしまうエミの怒りは爆発する直前で、煙に巻かれたように消えていった。
「まあそろそろ出てくると思うから、知りたきゃあいつに聞いてくれ」
ヨハンがそう言うので、とりあえずエミはそうすることにした。
元々、恥ずかしさを紛らわすために質問しただけだったはずだが、ヨハンのわざとらしいほどに答えをぼかしたその言葉によって、いつの間にか羞恥心による怒りが純粋な興味に取って変えられていた。
ヨハンの「こいつやっぱチョロいわ」というつぶやきとにやついた顔は、エミには全く聞こえず見えなかった。
(それにしても……)
こんな休日の早朝から一体何の用事だろうか。
エミは、ヨハンが休日でも早く起きて訓練していることは知っていたが、ヨハンの言う件の人物は自分や他のみんなと同じく、休日はゆっくり寝ていることを知っていた。
そんな彼が、まあもういい加減みんなも起き出す時間だったが、それでもこんな時間に教官室にいることが信じられなかったのだ。
そしてエミが、いや教官に用事があってそれの用事が用事で、と用事という言葉の意味が分からなくなってきた時、教官室のドアが開く音がした。
「――――げっ」
ドアの方に目をやるとそこには、全体的に黒くて彫りの深い、人に濃い印象を与える青年――少年と言うには老けすぎだ――がいて、こちらと目が合うなり渋い顔をして呻き声をあげた。
「げっ、とは何よ。げっ、とは」
相変わらず失礼な男だ、こんな美少女を捕まえて。これでも結構モテるのに。
エミは確かに美少女とも言えなくは無かったが、幼い時に酒場でお客さんたちからチヤホヤされた経験を基にしたモテ体験だったので、一応口に出すのは悪態をつくだけに留めておいた。
「何でお前がいるんだよ」
「…………何言ってんのアンタ? だって私訓練兵だもの?」
「だから皮肉を言ってるんだよ俺は……! 今朝から何なんだ今日は一体……!」
どうやら今は相当機嫌が悪いらしい。何やらエミにはよく分からないことを言って、「どいつもこいつも、馬鹿にしてんのか畜生!」と叫びながらドアを叩きつけ……ようとして、教官室のドアだったことを思い出したのか、そっと静かに閉めた。
正に、何とも締まらない男だ。
そして、ヨハンの相棒であり、エミと奇妙な因縁を持ち、エミには決してその面白すぎる名前を呼ばせない彼、「シャルロッテ」という名前を持つアダムは、ゆっくりと不機嫌そうにこちらへ歩み寄ってきた。
「よー、お疲れ。意外と長かったな」
「チッ、お前もまだいたのかよ」
ヨハンが手をあげて軽く労うが、アダムはそれに対して舌打ちと言葉で不機嫌さを表明する。
エミは二人の間に流れる空気から、どうやらアダムがまたヨハンにはめられたのだろうと察した。アダムの無愛想な表情が、子供みたいにふてくされたものになっている時は大体いつもそうだ。
アダムはそのふてくされた表情のままこちらを振り返り、改めて問いただしてきた。
「それで、こいつがいるのは分かるけど、お前はこんな時間に何してるんだ? 朝の散歩でもしてたのか?」
そういえば、朝の散歩をしていたんだった。すっかり忘れていた。
「うん、まあね。結構気持ち良いもんだよ」
「そうか。それは良かったな。それじゃどうぞごゆっくり」
「うん! …………あれ?」
違う。いや間違いではないけど、何か違う。
エミは再び疑問符を顔に浮かべながら首を傾げた。
首を傾げたまま動かなくなったエミを見て不審に思ったのだろう、視界の端ではアダムが「何だあれ?」と言い、「いつものことだろ」と呆れて返すヨハンの2人のやり取りが行われていた。
(そうだ! 理由だ!)
エミは今度は感嘆符を顔に浮かべて、右の拳で左手の平をポンと打った。ここまで表情や仕種だけでその感情の揺れを相手に伝えられる人物はそういない。
そんな感情の赴くままに行動しやすいいつものエミを見て、アダムはハッとした表情を浮かべた。
「ねえ、あのさ――」
「あぁ、そうか」
「――?」
目的を思い出して尋ねようとしたエミの声を、同じく何か思い出したかのような、どこか納得したかのようなアダムの声が遮る。
「あの奇妙な鼻歌はお前か」
「!」
アダムはかなり余計なことに気づいてしまっていた。
「道理でやけに馬鹿っぽくて能天気そうだと思った。聞いててちょっと笑えたぞ」
「――――!」
しかもかなり余計な感想も付け加えていた。
エミは耳に届いたその言葉に固まり、その顔は一瞬青ざめ、そして急速に赤みを増していく。深い底に沈んだはずの羞恥心が急激に空へと舞い上がるように、一気に表へと飛び出す。
「いやぁ、でもおかげで珍しいものが見れた」
「…………!」
余計なことには気づけたアダムは、エミの様子には全く気づけずに言葉を重ねる。
その顔は不機嫌なものから、ちょっと誇らしげに変わっていた。
「何の音か窓開けて外を確認した教官が、こっち振り向いたと思ったら見たことも無いほどに戸惑ってて、そしたら――」
「!!」
エミの体が、教官の戸惑ってる様子の挨拶を思い出して、無意識に反応する。
そして、
「その後に爆笑しだしたんだよ! あの鉄面皮の教官が! いやもう必死に笑いこらえようとしてたんだけど、全然こらえきれてなくて! 多分お前が初めてじゃないか? あの教官をあそこまで笑わせ――」
「ギャアアアアッ!!」
「――たゴハァッ!!」
知りたくはなかった真実を知らされた時、エミの乙女の恥じらいと怒りは、とても乙女とは思えない叫びと右ストレートを伴い爆発した。やっぱり、乙女とは言えない。
思いっきり舌を噛んだアダムの苦しげな息遣いと、エミの興奮冷めやらぬ荒い息遣い。そして、いつの間にか避難していたヨハンが、ちょっと意識の無いアダムを見下ろして「おー、いつも通りのいいパンチだ」とにやけた顔でつぶやく声だけが、静かにその場に響いていた。
エミ……ほとんどまともに喋らせられなかった……。