進撃の巨人 For the past five years   作:灰かぶり

7 / 15
幕間 ~下らない約束~

「ちゃんとパン残してる?」

 

 エミが夕飯を乗せたプレートを持ったままヨハンへ声をかける。いつもの席にアダムの姿は無い。

 

「ん、ほれ」

 

 プレートの隅に追いやられているパンを指差し、ヨハンはそのまま食事を続けた。会話を続ける気は無いらしい。まだ食べ始めたばかりらしく、スープに多く残されている肉をすくい口に運んでいる。

 同期の人間で溢れかえっている食堂。その人ごみの中を抜けてたどり着いたにしてはあまりにもそっけない。

 エミは少し苛立ったため息をついてヨハンの隣に腰を下ろす。無意識にいつも間に座っているアダムの分だけ、そのスペースを空けてしまっていた。

 

「アダムは今頃どこら辺にいるかな?」

「早くてもまだ中間地点過ぎた辺りじゃねーの?」

 

 ざわついている喧騒の中、ヨハンの肉を咀嚼しながらの言葉が届く。

 行儀が悪いと思ったが、話しかけたのは自分なので注意はしなかった。飲み込んでからしゃべれ、という言葉は心の中にとどめておく。

 せめて周りが不快になることだけでも分からせたくて眉をひそめヨハンを見ていたが、彼は全く気付かずに次の肉へとスプーンで狙いを定めていた。どうやら失敗のようだ。

 肉に夢中なヨハンへ無言の抗議は通じないと分かり、エミは諦めて自分も食べ始めることにして、視線を手元に置いた夕食へと移す。

 中々に豪華な食卓。いつもの薄いスープは肉で彩られており、薄いかゆも味付けが濃くされているのか何だかいい匂いがしてくる。野菜の量も普段の5割り増しなんじゃないかと思え、隣には塩漬けされた大きめの肉。

 チラッとヨハンの手元を見ると、もうすでにその塩漬けの肉は無かった。最初に肉だけ食い尽くすのはいかがなものだろうか。

 好きなものは最後に食べる派のエミ。ついそのヨハンの食べ方に物申したくなったが、かつての敗戦の記憶が蘇ってくる。美味しいものを味わう前に、苦い気持ちを味わってしまった。

 過去に一度そのことについて論戦を繰り広げたのだが、エミはヨハンからかなりの正論をくらい瞬殺。あの時は、そこまで言わなくてもいいじゃないか、と少し泣きそうになった。

 だから行儀に関しても、本当は怖くて注意できなかったのだ。本当に苦い記憶だ。

 誰もがその料理に舌鼓を打ち美味しそうな顔をしている中、まだ一口も食べてないのにとてもまずそうな顔をしているエミの手元へ魔の手が伸びてきた。

 

「あっ! 私のパン!」

 

 忍び寄ってきたその手に、端に寄せていたパンをさらわれ悲鳴をあげる。ヨハンだ。

 

「アダムにやるんだからオメーのじゃねーだろ? オレが渡しといてやるよ」

 

 ヒラヒラと目の前でパンを振られる。なんて人の神経を逆なでするのが上手いんだこの男は。

 

「いいよ、自分で渡す! だから返して!」

「消灯時間まで外で待ってるつもりか? あいつが帰ってきたら部屋で食わせてやるよ。どーせ腹減ってるだろうから」

「いいから返して! ちゃんと消灯時間まで待ってるから! そしたら、アダムが帰ってこれなかった時すぐに私がパン食べれるじゃない!」

「相手に食べさせたいのか自分が食べたいのか、よく分かんねー発言だなオイ」

 

 呆れたらしいヨハンがこちらをパンで指す。乙女心は複雑なのだ。

 

「いいでしょ別に、もしもの話よ。だからさっさと私のパンを――返せ!」

 

 奇襲をかけてパンへと手を伸ばす。が、ヒョイと避けられた。悔しい。

 食事中ぐらいその悪癖を大人しくさせられないのか。エミは怒り、再びパンをヒラヒラさせ始めたヨハンを睨み付けた。

 

「他のみんなの食事の邪魔になるでしょ! 黙ってお肉食べてろ!」

「そう思われてるのはそっちみてーだけどな」

 

 ヨハンは気軽に言って、今度はパンで右を指した。

 パンの動きにつられ視線を向けると、向かい側の席で食事中だった同期たちとバッチリ目が合った。苦笑いしながらエミをずっと見ていたらしい。

 その中の1人――確かアダムたちと同じ部屋だったはずだ――が代表して口を開く。

 

「あのさ、エミ」

「な、なに?」

「お前が一番邪魔」

 

 そんな馬鹿な。あまりの不当な判決にエミは目をむいた。

 

「だ、だってヨハンが――」

「それじゃ黙ってお肉でも食べようか、エミ? あと、オレも黙ってお肉食べてーとこだけど残念ながらもう無いんだよ」

 

 ヨハンは全然残念そうじゃなく首を振り、「だからオメーのもらうわ」と言ってこちらの肉へと再び手を伸ばしてくる。

 とっさに体で庇い、自らの肉を何とか死守。そして夕飯を抱え込むようにして守りながら、ヨハンへ威嚇するようにうなり声をあげた。

 

「ヴー……!」

「子供を守る母犬かオメーは」

 

 間髪入れずのつっこみ。しかし、エミはその体勢をくずさなかった。

 机に伏せた時の反動でスープが少しこぼれてしまったらしい。エミは肌に張り付いたシャツから濡れてしまったことを悟り、あせって周りを確認した。

 みんなのスープもこぼしてしまったかもしれない。そう思ったが、周りはすでに避難していた。というより、騒ぎ始めた時からエミと距離を置いていたようだった。少し傷つく距離感で。

 非常に納得いかない。最初にちょっかいをかけてきたのは彼のはずだ。

 エミは憤り、ヨハンへ向けていた威嚇を続行する。さっきより興奮していたので更なる獣の声が出てしまっていた。何となくいつものアダムの役割を請け負った気分だったので、中身は身代わりの羊になっていたが。

 こんなにもアダムに居て欲しいと思ったことは無いかもしれない。失ってから気付くと言うのは本当だったようだ。

 

「……えーっと、その、悪かったな。少しやりすぎたみてーだ。もう肉取ったりしねーから安心しろ」

「ヴゥゥッ!」

「……ハァ。ほれ、パンも返してやるから」

 

 ヨハンがこちらを手懐けるようにパンを差し出す。完全に獣扱いだ。

 本当に噛み付いてやろうかと思ったが、少し言いよどんでいた謝罪から特にからかってるわけではないと感じたのでそれは我慢し、素直にパンを受け取ることにした。

 

「……アダムじゃなくて、ヨハンがおつかい行っちゃえば良かったのに」

 

 しかし、文句を付けるのは忘れない。

 

「だから悪かったって。飯でも食って機嫌直せよ」

 

 ヨハンが頭を掻きながらため息をつく。その表情にはいつもの余裕さが無く、どこか調子が狂っているようだった。

 珍しく素直な謝罪と、何となく元気の無い様子。エミはさっきの自分と同じ気持ちを抱いているのかなと思い、少し嬉しくなった。

 アダムが居ないことに慣れてない。ここに来る前は赤の他人だったのに、一緒に居る時間が長すぎたのだろうか、それとも濃すぎたのだろうか。

 ヨハンとの間にある1人分の空間を見つめて少し寂しくなったが、ヨハンも同じだと感じてエミは不思議と嬉しくなり、小さな笑いをこぼした。

 今頃、馬を走らせているアダムも同じような気持ちを抱いているだろうか。そんなことを考えていると、もう笑顔をこらえきれなくなっていた。

 避難していた同期たちもエミの笑顔を見て、安心した様子でそれぞれの食事に戻った。

 

「……そんなにパン取り返せたことが嬉しいのか?」

 

 1人だけエミの笑顔に納得できなかったのか、食事へ戻らずにヨハンが尋ねてくる。

 いつも他人の心を見透かしているかのような言葉を使う彼が、どこか見当違いな言葉を使うのが面白くて、エミはますます笑ってしまった。やはり調子があまり出ないらしい。

 

「ま、そんなとこかな」

 

 エミは笑ってごまかすことにした。真実として言葉にするのが、何となくもったいない気がしたから。

 

「怒ったり笑ったり、忙しいなホント」

「どうかしたヨハン? いつもの毒舌にキレが無いけど」

「ただ呆れてるだけだからほっとけ」

 

 不機嫌そうに言うヨハン。それは、初めて見るけどとても見慣れたもの。

 

「――フフッ。今の少しアダムに似てたよ」

 

 エミはここぞとばかりにからかう。こんな機会めったに無い。

 ヨハンが動きを止め、表情に驚きを浮かべている。そして、参ったとでも言うようなため息をついた。

 

「そいつは心外だな」

 

 自嘲するようにヨハンがつぶやく。

 口で対抗するのを諦めたのだろう、彼は静かに食事へ戻った。

 初勝利だ。まさか口でヨハンに勝つ日が来るとは。エミは少し感動したが、その想いを共有できる相手が居ないことに気付いてまた少し寂しくなった。

 何となく、アダムの顔が見たくなってきた。

 たかが一日居ないだけでこんな柄でも無い感傷に浸る自分が恥ずかしくなり、エミは気を取り直して食事を始めることにした。

 勢いで食べてしまわないように、アダムへ送るパンを大事に端へ寄せる。そして、最初にスープへと狙いを定めたエミがスプーンを手に取った時、ヨハンが何かに気付いたような声をあげた。

 

「そういえばよ、エミ」

 

 一体いつになったら食べられるのか。豪華な夕飯にしばらく手を付けられないまま、さらなる「待て」の声がかけられ、エミは不満そうにヨハンへ顔を向けた。

 

「何よ。いい加減冷めちゃいそうなんだけど、私の夕飯」

「それは知らねーけど、アダムのパンはどうした? 取ってきてねーのか?」

「え?」

 

 何を言ってるのだろう。ここにあるではないか。

 エミは不思議に思いながら、ヨハンから反対側の端へと寄せたパンを手に取って彼へ見せた。

 

「それじゃなくて、元々のアダムの分も取っといてやるって今朝言ってたじゃねーか。もらってきてねーのか、アイツの分のパン」

「あ、」

 

 完全に忘れていた。

 ヨハンの手元を見てもパンは1つしか無い。どうやらエミが取ってくるものと思っていたようだ。確かに、言い出したのは自分なのだからそれは当たり前だろう。

 エミは少しあせって席を立った。

 

「ちょっともらってくる」

「急げよー。配り終わったら余りもんとして、誰かに取られるぞ」

「分かってるよ」

 

 そう言い捨てて、エミは配膳場所へ向かった。

 席を探している多くの同期たちが道を阻んでいて、ぶつからないように間を縫って歩く。少し早足で急いでいたが、この様子だとまだ配り終わっては無いようだ。

 今朝あれだけ自信満々に言っておいて、忘れてましたなんて言い訳したらまたアダムの機嫌を損ねてしまうところだった。

 エミはホッとしながら、こちらに向かってくる人の波をかき分けていく。

 ぶつかりそうになりながらも何とか配膳場所にたどり着いたエミは、パンを受け取ろうとしている同期に謝りながら割り込んで、配っている女の子に声をかけた。

 

「ごめん、パンもらうの忘れてて。1つもらえる?」

「あれ、どうしたのエミ? さっきちゃんと渡したじゃない」

 

 彼女は不思議そうに尋ねてくる。

 顔見知りだったので受け取った時に声をかけていたから、配った時のことを覚えていたらしい。

 

「いや、私のじゃなくてアダムの分。今日ちょっと用事で居ないんだ」

「あ、やっぱりそうなんだ。ヨハンがアダムと一緒にいなかったから、珍しいなーって思ってたんだよね」

 

 納得した顔をしてパンを差し出してくる彼女に、エミは「ありがとう」とお礼を言いながらパンを受け取った。

 

「優しいねエミは。こんな彼女がいてアダムも幸せ者よね」

「違う!」

 

 立ち去ろうとしたエミはまた振り返り、食い入るように彼女へ迫る。

 パンを受け取ろうとしていた同期にぶつかって、迷惑そうにエミを見ていたが全く気付いていなかった。

 

「あ、じゃあやっぱりヨハンなの?」

「それも違う!」

 

 なんて恐ろしいことを言うんだ。

 エミは何食わぬ顔をしてパンを配り始めていた彼女へと詰め寄る。周りからはかなり邪魔になっていた。

 

「それならアダム狙いってことか。確かに、結構カッコいいもんねー。でも私としてはヨハンも捨てがたいと思うけど。見た目は小さくて可愛いけど成績良いから将来有望そうだし」

「全部違う! 別に狙ってない!」

「え、じゃあ何でアダムのパン取っといてあげるの?」

 

 こっちが聞きたい。どうしてそうなるんだ。

 

「色々あるの! じゃあね!」

 

 事情を話すのが面倒になり、エミは席に戻ることにしてその場を離れた。そもそもこの手のタイプには何を言っても無駄なのだ。

 こういったことは周りの女の子からよく聞かれるが、エミとしてはその気が無いのに勝手に盛り上がられるので苦手だった。たまにこんな風に決め付けてくる子もいる始末。

 中にはこちらに嫉妬してきたりする子もいて非常に迷惑だ。エミとしては、まだあまりそういったことに興味を持てないというのもあったが、それでもあの2人のどこが良いのか全く理解できなかった。

 片方は怒りっぽくて少しおバカ。片方は性格の悪いひねくれ者。

 エミがいくらそのように弁明しても女の子たちは聞く耳を持ってくれないのだ。女の子の集団ってちょっと怖い、とエミは思ってたりする。

 

(でも、何だこれ)

 

 エミは頬に手を当てて、顔が熱くなってるのを感じた。

 いつもなら軽くかわす誤解も、何だか激しく動揺してしまった。心臓も早鐘を打っていてかなりうるさく、体全体に響いているようだった。

 今朝のアダムの微笑を、彼女の言葉を聞いた時に一瞬思い浮かべてしまったからだろうか。

 

(もしかして、これが恋ってやつ――)

 

 じゃない。それはない。絶対にありえない。

 エミは自分の考えをどこか遠くへ飛ばすため、頭をおもいっきり振った。いきなり通路の真ん中で立ち止まり、おかしなことをしだした彼女から周りは一歩引いていたので、そこだけ変な空間が出来上がっていた。

 周囲の視線に気付き、恥ずかしさも重なりますます顔が赤くなってしまったエミは、そそくさと逃げるように自分の席へ向かう。

 とりあえず考えるのはやめよう。愛だの恋だのは、まだ自分には早すぎるし、何よりも苦手だ。

 そう結論付けて、エミは何度も頷きながら歩く。大体そんな訳無いだろと自分に弁明しながら、無意識にアダムのパンを両手で抱え込んでいた。潰れないように、大切なもののように。

 そして、彼が帰ってきたら少し優しくしてやろうかなとエミが考え始めた時、食堂のドアが開いた。

 

 

 バンッ!

 

 

 ドアが壊れてしまいそうなほどの勢い。あまりの音にその場の全員が反応して、一斉にそちらを向く。

 そして飛び込んできた教官を誰もが驚いて見つめた。鉄面皮と呼ばれる教官の顔色が、見たことも無いほどに真っ青だったから。

 そしてその表情が、怒ってるわけじゃないのに、あまりにも怖かったから。

 驚きと恐怖で、エミもその場に立ち竦んでしまった。

 

「ど、どうかしましたか教官?」

 

 ドアの近くの席で食事をしていた同期の男の子が、座ったまま教官へと問いかける。あまりの雰囲気に気圧されたのか、かなり恐る恐るといった様子で。

 そして異質な静寂から、不審な喧騒へとその場は変わっていく。誰もが教官のその様子に不気味さを感じていた。

 辺りがざわつき始めた中、一歩も動かずにただ息を切らしていた教官が突然大声をあげた。

 

「総員、直ちに戦闘準備!」

 

 教官の口は震えていて、乱れた言葉が響く。命令しているはずなのに、怯えているような声だった。

 

「今すぐ装備を整えて外に並べ! 急げ!」

 

 一体何を言ってるんだ。エミは混乱して体を動かせなかった。

 周囲もいつの間にか静まっていて、誰もすぐに動けなかったようだ。響き渡った教官の悲鳴のような声だけが、その場でこだましている。

 

「あの、教官……」

 

 先ほど質問した彼がまた恐る恐る教官へ呼びかけるが、教官は返事せず、彼へと血走った目を向けた。

 

「えっと……こんな時間から、一体何の訓練を――」

「訓練ではない!」

「ヒッ!」

 

 教官が質問していた男の子の胸倉を掴み、そのまま投げつけた。そしてゆっくりとこちらへ振り返る。

 

「もう一度言う! これは訓練ではない!」

 

 苛立っているような叫び声で繰り返す。ただ、その感情はこちらに向けられているようには感じなかった。

 教官の目はどこも見ておらず、小刻みに揺れていた。

 

「……教官」

 

 また動かなくなり体もかすかに震え始めた教官へ、静かに呼びかける男の声。

 彼は――

 

(――ヨハン?)

 

 教官の行動と言動に混乱して、誰も動けないまま再びざわつき始めたその中で、ヨハンがやけにゆっくりと立ち上がった。

 

「一体何が――――いや。現在の状況を、正確にご説明して頂けませんか?」

 

 エミには分からなかった。彼が何を言っているのか。

 ただ誰もがうろたえている中、彼の言葉と態度だけがあまりにも冷静だったので、そんな彼を見て皆も落ち着いたのだろう。誰もが固唾を呑んで教官の次の言葉を待った。

 しかしエミはヨハンから目が離せなかった。彼の顔色が教官よりも真っ青で、この中の誰よりも焦っているように見えたから。

 教官はいきなり冷や水を浴びせられたようにその狂った雰囲気を収め、今度ははっきりとその表情に怯えを見せて沈黙した。

 

「教官、このままではみんな混乱したまま動けません。差し出がましいようですが、命令を速やかに実行へ移すため、今は事態を把握させることが最優先かと思われます」

 

 ヨハンがさらに言葉を重ねるが、教官は震えながら床を見つめるだけだった。

 

「教官、ご説明を。でなければ、命令の目的だけでもお聞かせ下さい。我々は一体、どこで、何と、戦えというのですか?」

「…………」

「…………ッ! さっさと――」

「! だめっ、ヨハン!」

 

 いきなり態度を豹変させ教官に飛び掛ろうとするヨハン。彼を見ていたエミは反射的に駆け寄り、その服を掴んだ。

 すぐにでも振り切られそうだったが、ヨハンはハッとした表情を浮かべてこちらを見て、そして大きな舌打ちをして下を向き、その激情を収めてくれた。

 良かった。エミはホッとして、彼の顔を覗き込んだ。

 そして、人を小ばかにする笑みがよく似合う彼の顔が、大きく歪んでいるのを見た。焦っているような、苛立っているような、そして怯えているような、そんな顔。

 

「……どうしたのヨハン?」

「大丈夫だエミ。大丈夫、きっと大丈夫だ」

 

 ヨハンはまるで自分に言い聞かせるように繰り返す。

 何も分からない。彼の言葉も、教官の言葉も。そして、どうしてそんな顔をしているのかも、エミには分からなかった。

 

「ヨハン……」

 

 ただ、心臓が凍ってしまったような寒気に耐えられず、ヨハンの服をギュッと強く掴む。もう片方の手は、アダムに渡すと約束したパンを、心細さをごまかすように抱え込む。

 そして、虚ろな声が聞こえた。

 

「巨人が、来る……」

 

 誰もがその場の状況に付いて行けず、妙な静けさが保たれている空間で、その言葉はよく響いた。

 けれど、頭には入らなかった。

 

「壁が……破られた」

 

 それが教官の声だということしか分からなかった。

 

「巨人が、壁を越えて……我々を喰らうために、ここへ来る!」

 

 

 ガシャンッ!

 

 

 後ろに立っていた同期がプレートごと床へ落とし、まだ手付かずの夕飯を床へぶちまけた。

 エミは近くで起きたその事態も、音も、どこか遠く感じた。

 思考が、景色が、世界が歪む。床に足がついているのか、一体今どこにいるのか。

 エミはただ、自分を失った。

 

(なに、を……)

 

 何を言ったんだ、今。かすかに取り戻した意識は、その言葉で埋め尽くされる。

 そんなこと、あるわけない。心の奥底から湧き上がる恐怖にふたをするように、感情が必死に否定をする。

 意識の混乱は拡がっていき、その感情はすで恐怖に染まっていて、何もかもが黒く溶け合っていった。

 エミの意思を、絶望がゆっくりと支配していく。

 

「今言ったとおりだ! 各自速やかに装備を整えろ!」

 

 恐怖を吐き出していくらか冷静を取り戻したのか、教官が再び命令を下す。

 それでも誰も動けなかった。理解できなくて。また、理解できたからこそ。

 

「で、でも教官! そんなことしてるうちに巨人が来たら……」

「そうですよ! 早く、どこかへ逃げましょう! じゃないとみんな――」

 

 言葉を紡いだ少年の、唾を飲み込む音が聞こえた。

 

「――巨人に、喰われちまう!」

 

 その言葉を皮切りに、全員がまるで蜂の巣をつついたように騒ぎ始めた。

 中には走って逃げ出そうとする者もいて、もみ合いになり、怒号が飛び交う。食器が割れて、まだ残っていた食事も床に打ち捨てられ、それにつまずき滑る人間がまた誰かを巻き込んでいく。

 誰もが、自身の恐怖から逃れようとしていた。

 

「み、みんな! おちつ――ッ!」

「エミ!」

 

 エミは誰かに突き飛ばされた。

 すぐに駆け寄ってきてくれたヨハンに「大丈夫」と言って立ち上がろうとするが、床に打ち付けてしまった腰に痛みを感じて顔をしかめる。

 

「イタタタ……」

「どっか痛めたのか? ほら、掴まれ」

 

 ヨハンが手を差し伸べてくる。

 エミは感謝しながらそれに掴まろうとしたが、そこで手に何も持ってないことに気付いた。

 

(あれ、アダムのパンが――)

 

 ない、とエミが周りに目を向けようとした時、教官の大声が響き渡った。

 

「全員、静まれ!」

 

 手を後ろで組み、足を大きく広げた教官が威圧感を放ちながら、自分へと注目を集めた。

 おかげでその場は収まったが、それでもまだ混乱の尾を引いていたのか、数人の訓練兵が教官へと食って掛かる。

 

「こんな時にのんびりしてられませんよ、教官!」

「そうですよ! さっさと逃げ――」

「敵前逃亡する者は、この場で処刑だ!」

 

 教官の憎悪に満ちた眼差しが、その場にいる全員を射抜く。

 息がつまり、呼吸ができなかった。

 

「巨人はウォールマリアを突破して、いつウォールローゼへたどり着いてもおかしくない状況にある! 我々は速やかにトロスト区の駐屯兵団と合流し、ウォールローゼ防衛と先遣隊の支援、または避難民誘導の任に着く! これ以上質問のある奴はいるか!?」

 

 余計なことを喋れば殺してやる。そんな目つきで教官が全員を見渡した。

 その狂人のような瞳に睨まれ、誰もが返事すらできないまま固まってしまった。しかし、同時にかすかな安心感も広がっていった。

 ウォールローゼが越えられたわけじゃない。なら、今すぐここへ来ることは無い。

 誰もがそう思ったのだろう、そんな安堵のため息をつく音もチラホラ聞こえてきた。絶望の中ですがりつくものを見つけ、冷静さを取り戻した全員が黙って教官の号令を待った。

 エミも少しだけ安心していた。たとえそれが何の希望にもなってない、ただのわが身可愛さからくるものだとしても。

 しかし、ヨハンの手を取って立ち上がった時、僅かなそれもすべて消えた。

 彼の顔が先ほどよりも青白くなっていて、絶望に染まっていたから。

 

「誰もいないようだな。それでは準備が完了次第、各班に分かれ外で待機しろ! 遅れた奴は真っ先に巨人のエサになってもらうぞ! 逃げ出そうとした奴も捕まえて巨人のエサにしてやるから覚悟しておけ!」

『ハッ!』

 

 教官の狂ったような檄にその場の全員が敬礼を返す。左の拳を腰へ、右の拳を心臓へ、心臓を捧げることを示す敬礼を。誰も、そんな覚悟を持てないまま。

 エミも慌てて敬礼を返す。そしてすぐに散っていく周囲に合わせて自分も走り出そうとした時、隣のヨハンがボーっと突っ立ったままでいることに気付いて足を止めた。

 

「――――ヨハン?」

 

 敬礼もしなかったらしいヨハンは、虚ろな目をしてそのまま夢遊病者のように教官の方へと歩き出した。

 

「ちょっと、どうしたの? 早く準備しなきゃ」

 

 追いついて声をかけたが、反応が無い。

 一体どうしてしまったのだろう。先ほどから様子がおかしい。

 エミはただでさえこんな状況なのに、頼りになる彼がまるで人形のようになってしまい心細くて泣きそうになってしまった。

 こんな時に、アダムがいてくれたら――

 

(――アダム?)

 

 手に持ってた、彼に渡すはずのものがない。

 彼が、どこにも居ない。

 そのことに改めて気付いて、エミの背筋に悪寒が走った。

 肌が粟立つ。動悸がうるさい。呼吸が乱れる。

 巨人も、人類も、世界も命も何もかも、頭の中から消えた。

 

(アダムは、今、どこに――今日、どこへ行った?)

 

――そんなわけない。きっと大丈夫だ。

 

 エミの心は答えを拒んだ。

 

「教官……! 1つよろしいでしょうか……!」

 

 気が付くと、絞り上げた声を出してヨハンが教官へ迫っていた。

 無意識のまま付き添っていたようだ。エミはヨハンの隣に居て、彼の顔を見た。

 さっきと違い何かを堪えている。

 きっと、何かの間違いだ。

 

「ヴォルフ! もう質問は受け付けんぞ! 貴様もさっさと装備を――」

「壁は!」

 

 ヨハンが大声で遮り、教官が一歩後ろへたじろいだ。

 

「壁は……どこが、破壊され……巨人はどこから、侵入してきたのですか?」

 

 勢いを失くしてヨハンは俯く。まるで、答えを聞くことを恐れるように。

 

「そんなものは後に――」

「いいから答えろ!」

 

 顔を上げ、鬼気迫る表情で教官の胸倉を掴む。

 ヨハンの態度に激昂しかけた教官は、苦しそうなうめき声を上げながらもヨハンを鋭く睨んだが、何か言おうと口を開こうとした時にその動きを止めた。

 おそらく理由に気付いたんだろう。当たり前だ、アダムを行かせた張本人なのだから。

 そして、その答えの意味を知っている教官からの言葉を、エミは信じることにした。きっと大丈夫なはずだと。

 

「巨人は、……」

 

 言葉が、途切れる。

 教官の顔から、目を背けた。

 

「……シガンシナの門を破壊し、そのまま内門も破壊したそうだ」

 

 大丈夫。きっと大丈夫だ。

 頭の中で唱えて、言葉を拒む。

 

「じゃあ、シガンシナ区は……」

「もう手遅れだ。シガンシナ区だけじゃない、ウォールマリア領域全体がだ」

「クソっ! ――――エミ!」

 

 膝の力が抜ける。床が近い。

 誰かの手が肩に置かれた気がした。

 

「――教官! ですが、アイツは無事ですよね!? そう、伝令! 伝令の早馬はアイツだったんじゃ――」

「残念だが、アダムではなかった。伝令よりも遅いということは、何かあったか、もしくは兵士としての責務を果たしているのだろう」

「……兵士としての、責務?」

 

 その声は泣いているようだった。

 もう聞きたくない。エミは耳を塞ぎたかったが、その両手は体を支えるのに必死だった。

 

「そうだ。まだ訓練兵とはいえ、奴も心臓を捧げた兵士であることには違いない。それに時間的にも、おそらく最前線にいただろう。兵士が民間人と共に避難することは許されない。敵前逃亡は処刑だ」

「そ、んな……」

 

 心臓を、捧げる。

 違う。アダムの心臓はアダムのものだ。

 

――だけどそれは、私のわがままなんだろうか。 

 

「で、でもよ……もしかしたら早めに着いて、早めにシガンシナから離れてたかもしんねーよな。そんで、もうすぐ帰ってくる頃――」

「貴様なら分かるだろ、ヴォルフ。奴の馬では、トロスト区までたどり着くのもまだ時間がかかり、巨人から逃げ切る速度などだせん。それにもしそうだった場合、最短行路で来た伝令と出会ってるはずだ。彼からはそんなこと一言も――」

 

 

 バキッ!

 

 

 視界の端にヨハンの拳が映る。床板を割るほどの力を込めた拳。

 少しだけ、血が流れ出していた。

 

「もう、黙れ……」

「……! 貴様、上官に向かってなんて態度を――」

「元はといえばテメーが――――!」

 

 ヨハンは最後まで言い切れなかった。ただ悔しげに、泣くのをこらえるように顔を歪めた。

 

「……フンッ、まあいい。非常事態だ、懲罰は無しにしてやる。……貴様らも兵士としての責務を果たせ。そして、せいぜい奴が無事であることを祈ってろ」

 

 そう言って、教官は足早に去っていった。

 もう食堂には誰も残っておらず、ヨハンと2人きり。彼は俯いたまま動かず、その握り締めた拳から血を流している。

 お互いに何も喋れず、さっきの喧騒が嘘だったかのような静けさだった。

 何もかも、嘘だったなら。せめて、アダムがここに居ないことだけでも嘘にしてくれたら。

 エミはそう願い、教官に言われたとおり、アダムの無事をただ祈った。彼の微笑みを秘めた胸の前で手を組んで。

 大事に抱えていたはずのものを失い、空いてしまったその両手を組んで。

 

「アダム……!」

 

 手から零れ落ちてしまった彼との約束は、知らない誰かに踏み潰されていて、もう果たせそうになかった。

 

 

 

 




お読みいただきありがとうございました。とりあえず一区切りの折り返し地点。次回からは原作の舞台からお送りいたします。グダグダになりながらも、やっとここまできたぜ……。

少しでも楽しみにしてくれてる方が1人でもいると信じ、地道にがんばって行きます。居なくても、何とか、頑張っていけたら、いいな……。
「もう少し上手く書けたら読んでやってもいいぜ」「お前これは駄目だろ」という方がいらっしゃいましたら、ご指摘の方お待ちしております。

幕間の使い方はこれであってるんだろうか……!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。