進撃の巨人 For the past five years 作:灰かぶり
街に鐘が鳴り響く。
澄んだ空気に混ざるその澄んだ音に、不純なものは排除される。
綺麗だからこそ、おぞましい、誰かのためには鳴らぬ鐘。
心に悲しみを響かせ運んでくるものは、いつまでも鳴り止まない記憶。
――――母はいつも微笑んでいた。
父はおらず、ほとんど誰も訪ねて来ない暮らし。人里離れた山奥の集落、そのまた外れで母と2人、野菜を育てて生活することは何よりの幸せだった。
自分の知る世界は小さかったけれど、いつだって母が側に居てくれたから。
母はいつも眠る前に本を読んでくれた。あまり数はなかったので、何度も同じ話を聞かされていた気がする。
今にして思えば、あれは母が貴族の実家を飛び出す時に持ち出した本だったのだろう。とても高価な外見をしていたし、外に出た今でもあのような本はあまりお目にかかったことはない。
その中に1つだけ、どうしても好きになれない物語があった。それは母が子供の頃から何度も読み返して、本を見ずとも語れるようになったという物語。自分の名前、「シャルロッテ」の由来になった物語。
内容は覚えていない。一度聞いただけで、あまりにも悲しくなってしまったことだけは覚えている。
『私もあまり好きになれないから、仕方ないわよね』
それを読むのはやめてくれと頼んだ息子に、母は少し困った顔をしながら微笑んだ。
不思議に思った。好きだからこそ、そんなに本が擦り切れてしまうほどに読み返したのではないかと。
そう尋ねたら、母はその微笑を深くした。
『この本は、大切なことを私に教えてくれたの。だからこそあの人を愛することを選べて、あなたに出会えた』
頭を撫でてくれるか細い手。優しく舞い降りたその手は宝物を扱うようで、凍えそうな夜を温めてくれた。
『シャル。あなたは私の愛しいシャルロッテ』
そう言いながら微笑む母の顔。その言葉の意味はよく分からなかった。
だけど、喜ぶ時も、怒る時も、哀しむ時も、楽しむ時も、そして亡くしてしまった父を想う時も、いつも微笑んでいた母の顔の中で、そう言って微笑みかけてくれる顔が1番好きだった。
その愛しそうに見つめてくれる眼差しが。愛しいもののように、その名にそっと触れてくれる声が。
そして、母は死んだ。あまりにもあっけなく。
元々体が弱かった上に、長く貴族の生活をしていたから父の田舎で暮らすことは肌に合わなかったのだろう。父の弟である叔父はそう言い、それでもお前を見守るために懸命に生きたのだと慰めてくれた。
母の亡骸の前で、何の慰めにもなりはしなかった。
ただ、今でも叔父には感謝はしている。自分も知らなかったその集落の墓地へ、父の眠る場所へと母を連れて行ってくれたから。
せめて、安らかに。父と一緒に、いつまでも。両親の墓の前で、自分のために願う祈りを捧げる。
その時に届いた誰かの言葉が、決して消えない想いを刻んだ。
『やっと死んでくれたか』
それはあまりにも軽く耳に届き、あまりにも重く心へのしかかった。
顔も覚えていない父は調査兵団の兵士だった。自分が物心着く前に壁外で死んでしまったらしく、そのことだけは母から聞かされていた。
調査兵団。憲兵団と駐屯兵団に並ぶ第3の兵団でありながら、その任務を壁外の地へと求める兵士たちの集団。
巨人の生態と外界の調査を行い、王政府の支配領域拡大の政策の任を背負いながらも、100年間これといった成果も挙げられず死んでいき、税金の無駄だと人々に忌み嫌われる集団。
壁に囲まれた世界が禁じた、外の世界を求める異端者たち。
『お前の父親は、災いを呼ぶ異端者だ』
何も知らなかった。
調査兵団の兵士として死んだ父が、自らの故郷の人たちに「異端者」として蔑まれていたことを。そして母と自分が、「異端者」に関わったものとして忌み嫌われていたことを。
その集落は余所者を全く受け付けない排他的な人々の集まりだった。母が死に、その人々と関わらなければ生きていけなくなって初めてそのことを知った。
どこも行く当てのない母が、自分をずっと守ってくれていたことを知った。
初めて触れ合う人々は、容赦ない侮蔑の言葉を投げつけてくる。それがとても怖くて、ただただ憎かった。次第に、母の愛さえも悲しく感じてしまうほどに。
どうして、守らせてくれなかったのだろうと。
その中でも生きていけたのは、父と母に託されたのだと言って自分を世話してくれた叔父のおかげだった。当時は彼さえも遠ざけてしまっていたが、今ではそう思える。
彼が居なければ、誰かを殺そうとし、誰かに殺されていたかもしれない。
初めて知る広い世界は凍えそうなほど寒くて、母が居てくれた温かい小さな世界へ帰りたかった。
そしてその後、結局その父の故郷から出ることになった。
叔父はかばってくれたが、やはり不吉なものとして迫害されながら子供が1人生きていくには厳しい環境だったから。むしろ追いやられたという形に近かったが。
両親を侮辱した人間たちは憎かったが、やはり故郷を離れるのは辛かった。父と母の眠る地、母との想い出が詰まった場所にもう帰れないと思うと涙が出てきた。
行く当てもなく1人で生きていかなければならなくなり、たどり着いたのは兵士となる道だった。
知識も技術もなく、まともに世間で生きていけそうにない子供でも衣食住を保障してくれる訓練兵の募集はありがたく、ちょうど募集年齢に達していたこともあり、そうして自分は生きていくためだけに兵士となることを選んだ。
ただ、本当は知りたかったのかもしれない。
父は何故、「異端者」になったのか。何故、自分たちを捨てて巨人と戦うことを選んだのか。本当に、自分たちを捨ててしまったのか。
顔も覚えていない父。それでもたった一つだけ覚えていた記憶。
自分に向かって敬礼を、心臓を捧げることを誓う父の姿。目に焼きついて離れないその姿が、父を憎ませてはくれず、ただ理由を求めさせていた。
――――でもやっぱり、母と交わした最後の約束を、破る気にはなれない。
「アダムさん、どうかしましたか?」
複雑な想いを伴う記憶。それを運んできた鐘の音を見つめるように空へ向けていた視界を、アダムは動きを止めていた小さな金色の頭へ落とした。
地上へ落ちた現実には、こちらを振り返っているアルミンが居た。
「なんでもないさ。ちょっと珍しかったからな」
少しぼかしたその答えにアルミンはキョトンとした表情を浮かべる。
「珍しいって……ああ、鐘の音のことですか」
納得したという口調で、アルミンは先ほどのアダムと同じ方向の空を見上げた。
見つめているものは違ったかもしれない。
「確かに、行政区以外の土地に住んでいると聞く機会はないですよね。というよりシガンシナ区だけですかね、この鐘の音は」
アルミンはそう言い、「名物とは言えないですけど」と少し悲しげな顔をしてつぶやいた。
(確かに、な……)
開門を告げる鐘の音。シガンシナではそれは、少しの時を巨人領域と繋げるということを意味している。そして同時に、壁外を任務の地としている調査兵団がその境界線を越えることも意味していた。
南からやってくるといわれている巨人。その謎を解明するべく、調査兵団の壁外調査はいつもここ、壁内世界の最南端であるシガンシナを出発地としている。彼らの帰還先も、危険回避のためや何らかの事情がない限りほぼシガンシナとなっている。
つまり、外の世界と繋がる門はここだけ。内地の門が開く時はそもそも危険がないから、鐘が鳴ることは無い。
シガンシナだけに響き渡る、異端者たちを死地へと送り、巨人に殺された死者たちを迎える鐘の音。名物と言うには悲し過ぎるものがあるかもしれない。
けれど、父の魂もこの鐘に迎えられたのだろう。そう思うと不吉な鐘の音も少しはマシに聞こえる気がして、アダムはもう一度澄んだ青空を見上げた。
苛立ちと気持ち悪さは、やはり消えてはくれなかった。
「……気になるなら調査兵団を見に行きますか? 少し前に壁外調査に出ていたから、多分帰還しているところですよ」
「いや、やめとく。見ても気分の良いもんじゃないだろ」
「――そうですね」
空を見上げたまま返した答えに、アルミンは問いた気な間を空けて了承の言葉を返す。
変な気を使わせてしまったらしい。わざわざ案内役を買って出てくれた彼に面倒をかけて申し訳なく思うと同時に、詳しく聞かないでくれるその聡明さにアダムは感謝した。
「じゃあ行くか。悪いな、急に立ち止まったりして」
「いえ、気にしないで下さい。別に急いでるわけじゃないし……ってアダムさんは急いでるんでしたね、すみません」
「そこで謝るなよ、さらに申し訳なくなるだろ。急いでる本人が道草してちゃ駄目だよな」
「道草?」
なんのことだ、と問いかけてくるアルミンの目には応えず、「なんでもない」とアダムは言い捨てて前へ向かって歩き出した。
(道草かぁ)
咄嗟に出た言葉だが言い得て妙だ。
心の奥に根付いている記憶。本当に久しぶりにぐちゃぐちゃな感情を持ってやってきたそれは、アダムにとって寄りつきたく無い場所といえた。
そんな場所に自分を容易に連れていってしまうこの土地を少しだけ逆恨みして、アダムは顔をしかめた。
この上調査兵団まで見てしまったら、ちゃんと帰れなくなりそうで怖い。
(……帰る?)
不意に過ぎった違和感がアダムの足を止める。
どこに。
そう思うと同時に、ポケットに突っ込んでいた手の中の感触が意識にざわついて、手を出してみた。
そこにあったのは、自分の血で汚れていた、しわくちゃなエミのハンカチ。
(そういえば)
今朝の自分の言葉を思い出す。「行ってきます」、確かにそう言っていたことを。
初めて使う言葉だったけど、おかしいところは無かっただろうか。そんなことを思ってしまった自分が恥ずかしくなり、アダムは小さく舌打ちをしてハンカチをしまった。
そして、過去を悲しむ暇さえ与えてくれない、馬鹿な約束と共に待っている2人を思い浮かべると、「帰りたい」という言葉がふと頭の中に出てきた。
帰りたいのか。こちらの精神と肉体をガリガリ削ってくる2人の元へ。
アダムはもう一度自分に問いただし、被虐趣味に目覚めてしまったのではないかと自分自身が不安になった。
街に響き渡る鐘の音は、もう鳴り止んでいた。
壁の中の世界は中心に行けば行くほど高くなっている。
行ったことは無いけれど、ウォールシーナ内の土地は標高が高く、その広大な地下には水と鉱物資源と天然ガスなどの資源が豊富に含まれているほどだ。
その中央の高みから、壁の中の世界は緩やかな下り坂となり広がっている。とは言うものの、壁内の土地は広く、馬で走ろうが歩こうが斜面と感じ取れるほどの急勾配にはなっていない。
しかもシガンシナ区は、壁の中の人類領域内でも端っこ。ウォールシーナ内ならいざ知らず、ここまで来れば土地の標高に変化などほぼ無いはずだった。
(なのにどうして、こんなに坂道が多いんだ畜生!)
調査兵団が通るという大通りを避け、案内してくれることになったアルミンが知っているという医者の家までの秘密の近道。秘密というだけあって、中々に誰も利用しないほどの坂道続きだ。その途中でアダムは膝に手をつき、中腰の姿勢のまま心の中で悪態をついた。急勾配な上り坂に息切れがやまない。
訓練で鍛えているはずだが、朝から馬に乗って全力で駆けていたため、そろそろ体力の限界だった。
「アダムさん、大丈夫ですか?」
前を歩いていたアルミンがこちらを振り返り、気遣わしげな視線を投げ掛けてくる。
知り合って間もないのに何度も見てる気がする表情。アダムはちょっと自分を情けなく感じた。
「大丈夫だ。まだ、俺はやれる……!」
「そんなに必死にならなくてもいいと思うんですけど」
小さい体でまだまだ平気そうなアルミンを見て悔しくなり、妙な対抗意識が芽生えたアダムは強がってしまったが、「僕も少し疲れたんで休憩しませんか?」というアルミンに感謝して、側にあった階段のようになっている地面へ腰を下ろした。
年上の威厳はゼロだった。
「俺の都合で、ハァ……。付き合わせてしまってるアルミンが、疲れたって言うんだから、ハァ……。休憩するべきだよな、うん、仕方ない、ハァ……。ちょっと、休もう」
息を切らしながらの説明口調に説得力は無かったが、アルミンは頷いてアダムの隣に腰を下ろした。その様子はピンピンしていて、汗すらかいてない。
地元の子には勝てない。アダムは素直に負けを認めることにした。
「フゥ……すげーなアルミンは。よくこんな坂、平気な顔して上れるよな」
「え? いやそんな、ただ慣れてるだけですよ。いつもこの道を通ってエレンの家に遊びに行ってますから」
アルミンは慌てて手を振って否定し、言い訳のようなものを付け足した。
褒められることに慣れてないのだろうか。
「いやでも、これだけの坂道いつも上ってたら体力つくだろ」
何とはなしに言った言葉。世間話のつもりだったが、アルミンはその雰囲気を暗くして大きくうなだれた。
「そんなことないです。僕はいつも……エレンやミカサに助けてもらってばかりだし」
先ほどよりも小さな声でつぶやいた名前には、どこか引け目のようなものを感じさせる。
エレンとミカサ。アルミンの親友の名前。
例の医者の自宅の道をアルミンに尋ねた時に出てきた名前ということにアダムは思い当たった。
「その、エレンとミカサだっけ? 確か医者の息子だったよな。……ん? どっちが息子なんだっけ?」
アダムは後ろに手をついて首を傾げる。大分呼吸が整ってきた。
「エレンがそうです。ミカサは、その……娘さんのほうです」
少し言いよどんだ答え。
事情は詳しく聞いてないし聞く気もないが、まあ色々あるんだろうなとアダムは納得することにした。
「じゃあアルミンは本当に仲が良いんだな、そいつらと。いつも助けてくれる奴なんて中々いないもんな」
アダムは思いっきり足の筋を伸ばしながら言う。自然と言葉も間延びしていた。
自分にはイジメてくる奴らにしか心当たりがない、というのは情けなかったので言わなかった。
膝に手をつき、ゆっくりと上体を前へ倒す。その動作から得られた爽快感は、久しぶりの休憩だということをアダムに気付かせ、その気持ちよさは精神にまで浸透しはじめていた。随分疲れが溜まっていたらしい。
色々嫌な思いをしたここまでの道のりを振り返り、急いでるけど少しぐらいいいよなと自分にくつろぎの時間を与えることを許して、アダムは大きなあくびをする。
と、そこで会話が続いてないのに気付いた。
軽く話を振ったつもりだったのだがどうしたのだろうと思い隣を見ると、何やら泣く一歩手前のような表情のアルミンがいた。
「……アルミン君? もしかして俺なんかまずいこと言った?」
確か仲が良いなといっただけのはずだったが。
アダムはそのただならぬ様子を見てやってしまったかと焦り、自然と君付けになっていた。
「いえ、気にしないで下さい。僕が1人で気にしてることなんで……」
「余計気になるぞ、その言い方は」
そもそも、周りから見たら子供を苛めてる図に見えないだろうか。
再び襲い掛かる、通報の危機と誤認逮捕の恐怖。
周りに大人はいないよなという不審者のような確認をするためにアダムが周囲を見渡し始めた時、アルミンがポツリと独り言のように言葉を漏らした。
「僕が悪いんです……僕が弱いから、いつも迷惑かけちゃって」
弱い。そういえば体力の話をしていたんだったか。
「いやまあ、体力なんてなくても問題ないんじゃないか。現にこうやって、迷惑どころか俺はアルミンのおかげで助かってるわけだし」
本当に感謝している。他人に道を聞けない自分に、わざわざ案内まで買って出てくれたのだから。
しかも家に帰る途中だったという自分の都合まで切り上げるその親切さに、アダムは頭が上がらない気持ちだった。
しかしその想いは届かなかったらしく、隣から感じるのは止むことなく放たれる暗い雰囲気。
「でもやっぱり、いつも助けられてばかりじゃ申し訳なくて……こんなんじゃ親友だなんて恥ずかしくて言えない」
こちらを見ずに俯くアルミン。水たまりも無い乾いた地面に自分を映し出そうとしていた。
親友という話題があがり、そういえばそっちの話をしていたのだとアダムは思い出し頷く。
そして、会話でも迷子になりやすいアダムはさらに混迷を極め始めた。
「弱くて親友になれない、と。…………アルミン、まさかその2人にイジメられてるのか?」
「どうしてそうなるんですか」
目がちょっと怒っている。大人しそうな子が怒ると怖い。
「いや、俺も実はよくイジメてきやがる悪友2人がいたから、そんな感じなのかなぁと」
「……アダムさん、人の話聞いてましたか? 僕はいつも助けてもらって申し訳ない、って言ったんですけど」
「もちろん聞いてたって。なるほど、そういう訳だったんだな」
どういう訳なのだろう。
休憩に夢中だったとは言えそうにない雰囲気だった。
「……アダムさんに言っても仕方ないですよね。ごめんなさい、結局自分が悪いのに」
さらに俯き、ため息のおまけまで付け始めた。
そんなアルミンを見て、アダムは自分のせいだろうかと責任を感じ始めると同時に、もしかしてこれは助言をして年上の威厳を取り返せるチャンスなのではと目を光らせた。
一応、自覚はあったらしい。
「まあまあ、そう言わずに事情を話してみろって。これでも結構相談とか受けたりすんだぞ」
何かを得るためには犠牲が必要。いまいち意味が違う気がしないでもなかったが、アダムは信頼を得るために躊躇無く大嘘をついた。
「え、でも……こんなこと話したってしょうがないですし」
「いいからいいから」
「いや、でも……」
「騙されたと思って」
戸惑うアルミンに商人張りの押しを披露する。人の悩みは無理矢理聞きだすものではない、という大前提を残念ながらアダムは知らない。
ためらいながらも、アルミンは話すまでこのやり取りが続くことを短い付き合いで悟ったのか、諦めたように語り始めた。
「……アダムさんもさっき見てましたよね、僕がイジメられているところ」
「ああ、あの悪ガキ3人組な」
「今回だけじゃないんです。僕はいつもあの3人にイジメられてて」
何となくそんな感じはしていたが、想像通りの答えに子供って暇なんだなとアダムは思った。
そして、無邪気なだけに残酷だと思う気持ちが、心の片隅に浮かんだ。
「でも、イジメられるのは決まって僕が1人の時だけで……。3人でいるときはいつも寄ってこないし、イジメられてても2人がすぐに助けに来るから」
「ふーん、良い友達じゃないか」
「けど、嫌なんです」
静かだが感情的な声。アダムは少し驚いてアルミンを見つめなおした。
「さっきは迷惑かけてるとか申し訳ないなんて言ってごまかしたけど……本当は、ただ僕が嫌なだけなんです。2人に助けてもらってることが」
真っ直ぐな眼差しは地に落ちている。やり場の無い悔しさが、前を向けなくしているのかも知れない。
アダムは何となく、答えが分かった気がした。
「『背負われて守られるよりも、隣に立って守りたい』……とか?」
「え……」
それは亡くした母への想い。
アルミンの望みの答え。自分の、ただの後悔。
「間違ってたか?」
「あ、いや。上手く言えないけど、そんな感じです」
「そっか」
こみ上げる切なさにアダムは目を瞑る。
まぶたに感じる視線に、いい格好をしようと思っただけの浅はかさは見破られ、不思議と義務感が沸いた。
何か、この子に言わなければならない。
「じゃあそうすればいい」
「! ……でも僕は、弱くて。2人の力になんて――」
「できる事はきっとある」
瞼の裏に浮かぶのは、幼い頃の泣いている自分。
たとえ弱くても、何かできたはずなんだ。
「その2人が大事なんだろ? だったら守ればいい。何が何でも」
後悔なんてするだけ無駄だ。その言葉は心の奥に染みて、アダムの口を歪ませた。
「アダムさん……?」
つぶやかれた自分の名に目を向ける。そこにあったのは、困惑と疑問。
上手く伝えることができなかったと思い、アダムは自分の口下手さを呪った。
言葉を伝える相手を取り違えていたことに、アダムは気付いていなかった。
「悪い。今のはナシ」
「え? でも……」
「ただの独り言だと思って忘れろ。それよりももっと現実的な作戦を練ろうぜ。俺も考えてやるからさ」
「現実的な、作戦……?」
不思議そうなアルミンを置き去りにして話を進める。
純粋にこの少年のために何かしてやりたいという気持ちと、目の前にいる人間の心すら救えないということを認めたくない気持ち。
せめぎ合う2つの感情をごまかすように、アダムは明るく振舞い体ごとアルミンへ向けた。
「つまりあれだろ? アルミンが1人であいつらに対抗できるようになればいいんだろ?」
「えっと……そういうことになる、のかな?」
そういうことにしておこう。
首を傾げるアルミンに向かってアダムは強く頷き、無理矢理納得させた。
「でも、それができないから困ってるんじゃ――」
「そんなの簡単だ」
「え、」
「一発ぶん殴ってやればいい」
ただの暴論。
考える気はあるのだが、考えるのが苦手だった。
「……あはは。そうですね、それができたら良さそうなんですけど」
「だろ? ケンカなんて時の運さ。意外とどうにかなったりするんじゃないか」
「でも、相手は3人なんですけど、そこはどうしたらいいんでしょう。戦力差が違いますよね?」
「……そうだな、スマン。もうちょっと真面目に考えてみる」
冷静に返してくるアルミンが少しだけ怖くて、アダムは気持ち深めに頭を下げて謝った。
全く怒っているようには見えないのだが、正論を直球で投げつけられた気がして、ちょっと心が痛い。
「じゃあ逃げるっていうのは」
「数も体力もあっちが上だからどのみち捕まりますね。それに逃げたら、結局2人に助けられちゃいますし」
「……じゃあ顔を合わせないようにするとか」
「こっちを探している相手と顔を合わせないようにするには家に引きこもるしか無さそうなんで、ちょっと厳しいです」
わざわざ探しにくるとは。やっぱり暇なのだろうか、あの少年たちは。
「じゃあ2人とずっと一緒に居るとかどうだ!?」
「四六時中は無理だし、もしできたとしても元の木阿弥ですよそれじゃ。2人とは切り離したアイデアじゃなきゃ」
アルミンは口元に手をやり、いつの間にかこちらから視線を外している。
真剣に何かを考えているその様子は、もうこちらを認識できていないかのようだった。
「じゃあ元々の原因を絶つってのは?」
「あっちは理由はどうでもいいんだと思います、多分。たまたま僕が格好の的だったってだけで。それに……」
「――? それに?」
途切れた言葉を繰り返す。そして訪れた、強い眼差し。
「約束だから、それだけは捨てられません」
はっきりと宣言するように告げられた言葉。そこに伝えようとする意思はなく、感じさせるのは固い意志だけ。
アルミンはまたすぐに元の体勢に戻り、自分の思考に埋没していった。
(強い子だな……)
アダムはただそう感じた。いちいち過去の自分と重ねてしまうのが申し訳なく思えるほど。
約束の内容は聞かないでおくことにした。「異端者」と呼ばれる原因なのだろうと察し、この金色の少年の行く末を案じる気持ちもあったけれど。
その約束は、きっととても大切なものなのだろうと思ったから。
アダムは少しだけ、アルミンのその強さが羨ましくなっていた。
「罠を仕掛けても他の人に危険が及ぶ可能性があるし、何より大怪我をさせずに諦めてくれる程度の怪我で済ませられる自信も無い……。いや、逆上して襲い掛かってくる危険を考えると、やっぱり動けなくなる程度の痛手は与えておくべきかも……」
そしてかなり、アルミンのその強さが怖くなっていた。
ブツブツとつぶやいている内容がとても10歳児とは思えない。
とりあえずその人の道から外れかかっている思考をこちらへ戻すため、アダムはアルミンの肩を強めに揺さぶった。
「おい、アルミン。戻って来い」
そっちの道に行くのはまだ早い。
「――? 何ですかアダムさん?」
邪魔しないでくれ、という風ではない。
が、逆にその邪気の無い純粋な疑問の顔に、末恐ろしさを感じる。
「何ですか、じゃねーよお前。なんて恐ろしいこと考えてんだよ」
「……もしかして僕、声に出してましたか?」
「バッチリ」
ダダ漏れだ。拳に親指を立てた肯定のサインを突きつける。
アルミンは慌てながら口を手で塞いだ。
「もう遅いからな、残念だけど」
「…………ごめんなさい。考え始めちゃうと、つい」
つい、何だ。とは聞けなかった。
アダムはこの10歳児がどこまで考えてたかの真相は闇の中に葬ることにした。せめて、アルミンの頭の中で少年たちが生きていることを切に願う。
「……お前ホントにイジメられてるのか? むしろ俺はあの悪ガキたちの方が心配になってきたぞ」
「そんな! 本当に実行したことなんてありませんよ! というより、今までこんなこと考えたことも無かったですし」
「その割には随分と調子が良さそうに見えたけどな」
「本当ですよ! いつもは――」
珍しく感情的になっていたアルミンがハタと止まる。
「……いつもなら、怖くて、悔しくて、なんだか頭がぐちゃぐちゃになっちゃって、こんな風に考えることなんてできませんでした」
その事実を噛み砕くように、アルミンはゆっくりと頷いた。
大発見だ、とまではいかないが、珍しいものをたまたま見つけた程度の驚きを顔に浮かべている。
「アダムさんのおかげ……かな、多分」
「俺? なんかしたか?」
心当たりが全く無い。というより、出した案を全て即座に却下されていただけな気がする。
「アダムさんが話を聞いてくれたから、何だか余裕みたいなものができてたみたいです。誰かに打ち明けたことなんて今まで無かったから」
アルミンは小さく笑う。
喜びを滲ませる程度のその控えめな笑顔は、その聡明な金色の少年に良く似合っていて、アダムも小さな喜びを得ていた。
「そっか。まあよくわかんねぇけど、役に立てたなら何よりだ。なんなら俺が考えた作戦も使ってくれていいぞ」
「そっちはあんまり役に立ちそうにないです」
残念ながら、とでも言うような苦笑が返って来る。
アダムはその言葉に納得の相槌を打ちながらも、言わなきゃよかったと後悔した。
「そ、そうか。まあ仕方ないよな。俺こうゆうの考えるの苦手だし……」
「あ、でも――」
しょんぼりしたアダムに向けられたのは、先ほどとは違う、柔らかな意思の眼差し。
「わざわざ僕なんかのために、一生懸命考えてくれてることはちゃんと伝わりましたから。だから――ありがとうございました、アダムさん」
それは、感謝の言葉。単なるお礼。
アルミンは礼儀正しいから、単なる社交辞令かもしれない。そんな頭で描いた思考を過ぎ去り、その言葉は直接心に届いた。
伝えられた。力に、なれた。ただそれだけのことに、助けたはずの自分が救われた気持ちになる。
そして感じたのは、瞳の熱。
(! やべっ!)
泣き顔を見られる。
アダムは慌てて視線を空へ移し、飛ぶように立ち上がった。
「――うわっ! 急にどうしたんですか?」
「いや、そろそろ出発したほうがいいと思ってな。大分疲れも取れたみたいだし」
アダムは咄嗟にそう言って、大きく伸びをする。上を向いたままだったから、空の彼方へ飛び立とうとする愚か者のようだった。
子供にお礼を言われただけで泣きそうになるなんて、本当に馬鹿みたいだ。アダムは自分に呆れながら、アルミンにばれないよう密やかに笑う。
瞳の熱は引いていて、体も、心も、軽くなった気がしていた。
「それじゃ行くか。案内よろしく頼むな。あとどれぐらいで着きそうなんだ?」
「あ、はい。この先の突き当たりを左に曲がればすぐに着くと思うんですけど……」
アルミンは坂道の上りきった先を指し示す。その行くべき道を告げる所作に迷いは無かったが、言葉と視線は迷うように揺れていた。
「? どうかしたのか?」
「……ごめんなさいアダムさん。道案内、ここまででもいいですか?」
「え? まあ、別に構わないけど……」
アダムは容認するセリフを喋ったが、内心は厚かましくて迷惑に思われたのかと不安だった。
急にどうしたのだろう。
「あ、違いますよ。別に案内することが嫌になった訳じゃないです。ちょっと急用を思い出したというか……」
それは逃げ出すときの常套句ではないだろうか。
「いや、いいんだ。仕方ないさ。ここまでありがとうなアルミン、本当に助かったよ」
「……アダムさん、信用してませんよね」
諦めと切なさの中間ぐらいのお礼はやや不満げな目つきと共につき返される。信用しろと言う方が無理ではないだろうか、この場合。
アルミンは頭を掻き言葉を選ぶような素振りを見せてから、こちらと正対した。
「本当はこのまま僕も付いていってエレンに会うつもりだったんですけど、エレンに見せたいものがあるから一旦家に取りに帰ろうかなと思って」
「見せたいもの?」
「別に明日でもよかったんですけど、今すぐエレンに見せたくなってきちゃって。これも多分、アダムさんのおかげです」
「俺のおかげ?」
「はい」
どこから聞けばいいのやら、跳ねるように進む話に付いていけない。
ただ、何となくアルミンの目がキラキラしているようにアダムは感じた。
「さっきも言いましたけど、余裕ができたというか、何だか心が軽くなったというか……そしたら急に、エレンと会って色んなことを話したくなってきたんです」
輝く瞳と金色の髪を持つ少し眩しい少年は「僕もよくわからないんですけど……」と言って笑った。本当に分かっていない様子で、それでも不思議とこみあげてくる嬉しさにたえられない、そんな雰囲気。
理由の要らないその喜びは、純粋なのにとても綺麗で、アダムはただ笑った。
「――そっか」
蹲り、泣き出しそうな悔しさは笑顔に変わり、悲しい子供はもうそこには居なかった。
それでもアダムは、再び目の前の金色の少年に自分を重ねながら、無造作にポケットへ手を突っ込む。
自分が汚してしまったハンカチが、さらにシワクチャな形へと握り締められて、聞き慣れた声で文句を言ってきてる気がした。
数少ないご愛読――だったらいいなぁ――ありがとうございました。もう少しだけ、お付き合い頂けたら幸いです。