八一くんと銀子ちゃんが最速最短でゴールする話 他 作:いぶりーす
「タイトルを取ったら銀子ちゃんを俺のお嫁さんにしてあげるよ!」
幼い時の記憶。どこに行くときも、何をするときも二人一緒だった内弟子時代。
その日も二人でテレビの前で並んで座り師匠の対局を固唾を飲んで見守っていたのを覚えている。
「……えっ?」
姉弟子……銀子ちゃんはそれはもう驚いた顔をしていた。ぽかんと口を開けて、普段は灰色の瞳が青く輝き俺の顔をじっと見つめていた。たぶん、師匠の対局を見て興奮していたんだと思う。俺自身もそうだった。
目の前で繰り広げられた熱い対局に幼い俺は魅せられていた。最高にかっこいい師匠を見て、俺もああなりたいと強く願った。
そして興奮のあまり、勢いで自分でもよく分からない事を口ずさんでいた。
あの時、なんで俺があんな事を言ってしまったのか分からない。人間、ハイテンションだと何を言い出すか分からないものだとつくづく思う。
「……ほんと?」
「うん! ほんとだよ!」
普段ならこんな馬鹿げた事を言えば銀子ちゃんに殴られるのがオチだけど、その時の銀子ちゃんは何故かそうはしなかった。俺がおかしかったように、どうやら銀子ちゃんもまたその時はおかしかったんだろう。
俺の返事に銀子ちゃんはもじもじと体をうねらせ、頬を紅く染めて上目遣いで俺の顔を見つめてきた。
銀子ちゃんの顔を見て「ああ、やっぱりこの子は将棋の妖精さんだな」ってその時に改めて実感したのが強く印象に残っている。
「じゃあ約束して」
「約束?」
「八一がタイトル取ったらお嫁さんにしてくれるって約束。今ここで紙に書いて」
「えっ、紙で?」
「お嫁さんにしてくれるんでしょ?」
今思えば、この時点であれは冗談だったと言って止めるべきだったんだと思う。
だけど当時の俺は銀子ちゃんが、今日は珍しく悪乗りしてくれるのが何だかとても嬉しくて、そのまま彼女の言う通りに嬉々として従った。
「もちろんだよ!」
笑顔で返した俺の言葉を聞いた後の銀子ちゃんの行動は速かった。
銀子ちゃんは直ぐに桂香さんを呼んできて、ペンと紙を渡された俺は銀子ちゃんと桂香さんの目の前で先ほどの約束を書かされた。
後々考えれば誓約書のようなものだった。第三者を呼び、その目の前で誓約書を書かせる。実に綺麗な手際だった。詐欺師とかああいう輩のものだと勘違いするほどに。
「いんかんは八一が大きくなってからでいい」
「わ、分かったよ、銀子ちゃん」
「約束したから」
「……うん」
「もしも約束破ったら……」
「破ったら?」
「ぶちころす」
「……」
書き終えてから、だんだんと怖くなってきた。テンションが上がって冗談で言ったつもりの言葉なのに、あれよあれよと事が進んで恐ろしくなった。
何か、とんでもない事をしでかしてしまったのではないのかと。
俺は、取り返しのつかない約束をしてしまったのではないかと。
体は震え、幼いながら婚約という言葉の重さの片鱗を味わってしまったのだ。
──今ならまだ、謝れば殴られるだけで済む。
そう思い、直ぐに行動に移そうとした。慌てて銀子ちゃんに冗談だよ、と言おうとした。
だけど、出来なかった。
「……ちゃんと約束、したから」
俺の書いた誓約書をぎゅっと握りしめ、白い頬を紅くしながら微笑む銀子ちゃんの顔が凄く幻想的で、魅力的で、可愛くて……なんかもう細かいことはどうでもよくなっていた。
まあ、いいか。こんなの数年後には互いに忘れてるだろうし。今はこの素敵な妖精さんの貴重な笑みを脳裏に深く刻み込もう。
……幼い俺はそう高を括ってしまっていた。
俺、なんであんな昔のことを今になって思い出しているんだろう。
大量のマスコミに囲まれ、ほぼ無意識の中でインタビューに応えながら、ようやく盤と駒の世界から現実世界へと思考が戻ってきたような気がした。
ここまで集中したのは、将棋を指してきた人生の中でも恐らく初めてだ。対局中の記憶があやふやで、頭がぼーっとする。対局の途中で誰かに廊下で水をもらったような気がするけど……ダメだ、思い出せない。水をくれた人に、お礼を言いたかったんだけどな。
後になって思い出すかもしれないし、今は置いておこう。
気を取り直して、辺りを見回すと取り囲むマスコミの数がいつもより桁違いに多い。
当然か、それだけの事を成し遂げられたんだから。
──俺、竜王になれたんだ……タイトルを取れたんだ。
正直、未だに実感が湧かない。まるで、まだ夢を見ているような、足が地面に付いていないような、そんな浮ついた感覚だ。インタビューでも最年少竜王になれた感想などを聞かれた気がするけど、なんて答えたかすら憶えていない。
そうか。こんな状態だから、あんな昔の事を思い出したのかもしれない。
タイトルを取ったら姉弟子をお嫁さんにする、か……。
……。
か、考えるだけで恐ろしい! なんて命知らずなんだ昔の俺はッ!
俺があの姉弟子を相手にお嫁さんにしてあげる? いやいやいや! ない! あり得ない! 全く想像もつかない!
まず今の姉弟子に上から目線でお嫁さんにしてあげるなんて言ったら間違いなく殴られる。調子にのるな、頓死しろクズの罵倒付きで。
まあでも、あれは若気の至りというか、ただの子どもの戯言だ。姉弟子もまさか本気にしちゃいないだろうし。それにあの後も姉弟子との関係性は特に変わらなかったから、向こうも冗談だと分かっている筈だ。
いや待てよ? せっかく宣言通りタイトルを取れたんだ。ならあの約束をちらつかせて姉弟子をからかってみるのも面白いかもしれない。
普段から弟弟子として散々奉仕しているんだ。タイトルを取った今日くらいならそれくらいは許される筈だ。
姉弟子、あれでかなり初心だからなあ。あのネタでからかったら案外可愛い反応するかも。あれ? なんか今からちょっと楽しみになってきた。
「九頭竜先生、よろしいでしょうか」
一通りタイトル戦の感想は終えたのだろう。場が落ち着いてきた時に一人の女性記者がマイクを俺に向けた。
おっと、いかんいかん。姉弟子をからかうのが楽しみで思考がそっちに集中してしまった。マスコミに対する適切な対応も時には求められる。タイトルホルダーなら尚更だ。それならそれらしい振る舞いをちゃんとしないと。
こういうのは姉弟子の方が場馴れしてるだろうし、ここに来る時に聞いておけば良かったな。
「はい、なんでしょう」
長い黒髪を後ろで結んだ眼鏡の美人記者。俺もよく知る鵠さんだ。
彼女とは長い付き合いなだけあって、タイトルを取った今日この日に彼女にこうしてインタビューを受けるのは中々感慨深い。
できるだけ鵠さんのインタビューには気合いを入れて応じようと思っていた。
……次の言葉を聞くまでは。
「九頭竜先生はタイトル取得後に自身の姉弟子である空二冠と結婚を前提にしたお付き合いをされるというお話を聞いたのですが、本当でしょうか?」
「え?」
「本当でしょうか?」
「……は?」
鵠さんの爆弾発言に周りのマスコミが一斉にざわついた。
ついでに言えば俺の心もざわついた。というか心臓が飛び跳ねそうになった。
なに言ってんだこの人!? お付き合いってなに!? 俺、全然知らないんですけどぉ!!
「え、えっと質問が理解できないのですが……。一体誰がそんな悪質なデマを」
「事実です」
「つ、月光会長!?」
冷静に対処しようとした俺の言葉を遮ったのは生きる伝説、月光会長だった。その傍らには連盟職員の男鹿さんが佇んでいる。
な、なんで会長が……。意味が分からない。でも何か嫌な予感がする!
混乱と悪寒がする俺を無視し、会長はマイクを握り締めながら記者たちに話を続ける。
「今日は彼、九頭竜八一という若き棋士が最年少竜王という歴史的な記録を刻んだ日でありますが、同時にもう一つ彼は伝説を刻む事になりました。男鹿さん、あれを」
「はい」
会長が何やら男鹿さんに指示を出すと、男鹿さんは懐から何やら一枚の用紙を取り出し、それを広げた。
なんだろう、あれ。印がついてあるけど、何かの誓約書? でもなんか折れ曲がったりしてぐちゃぐちゃだし、文字もきったねえ。誰が書いたんだあのへったくそな字。
……ん?
あれ?
いや待て。あの紙、見覚えがあるぞ。
ま、まさか……。
「読み上げます。『私、九頭竜八一はタイトル取得後、姉弟子である空銀子と婚約する事をここに誓います』」
ああああああああああ!! なんでそれ会長が持ってんの!? というか何でここで読み上げちゃうの!?
ここマスコミたくさんいるんだけど!? 一部生放送もしてるんだけど!? ただでさえ姉弟子と付き合ってるって世間で勘違いされてるのにこんなのもう洒落にならないんですけど!?
「みなさまもご存知でしょうが、彼は幼少期から姉弟子である空銀子さんと内弟子として共に育ちました。やがて二人の間には幼いながらも兄弟弟子の関係を超えた愛が生まれ、そして婚約の誓いを立てたのです!」
「「うおおおおおおお!!」」
会長の熱の入ったスピーチに記者たちは沸いた。それはもう盛り上がった。なんか俺のタイトル取得よりもカメラのフラッシュが多い気がするんだけど。
さらに会長はスピーチを続ける。
「タイトル取得、それは並大抵の棋士では及ばない途轍もなく遠い目標です。ですが、彼はそれを誓いに立てた。まだプロ棋士にすらなってもいない幼き少年が、です! なんという純粋で一途な想いでしょうか! 最年少竜王という歴史的偉業の裏には、若き棋士が一人の女性に向けた愛があったのです!」
「二人にそんな裏話があったとは……」
「噂は出回ってたけど、やっぱりあの二人って付き合っていたのか」
「最年少竜王と浪速の白雪姫との熱愛!」
「カメラ回せ!」
さらに白熱する記者たち。会場にいた将棋関係者も周りの熱に煽られ声を挙げ拍手喝采を送った。
な、なんだよ、これ……。
「やりましたね、会長」
「ええ。最年少竜王誕生、確かにこれだけでも十分に注目を浴びますが、更にそこで浪速の白雪姫との熱愛報道を敢えて被せる。これで世間の目は将棋界に注目するでしょう」
「これで将棋界も盛り上がりますね」
「想像以上の反応ですよ。上手く行けば映画化や書籍化も狙えますよ、男鹿さん」
マイクを切り忘れたのか、男鹿さんと会長の会話がスピーカーから流れた。ふざけんな、畜生ッ……!
お、鬼だ、悪魔だ……あの人ら、宣伝の為ならマジでなんでも利用しやがる!
だいたい、なんであの紙が会長の手に渡ってるんだ? あれは俺と姉弟子しか知らな……あっ。
「ま、まさか……」
記者たちの後ろの方で、親指を立ててムカつく笑みを浮かべる師匠とごめんね、と両手を合わせて謝罪のジェスチャーする桂香さんの姿があった。
そういう事か。多分、流れはこうだ。あの日の出来事を桂香さんが師匠に話した。内弟子同士の他愛ないじゃれあいだ。それくらいは話題に上がってもおかしくはない。
それを師匠は何らかのタイミングで会長に話したんだ。あの二人は時たま連絡を取り合う仲だ。あり得るだろう。
詰み、なのか……? これは。
序盤に指してしまった悪手がここまで響くなんて……。
いや、待て。まだだ。まだ死んでいない。いくら周りが盛り上げようとも当人が否定すればいいだけの事だ。
そうだ、俺にはまだ姉弟子という起死回生の一手がある。ここまで盛り上げて否定したら俺のネット上の評価は間違いなく地に沈むし、俺のスレに殺人予告が大量に書き込まれるだろうけどもう仕方ない。割り切ろう。
……あれ、でもさっきから姉弟子の姿が見えないけど、どこに居るんだろ。
「や、やいち……」
と思ったら後ろから聞きなれた声が聞こえた。振り向くと周りを囲う記者の人だかりがざわつきながらも割れた。
良かった、姉弟子いたんだ。でもなんで後ろから登場するんだろ。姉弟子ならすぐさま男鹿さんのマイクぶん取って否定するくらいしてくれそうなのに。
まあいいや。この茶番も終わらせる事ができ……えっ。
「あ、姉弟子……?」
な、なんでドレス着てるの……? あんた、ここに来る時、いつもの制服だったよね?
というかなんなのそのフリフリしたスカート。確か、釈迦堂さんの開いているブランド服に似てるような気が……。
まさか、あの人も今回の件に絡んでるのか……?
「ど、どう?」
「え、いや……どう、とは?」
「服」
この人、こんな時になんでそんな呑気な事、聞いてくるの!?
「いや、まあ……可愛いですけど」
そのまま素直に答える俺も俺だけど!
だって仕方がないじゃん。実際可愛いんだし。
「~っ!」
顔を真っ赤にして俯いてしまった。恥ずかしいなら聞かないで欲しい。
……俺も恥ずかしい。
そんな俺たちのやり取りを見て記者たちは歓声を上げ、さらにカメラのフラッシュをたいた。
会長はマイクを握り締め、さらに煽るスピーチを続け、師匠は祝いだ祝杯だと叫び酒瓶を煽る。桂香さんはそんな師匠をなだめながら、俺たちにウインクを送り、鵠さんはひたすら姉弟子をいじり続けた。
まずい……。
非常にまずいぞ、これは……。
会場が完全に出来上がってしまっている。今更否定しようとも照れ隠しだの、若い子は恥ずかしがり屋だの言われて余計にドツボに嵌るだけだ。
ど、どうすれば……。
もう何が何だか分からなくて、助けを乞うように姉弟子の方を向くと、姉弟子も鵠さんの追及に耐えられずにこっちを向き、ちょうど目が合った。
その時、俺は初めて姉弟子の顔をちゃんと見た。薄く化粧をしているのか、普段よりも少しだけ大人びた彼女に不覚にもドキリとしてしまった。
お、おかしい。なんで俺が銀子ちゃん相手にこんな……。
だって彼女は家族で、姉弟子で、浪速の白雪姫で、いつの間にか遠くに行ってしまった存在で、こんな感情を向けるような相手じゃ……。
「あ、姉弟子! いいんですかこれ!? このまま放っておくと俺たち本当にッ」
「八一」
なんとか冷静になろうとして、今からでもどうにか場を納めようと思考を働かせようとする前に姉弟子に手を握られた。
手から伝わる柔らかい感触に思考が停止する。
長らく握っていなかった、銀子ちゃんの手。
久しぶりに握ったそれは、かつての頃よりも少し大きくて、でも昔と変わらない安心できる感触だった。
「あ、姉弟子……?」
「……やくそく」
「えっ?」
「約束、したでしょ?」
それはあの時と同じ表情だった。
頬を赤くして、普段は見せてくれない笑みを浮かべた、優しい声で。
俺が見てきた中で一番美しい将棋の妖精さんの笑み。
「……うん、約束、だよね。銀子ちゃん」
色々と言いたいことはあるけれど。
でも、前と同じように何も言えなかった。分かっている。昔から彼女にはかなわない。
確かに婚約だのなんだのは早すぎるし、感情の整理も付かない。
だけど、昔と変わらず、銀子ちゃんのそばに居られるなら。
───俺はただ、それでだけでいいのかもしれない。
某所で見たネタを生き抜きに書いてみました。