八一くんと銀子ちゃんが最速最短でゴールする話 他 作:いぶりーす
九月九日。今まで俺にとってその日は特別な日ではあったけれど、頭を悩ませるような日ではなかった。
だってそうだ。『家族』の誕生日を祝うのは誰にだって当たり前の事で、その当たり前の事を意識する人間はそうはいないだろう。当たり前のように祝福し、いつも通り選んだプレゼントを贈ればいい。『家族』を祝う誕生日ならそれで良かった。
けれど、その『家族』が『家族』でなくなったなら。もっと別の、特別な関係へと昇華したのなら。
『いつも通り』や『当たり前』といった定石はてんで通用しなくなる。
「どうすっかな……」
指していた定石がある日を境に崩れるのは日常茶飯事だ。対策を用意するのは棋士として当然の事だろう。
なら、姉弟子の誕生日を前日に控え街をふらついて未だに贈るプレゼントが決まらず頭を悩ましている今の俺は間違いなく棋士失格かもしれない。全く対策ができていないのだ。
一応、言い訳はある。最近は竜王防衛に向けて研究会を詰め込んでいたし、同時に対局も多かった。おまけにイベント関係の仕事まで回され、正直に言うとあまり将棋以外に時間を割く余裕がなかった。
だけどそれは去年も似たような状況だった。その上で問題なく……いや多少は問題があったにしろ姉弟子への誕生日プレゼントは渡せたのだから、この言い訳は通用しないだろう。
ならば何故、今年はこんな状況に陥ってしまったのか。
至極単純なことだ。俺と姉弟子…………空銀子ちゃんが恋人同士になったからだ。
「あれだけ桂香さんに釘を刺されてたのに」
ショーウインドーを眺めながら後悔の息を吐き出した。
随分と前から桂香さんには言われていたんだ。恋人同士になったのだから誕生日プレゼントはいつも通りではダメだと。きっと桂香さんの言葉がなければ俺はいつも通りに姉弟子の誕生日を祝ったと思う。
そうなればきっと姉弟子は機嫌を損ねただろう。付き合い始めて分かったけど、あの人意外に乙女だからな。付き合って〇日記念日とか覚えてたら凄く喜ぶし。
でも普段とは違う『特別』を用意するというのは存外難しかった。別に毎年の誕生日を適当に祝ってるわけではなかったから余計に難航した。そしてあれやこれやと決めあぐねている内に時間は過ぎ去り今日に至った訳だ。
街に出て店を眺めていれば何か思いつくかと思ったけど、イマイチ収穫は得られなかった。
「……八一?」
背後から掛けられた聞き覚えのある声にびくりと肩を震わせた。凛とした鈴の音のような声。
わざわざ振り向かなくてもそれが誰だか分かっているが、何故こんな場所にいるか分からない。
「き、奇遇ですね姉弟子。買い物ですか?」
「この辺りに有名なスイーツ店があるのよ、それ目当て」
あんたは?と視線を向けてくる姉弟子から咄嗟に顔を逸らしてしまった。むっと彼女が不機嫌そうな雰囲気を醸し出す。不審がられたかな。でも正直に話すわけにはいかないし。
「……今日は用事があるとか言ってなかった?」
「それは……」
そう言えば前にデートを誘われた日程が今日だったな。ああそうか、行きたいスイーツ店があるって言ってたけど、それに行ってきたのか。彼女が腕にぶら下げる紙袋を見て納得した。
誕生日プレゼントが決まってなかったから用事があるって断ってしまったけど、どうやらそれが裏目に出てしまったらしい。答えあぐねる俺に益々不機嫌になっていく姉弟子に俺は降参した。
「……その、姉弟子」
「なに」
「欲しいものってあります?」
「欲しいもの? 突然なによ」
「ほら、明日」
「………………あ」
途中までは仏頂面だった姉弟子もそこまで言ってようやく見当が付いたらしい。というかこの感じだと明日自分の誕生日だって忘れてたのか?
付き合って三か月記念は半年記念は覚えていたのに自身の事は無頓着なのは姉弟子らしいと言えば姉弟子らしいけど。
「そ、そんなの別に。いつも通りしてくれたら……」
「ほら、付き合ってから始めての誕生日じゃないですか。だからいつも通りじゃなくて特別にしたいと言うか」
「やいち……」
俺の言葉に頬を紅く染める姉弟子。肌が白いから分かりやすいんだよな、可愛い。桂香さんの受け売りだけど姉弟子が可愛いからオールオッケーだ。何も問題ない。
「それで何か要望はありますか? 欲しいものとかして欲しい事とか」
本当はサプライズで用意できれば格好が付くんだけど見つかってしまった以上は仕方がない。実家で告白した時のようなサプライズはそれこそ一生に一度できれば上出来だろう。
「……時間」
「時間?」
「明日、八一と二人きりの時間が欲しい」
「えっ?」
暫く悩んだ様子の姉弟子はようやく要望が決まったようでぽつりとそう零した。
「そ、そんなのでいいんですか?」
そもそも最初から二人きりで過ごすつもりだった。というかそう桂香さんが仕向けた。今日だってあいを師匠の家で預かってもらっているし。
でもそれがプレゼントになるかと言われたら正直納得できない。もう一度それでいいのかと問いかける。けれど彼女からの返答は同じで。
「いい」
「でも……」
「八一と二人がいいの」
「……銀子ちゃんがそう言うなら」
「ん」
予想外の要望に釈然としない俺の手を彼女はそっと握ってきた。その手を握り返してふと思い出す。
そう言えば銀子ちゃんの誕生日を二人きりで過ごすなんて始めてだな。
今までの誕生日は俺だけじゃなく師匠や桂香さんがいたし、去年は弟子達もいた。それは俺達が『家族』だったから。
なら『家族』でなくなった今、それ以上に大切な存在となった彼女との誕生日を二人きりで過ごすというのは…………俺達にとってはこれ以上にない『特別』なんだろう。