時の鐘   作:生崎

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狙撃都市 ⑨

 額から垂れる冷たい汗がまつ毛を撫ぜ、瞬きもせずにその感触は肌から剥離させる。高鳴る心臓の鼓動だけが風紀委員(ジャッジメント)の少女の身を満たしていた。

 

 目の前に佇む身長一六〇程の少女の身に詰まっている殺意。

 

 白井黒子(しらいくろこ)の知る『時の鐘(ツィットグロッゲ)』、オーバード=シェリーや法水孫市(のりみずまごいち)の殺気ともまた違う肌触り。

 

 オーバード=シェリーのそれは狩りをする獣のそれに近い。不必要なものを削ぎ落とし、相手の力の有無も関係なく、純粋に闘争に牙を突き立てるような鋭いそれ。

 

 法水孫市のそれは、周囲の空気に身を浸し、周りと連弾やセッションするようにあるべきものの中で己を高め、世界を比べ合い貫こうと感情を凝縮させた結晶。

 

 ハム=レントネンのそれはただただ暗い。永遠に続く夜道のような、暗闇に得体の知れないものが潜み、いつ出て来るのか分からない不安に近い。ひょっこり顔を覗かせたら、それこそ斧で殴打されるような、暴力を煮詰めた不安の塊。

 

 呼吸も忘れ、ただ目の前の復讐者の動きに黒子は全身の神経を集中し、取り回される『薔薇(モンテローザ)』の動きを目で追った。

 

 くるくると回る白銀の槍。孫市の持つ軍楽器(リコーダー)のような特性がなかったとしても、それを打ち出す技術こそが脅威。

 

 ただ素人が鉄の棒を突き出すのとは訳が違う。修錬の果てに、身を捩り、全身の筋肉を無駄なく動かし、その先端に全てを収束される破壊の一撃。まともに受けたらどうなるかなど、深く考えなくても黒子にだって分かる。

 

 そもそも、技術を磨く理由が学園都市にいる者と時の鐘では絶対的に異なるのだ。

 

 科学者は己が好奇心の為に研究をし結果を積み重ね、能力者は己が可能性を信じて、まだ見ぬ自分を思い描き能力を磨く。そんな中で時の鐘が時の鐘の技術を磨くのは、相手を効率よく殺す為だ。どんな想いで始めたかは関係なく行き着く先はそれ。

 

 オーバード=シェリーも、法水孫市も、ガラ=スピトルも、ゴッソ=パールマンも、ハム=レントネンも、時の鐘の技術を習得すると決めた瞬間から、結局相手を殺す技術をこそ磨いている。

 

 狙撃銃がある時はそれで、なくてもナイフで、それがなくても素手で、どんな時でも相手を殺し切る牙を育てる為に技術を磨く。その技術には輝かしいものなどない。ただ血生臭い鋭利な刃でしかない。馬鹿と鋏は使いようだが、本質は殺人術から変わらない。

 

 そんな一撃が己へ向く様から目を逸らさず、突き出される銃口の先端に合わせて空間移動(リコーダー)で無理矢理距離を潰した黒子の手錠がハムの手首に嵌められた。

 

「ばーか」

 

 子供染みた罵詈雑言を吐き出しながら、ハムは両足を強く踏み込む。ミシリッ、と床が凹み、その力で押し潰し捻り出すような指先が、黒子の腹部を貫こうと空を裂く。

 

 ビッ! と床に零れる朱い雫。突き出され黒子の頬を掠めたハムの貫手。肘の裏に手を添わされ、持ち上げられたとハムが気付いたと同時に、手錠から手を離していた黒子の手が襟へと伸び、身を捻る動きに腕を突き出した勢いを利用し引っ張られた。

 

 一本背負い。肘に添わされていた手は滑るように手首を掴み、ハムが逃げられないように固定する。反転する視界の中空を泳ぎながら、それでもハムは変わらずつまらなそうに吐息を吐く。振り回されただけで意識を狂わされる程修羅場をくぐっていない訳でもない。

 

 一方通行(アクセラレータ)にただ殴られた時こそ腹が立ったが、初めから同じ暴力を比べようなどという相手は別。ただ着地すればいいだけだとタイミングを計るハムの背を衝撃が襲い、意識が飛んだかのように切り替わった景色に視界が瞬く。

 

「どっちがですの?」

 

 呆れたように吐息を零しハムを見下ろす二つの眼光。能力者、そんな事は分かっていた。そして、超能力者(レベル5)にも勝るとも劣らない凶悪な空間移動能力を持っていながら、それで人を絶対殺す事はない甘ちゃんだともハムは孫市から嫌という程聞いている。それでも尚合致しない。想像にそぐわない。

 

 能力を使うタイミングが絶妙過ぎる。何よりも、まず一撃を分かっていたような逸らされた事自体が不可解だ。

 

 時の鐘の軍隊格闘技は、酔拳とはいえ、有名な酔八仙拳とは異なる独自の流派と言ってもいい。時の鐘の技は時の鐘しか使わない。そもそもその技を納めている者自体、時の鐘の中でさえ十人も居ない程だ。そんな中で、何度もやり合った事があるような、迷いない一手。

 

 ハムが辿り着く予想に間違いはなく、だからこそ、こんな時でもこの場にいない癖ににじり寄って来るような赤い癖毛の男の名を吐き捨てる。

 

「イィィィチィィィィッ!!!!」

 

 いつもいつも、才能もない癖に、追いつける事などあるかも分からないのにハムのすぐ近くにいる。その幻影を叩き潰すように叫ぶ。届かないと分かっていながら、それでも立ち塞がるかつての戦友の姿が鬱陶しく邪魔だから。その咆哮に肩を竦め、黒子は重い吐息を吐き出した。

 

「うるさいですわね。孫市さんはここには居ませんけれど?」

「喋るな耳障り! 何を惜しげもなく時の鐘の技術をひけらかしてるのあの馬鹿は! くろこはイチのお気に入りだもんねー、手取り足取り時の鐘の軍隊格闘技を教えて貰いでもしたの? こっちの技を知ってるからっていい気にならないで!」

 

 タイミングをずらしたところでダメージは軽微。すぐに起き上がり顔を歪ませるハムを目に、「手取り足取り?」と自嘲しながら黒子は軽く肩を回し感触を確かめるように指を軽く閉じ開く。

 

 床に叩きつけられようと離さなかった『薔薇(モンテローザ)』を持ち直し、振るわれる一薙ぎを、足を動かさずに空間移動(テレポート)で後方に下がり目先を泳ぐ先端を見送る。それを合図とするように突っ込む黒子に向けて、体を翻し後ろ手に突き出された白銀の槍は、肉に刺さらず虚空を貫くだけで終わった。突っ込みながら一度下がった同じ場所への空間移動(テレポート)。必要な演算は最小限に、距離とタイミングを狂わせて、伸び切ったハムの腕を取りひっくり返す。

 

 べちんと音を立てて床に大の字に寝転がるハムへと再び目を落とし、黒子は手を軽く振った。

 

「孫市さんがそんな優しく手解きしてくださると本気でお思いなら、近くに居ながら貴女は孫市さんのこと何も知りませんのね」

 

 別に教えられた訳ではない。黒子は身を以て知っているだけ。対能力者の特訓と称して繰り返される組手。幻想御手(レベルアッパー)の技術鍛錬以外で、延々と続けられる組手に終わりはない。他でもない孫市が満足するまで続けられる。ただ問題は孫市が満足することがないという事。多くの壁を知っているからこそ、どれだけやっても満足しない。

 

 もう一度、もう一度、もう一度。

 

 その中で黒子も知っただけだ。他でもない誰より相手をした者だから。佐天涙子(さてんるいこ)に戦闘の手解きをするのとは訳が違う。その点で言えば、孫市は黒子に遠慮しない。黒子に迷いなく強いと言う男だから。本気でやらねば失礼だと考え、黒子も本気でないとそれに並べない。

 

 でも孫市が並びたいと願うのは時の鐘、ハム=レントネンもその一人。それを追い、繰り返し繰り返し繰り返し突き出される拳の軌跡を、正面から何回も何十回も何百回も、一ヶ月程で見続けてきた黒子だから。

 

「他人を使った言い訳で嘆くぐらいならさっさと諦めなさい。底が知れますわよ?」

「途中からやって来た分際でほざかないで。ムカつく、ムカつくッ! ムカつくよくろこ! 技を知ってるのは驚いたけど、だから? 知ってるのはイチの技でしょう? アレとわたしを一緒にしないで! イチごと砕いてあげる!」

「……あぁそうですの」

 

 分かってますわよ、と口には出さず、黒子は震える指先を握り込む。武者震いだと自分に言い聞かせて。自分を本気で殺しに向かって来る相手。怖くない訳がない。普通に生きてきて、突然通り魔に襲われる訳でもなく、そんな者と相対することがある訳がない。黒子が相手する多くはただの不良がほとんどだ。そんな中で自ら死地に突っ込む事など、片手の指があれば数えられる程しかない。あるのがそもそもおかしくはあるが、それでも黒子の知り合い達と比べれば少ない数だ。

 

 何より相手は戦闘と殺しのプロ。

 

 遠く床に転がっている結標淡希(むすじめあわき)と戦った時とも違う、シェリー=クロムウェルとやり合った時とも勿論違う、殺しを念頭に置いていなかったロイ=G=マクリシアンとやった時とも違う、能力ではなく鍛えられた暴力が純粋に殺しに来る恐怖。

 

 逃げたい、やめたい、心の片隅に転がる小さな消えない感情を、それでも握り潰し黒子は前を向く。ハムの身に触れる事が恐ろしくない訳がない。それでもやめる訳にはいかない。

 

 決めたからだ。

 

 白井黒子も決めたから。裏で蠢く薄暗い何もかも、目にしたそれは救ってみせると。知ってしまった脅威から逃げないと。誰より速く必要な場所に行けるのだから、その通り迷わず突っ込もうと。腕に巻かれた腕章に懸けて。もうこの先、知らなかった、気付かなかったと言う事がないように。

 

 誰かにあげない、自分が掴む。

 

 その感情が何であるのか、ハム=レントネンの顔が歪むだろうと分かっていても黒子は迷わず言葉にする。並びたい二人に並ぶため。今この瞬間こそを掴むため。

 

「来なさい傭兵、頭を冷やして差し上げますわ。誰もわたくしは手放さない。貴女さえも。それがわたくしの『必死』ですのよ」

「……あぁそ、ほんとに、邪魔だよくろこ。くろこまでにじり寄って来るわけ。なら……身の程を知って」

 

 手に持っていた『薔薇(モンテローザ)』をハムは床へと投げ捨てる。リーチの差など必要ない。他でもない相手の内側に詰まったものが気に入らない。どこまでも追うのを止めぬ愚者の中身を見るため、ただ暴力を使って殴り破り捨てようと残った両手を握り締める。

 

 ────カランッ‼︎

 

 響く白銀の槍が床を叩く音がゴングの合図。途端ハムの体がぐにゃりと床に落ちる。黒子も何度も見ている時の鐘の軍隊格闘技。落下のエネルギーを前に進む力に変換し、異常な速度で突っ込んで来る。分かっている、知っている。だが、だからこそその厄介さを分かっている。

 

 己が身を銃弾とするようにかっ飛ぶハムの横へと黒子は空間移動(テレポート)するが、それを目の端で捉えた傭兵の体が踏み出した足を支点に回転した。

 

 振り切られる蹴りが黒子を叩く。

 

「ッ!」

 

 体との間に滑り込ませた左腕が軋み骨が砕ける。床を転がり顔を上げた先で飛んで来る追撃の蹴り。首を捻り避けるが、裂けていた頬がさらに裂け、それでも目線はハムから逸らさず黒子は鉄杭の納められた太腿へと手を伸ばす。

 

 鉄杭を掴み一瞬間を置き、ズルッと空間を飛び越え姿を現した鉄杭。何も貫く事はなく、紙一重で足をズラしていたハムの膝が、黒子を押し込むように蹴り飛ばした。

 

「殺さないって分かってるんだから関節にだけ刺さるのを気を付ければいい。僅かにタイムラグもあるんだし。どーくろこ? 殺さず済ませるなんて夢諦めたら? 甘いんだよ風紀委員(ジャッジメント)

「甘い……ですって? 何を、言うかと思えば」

 

 多少ブレる視界を頭を軽く振ることで止め、ゆらりと迫る傭兵を目に、黒子は腕を前に出す。殴り掛かる訳でもなく、息を荒げて佇む黒子の歪さに、ハムは荒く地を蹴った。

 

 振り切られる拳を前に、ただ黒子は意識を集中する。武術とは、最もそれが有効であると長い年月研鑽され、決まった形に落とし込まれたもの。数学の公式に等しい。下手に避けるより、迎え入れた方が動きは読める。ただ、読めたところで受けられるかどうかは別問題。だが、黒子はそれを受ける。何度も受けた感覚に身を任せる。差し出される拳に折れてはいない右腕の指を這わせ、力の向く先を捻るように、相手の力を使いひっくり返す。

 

 三度目でハムも理解する。そして苛立つ。

 

 白井黒子は他の能力者とは多少異なる。能力だけに頼る訳ではない。戦う為の技をしっかり身に刻んでいる。ただその技の方向性は、時の鐘とはまるで異なるもの。風紀委員(ジャッジメント)の捕縛術。合気術。相手を殺さずに制圧する為の技。体格故に相手を殴ったところで効果が薄い事もあり黒子が重宝する技術であるが、何度も見せられて対応できないハムではない。

 

 捻られる勢いを寧ろ自分から増し、宙を一回りし返しの蹴りを黒子に突き刺す。折れた左腕では防御が間に合わず、脇腹に沈んだ蹴りが肋骨にヒビを入れ、黒子を床へと弾き飛ばした。叫びにならない嗚咽を吐き出し、床に手をつく風紀委員(ジャッジメント)を、今度はハムがつまらなそうに見下ろす。心の底から憐れむように。

 

「相手を掴むしか能がないならここまで。勝手にやって来て死んでたらしょうもないよね。折角凄い能力持ってるのに、勿体ない」

 

 黒子が望めば最強の暗殺者になれる。その飛来する死を撃ち込む鉄杭を避けられる者はほとんどいない。そんな力があるのに躊躇うから床を這い蹲る。血を吐き出す。呻き崩れる。

 

 そうならない方法がある。

 それを黒子はできてしまう。

 大事なものが消えてしまわぬように、ただ脅威を殺し切る技がその手に握られている。

 

 にも関わらず、わざわざ無力を演じる滑稽さにハムは呆れ、黒子は奥歯を噛み締めた。

 

「それ、で、好きなだけ、気に入らない者を殺せとでも? 貴女こそ……しょうもないでしょう。分かっていないと、思ってますの? 貴女が仲間を裏切ってまでここにいる理由を……」

 

 黒子の呟きにハムの動きが止まる。

 

 ハム=レントネンが時の鐘を裏切った訳。そんなの一つしかない。例え周りに親しい誰がいようとも、絶えず追っていた殺すべき者。

 

「復讐相手の情報と引き換えとでも言われたのでしょう? 貴女のそれを孫市さんも心配していましたから……。貴女が裏切る理由など、それしかないでしょう?」

「……なに? 悪いの?」

 

 ハムの声のトーンが一枚落ちる。刃のように細められた目をハムに向けられて、それでも黒子は止めることなく言葉を続けた。

 

「いいえ? ただ、しょうもないと」

 

 ドッ! と重い音が通路に反響し、黒子の体が床を転がる。ハムに殴られたなどと考えない。殴られる前から拳が飛んでくるだろうとは分かっていた。それでも言わずにはいられない。口に中に広がる鉄の味を吐き出しながら、黒子は顔を持ち上げる。感情の滑り落ちたような冷たいハムの顔。その空虚さがしょうもなさの証であると叩きつけるように。

 

「ぐ……別に、復讐を止めろなどと、偉そうなこと、言う気はないですけれど、今の貴女は、あまりにしょうもなさ過ぎて見ていられませんわね」

「なにそれ。くろこになにが分かるわけ? 分かるわけないでしょ。大事なものを奪われた事もないくろこには。今の自分の無様さを見てから言ってくれる?」

 

 襟首を掴み上げ、そのまま噛み付き噛み砕くようなハムの顔を前に黒子は小さく含み笑った。突き付けられる殺意こそ、その身に刺さらず流れ落ちてゆく。その感触に肌を添わせて払い落とすように声を落として。

 

「貴女に言われたくないですわね。欲しいものがある、掴みたいものがあるなんていうのは誰にだってあるでしょうけど。それで他人を害して危険に巻き込んでいたらどうしようもないでしょう。諦めない? 突き進む? 結構ですけど、それで大事なものまで切り捨てていたら目も当てられませんの。このまま貴女は復讐を終えてそれで満足できますの?」

「当たり前でしょ、あの日を壊した奴を壊してなにが悪いの? 力もなかったわたしは力を得た。あの日を繰り返さないだけの力と才能があることを知った。満足するに決まってる。そのためだけにわたしは生きてる」

「しょうもない」

 

 拳が黒子の顔を削ぎ取るように振るわれる。裂けた額から血が噴き出し、そのまま床を削るように殴り飛ばされた黒子を追って鳴り響く靴の音。その音を聞きながら黒子は再び小さく笑った。

 

「あの日、などと、いつまでも過去に囚われて。断言して差し上げますわ。例え今、その日に戻ったとしても、きっと貴女はなにもできませんわよ。ただ指を咥えて見ているだけで、同じ事を繰り返すだけ」

「どうしてそんなこと──ッ」

「分かりますとも。貴女は前に進んでなどいませんもの。力? 才能? そんなものに逃げて、なにもできなかった自分を慰めているだけでしょう。貴女が何より怒っているのは、復讐相手などではなく、何もできなかった自分でしょうに。大事な時に何もできなかった自分自身」

 

 床についていた手を握り締め、黒子はゆっくり身を起こす。知らなかった、知ろうとしなかった。大事な者が心を摩耗させてしまうような悲劇に蝕まれていた時に黒子も何もできなかった。後悔して、己を蔑んで、どれだけ自分で自分を掻き毟ったところで無力感は剥がれ落ちない。

 

 もしその日に戻れたら? その時その場に居ることができたなら? 

 

 そんな事をふとした時に考えてしまう。今の自分なら戻れれば必ず。そんなありもしない夢物語を思い起こし繰り返していて何になるのか。それはもう終わってしまったことだ。

 

 本当に心の底から喉が潰れる程叫び拒絶したところで、終わってしまった事なのだ。

 

 都合よくその日に戻れる術など存在しない。一度上った日が沈み、もう一度上っても来るのは明日だけなのだ。決して昨日はやって来ない。悔やんだところで時計の針は逆転し、過去へと巻き戻ってはくれない。破り捨てたカレンダーは元には戻らない。積み上げたものは先にしか持っていけない。

 

「力や才能がどれだけあっても、どれだけ積み上げても、あの日などには戻れない! 戻りたくても、先にしか進めませんの! その日できなかった事をできたには変えられない! なら二度とそんな事はさせないように積み上げ続けるしかないでしょう! 貴女だって知っているはずですの! 見て来たはずでしょう! 才能なんて力なんて言い訳もせずに進み続け積み上げ続ける愚者の姿を!」

 

 自分には多くのできない事があると知っている。自分には欲しいそれがないことを知っている。それでも進む。躙り寄る。できなかったそれを次はできると言うように。どうしても欲しかった才能がなくてもやり切ると決めて。明日に向かって飛び続ける。頭の中にしかない思い出ではない。今目にしているものを掴む為に。垂れた目をより垂らして引き金を引き続ける時の鐘の姿が側にある。言い訳なんてしてられない、落ち込んでなどいられない、立ち止まってなどいられない。多くの壁があると分かっているからこそ、それを越えるために。己が信じる未来のために。ただ横へと並ぶために。

 

「……イチがなに? あの日に戻れないなんて分かってる。でもまだあの日を壊した奴がいる! この世界のどこかでまだのうのうと生きてる! 消す消す消す消すッ! 誰も助けになんて来なかった! だからわたしがやるしかない! 耳触りのいい言葉吐いて、わたしがここで引くと思ってるなら──」

「偽善者と言われても、ペテン師と言われてもそれでもわたくしは吐きますわよ。それを本物にするために。別に引かぬのならそれでいいですわ、好きに振る舞ってくれていいですの。それでもわたくしは今この瞬間を止めて見せます。今ここにはわたくしが居る。誰も来ない? 届かない? どこへだってわたくしは誰より速く行けますのよ。もう少し周りをご覧なさいな。貴女だけ? 貴女の中に巣食う復讐相手の幻影だけに目を奪われて、大事なものが見えていない」

 

 体に走る痛みを払い落とし黒子は立つ。目の前の少女を救うために。

 

「貴女が欲しいものを掴んだ時、その時周りに誰が居ますの? 貴女にだって分かっているはずでしょう、今の貴女の周りには多くの者がいると。貴女が悲劇に向かおうとしても、それを止めてくれる者や、貴女の未来を支えてくれる人が。そんな者達を振り切って、ひとりぼっちになる必要などないですのよ。力や才能がなくたって、近くに居る者は失くならない。あの方達はそんなに弱くはないですわ。きっとその時が来たとして、貴女一人でなど行かせません。孫市さんも、わたくしも」

 

 ブレない黒子の瞳が言っている。それは『絶対』だと告げている。ハムがどれだけ突っ走っても、その後を追う者がいる。力があるからではない。才能があるからではない。ハムがハム=レントネンだから。目にした救いを求める少女を救うために、白井黒子は必ずやって来る。気に入らない物語を穿つために、法水孫市は必ず飛んで来る。それがどうしようもなく分かってしまうから、ハムはただ強く拳を握る。

 

 強くもない両親がハムを守ったように、強さの有無など関係ないと言葉を紡ぐ黒子の言葉を否定できずに口を引き結ぶ。復讐相手を許せない。きっとこの先ずっとそうだ。それを追って走り続け、一人でもいいと思っているのに、なぜか誰かが付いて来る。それを鬱陶しい、邪魔だと言いたいのに、どうしようもなく追って欲しいとも思ってしまう。追って来る者に気付いてしまったから。一人は嫌だ。あの日から始まった寂しい日々を繰り返したいとは思わない。欲しいものを掴んでも、あの日と同じ日々が戻ってくると思ってしまえば、どうしようもなく寂しいのだ。

 

 だからハムは歯噛みした。

 

 なぜそんな光を見せつける。なぜそんな希望をぶら下げる。知ってしまったら、見てしまったら。目を逸らしても頭にこびりつく。

 

 時の鐘を裏切ると決めた時、自分以外の全てを切り捨てたはずなのに、第一位や第二位や、関係ない黒子にまで死を叩きつけようとしているのに、お前には誰も殺させないとこれまで来なかった使者が飛んで来た。

 

 そんな望まぬ事をしなくても、力になってくれると言うように。

 

 そんな事を言われたら、見せつけられてしまったら。

 

「だったら……やって見せてよ。あの日のわたしじゃないわたしを止めて見せてよ。失くならないって教えてよ。悲劇を捕らえて見せてよくろこッ!」

「勿論ですの」

 

 感情を吐き出しながらも、身に刻んだ暴力を正確にハムは振るい抜く。遠慮もせずにヒビの入った黒子の脇腹へと拳を振るい、肌に触れた瞬間、皮一枚で横に逸らされた。効率よく相手を壊すが故の狙いの予測。

 

 だが、弾かれる事も承知の上。弾かれた勢いを利用して、足を軸に回り振るわれた拳が、黒子の肩に突き刺さる。ゴギリッ、と痛い音を上げて、大きく床を転がり離れた黒子を睨み、ハムは足を止める。大きく開けた距離。黒子を穿つのにもう躊躇も遠慮も必要ない。ただ最速で命の灯火を消し去るのみ。腰に差されたゲルニカM-002へ右手を伸ばすハムを目に、黒子は太腿の鉄杭に右手を伸ばす。

 

「遅いッ! 当たる訳ない! 投げて当てる気!」

 

 抜き放たれるゲルニカM-002。銃口は狂いなく黒子へと向き、撃鉄を弾こうと動く止まらぬ復讐者の手を目に、風紀委員(ジャッジメント)の矜持を汲み静観していた一方通行(アクセラレータ)垣根帝督(かきねていとく)が一歩を踏み出し、そのまま止まった。

 

 銃口は火を噴かない。

 

 ドブリッ! と血を吐き垂れるハムの右腕。肘を貫き腱を切断している白銀の鉄杭。

 

「は……ッ⁉︎」

 

 早撃ち。銃を抜き放つ動作すら省略し、タイムラグもほとんどなく触れるだけで鉄杭を空間移動(テレポート)させる高速の御業。空間移動(テレポート)の厄介さは十分ハムだって理解しているつもりだった。だが、それには高度な演算能力が必要とされ、極度の集中力が必要とされる。それを極限状態での土壇場で、ぼろぼろの体で、能力があろうとただの学生が。

 

 合致しない。初めからそうだ。風紀委員(ジャッジメント)の技術の中に紛れるハムもよく知る傭兵の技術。生かす技と殺す技。その二つが入り混じり、新たな何かを作り上げる。能力と技術の混合。技術で能力を統制する。静かに佇む黒子が右腕を振り、撃鉄を弾くように鉄杭に触れたと同時にハムの膝に穴が空く。

 

 ぶちりと千切れる膝の腱の音と痛みにハムは歯を食い縛り、前に倒れる勢いを利用し黒子の体に飛び付いた。こんなところで止まれない。輝きを知っても、暗闇を追うのを止められない。向かう先に素晴らしい一瞬が待っているなどハム自身だって思っていない。望むものを掴んでも、己の中の暗雲が晴れるだけ。始まるのではなく終わるだけ。一人は嫌だ、でも追えるのは自分一人。身の内で尾を食らう蛇のように巡る矛盾した感情を、自分一人ではどうにもできない。

 

 だから必死には必死を返すように。止まらぬ者を止められるならやってみせろ。『絶対』はあるのだと、本当にあるなら見せてみろ。命を奪わず悲劇を掬い上げられるなら──。

 

「くぅろこォォォォッ‼︎」

 

 輝きの詰まった小さな少女を食い破るように、ハムは大きく口を開け牙を剥く。銃がないなら、拳を。拳がないなら噛み付けばいい。少女の首筋へと目を光らせ、ガチリッ、と噛み合うハムの牙。

 

 虚空を噛み締めた感触に強く目を開く。

 

 最初にハムが嵌められた手首の手錠を握り締め、弦を弾く鉄杭の音が膝を折った。触れられたのは首の薄皮一枚。反射。己が意思に関係なく動きを掌握されるハープの音色。悪魔すら捕らえる能天使。手を差し出し床にヘタリ込むハムの手首に鉄杭が移動し、手からリボルバーが零れ落ちた。

 

「……言いましたでしょう? 『時の鐘(ツィットグロッゲ)』を捕まえられなかったことはありませんと」

「……そうやって、他の悪も捕らえてくれるの? ……誰も気付かないような悪を」

「どこに隠れていようとも、必ず引き摺り出しましょう。これまで誰も来なかったからなんですの、わたくしは来ますわ。絶対」

 

 待っていた輝きが目の前に立っている。ただ善を吐くだけでなにも実を結ばなかった者とは違う、懸けた全てに同じく全てを懸ける者。小さな小さな輝きを掴んで放さぬ者。正しい事を、素晴らしい事を取り零さずに実行するのは至難だ。それを無理と言わずに飛び込む少女に、へたり込んだまま腕を引かれてハム=レントネンは顔を上げた。

 

「あっ」

 

 ──ガシュリ。

 

 視界に朱色が爆ぜて混じる。ハムの頭の左で結ばれていた髪の束が宙に散り、抉れた肉片を弾き床に銃弾が跳ねた。

 

 大きく裂けた額からは血が溢れ、真っ赤に染まった視界の中でハムはつまらなそうに瞳を泳がす。黒子に手を引かれ僅かに軌道が逸れたのは不幸だ。見えてしまうから。遠く通路の向こうで狙撃銃を構えた人影の肩口で輝くスイスの国章と深緑の軍服。

 

 名前も気にしていなかった時の鐘の二番隊の一人。同じスイスの裏切り者。

 

 口封じ。裏切り者をただ泳がせる訳がないとハムも分かってはいたが、あまりの手の速さに笑う暇もない。裏切り者の末路などこんなもの。話を持って来た自己愛者の微笑みを思い出し奥歯を噛む。そもそも約束を守る気などなかったのだと、気付いたところで遅過ぎる。スイス海軍、死の機会、復讐相手、何より欲する薄暗い輝きをぶら下げられ、飛び付いたのが間違いだ。ダメだと分かっていながら禁断の果実に手を伸ばしてしまい、一口でも齧ったら後は楽園から追放されるだけ。

 

 目尻に溜まった雫を払う力はハムの腕には既になく、ぼやける視界で最後に眩い少女の顔を見ようと目を動かし、その違和感に目を細めた。

 

 息を吸い、息を吐く。ただ静かに呼吸を繰り返す白井黒子の姿に目が奪われる。

 

 鉄杭の早撃ちの時と同じ。身を滑る血の水滴と汗も、痛みさえ意識から滑り落とし、瞬きもせずに一定のリズムで息を吸い、息を吐く。感情さえ顔に浮かべず、ただ瞳に輝きを灯す姿は時が止まったような静寂の世界。太腿から鉄杭を取り出し、緩やかに前に差し伸ばされた黒子の手の動きに息を飲む。

 

 当たる距離じゃない。狙撃手は五〇〇メートルは離れている。黒子の空間移動(テレポート)の限界の距離なら、ハムだって知っている。それなのに、無理だと声に出せず、ハム=レントネンも、一方通行(アクセラレータ)も垣根帝督も動けない。

 

 その静か過ぎる白井黒子の佇まいに、当てると言ったら当てる者の姿を見たから。

 

『あら、貴女だって狙撃手よ』

 

 時の鐘のボスが白井黒子に言っていた。見えている景色に点を穿つ。黒子自身が狙撃銃。弾丸はその手に握っている。だから後は引き金を引くだけ。息を吸い呼吸を止める。頭の中で放った想像の弾丸が、目に見える狭い世界を走り着弾するのに合わせて鉄杭を指で軽く叩く。

 

 届かなかった彼に届いたように。目で見える全てを掬い取り、必要なものを掴み取るため。大事な者に並ぶため。

 

 狙撃(テレポート)

 

 遠くで響く叫び声を聞き流し、黒子は大きく息を吐く。途端どっと溢れる汗を拭って。

 

「肘を撃ち抜いただけですのに、我慢の足らない方ですわね。貴女やゴリラ女を少しは見習って欲しいですの」

「くろこって……なに者?」

 

 血と涙でくしゃくしゃなハムの顔に見上げられ、黒子は呆れたように肩を竦めると、蘇ってきた脇腹の痛みに口の端を痙攣らせつつ腕に巻かれた緑の腕章を引っ張り上げた。何度も口にしているそれを告げるため。目にした者が忘れぬように。

 

 白井黒子はここにいると。

 

風紀委員(ジャッジメント)ですの」

 

 悪魔さえ捕らえる能天使。風紀を守る正義の味方。学園都市の小さな狙撃手。少なくとも、並びたい者に一歩くらいは近付けましたわね、と安堵の息を吐く黒子の耳に嬉しそうに弾むキーボードの音が返され、黒子は静かに優しくインカムを小突いた。

 

 

 

 

 




次回、狙撃都市最終話。ようやっとシグナルの顧問をちらっと出せるかもしれない。

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