「いいか、大丈夫だ。その防護服は防弾性能も防刃性能にも優れてる。時の鐘の軍服や学園都市性の
「分かってるけどよ……、もし砲弾だの爆弾が足元に落ちたら?」
「時間に余裕があったら、手榴弾くらい投げ返すなり打ち返すなりしろ。戦車の砲身でも向けられたら避けるか祈れ。それか砲塔の中にでもぶっ放してやればいい。大口開けて待ってるアホ面にぶち込んでやれよ」
「全然安心できねえんだけど……なんでそんなに落ち着いてられるんだ? 法水も
「……分かってる。窓から離れて頭を引っ込めてろ。黒子、青ピ、お前達もあまり外を見るんじゃない。窓は開けるなよ。川なんて眺めても死体が流れてるだけだ」
舌打ちと共に紫煙を吐き、短くなった煙草を床に押し付け新たな煙草を加える。幸いにもトンネルが崩されるような事はなく、トゥーンも越えた。これも戦場として最初の峠を越え、膠着状態が生んだ数日間で一定の安定が生まれたが故だ。激戦になっている中を流石に電車で通り抜ける事など出来ない。亀が甲羅の中に首を引っ込めるように、反乱軍がその姿を影に潜めて動かないおかげで、最初に張られていた緊張の糸が緩んだことによって生まれている隙。それも多少の緩みではあるから油断できないが、ベルンまで行ければそれでいい。
「思ったよりスムーズに来れましたわね。どこかで検問でもされて止められるかもと思いましたけれど」
「物資を乗せた列車を小まめに止めるメリットがない。どこに反乱軍がいるのかも分からず、何より弾薬が不足しているのは圧倒的に反乱軍だろうからな。下手に止めれば標的になるだけだ。それなら走らせ続けてベルンまで行かせた方がマシだ」
途中で奪われる可能性があるにせよ、そもそもそんなのそこまで上手くいくものでもない。英国でもスイスでも、魔術や能力といった常識から外れた力が作用しているからこそ、これだけ楽に静かに済んでいるだけだ。ブリークでカレンが天井かっ開いた目立つ部分も、いらない死体なども詰めて燃やし切り離せたし、外観の見た目だけならそう変わらない。
「……慣れてますのね、孫市さんもカレンさんも」
慣れてはいる。戦場こそ我らが住処だ。ただ気に入らないのはその場所が故郷ということ。傭兵として仕事に行った現地の市民達の心情がようやっと分かった。虚無感と憎悪。彩られていた日常の崩壊と破壊者に向ける殺意。それに支配されないように奥歯を噛み、理性で感情を押さえ付ける。
冷静に冷徹に冷淡に。必死を込めて。
普段戦場でやっている事と変わらないと。必要な相手に銃口を向け引き金を引くだけ。何処でだろうとも。そう律さなければ心の内から感情が溢れて何本もの越えてはいけない境界線を貫きそうだ。黒子の方には目を向けず、腕を組み壁に寄りかかっているカレンを見上げて床を指で小突く。
「外を眺めても楽しくはないぞ。座れカレン」
「……ある意味今しか見れない景色だからな。今のうちに目に焼き付けておく。剣を握る意味を思い出せる。孫市も見ておけ。……忘れぬためにな。だいたい貴様は列車に乗ってから煙草を吸い過ぎだ。列車の匂いが貴様の匂いになっているぞ」
「俺の体臭は煙草と火薬の匂いかよ? 外よりマシだろうが。窓を閉めても這いずって来やがる。血と臓物と火薬の匂いよりずっとマシだ。ずっとずっと」
体をほぐすように伸びをしながら立ち上がり、窓の横に身を預ける。トゥーンからベルンまでアーレ川に沿うように走る路線。ベルンに近付く程に景色の荒れようは加速的に進んでいる。銃弾や砲弾の撃ち過ぎ、爆薬の使い過ぎで濁ったような空気の先、アーレ川は血を吸い取って色を変え、人の形をした影を浮かべている。
最初の一撃こそ全力で。強烈な反撃を喰らわぬ為に、抵抗する軍部や傭兵部隊を一気に叩いた結果がこれだ。裏切り者を内部に潜ませ、頭を刈り取り体を食い破る。残った者達は混乱の中一網打尽。邪魔をする為に立った一般人も含まれているのかもしれない。猛スピードで走り抜ける列車の中からは死体の詳細な情報など分からないが、一々それを知って足を止めてもいられない。
死体達は片付けられずに放置されて野晒しにされたまま、部分的に積み上げられて焼かれている。埋葬する行為自体が隙になるから。それと見せしめの意味も込めてだろう。死をその目で見る事自体多くはない。棺桶に納められ綺麗に死化粧を施された姿が見るとしても大体だ。手足が吹き飛び朱色で地面を塗装して転がる死体の野原と山を目にする事など多くはない。死を目にし誰もが一度は身を硬直させる。骨の爆ぜる音と肉の焼ける音。死臭に包まれたスイスで降る雨はどんな味がするというのか。味わいたくはない。
「どんな正義を掲げようが、地獄を作っていては話にならない。忌々しく悍ましい。……浜面さんも黒子も吐くなら今のうちにしておけよ。戦場に足を付けたなら吐いてる時間なんてない」
「もう吐き切って胃液もでねえよ……、混乱が治ると嫌でも冷静になっちまう。俺だって自分で決めて来たんだ。でも、少し甘く見てた……」
「そうですわね……戦争という言葉は知っていても、見るのとは雲泥の差ですの。戦争が始まったと学園都市に居る時は実感も薄かったですけれど……綺麗事を並べていると、えぇ、ハムさんに言われても仕方ないですわね。それでも……」
それでも吐いた言葉は変えないと、膝を抱えて組んだ腕を力を込めて握る黒子に目を落とせば口の端が小さく持ち上がってしまう。きっと上条が居ても同じ事を言うだろう。御坂さんが居てもきっと同じ。黒子のような人間が居てくれるからこそ、諦め切れずに腐らずいられる。
「青ピは大丈夫か?」
「規模はボクゥも初めてやよ? ただ質で言うなら似たようなもんやろ。孫っちの戦場も学園都市も。なあつっちー」
「認めたくはないがな。ただこう目前に晒されるとオレでもくそったれな気分にはなる。……孫っち」
「あぁ、ベルン駅に着いたら弾薬類を引き渡しつつ、その場からすぐに立ち去り連邦院に向かう。なるべく俺から離れるなよ、単独行動して捕まっても助けられんぞ」
ベルン美術館から連邦院までは徒歩で十分。全速力で走れば五分も掛らない。英国でのようなカーテナ=セカンドによる爆撃もないのなら、道はより楽であるはずだ。ただ問題は控えている兵の数が違うだろう事。キャーリサさんが一人しか居なかった時とはわけが違う。強力な援護も望めない。一回切りの出たとこ勝負。これほど分の悪い賭けもそうないが。相手の気を緩ませる手札が幸い此方には残されている。
「街に出たら先頭は俺とカレンで行く。青ピには
スイスで最高の傭兵部隊二つ。人数こそ軍よりもずっと少ないが、なぜ少ないのかと言えばそれで足りるからだ。数の上でどれだけ相手が勝っていようとも、戦場で一度に相手する数など限られてくる。ジャン=デュポンのように意識も視覚も共有している群という訳でもない。軍事演習で一旦でも力を見せ合っているからこそ、その差が足を、引き金を引く指を鈍らせる。学園都市で
ある意味で知らないからこそ立ち向かえる。知って立ち向かうのとは訳が違う。そういう意味では、戦場に慣れていない黒子も浜面もそのラインはとうに超えている。だからその点で言えば安心して背を任せられる。殺す技術が拙かろうが、それより大事な強い心を持っているから。
アーレ川が車窓から離れ、景色は崩れた家々に取り囲まれた。俺の故郷、俺を育て作った街。抉れた地面に焼けた大地の姿に自然と視界がぼやけてしまう。どうしようもない事は分かっている。今がやらねばならない時であると分かっていても、感情を理性で押さえ付けても蓋の端から零れ落ちる。ヨタヨタゆっくり俺の隣にカレンは静かに歩み寄って窓の外を眺めると、声にならない吐息を大きく吐き出した。
「……あそこのパン屋、黒パンが美味くてさ、
「……ショースハルデン墓地で、昔貴様と日本の肝試しなどと言うのをした時、あの後私はシスターにこっ酷く怒られたのだぞ? シスターに怒られた数少ない事の一つだ。まったく……嫌な思い出だ」
「……ボリゲン通りにロッククライミングジムがあってよ、ロイ姐さんやハム、クリスさんとかと行った事があったんだがさ、普段山登ってるから全然子供騙しみたいなもんで、潰れんじゃね? とかロイ姐さん馬鹿みたいな事言ってたけど……マジでさ」
「……グランド=カジノ=ベルン程喧しい所もなかった。たまには静かにしないのかと思っていたが、ようやく静かになったのだろうな……」
「……初めてスイスに来た時、今でも覚えてる、ベルン駅に着いて列車から降りられなかったんだ。ホームと列車の境目が境界線に見えた。その境目が薄暗くて底がないように見えたんだ……でもボスが手を引いてくれて、当時の時の鐘の総隊長がホームで待ってた。厳つい顔のおっさんだったけど、頭を撫でてくれて……飽きるまで居ていいってさ。どういう気だったのか……今でも聞いてねえや……」
「……なんだ貴様もか。私もシスターに手を引かれて列車を降りた。街を歩きベルン大聖堂までの道は忘れないな。貴様と何度街で顔を合わせる事になったか。
「はっ! そりゃそうだ。俺も同じく遠回りしてたからさ……そのせいで街の細かな路地も全部覚えちまったよ……」
「……お二人とも」
黒子に背を軽く引かれるが、顔は窓から離さずカレンも身動ぐ事もない。口からぽろりと零れてしまえば、ズルズルと芋づる式に細かな記憶の粒が溢れ出る。行きつけの酒場もパン屋も顔を知る人々の家もみんな元の形をしてはいない。口から思い出を吐き出しても、目から零す事はない。
その栓だけは緩めない。今落としていいものではない。
それはきっと、全て終わった時に。無言で背後の黒子を抱き寄せて口からは吐息だけを吐く。今は言葉はいらない。ただ近くに輝きがいて欲しい。壊れて欲しくなかった必死を得られなかった悔しさを埋めるように。何も言わないでくれる黒子に今だけは甘えて。
「馬鹿野郎、
「馬鹿は貴様だ、
「これから穿つさ」
「これから斬るとも」
だからほんの少しだけ街を眺める時間が欲しい。思い出の中にある幻想と現実の街を重ね合わせるだけの時間が。
息を吸って、息を吐く。一定のリズムで浅く細く。深く息を吸い込み息を止めて、抱き寄せていた黒子を手放し息を吐き出した。煙草を壁に押し付け消しながら。
原型を留めていないベルン=バンクドルフ駅を通り過ぎるのを車窓から見つめ、床に置いていた『
「鎧と剣は中に入れておけ。できる限り連中に紛れて連邦院に近づくぞ。戦闘は最小限が基本だ。カレンも青ピもちゃんとその派手な髪隠してくれ。髪のせいでバレたなんてなったら終わった後で剃るからな」
ヘルメットとフェイスマスクをそれぞれ投げ渡し身に付ける。見た目だけならほとんどスイス軍人だ。そうほとんど。心配があるとすれば一つ。
「黒子の背丈がな……こんなに小さくて細い正規軍人俺でも見た事がない。少年兵と言って通るかどうか」
「悪かったですわね、ならわたくしの背が伸びるまで待ちますの?」
「そうもいかない。無視してゴリ押すか? 一応列車内で一番階級が高かった奴の軍服は俺が貰ったしな、傭兵との混成軍だ、そこまで相手方も親しい連中ばかりじゃないだろうから、俺が気にしなければいいだろう。土御門、停車は任せた。浜面さん、黒子、青ピ、降りたらキョロキョロするな。首を動かすにしてもゆっくり周囲を確認する感じで、早歩きにならないように気を付けてくれ。銃の持ち方と構え方は教えた通り、撃たなくていいからそれっぽく見えるようにだけ振舞うよう意識しろ。いけるな?」
緊張からか無言で頷く二人を見回し、青髮ピアスと目配せしてフェイスマスクを顔に付ける。声帯模写ができる青髮ピアスと俺が駅内での対応役だ。だから階級章は同じものを。何より身バレしてしまった時、青髮ピアスの馬鹿力で力任せに包囲網を破るため。着慣れぬ軍服に身動ぐ音を背で聞きつつ、ペン型の携帯からインカムを外して耳に付けた。速度を落としていく列車の音を聞きながら窓の外を眺め舌を打つ。
ガラス張りのベルン中央駅、駅舎のガラスはその全てが砕け散り、大きな穴が幾つも空き、壁と天井の向こうに空が見えた。列車が止まり、出入り口の前で扉が開くのを待ち受ける。窓の横から出て来た軍人達を目に息を吐き出し、扉が開くのに合わせて足を出す。ようやく……ベルンに帰って来た。
「ご苦労だったな。問題はなかったか?」
「ああ。と、言いたいところだが反乱軍から軽い襲撃を受けて車両を一両切り離す羽目になった。連邦院の守りを少し固めるそうだ。取り敢えず至急弾薬箱を二つ届ける。後はそちらで分けてくれ」
「なに? そんな報告は受けていないぞ」
背後の軍人に先頭の男は目を送り、通信機に手を伸ばす奥の軍人を目に耳へと手を伸ばしインカムを小突く。誰に連絡を取るわけではない。素早くモールス信号でライトちゃんに合図を送る。
「おかしいです、通信が」
「軽い電波障害だ。どうも向こうもいよいよ痺れを切らして来ているみたいでな。どうやっているのか知らないが、反乱軍の奴らも一枚岩じゃないらしい。戦いの準備をした方がいい。いよいよ奴らを潰す時だ」
「ああ! お前達弾薬を運び出せ!」
俺達が下りるのと入れ違いに列車へと入って行く軍人を尻目に、インカムを小突きライトちゃんに礼を返す。学園都市でもないスイスでは、近間の電波を乱すぐらいしかできないが十分過ぎる。小さく息を零しながら更に足を進めるが、「おい」と声を掛けられ纏め役であるらしい軍人に肩を掴まれた。
「なんだ?」
「いや、お前少し声がおかしくないか? どうした? それに見慣れない奴がいるが」
黒子の方へと顔を向ける軍人の言葉に、肩に置かれた手の感触に感覚を張り詰めさせるが、隣で響く咳払いが俺の気を緩める。
「そいつは煙草の吸い過ぎだ。街からの血の匂いが列車の中にまで入って来てな。やめておけと言ったのに、手が足りないんで新人を使わなきゃならないし、襲撃も重なって尚更な。お前からも言ってくれ、口からじゃなくて銃口から煙を吐き出せってな」
声の変わった青髮ピアスの話を聞き、呆れたように肩を竦めて軍人は離れていく。急ぎたい気を抑え込み普通を装って歩きながら、青髮ピアスを肘で小突いた。
「助かったよ、なかなか上手いフランス語だ。お前実は俺より多くの言語話せるだろ」
「
「……行ってもおそらく本部にはもう誰もいない。時の鐘の本部に武器庫がある訳じゃないからな。武器庫と連邦院なら連邦院の方が近い。このアドバンテージを失う方が惜しい」
「では、私はここでお別れですね。孫市、カレン、武運を。私はいつでも見守っていますよ貴方達を。お互いにすべき事を終わらせましょう」
弾薬箱の一つを握り、別れ去って行くララさんの背を見送りながら、運転席から下り歩いて来る土御門と合流する。ガラスと瓦礫が散りばめられている床を踏み締め歩みは止めない。
旧ベルン市街。
世界遺産にも登録されている古い街並みは見る影もない。赤い屋根は四散して道路に転がっており、バスや車が鉄屑となって燃え鉄の匂いが空気に混ざり、フェイスマスクをしていても、血と肉と鉄の焼けた匂いが口の中に忍び込む。列車の中より鮮明に。死が喉の奥をぬるりと舐めた。
道路の上で固まる黒い焼け焦げた人型の固まりや、道路に捨てられ身を横たわらせている鼓動を感じない人影に目を流し、浜面さんの小さな嗚咽する音を聞きながら息を吐き出し気を鎮める。
「あまり……周りを見るな。前だけを見ろ。……足を止めたら動かせなくなる。戦場の死に飲まれるなよ」
振り返らずにそれだけ告げる。見知った顔を見つけてしまったら、それを考えるだけで頭に来る。俺の必死が崩れていく。本来なら綺麗な白い肌を見せる連邦院は煤に塗れて形を失い、近付けば近付く程肌がひりつく。
「……孫っち、気付いてるか?」
「気付いてるさ。そこまで頭に血が上っちゃいない」
連邦院に近付くほどに軍人や傭兵の影が減っている。普通逆だ。守りの要所、扇動者であろう『
罠。
その一文字がきっと語り掛けて来た土御門の脳裏にも浮かんでいる。壊れた街や野晒しの死体。罠だと思えばこそ、これは一種のパフォーマンスのようにも見える。ヴラド三世が、かの有名な串刺し公が
「英国の時と同じか?」
「それより不気味だ。キャーリサさんにはまだ迎撃する意志があった。ただこれは──」
お茶会に客でも招いているのではないかという程静かで気味が悪い。いつしか軍人の影は消え、残されたのは死が蔓延する戦場だけ。死体達の木々から漏れ出た肌に張り付く淀んだ空気を振り払い、連邦院の崩れた門を前に足を止めた。
「……土御門」
「言わなくても分かっているさ。これは引いた方が吉だ。青ピ」
「死臭の所為で鼻が効かへん。でもな……おるよ、奥に一人」
音で察したのか。それとも崩れた門の奥から滲む死の気配を感じてか。青髮ピアスの口から齎される事実に、背中に冷たい汗が伝った。張りぼてを着込んでいても仕方ないと、纏っていたスイス軍の軍服を投げ捨て懐の
「…………カレン」
「……なんだ?」
「噂は……本当だった」
────バギリッ‼︎
弾薬庫を拳で砕き、軍服を破り捨て鎧を纏ったカレンがロングソードを鋭く大地に突き立てた。大地に刻まれたヒビが崩れた門を壊し切り、その奥で、廃墟となり開放的となった連邦院を前に待っている人影が陽の光に当てられ足元に伸びる。
黄と紫のストライプが走ったズボンを履いて優雅に足を組みティーカップを握ったプラチナブロンドの髪を持つ男。
門が崩れた音にも眉尻を動かす事なく偉そうな椅子に腰掛けたまま動かない。椅子の横には大剣、ツヴァイへンダーが突き立てられ、それ以外に武器らしい物は一つもなかった。叫ぶ代わりに荒い吐息を繰り返し、弱く一歩を踏むカレンの足音を目覚ましとするように、今昼寝から起きたような気楽さで腕を伸ばすと、ティーカップをそのまま床に落としてゆらりと椅子から身を起こした。
「ナルシス=ギィガァァアアッ‼︎」
砕けたカップの破片を震わせる咆哮がカレンの口から吐き出され、踏み出した足が大地を割った。
それでもカレンが飛び出さなかったのは、ナルシスが迎撃の構えも見せずに、興味なさそうにカレンを見たから。言葉も発さず、剣も握らず、ただ静かに佇み目を流す。
それだけ。
死が蔓延る戦場の中で、バチカンにいる時と同じように柔らかな空気を纏ったままだからこそ、そのどうしようもない違和感に吐き気を覚える。その目には何が写っているというのか。軍服を着ていても意味はないと理解してか、変装を解く学園都市の面々を見ても知っていたかのようにナルシスの顔は変わらない。
ただその顔が俺を見ると、口の端を小さく持ち上げ微笑んだ。いつもローマ教徒に向けている顔を自然に浮かべる。
「法水孫市、待っていたよ。君なら必ず帰って来ると思っていた」
「……なに?」
「必要なものは必要とする者のところへとやって来るんだ。だから君は俺の前にやって来た。いや、デートで女の子を待つ気分とでも言うのかな? わくわくしたよ。君が帰って来るまでね。ティータイムを楽しむだけのものが揃えられないのが少し残念だったけど、それももういい。君がスイスに着いたのだから」
「意味が分からないんだが……必要なもの? 今のこのスイスがお前に必要なものなのか? これがかッ! お前が『
なにが必要であれば戦争など起こせるのか。仮にも聖職者がすべき事か。理解及ばぬ事柄に疑問をぶつけるが、
「そうだけど?」
あっけらかんと当たり前のことをなぜ聞くんだと言うように首を傾げるナルシスの熱のなさに、怒るどころか力が抜ける。
「『強さ』、生きる上でなぜ人はそんなものを望むのだろうね? 強い弱いという概念はあっても、最強や最弱なんて人によって変わるだろう? ただ『最強』という称号は甘美なものでね、それが手にできるかもしれない可能性をちらつかせるだけで『強さ』に芯を置く者は思った以上に食い付いてくれる。最たるモノとは絶対だ。誰もが絶対が欲しいんだよ。他のものを捨ててもね。『最強』だけの話じゃない。必要とする者に必要な餌を与えれば喰いつく。釣りと一緒だ。家畜の世話と言ってもいい。
「ナルシス=ギーガー……ッ、貴様いったいッ!」
「なんだカレン、いたのかい? てっきり英国で死ぬと思っていたんだけどね。神の僕が聞いて呆れる。それでも
「な……んッ、貴様ッ! 貴様はッ‼︎」
今気が付いたと言うように蔑んだ目でカレンを見下ろし、同じように学園都市の面々を見て驚いたようにナルシスは目を瞬く。一度目を流した癖に、ようやく視界に入ったと言うように。
「おやおや、驚いた。孫市のご友人かな? てっきり孫市は一人で来ると思っていたんだけどね。俺が思うより学園都市での学生生活は楽しいようで何よりだ。うん、今ならお帰り。傭兵の職業体験としては十分だろう? 列車は辛うじて動いているんだ。イタリアでもフランスでもドイツでも行って、暖かなベッドで、ミルクでも舐めて枕に頭を乗せて今日の事は忘れるといいさ。その方がいいと思わないかい孫市? 学生の命を奪うのは悲しいからね」
「……貴方頭おかしいんじゃありませんの? 命を奪うのが悲しい? 周りを見てから言いなさいな。孫市さん、この男ッ」
イかれている。教徒に教えでも解くかのようにいつもを崩さない。戦場に慣れているのとは違う。そもそも戦場にいると思っていない。気負わず、焦らず、自分の庭のように連邦院の床を踏み鳴らし、ナルシスは軽く天を見上げて顔を下ろす。
「いい目をしているね。迷いがない。瞳の奥が腐っていない。この戦場の中に居てそんな目をする者は少ない。殺す気がないね。まるでナイチンゲールだ。生きる事、生かすことにこそ命を賭すかい? 孫市が好きそうな子だね? ガールフレンドかい? 初々しいね、その顔もう少し見せておくれよ」
一瞬で距離を殺し、黒子の顎に手を添えて引くナルシスの手を払う事も出来ず、黒子はただ突っ立ったまま。ナルシスの手が死を手繰り寄せると分かるからこそ。力も込められていないナルシスの手に死が握られている。
青髮ピアスも、土御門も、浜面さんも動けず一呼吸置く間に
────ギャギリッ‼︎
「孫市もカレンも野蛮に育ったものだ。オーバドゥ=シェリーの所為か、ガラ=スピトルの所為かな? 時の鐘も目的を果たせず可哀想に。遂に戦場に悪魔は生まれ出なかった。特別な者がそう生まれ出るのか、はたまたなんでもない中に紛れているのか。色々試していたようだけど徒労だよなぁ。実験に巻き込まれた哀れなモルモット達よ。君達はなんでもないまま死んでいくのだと思えばこそ、そこらの小石と変わらない」
「なに言って──」
「君達に神の御加護がありますように。君達に幸せというものがあるのなら、それは俺に殺されるという事ぐらいのものさ。だから俺が祈ろう。俺が慈悲を与えよう。石をパンに? 血をワインに? それなら俺も変えられる。生者を死者に。死があるから生がある。俺が君達を生かしてやろう。さあ俺だけの神話を積み上げようか」
ツヴァイヘンダーが引き抜かれ、ひゅるりと風が鋭く鳴いた。
「孫っち‼︎」
「違うッ! 青ピッ‼︎」
飛び出そうとする青髮ピアスの前に突き出した軍楽器が弾かれて、腕が一本宙を舞った。青髮ピアスの腕が一つ。石畳の上で軽く跳ね、揺れ動く大剣に細切れにされ腕はこの世から姿を消す。
「まずは必要のないものを片付けよう。小さな頃に習っただろう? ゴミはゴミ箱に。掃除の時間さ。俺は綺麗好きなんだ。世界を真っさらに。白いシャツは心地がいい」