二メートル近い大剣を指揮棒のように軽やかに振るう騎士を横目に歯を食い縛り、コツリッ、と石畳の上に
(なんだこれはッ⁉︎ ……ハリボテ……いや、なんだ?)
ナルシスを包むように走り抜けた振動が、ナルシスの輪郭を伝えてくれるが得られる情報はただそれだけ。中身の詰まったツヴァイヘンダーを握る男の中身が分からない。内臓も骨も手に取れず、姿形はそこにあるのに風船のように空っぽだ。
「カレンッ! ナルシスが変だッ! 中身がないぞ!」
「中身がないだとッ? なんだそれはッ! 待て、いやッ、ありえんッ⁉︎」
一度空へと目を向けて、カレンが強く否定する。空に広がる青空に何を見たのか知らないが、同じ空降星のカレンに分からないのなら、ここで理解できる事でもない。歯噛みしながら
「おや孫市、驚いたな。少しだけね。見た目は変わらずまた何か磨いたかい? 会う度に君はなにかを積んでいる。愛嬌はあるが滑稽が故にだ。愚か故に愚者とね。そもそも本当に尊いものというのは手に出来ないものなのさ。手に出来た時点でその価値は下がるのだよ」
「青ピ下がれッ! せめて腕が生えるまでッ!」
「ああ、叩き斬るのは私の役目だッ! そのニヤケ面引き裂いてくれるッ!」
青髮ピアスが少し後退するのを目にしながら飛び込もうとするカレンに待てと言うため口を動かそうとするも、騎士の踏み込みの方が一手速い。床を踏み砕き突撃するカレンの影がナルシスの前に滑り込むが、振り下ろした剣先は大剣に流され横に逸れた。息を鋭く吐き出して振られるカレンの刃が、磁石が反発するかの如く逸らされ続け、回数を増す毎に体のブレが大きくなる。それでも剣を振れるのはカレンの体幹の良さがあってこそであるが、それこそ悪手。
「剣で勝つ気かい? 俺に。授業料は高くつくよ」
「ぐ──ッ⁉︎」
剣を上に流され伸び切ったカレン目掛け、ナルシスの振り下ろしの一撃が竹を割るようにカレンの脳天に向けて落とされる。
────ズギャンッ‼︎
衝撃と振動が砲撃のような音を生み、砕けたカレンの鎧が地に落ちる。からりからからと転げ回る鉄の破片を目にしながらナルシスの微笑は一ミリも揺らがず、足を伸ばす俺を捉えた。
「足癖が悪いね孫市。流石は元路地裏を寝床にしていた
間一髪。カレンの体を横から蹴り抜き打点をズラす。
床に落とされたツヴァイヘンダーの衝撃に乗って距離を取りながら、額を剣に擦ったのか頭から血を垂らすカレンが地を転がり離れるのを見送り、背にする『
「カレンッ! ナルシスの魔術を知ってるだろ! 土御門に話せ! 魔術の打開はそっちに任せた!」
「ッ! 無論知っている! だがそれ以外も知っているからこそ、そもそもおかしいぞ! さっきの一撃を思い返せ!」
大地を睨むカレンの目を追い、大剣の落とされた地面を僅かな時間捉える。
「俺の剣の動きを制限する魔術というのがそもそも気に入らなくてね。『
「そんな事お前に聞いてねえ!」
ナルシスに向けて
「俺には必要ないからさ」
宙に一瞬留まる大剣を、もう片方の手で掬い上げナルシスの大剣に
「ほう? これが
痛みの声を口から漏らさず、穴が空いたはずの手は緩まない。血は噴き出さず、皮膚も剥がれず、スルリと空を泳ぐようにナルシスの手首から鉄の杭が滑り落ちる。コツッ、と地を叩く鉄杭の音を空を切る刃の音が飲み込んでしまい、刃が俺の身を薙ぐ音が更にそれを飲み干してしまう。
「孫市さ────ッ⁉︎」
黒子の悲鳴が耳を過ぎる。体の力を抜き弾かれる勢いに身を任せた。
「づッ⁉︎」
ギャリッ! と鉄同士が噛む甲高い音が空を震わせ、俺の体を地に弾く。身を捻り背の『
中身がない。目に見えていてもそこに居ないような感覚。
分からないが最も恐ろしい。銃を怖がりこそすれ傭兵が戸惑わないのは銃を知っているからだ。脅威であってもその中に詰まっているものもよく知っている。中身の分からない脅威こそが最も危険だ。
「……カレンッ」
「ナルシス=ギーガーの魔術は丑三つ時を利用したものだ! スイス人は幽霊の存在を信じないからな! その矛盾を利用してそこにいるのに存在しない状態を擬似的に作り出している! だがそれはッ!」
丑三つ時。午前二時から二時三十分の三十分間を指した時間。今がまだ夕暮れ前の時間帯である事を考えれば、その魔術はそもそも利用できないはず。だが実際に黒子の鉄杭はすり抜けている。常識では考えられない現象を生み出しているものは必ずある。ただ原理が分からない。
「お喋りが過ぎるね
拾い上げた鉄杭をナルシスは軽く放り捨てた。ゴミをゴミ箱に投げるように。空を裂き弾丸のように突き進む杭を止められない。手に持つのは信頼できる武具であっても、口から弾丸は飛び出さない。腰に差されたゲルニカM-002に手を伸ばすが。
(くそッ! 間に合わねえッ!)
「……腕は生えたわ。女の子の顔に投げていいものやないね。孫っち。相手が何か分からんでも、時間は稼がなきゃあかんよね?」
「青ピ、挟むぞ! 浜面さん! 土御門‼︎ 俺と青ピは気にするな! 人差し指を迷わず押し込め‼︎ 黒子──ッ」
姿を消す黒子。
(どうするッ! 決定打を与えられないッ! 向こうは攻撃にだけ専念すればいいッ、法則はなんだ? どれだけ時間はあるッ? そもそも──ッ)
罠だと察していてはいたが、連邦院の近くに足を踏み入った時点でおそらくほとんど詰んでいた。俺達の動きがバレていようがバレていまいが、俺達を連邦院まで誘い込むのがナルシスの策かッ!
戦っても負けぬ自信があるからか? そんなのやってみなくては分からないと言いたいが、おそらく勝敗は関係ない。ナルシスは俺を待っていたと言っていた。なぜ俺を? 俺一人で戦況が大きく変わる訳でもない。ただ俺も時の鐘。いざという時の不安材料をただ消したいだけなのか。上条がいれば魔術的な要因などほとんど無視する事ができるが、ないものに期待しても仕方がない。答えの分からぬ問題に堂々巡りする頭を強く振り、
「無駄だと半ば分かっていながら突っ込んで来るのか。孫市、君ならもう分かっているはずだ。状況も相手も最悪。これが覆ることはない。君とは話す時間を設けよう。ただ集ってくる蝿は別だがね。何をそう必死になるのか」
突き出した
「言ってろッ! こっちには大した参謀がいるからな! お前の魔術のトリック今に暴いてやるッ!」
「その為の時間稼ぎに己の身を粉にするか……馬鹿らしい。他人に頼るなんて最も愚かな行為だ。チェスの駒を進めるように使ってやるぐらいが丁度いい。『
「お前──ッ⁉︎」
列車の中で確かに俺は軍人に向けてそう言った。ありえない。どこでバレた? 遠隔の通信はライトちゃんに乱してもらい、無事だった相手は一人もいない。死体は切り離した車両と共に焼き、辛うじて生きていた者もトンネル内に放り捨てた。ここまで最短でやって来た。ナルシスが知る機会などほぼ皆無のはずッ。
「ほら孫市、古の傭兵の技をどう捌くのかな?」
振り落とされる大剣を軍楽器の側面で滑るように受けはするが、身が引っ張られ態勢が崩される。
(お──もぃッ⁉︎)
着る鎧と剣の重さと体重を乗せたような振り落としを流せはするも、その重さを返し切れない。それならそれでと地を転がるが、顔の横に切っ先が突き刺さり砕けた地面の飛沫が頬を裂く。その剣を絡め取るように軍楽器を突き出すもナルシスは避けず。顔に
「技の練度が上がったようで何よりだ。ただ、うん。それでどうする?」
「ボクの事無視せんといてくれん?」
突っ立つナルシスの体を削ぐように、血管の浮いた青髮ピアスの蹴りがナルシスの体を横断する。死角から放たれる地から隆起するような蹴りに目もくれず、疲れたように眉の橋を僅かに落とすと、振り上げられたナルシスの剣が青髮ピアスの足を刈り取る。
「能力者に用はないんだよ。
「孫っちッ! 今ッ!」
「分かってるッ!」
死角だった。ナルシスからは完全な死角。最初目にしながらも気付いていなかったかのように、全く学園都市の者達を気に留めていないナルシスが青髮ピアスの動きをどう察知したのか。青髮ピアスもまた相手を殺そうという気がない。殺気に反応した訳ではない。
その完璧さが、歪みを生む。まるで死角であろうが見えているような動きが。青髮ピアスの叫びは隙だからナルシスを討てというものではない。俺と青髮ピアスは知っている。一度同じような相手とやっている。不死身の傭兵部隊とフランスのアビニョンで。だからこそ。
「ナルシスお前見ているし見ていたなッ‼︎ 黒子一度空に上がれ! 周囲に目を向けろ! そこに必ずいるはずだ!」
場を見ている何者かが。魔術はその者にしか使えないようなものではない。ある意味で必要なものを揃えて手順を踏めば誰であろうとも基本的には使えるもの。だからこそ、
「……孫市さん、確かに。手も届かぬ遠方に何人も双眼鏡を手に持つ者が」
「『
意識と視覚、記憶に命まで共有する群にして個である仏国
だが腑に落ちない点が一つ。それをナルシスも分かっているのだろう。落胆の表情を顔に浮かべ、つまらないと言う代わりとするように地に唾を吐き捨てる。
「減点一だ孫市、『
「チッ、そうやってベラベラ自分の事を喋るのは
「誤解されるのが嫌なのさ、俺に他の者が混じっていると。俺のものに勝手に手を出されるのも気に入らない」
周囲を囲む者達が持っているのは双眼鏡であって銃ではない。己が力を振るう場では、己の力以外は不要。他の力が場を掛けることを良しとしない。これ見よがしに大剣を大きく振り上げて肩に掛けるナルシスは余裕を崩さず、そしてそれを崩す事は出来ない。
土御門とカレンは歯噛みし、浜面さんは銃を構えたまま固まっている。剣も銃も能力も通らないなら倒す事は叶わない。首謀者が目の前に立っているのに、それを刈り取る事ができない。絶対に死なない害虫がいるならそれこそ最悪な事はない。終わりもないなら始まらない。ナルシスにとってそもそもこれは戦いではないのだ。
「さあそろそろ子供と戯れるのも飽きた。孫市、もういいだろう? さっさと『鍵』を渡してくれるかな?」
「……鍵?」
「おいおい、とぼけるなよ。貰っているだろう? オーバドゥ=シェリーから。君が持っているはずだ」
ナルシスの言っている事が分からない。『鍵』などと言われても、俺が持っているのは『
「ロイ=G=マクリシアンも、クリス=ボスマンも、ガラ=スピトルも持っていなかったからね。後は君ぐらいのものだと思って待っていたんだけど当てが外れたかな?」
そう言い微笑むナルシスの顔が視界の中で途端に乱れた。何故今その名前が出るのか? 持っていなかった。わざわざそんな事を言うのは──。
「お、まえ……ッ」
「君の想像に任せるよ。答えが欲しいなら『鍵』を寄越せ。持っていないのなら、遊びも終わりだ極東の狙撃手」
ナルシスの剣気が膨れ上がる。大剣を握る音が響き、ドロドロとしながらも鋭い、ヘドロの中に刃を詰め込んだような空気が空間を歪めた。
声が出ない。呼吸も拙い。ナルシスが怖いのではない。ただ恐ろしい。スイスに立ち入ってから、俺の狭い世界は崩れてばかりだ。息を吸っても息苦しく、スイスでの時を刻むだけ『これまで』が喪失してゆく。銃を握り、引き金を引くのもこれまでを守り新たなものを築くため。『これまで』が消えてしまったら何の為に引き金を引けばいい? 『これから』の為? 『これから』って何だ? もしも全てが失せ自分だけになったなら、『これから』なんて意味はない。それは俺の欲する人生ではないから。
「ぅぁッ、黒子……俺が突っ込んで時間を稼ぐ。順繰りに土御門達を空間移動させてこの場から離れろ。スイスから脱出してもいい」
「孫市さんッ⁉︎ それはッ⁉︎」
「……俺には二つの世界があるらしい。スイスと学園都市。どっちも俺には大事だよ。大事になった。……ナルシス=ギーガー、スイスがお前の手に落ちようが、もう一つにだけは手を出させない。行け黒子ッ!」
黒子の足を軽く
「己が為に戦う癖に他人に依存する。それが君の悪癖だね。君の事は嫌いではなかったよ? 己が為、それが気に入ってはいたのだけど、その悪癖が君の価値を地の底に下げていた。ただ安心するといい、君の生に俺が意味を与えよう。俺の神話の一ページに君を書き綴ってやろう」
「お前の脇役なんて御免だな、俺の
「くくくッ、怪物? 違うね孫市。俺は絶対だ。君達が決して至れない新たな始まりなんだよ」
「抜かせッ‼︎」
俺を呼ぶ声が幾つか聞こえる。息を吸って息を吐き、身に掛かるその声をこそぎ落とす。撃ち抜くべき相手が目の前にいる。ただそれだけに集中する。世界に刻まれた越えてはならない境界線を跨いだ者は世界から零れ落ちた外道である。人を辞めた怪物に遠慮の文字は必要ない。
ロイ姐さん。
クリス兄さん。
ガラ爺ちゃん。
ハム。
ドライヴィー。
アラン&アルド。
裏切った者もそうでない者も関係なく、足を一歩出す度に崩れた世界が湧き上がる。
ナルシスの魔術がどういったものかは分からないが、ナルシスの体が壁にならないのであればそれを利用する。すり抜けるならそれでよし、そうでないならそのまま体と技で押し込むだけ。答えは前者、霞に突っ込んだようにナルシスの体をすり抜け身を翻す。剣を持ち替え首を僅かに捻り立つナルシスに向けて
「甘いよ」
「い゛──ッ⁉︎」
ゴギリッ‼︎ と腹部に沈むナルシスの拳が俺の肋をへし折る音が内側で響いた。身を捻り威力を削いでも骨一つ。気色悪い身の内の感触を血と共に吐き出し、振られる二つ目の拳を
「さよなら孫市、君に神の御加護がありますように」
地面に横たわるツヴァイヘンダーを腕を振るう動きで抜き放つように刃が空を滑る。刃が空に線を引く姿がゆっくり視界の中を横断し振り切られた。地に垂れる朱滴の音を感じながら、荒い息遣いを背に感じる。少しばかり景色の遠退いた中で。
「……黒子」
「……一人で行かせないと言いましたでしょう? わたくしは必ず追いますわよ」
小さく避けた目元の下を指で拭い、振り返らずに目を細める。
「くそッ、お前達は本当に──ッ」
「突っ込むにせよ、逃げるにせよここまで来たら一蓮托生やろ?」
「お、俺にも何か出来ることあるか? まだ何もしてねえからな、元気だけはあるぜ」
並ぶ青髮ピアスと浜面を目に口を結び、小さく息を吐き出した。
「……浜面さん、大剣目掛けて引き金を引き続けろ。それで手放すならそれでよし。俺が突っ込みナルシスが俺を殴るなら……青ピ、黒子、それに合わせてやれるか?」
「無理なんて言うわけないやろ」
「お任せくださいな」
「いい加減そう何度も試させると思うかい?」
頷く黒子の顔に影が射す。二メートル近い大剣の影が。音もなく気配もなく目の前に立つナルシスから気を逸らしてはいなかったのに。
────ヂンッ!!!!
へし折れたロングソードの剣先が宙を舞い、カレンの肩口から血が噴き出す。吹き飛ぶカレンの体を抱え込み、軋む肋に目の端を歪めながら黒子達を巻き込み後方に飛んだ。腕の中でぐったりと身を傾けるカレンの弱々しい鼓動が気を焦らせる。
「カレンッ‼︎」
「……うるさい馬鹿者、まだ死にはしないさっ」
「しぶといな孫市、カレン、
「ええ、死んでくれる?」
ズズ──ッ。と、歪んだ空間が顔の横を通り抜ける。弾けるツヴァイヘンダーと同時に幾つも遠巻きの建物の屋上が弾けた。聞き慣れた低い女性の声がゆったりとした足音と共に背後から迫り、横で揺れる長いアッシュブロンドの髪を目にどうしようもなく目元が緩む。擦れた『
「…………ボス」
「帰って来るなと言ったのに命令違反よ。後でお仕置きが必要ね? でもまぁ、お帰りなさい孫市」
「…………ただいま……です」
満足そうに微笑を浮かべて煙草を加えるボスの横顔から目が離せない。鼻の奥がツンと貼るのを鼻を啜る事で奥へと流し、カレンを抱えながらゆっくりとだが立ち上がった。
「あぁ、来たね、オーバドゥ=シェリー。孫市が帰って来たなら必ず来ると思っていた。さあ『鍵』を渡して貰おうか?」
「持ってる訳ないでしょう? 馬鹿じゃないの貴方? あぁ馬鹿だったわね。偽物が優雅に振る舞っても寒いだけでしょうに」
「オーバドゥ=シェリー……怒られたいのかな? 時の鐘の
「その名前で呼ぶんじゃないわよ、死になさい貴方。小綺麗な顔が引き攣ってるわよ? 凡俗な男」
口元の三日月を消し、初めて顔を歪めるナルシスから同じく初めて純粋な殺気が漏れ出る。その圧に息を詰まらせ生まれてしまった間を、咥えていた煙草をボスに口へと捻じ込まれ目を瞬く。目の端を緩めて微笑むボスの顔はトルコの路地裏で見たものと同じ。俺の手を引いてくれたあの時と。
「行きなさい孫市。時の鐘の本部へ。帰って来たなら馬車馬のように働いて。ここは私に任せなさい」
「ボスッ⁉︎ 待ッ⁉︎ それは──ッ⁉︎」
「黒子、任せたわよ貴女に。……孫市、全てを失くすのなんて初めてでもないでしょう? 真っさらな貴方だから。言ったわね私は、掴むのか、見送るのか。その答えを私はもう聞いたはずだわ」
ボスに伸ばした手が意志とは裏腹に遠去かる。掴める距離から手の届かぬ距離に。コマ送りされるように景色が飛んで。一拍遅れてその場に残った青髮ピアスが浜面と土御門を抱えて空へと飛ぶのを見送りながら、一人大剣を握るくそったれと相対するボスの背に腕を伸ばすが背はいつまで経っても縮まらない。口から零れ落ちた煙草の赤い輝きが地に落ちる。
「待て待てッ! 黒子ッ‼︎ 頼む俺だけでも捨てろッ‼︎ 頼むからッ‼︎ ボスが……ッ、姉さんがッ!!!!」
手の届かぬ場所に行ってしまう。追いつけぬ背中に追いつけぬまま。いくらボスでも今回だけはッ!
「孫……市ッ‼︎」
弱くカレンに襟首を引かれ、泣きそうな顔のカレンがその先で待っていた。言いたい言葉を選ぶように乱れた髪を漂わせて口元を引き結ぶカレンの顔の前を通し過ぎる数滴の血液。ぽたり、と服に落ちるそれを追って顔を上げ、喉の奥から声が漏れそうになるのを歯を食い縛る事で耐える。
黒子が顔を歪めて鼻から血を垂らす。重量オーバーだ。おそらく能力の限界値を超えている。俺とカレン二人を抱えて跳ぶ
「…………ごめん黒子、ごめん……大丈夫だ……下に降りよう。時の鐘の本部にボスは行けと言っていた。俺が案内をするよ……だからッ」
黒子は小さく微笑むとそのまま力を抜いて意識を手放した。手放さなかった黒子を決して手放さぬ為に抱え込み、カレンと共に大地を転がりながら勢いを殺し着地する。目を瞑り意識ない黒子の鼻から垂れている血を拭い、ぼやけてしまう視界を手近の荒んだ壁に頭を打つ事で無理矢理止める。止まってなどいられない。
日本から全てを失い放り出されても、掴むか否か、ボスに手を伸ばされてその手を取ったのは俺だ。ボスが手を引いてくれたように、黒子が手を引いてくれた。手を引かれてばかりはいられない。手を引いてくれた者達を追い越すように足を出さなければ俺の気が済まない。ここがまだ終わりでないのなら、失くした『これまで』を押し潰すように『これから』を描かなくては、積み上げなくては、まだ全てを失った訳ではないのだから。
「孫市」
「……分かっている。二度はない。ボスと黒子に生かされた。分からない事も増えたが分かった事もある。まずは時間が必要だ」
分からない事に答えを出す為。怪我の治療をする為に。黒子をおぶり軍楽器で押さえて街に足を向ける。時の鐘の本部と連邦院は然程離れてはいない。どんな魔術を使っているのか知らないが、遠巻きに囲んでいた観測手をボスが射抜いてくれた今が気付かれずに動くチャンス。
時の鐘本部。『
崩れた建物達に挟まれた道、乗り捨てられた車や砕けた道に転がる死体達を縫うように歩き続ければ、元々掛けられている防護魔術のおかげか、そこまで壊れていない青銅屋根を持つ大きな時計盤が顔を出す。その時計塔の足元に開けられたアーチ状の通り道で足を止め、そのまま目の前に伸びる道から青髮ピアス達が走って来るのを目にしながら木製の扉に手を伸ばす。
ギギィと音を立てて開く扉。ノックも取手に手も掛けていないのに開いた扉に身構えるが、中から出て来たのは見知った顔。切り揃えられた茶色がかった短髪。黒子が起きていたら顔を緩ませていただろう見慣れた顔は、表情筋が凝り固まっているのか感情乏しく、俺を見つめるとこれまた見慣れたスイス軍の敬礼をして口を開いた。
「お待ちしておりました、スイス特殊山岳射撃部隊、一番隊、法水孫市軍曹。お会いできて嬉しく思います。ですが時間があまりありません。後の話は移動しながら、とミサカは簡単な挨拶をします」
ミサカ一七八九二と描かれた