「世話になったな」
グレゴリー=アシポフに頭を下げ、カレン=ハラーは包帯を巻いた腕を摩る。準備の終えた高速装甲車『
鎧は砕けて剣は折れた。カレンに残されたものは己の体一つだけ。孫市と同様に鍛え込まれた身体であるが、それは剣士の体である。剣がなければ振るう事のできるものなど拳しかない。
(歯痒いな……それでいて────)
情けない。スイスが死に向かう中、スイス人以外の者達の方が今に実直である様に。金で戦い人さえ殺す時の鐘が嫌いだったのに、誰より狂気的な今を壊そうとしているのは嫌った相手。特に気にも留めていなかった者達こそが、誇るべき国を自ら壊し、多くの者は家に篭り動かない。
それは何故か? 今ならカレンにも分かる。半ば諦めているのであろうと。
なまじ下手に技術を納めているだけに、相手との力量差が分かってしまう。下手な傭兵団よりも統率された軍隊の方が強く、傭兵団よりも平時の時は一般市民として生活している国民の方が弱いのは当然だ。死に対して抵抗するために鍛えたおかげで、どう動くのが一番死を遠ざけるのか打算する。即ち静観。動かず大人しくしていれば、少なくとも今死ぬ事はない。ただそれでは何も終わらない。
(ならば一体何を信じる……)
自分達が動いても変わらないと決め込んで、勝手に終わるのを祈ると言うのか。手を組み神にでも……。
(……馬鹿らしいな)
人が災いを起こしたのに、神がそれを止める程の慈悲を見せてくれるのを期待するなど愚かの極みだ。神とはリセットボタンでもなければ、警察という訳でもない。神はいつも見てくれているが、見てくれているだけ。神への祈りとは誓いに等しい。これから頑張るから見ててくれと、祈りとは乞うのではなく示す行為。カレンにとって神とは『己を信じてくれている者』。その信頼に刃で応えることこそカレンの誓い。
だと言うのに、今は何人が信じていてくれるのだろうか。
キャロル=ローリーから孫市への言葉が、何よりカレンには耳痛かった。何のために
オルソラ=アクィナスも、アニェーゼ=サンクティスも、インデックスも、友人の多くは英国にいる。思い返せば友人などと驚くべき程カレンには少ない。
そんな者達の姿もほとんどない。普段邪険にしていながらも、なんだかんだとスイスの為なら頼りにはなると心の中で思っていた。その通りだった。ただカレンが思う以上に。
「カレン、『
癖の入った赤毛を揺らしてカレンの瞳を覗き込む男。思いを削ぎ落とし赤らんだ目尻は既に乾き、カレンの嫌いな冷徹な顔で紫煙を燻らせている男の姿。次が最後の機会であろうにも関わらず、ボルトハンドルを引き切り替えたようにいつもの顔に戻った男にカレンは歯噛みする。
「……私が? 剣もないのにか?」
「それが何か関係あるのか?」
「……私には振れるものがもう残されていない」
孫市と違って。仲間も居らず武器もない。学園都市の者達よりも更にできることが限られる。そんな中でカレンに行けと迷いなく言う男の考えが理解できない。顔を俯かせるカレンの前で孫市は
「だから? 関係ないな。剣があろうがなかろうがこれは決定事項だ、ナルシス=ギーガーは俺達の動きに気付いたなら必ず追ってくるだろう。俺と青ピはその時足止めの為に動く。そうなったら黒子と土御門、浜面と三人で金庫を目指せ」
「それは……」
戦場に居ても邪魔だから先に行けと言う戦力外通告。剣も握れぬ
「私は……」
誰より信じてくれるシスターに誇って欲しかった。それと同じように、紫陽花色の変わった髪を綺麗だと言った男に置いてかれたくなかったから。スイスに来た小さな少年は時の鐘だったから。戦場に出ればいつ帰って来るのかも分からない。カレンの両親も終ぞ帰って来なかった。
だからせめて並ぶ為に。
シスターは信じ、孫市は信じてくれなかったがそれでも剣を握りここまで来れた。それがここで、小さな頃のように俺が守ってやるからいいだろうと言うような言葉が心に突き刺さる。
「私は……もう必要ないのか?」
時の鐘以上に
「黒子も土御門も青髮ピアスも浜面も、俺の友人だ頼りになる。頼りにはなるがな、カレン、お前は
それだけ言って舌を打ち、孫市は土御門と青髮ピアスの元へと戻って行く。振り返りもせずに『今』を見つめる事に戻るその背中が遠い。いつも先に飛んで行ってしまう。カレンが剣を握る力を探すその間に、他人の想いを向けられようが、突き立てられようが、遠くを眺めてカレンが追いつく前に孫市はいつも手を伸ばす。その眺める先がカレンに向いた事などない。孫市の見る狭い世界はどこにあるのか、カレンにはそれが分からない。
呆然と立つカレンの目が孫市の背を見つめる中で、目の前にツインテールが泳ぐまでは。
「羨ましいですわね」
そんな少女がカレンに言う。少しばかり頬を膨らませ、『
「……どこがだ? 私は黒子のように時の鐘に認められている訳でもない。スイスで最強を挙げるなら必ず名前が出るだろうオーバード=シェリーにさえ認められ、時の鐘の最重要機密さえ手渡された黒子と私では雲泥の差だ。私には……」
「それでも、貴女程孫市さんに気にされてる方はいないですの」
「私が……? おかしな事を言う奴だな貴様は……」
フランスで会った時からずっとそうだ。お互いの事を少しばかり話す時間はあった。そんな中で黒子の話の大半は、
結局、孫市はカレンと二人でスイスを走り回っていた時とほとんど変わっていないと。
「そうでしょうか? 孫市さんは一言目にはシェリーさんがいると言い、二言目には貴女の名前が出ますのに? 学園都市でわたくしは貴女と顔を合わせたら殴ってやれとまで言われましたのよ?」
「ふっ……馬鹿かあの男は。何を考えているのか分からんな」
「まったくですの……でも、後にも先にも孫市さんがそんな事を言うのは貴女にだけ。それが何故か貴女と会って分かりましたわ」
似たような姿を黒子も常盤台で見掛けているから。口では強く邪険にしていながら、いざという時は昔からの友人であるのかと思う程に息の合った動きを見せる常盤台の電撃姫と常盤台の女王、
「妬けますわね、わたくしもそのつもりではありますけど……きっと、貴女と孫市さんは似た者同士でしょうから。だから貴女に任せますのね」
「私に任せる? アレが? 孫市が任せるなら黒子や土御門だろう。私ではなく」
「口に出さずとも、『今』を孫市さんが見ているからこそ、それ以外を貴女に任せるんですのよ。誰かの為に孫市さんは満足に動けなくても、貴女は違うのでしょう? 名もなき誰かの祈りのために、貴女は全力を出せるのでしょうから。だからこそスイスの未来は貴女に」
本物の『
孫市はスイスで時の鐘で育ち国籍さえもスイスだが、スイスの血だけは流れていない。黒子も土御門も青髮ピアスも浜面も。骨の髄まで時の鐘でも、骨の髄まで瑞西の歴史が流れているのはカレンだけ。時の鐘よりも太古から続く傭兵部隊。空降星に残された刃はカレンだけだ。
子供を誰より愛するララ=ペスタロッチも残っているが、スイスをネバーランドにする訳ではないのだ。数多の名もない祈りを力にできるのは一人だけだ。それは名もなき悪を挫き、平和を守る黒子にも、影ながら悪を翻弄し続ける土御門にも、己の為に気に入らない者を穿つ孫市にもできぬこと。誰よりもカレンを知っているからこそ、嫌いそして信じている。
「……黒子はあいつをよく見ているのだな。私はどうにも……孫市にだけはどうにもな……」
負けたくないし、舐められたくはない。スイスで共に駆けていた日からずっと、見つめ合う事などなく、お互いの事を理解しようが、考え方が違っても、これからもずっと駆け続ける。全く異なる狭い世界を持ちながら。
「何も知らないですの。ただ、孫市さんが孫市さんだとわたくしは知っているだけですのよ」
カレンのように隣を走っていなくても、半年その背を見つめて追った。最初は気に入らない相手であったが、孫市の弾丸を吐く火薬が何であるか知ってしまったから。善も悪も関係なく、己の欲する素晴らしい必死の為に身を削る男の横顔がどんなものか。手を伸ばして捕まえてしまった。
「だからいくら貴女でも、孫市さんはあげませんの」
「ふっ、いるかあんな馬鹿者など、それに黒子はお姉様とやらが一番大事ではないのか?」
「そんな当たり前のことを聞いて欲しくはありませんわね。それに一番大事な物が幾つあってもいいでしょう? お姉様も孫市さんも、全く違う道を歩んでいますけれど、わたくしにとってはどちらも素敵な冒険者ですから」
茨の道を好んで進む。並んだ瞬間に一歩先を行くような、己の必死を持つ者達。振り返るのを期待してはいけない。前を見つめ続けるその横顔こそが黒子の愛する顔だから。その瞳に映るため、追って追って、並んではまた追い続ける。諦める時間がもったいない。少し足を緩めても、その背を見ればまた追いたくなってしまう。
「私も進もう……何ができるかなど不安は握らない。新たな友人に背を押されて止まっているなど不敬だろう。孫市が『今』なんぞにうつつを抜かしている間に、私は祈りを未来に届ける為に」
「貴女達が前ばかり見ている間に、後ろから一足飛びに追っている者がいる事もお忘れなく。振り向いてくれなくていいですの。気付いた時には横に居て差し上げますもの」
悪戯っぽく笑う黒子に笑顔を返し、腕を組んでカレンは笑う。幼馴染と愛する者が仲よさげに笑いあっている姿を目の端に捉えて、何してんだと肩を落とす孫市には気付かずに。
「準備はできたようぢゃね、孫市。では行くとしようかね?」
「行くって……キャロ婆ちゃんも行くのか?」
「たまにはあたしも孫市と戦場を駆けたいからねぇ。あの子も使ってやらにゃ錆付いてしまうぢゃろうし、速度で『
親指で特殊多脚一人乗戦車『デミトロ』を指し示し、高笑いを上げるキャロル=ローリーの姿に孫市は苦笑し、強く
準備は終わった。今こそ戦場に戻る時。『
「ま、孫市、俺っちは……」
「なんだベルも来てくれるのか? なら心強いが」
「い、いや、あのな、俺っちは……行けねえんだ」
肩を落として目を伏せて、悔しそうにベルは拳を握る。ただなにかを心に決めて。
「檻に入りそうだったところを大将に救われて……一人で金庫開けてた時と違って楽しい時間を俺っちも貰えた……夢みたいな時間だ。金庫破りしてた時より収入も上がったしさ……俺っちもそんな借りを返してえけど……で、でも、今だけは行けねえんだッ! 裏切り者だと例え言われてもッ、今行ったら俺っちは──ッ!」
「…………パパ?」
弱々しいか細い声が小屋に続く階段から流れてくる。七歳くらいの小さな少女が、覗いてはいけない秘密の部屋を覗くように壁に引っ付き、泳いだ瞳が武器庫を彷徨う。俺やカレン、黒子の間を泳ぎ回り、最後にベルを見て目を止める。その目が少女の正体を教えた。
ベルが金庫破りに身を染めたのも、それは一人の娘のため。時の鐘より何よりも。スイスよりも世界よりも、ベルには守りたいものがある。口を引き結んだベルを見つめて、孫市は息を吸って息を吐く。しばらくして口に咥えていた煙草を握り潰すと、ベルの肩を軽く小突いた。
「……ここは任せるよ
「孫市、俺っちは……ッ」
「ベルは最高の父親だぜ、俺がベルの子供だったら絶対そう言う。時の鐘以上に……悪かったなお嬢さん! お嬢さんのパパを借りちまって! あんまりいい男なもんで別れるのが惜しかったんだ!」
本当に。時の鐘なら狙われただろう。クーデターが始まり一週間以上、逸早く時の鐘本部から逃げ出して、ずっとずっと、娘と『今』を穿つ為の『鍵』を持って守り逃げ続けていてくれていた男に孫市は敬礼をする。どこかで捨てればもっと楽でも、それを絶対手放さなかった男の必死に向けて。敬礼にベルも敬礼を返し、ベルは孫市から視線を切ると浜面へと歩み寄った。
「仕上! これを持って行け! 俺っち特製のピッキングツールだ! この中ならお前さんが一番上手くそれを使える! 超能力も魔術も俺っちはよく分からねえけど、俺っちは仕上のその手を信じる! だからきっと……きっとッ!」
「気に入ったぜ、浜面少年、おれのグローブを持ってけい。そいつはレーサーになったおれの親友から貰った優れもんだ。汗でハンドルが滑らねえようにな。技術に懸けてこその『
使い込まれて鈍く光るピッキングツールと、汗が染み込み擦れたレーサーグローブ。その二つを突き付けられ、ぽとりと浜面の手のひらに落ちる。その重さによろめきそうになるのを浜面は『
「お、れ……俺達スキルアウトってよ、学園都市じゃ誰にもアテにされなかったんだ……能力も使えねえし、体を鍛えても馬鹿にされるだけでよう……でも……でもよ……」
技術とは、磨き鍛え、いつか誰かに引き継ぐもの。己の狭い世界をきっといつか誰かに。ピッキング一つ、運転一つ、浜面も手を伸ばした技術の遥か先に居座る先達が、それを『今』選んだ。
緊急だから、その中でも浜面しかいなかったから、どんな理由があったとしても浜面は選ばれた。
「お、れ……何を腐ってたんだろうな……能力が使えなくても、グレゴリーさんもベルさんも、ずっと……俺よりずっと……ッ‼︎ なんで俺はもっと早くッ!」
能力が使えなかったとしても、ずっと技術を磨いていれば。スキルアウトも、『アイテム』も、もっとずっと。能力を使えるかどうかが全てではない。使えないからと腐らずに。使えないならと奮起して、中途半端に技術を使いそれでよしとしていた事が悔やまれる。
「おれもこの先引退だろうからよ、きっと暇になる。終わったら電話でもしてきな浜面少年、おれはまだ全てを伝えてねえぜ? まだほんの小指の先にも満たねえのさ。アクセル一度踏んだなら、最後まで踏み続けねえとな?」
「まだ仕上は何も開けちゃいないさ〜、開けるのはこれからさ! だからよ、まだなんだって開けられる! 俺っちに開けられなかったものもさ!」
「うす……ゔずッ! 師匠ッ! 俺はこの先後悔させねえ! 絶対だ! 今誓うッ‼︎ 俺を選んでくれた事にッ! スキルアウトも! 『アイテム』も! いくらでも背負える俺になるからッ!」
「「行ってこい」」
「ばい゛ッ!!!!」
拙くても、未熟でも、それでも託されたならば連れて行く。いつかきっと、誰より速く、まだ見ぬ扉を開ける突破者に。浜面仕上の物語はまだ始まったばかり。その始まりの合図を奏でるように鍵を回し、『
「パパ? あの人達って……」
「聞きたいのか? 知りたかったら幾らでも話すさ〜、あれは俺っちの……俺っちの最高の……ッ」
「パパ? お胸が痛いの?」
「張り裂けそうに心臓がうるさいだけさ……、いいかい、『
例え組織として終わろうとも、スイス山岳射撃部隊の記憶だけは未来へと受け継がれる。世界最高の狙撃部隊の存在は消えてなくならない。例え数が減ろうとも、一人でも居れば時の鐘。時の鐘であったなら、自分が思うままに引き金を引き想いを弾く。だからこそ────。
「いい加減しつこいね、オーバドゥ=シェリー」
「…………うるさいわね、いい加減消えてくれないかしら?」
オーバード=シェリーとナルシス=ギーガーが向かい合ってから既に一時間が経とうとしていた。深緑の軍服には多くの切り傷が走り、陶器のように白くきめ細やかなシェリーの肌にも朱線が走り呼吸も荒い。それでも戦場は連邦院から移らない。己が戦場に他者の横槍が入るのを嫌うナルシスの性格のおかげで、周りを多くの者に囲まれようとも一対一という事もあるが、ナルシスが思う以上にオーバード=シェリーがしつこく、そして噂以上の技術の冴えが邪魔をする。
「君程の慧眼を持っているなら、もうずっと前に無駄だと気付いていると思うんだけどね。君こそがスイスで最大の脅威だ。ウィリアム=テルの再来などと俺も言われはするが」
実際にウィリアム=テルの再来がいるのなら、間違いなくそれはオーバード=シェリーだとナルシスさえ思う。過去に生きた人間の再来という評価こそ気に入らないと鼻を鳴らしながらツヴァイヘンダーを担ぎ一歩を踏み出し、そのままナルシスは体勢を崩す。
「……売女がッ」
舌を打つナルシスの前で歪な狙撃銃を構えるシェリー。これだ。絶えずこれが続いている。ナルシスになんらダメージがある訳でもないが、何度も態勢を崩される。踏み出そうとする足元を、踏み抜き振ろうとする剣の柄を。一足先回りするようにオーバード=シェリーは弾丸を置く。例えナルシスに当たらなかろうと、世界に完全に存在しないわけではない。足は地を踏み、口で呼吸を繰り返す。世界に接する面をオーバード=シェリーに奪われる。
ただそれでも限界はある。狙撃手には、銃を扱う者には絶対に逃れられぬ最大の弱点が一つある。
弾切れ。
銃には放つ弾丸が必ずいる。それが切れれば放てない。で、あるはずなのだが、およそ一時間、リロードする事なくオーバード=シェリーは銃を構え引き金を引き続けている。それは何故か? 再びナルシスの足元が弾け体勢が崩されるその中で、宙を舞う弾丸の姿はない。
「……振動の弾丸だね、小賢しい」
「あら、その目節穴じゃなかったの。驚きね?」
スイス特殊山岳射撃部隊『
捻れ曲がった白銀の角のような銃身を持つ、全長三メートル程の捻れた槍に弾丸はいらない。振動させた小さな空間を捻りをもって打ち出す弾切れを廃した狙撃銃。狙撃銃とは名ばかりで、命中精度はゲルニカM-003と比べても酷く、遠距離への狙撃も難しい。
ただし、オーバード=シェリー以外が使うならの話。
名手は得物を選ばないという言葉があるが、どんなものにも限度というのは存在する。能力や魔術もピンからキリがあるように、技術にだって当然ある。孫市も、ハム=レントネンも、ガラ=スピトルも、他の誰であろうとも、『
風や音や光さえも逃さずその目ですくい取り、引き金に指を掛けて伝わる振動から放たれる弾丸の癖を読んで弾丸を放つ。無理矢理弾丸を己の描くレールに乗せて、想像通りに弾丸を飛ばす。その感覚を他人に伝える事は不可能だ。「見えるでしょ?」とオーバード=シェリーが言ったところで、見えているのはシェリーだけ。ただ見えるなら、他の誰がそれはないと否定しようが、シェリーの中には存在する。
人より精密に目で見える世界に弾丸を落とす。それがオーバード=シェリーの狭い世界。ただ、誰にも理解されないその世界に、つま先を付ける者が現れた。
(ナルシス=ギーガーがハリボテ? 確かに精巧なホログラムみたいに見えるけれど……孫市ったら、今の貴方には世界がどう見えるのかしら?)
ただ目で見ては分からない変化を視覚で知るシェリーと同じように、孫市も何かを掴みナルシスの内側を見た。その事実がどれだけ嬉しいか。同じ世界を共有できる存在が生まれて一人もいなかった。超能力で、魔術で、それを知る事のできる者もいるだろう。だが素のままでは?
聖人のように特別に生まれた訳でもなく、『原石』のように特別な力が振るえる訳でもない。身体検査をしようにも大きな異常は特になく、昔からある病気や突然変異の一種であると答えを出されておしまいだ。特別ではなく、生まれながらにどこか狂った存在。世界に生まれ落ちながら、その世界のズレた歯車として別の生物のように扱われる悲しみを知っている者がどれだけいるか。
聖人のように、『原石』のように、
しかし、磨いたら磨いたで結局おかしいと言われて終わり。理解できない、まだ誰も手を伸ばしていない先に手を伸ばす姿が異常であると断じられる。同じ人間なのに同じではない。ならば自分は何なのか。だからそんな者達が自然と集まり、今の時の鐘は形となった。
「何を笑うオーバドゥ=シェリー? この不毛なやりとりに呆れでもしたかい?」
「別に、私の事など気にしなくていいわ、貴方はただ的になってなさいな」
「そうは言われても暇なものでね。理解に苦しむ。それだけの力を持っていながら、君は時の鐘にこだわり過ぎる。自分よりもできの悪い者に囲まれて満足なのかい? 正気の沙汰とは思えんね」
「できの悪い? 貴方よりはずっとマシじゃないかしら? 例えできが悪くても、自分の知らないところで成長してたりするものよ」
それが少し寂しくはあるが嬉しくもある。トルコの路地裏で、名も知らぬ極東人を拾ったのは、別に特別でも力があったからでもない。人種も性別も年齢だって気にしていない。ただ誰よりも何も持っていなかったから。目にしてすぐにどこにでもいる凡俗だとオーバード=シェリーも理解した。ただその目だけは真っ直ぐだったから。
オーバード=シェリーを目に目を逸らさず、死の一歩手前で死を見ずに、ただ『今』を見つめていた。体もろくに動かないだろう幼子に手を伸ばしてみれば、その手を掴んだのだからシェリーも流石に目を丸くした。
そして幼子がその手を終ぞ放す事はない。時の鐘に入る前も、入った後も、少々気味が悪いと多くの者が距離を置く中で、幼子はいつも側に居た。可愛い子には旅をさせろと蹴り出してみれば、よりシェリーの世界に近付く始末。目指すべき者が誰より近く、何より高かったからこそであっても、登るのを止め続けない事がどれだけ嬉しかった事か。
「自分を愛する方法を知っていても、他人を愛する方法を知らないなんて可哀想ね貴方」
「その考え方こそ可哀想だ。他人の想いや考えを頭に入れてどうするんだい? 結局生きていると分かるのは自分だけ、他人が動いているのを目にしたところで生きているのかも分からない。そんな様だから見逃すんだよ必要なものを」
大剣を振り上げたナルシスの足元が弾けるが、その浮いた体勢を全力で剣を振るう動きに乗せて宙を滑る。回るナルシスの大剣に向けて引き金を引くも、柄から手を放され大剣だけが宙を回る。振り落とされる踵を半身になってシェリーは避け、落とされた足を削ぐように銃身を振るい引き金を引く。瞬時に十数回引かれた引き金に追随して大地が弾ける中で、ナルシスは舞い散る地の欠片を踏み締め、背後に回る大剣を掬い取るよう振り上げた。
くちゅり。と、潰れた音がする。
宝石のようなシェリーの左眼が潰れた音。剣さえ囮。本命は剣でシェリーの視界を塞ぎ身を捻って放たれた蹴りである。世界の半分が色を失い、咄嗟に首を捻り打点をズラしても埋められない膂力の差。距離を保っていたからこそ時間を潰せていただけであり、距離を潰されればナルシスの方が一枚上手。
「言い残す事はあるかい? オーバード=シェリー?」
天に振り上げられる刃を見つめ、シェリーはゆっくりと口の端を持ち上げる。
「狩は群れでするものでしょう? 一人でやっても楽しくないのよ」
「くだらない今際の際の言葉だね」
百獣の王でさえ狩は群れでする。雪原を走る狼も。知っているから、一人でできないことも二人ならより多くの事ができると。この世に最強無敵の一人が居たとしても、二人には敵わない。力で勝っていても、絶対的に別の部分で負けている。だからシェリーも群れを求めた。ズレている。変わっている。歪な狭い世界を持つ者を。それを集めたのはシェリーだから。誰より群れの事は分かっている。世界の軍からやって来たのではない、シェリー自身が集めた者達の事ならば。
振り落とされた
「急ぎ帰ってみれば……師父の左眼の敵、討たせてもらうぞナルシス=ギーガー」
「……何故いる
もう治ったと言うように首に巻かれたギプスを掴み砕き捨てる中華娘の横に立ち、潰れた左眼から垂れる血を拭ってオーバード=シェリーは静かに微笑む。
「私の群れはいい群れでしょうナルシス=ギーガー。ただスゥ、貴女何故いるのかしら?」
「師父ッ⁉︎
ナルシスを見つめて首を傾げるスゥの姿に小さく噴き出し、本当にいい群れだと一人頷いてシェリーは遠くから薄っすら聞こえる『
「さあ続きといきましょうか。美人二人の誘いは断るものではないでしょう? 両手に華で羨ましいわねナルシス=ギーガー」