スイス最大の都市。七千年間継続的に人が住み着いていた土地と言われ、チューリヒの歴史を遡れば紀元前にまで遡る。現スイス連邦の元になった、スイス原初同盟の五番目のメンバーでもあり、瑞西の商工業、金融業、文化、芸術の中心地だ。中世からの教会や家屋、店などが軒を連ねながら、現代の空気を拒まずに受け入れてもいる柔軟な都市。スイスにある大企業五十社のうち、十社がチューリヒに本社を置いているほどに、文化と金銭が交わり流れるスイスの要所。
空からスイスの地を踏むのなら、その第一歩はチューリヒか、そうでなければジュネーブなのがほとんど。そんな新旧瑞西の入り混じる都市の中を跳ね回る鐘の音。耳を塞ごうとも骨に響くその音に目を見開く。
「カレンさん! これはッ!」
「分かっている! 孫市だけではありえない! この数、三? いやもう少し……
「流石の戦争巧者だにゃー。ナルシス=ギーガーが『
賭けだ。土御門の言葉に小さく息を吐く。『鍵』をベル=リッツが持っていたとして、チューリヒまで誰かが持って来なければ意味がない。この動き、時の鐘以外の反乱軍は動いていないと見える。敵に動きを掴まれないように、情報を隠し、身を隠して来るかも分からない状況打破の為の『鍵』を待つなど正気の沙汰ではない。
いの一番に戦場から離脱したベル=リッツがチューリヒまでやって来ると信じていたのか。それともあの男がスイスに戻りチューリヒまでやって来ると信じていたのか。時の鐘内でどんな動きがあったのかは分からないが、今ここに残っているだろう時の鐘の戦力が集中している事が全て。私達の進路を塞ごうと走って来る装甲車が、飛来する銃弾に撃ち抜かれて壁へと突っ込む。鐘の音を場に残して。
「ただちょいと疑問だな。時の鐘が『鍵』を持っていたんなら、なんで先にチューリヒに来て金庫を開けなかったんだ? ベル=リッツが逃げたとして、一緒にグレゴリー=アシポフとキャロル=ローリーが居たんだから居所は分かってた筈だぜい。これまで待っていた理由はなんだ?」
「それは恐らく金庫のある場所の問題だ。時の鐘では、恐らく中に入れない。この状況なのならば」
「入れない? 何故ですの?」
ある意味で、だからこそ時の鐘に『鍵』が預けられていたという話は納得できた。この緊急事態の中、まず間違いなくアレの魔術も作動している。私達が向かう先、天に伸びる二つの塔が目指す場所。
グロスミュンスター大聖堂。
現状崩れた建物達の中で、原型を保っている数少ない建築物の一つ。十一世紀から十二世紀初頭にかけてロマネスク様式で建てられた大聖堂だ。かつて宗教改革の玄関口となった歴史的建築物。それを見上げて小さく目を伏せる。時の鐘が入れない理由。そしてそれはきっと私も……だからこそ何故孫市は私に『鍵』を渡したのか。ここに金庫があると分かり、尚迷いなくここを目指せたのか分からない。不安が少しばかりちらつく中で、空を見上げていた土御門は少し走る速度を上げて手を振った。
「んじゃ、まーここから先は任せたにゃー。オレにもやる事があるんでな。金庫はお前達三人に任せた」
「は、はぁ⁉︎ やる事って何だ⁉︎ 俺達何も聞いてねえぞ!」
「『
スイスの大手メディアの本社もまたチューリッヒには置かれている。新聞社からラジオ局、スイスの公共放送であるスイス放送協会も。情報を絞り何処かに届けるのではなく、ただ情報を拡散させるのならば、チューリヒには取れる手も多い。魔術師でありながら学園都市の住人でもある土御門だからこそ、情報戦に長けていると孫市も確か言っていた。ただそうなると……。
「待て、貴様が居なくなるとするなら、誰が金庫を開けると言うのだ? 私はてっきり……」
「そりゃ一人しかいないだろう? じゃ、後はよろしくにゃー!」
「あ、ちょ! 何故孫市さんのご友人はあんな方ばかりなんですの? 類は友を呼ぶとでも? 類人猿と言い、第六位と言い、ゴリラ女も、ハムさんも、シェリーさんも……」
「俺を見んなよ! 俺が知る訳ねえだろ!」
街の影に紛れて消える土御門の背から視線を切り、懐にある『鍵』を服の上から指でなぞる。私に鍵を預けると言うのなら、それはグロスミュンスター大聖堂に着くまで守ってくれという事ではないのか? 孫市の考えが分からない。眉を顰めて走っていれば、隣に走る黒子に顔を覗き込まれた。
「大丈夫ですの? 少し顔色が」
「体力的には全く問題はない。ただ──」
「居たぞッ‼︎」
「ッ⁉︎」
路地の奥から姿を現わす銃を持つ兵士達。身を屈めて髪を振り、相手の注目を惹き付けてから前へと踏み込む。チュンッ! と銃弾が地を弾き音を潜り抜けて兵士の頭に膝蹴りを見舞い、着地と同時に倒れる兵士の足を掴み大剣を薙ぐように兵士達を弾き飛ばす。ゴギリッ、ゴギリッ、と骨のへし折れる音を聞きながら、握り締めた兵士の折れた枝のようになっている足を放り投げる横で、銃を構える兵士の背後に泳ぐツインテール。銃を持つ手に指を添え、振り返ろうとする兵士の勢いさえ利用して黒子は頭から兵士を落とした。
「……女の子怖い」
「貴方は何を言ってるんですの? それにしてもカレンさん凄いですわね、そのゴリラ女並みのパワーはどこから出ているのでしょうか?」
「騎士の洗礼を受けているからな。スイス傭兵に由来する魔術だ。スイスの傭兵団の多くが使えるスイスの基礎魔術。欧州のあらゆる国家に派遣された歴史のおかげで、スイス以外でも効力を発揮できる。各国でその武力を恐れられていたからこそだ」
「孫市さんも?」
「時の鐘に魔術師はいない。だからこそ異常なのだ奴らは。魔術も使わず自分だけの技術を磨き迫ってくる。この基礎魔術だけでも使えば全員今よりよっぽど手が付けられないというのに……」
今でさえ世界最高の傭兵集団と言われている者達が魔術まで修めればどれだけ化けるか。恐らく
「いえ、なんとも孫市さん達らしいと思いまして。誰かと戦うのに自分の力以外には頼らない辺りが」
「自分の法則しか磨かないような連中だからな。馬鹿で傲慢で自由でそれでいて──」
「そうなりてえよな。自分の力で自分の守りたいものを守りてえ」
手を包むレーサーグローブに目を落とし、拳を握る浜面仕上に小さく笑みを返し「行くぞ」と告げる。仕事さえ絡まなければ、時の鐘は気のいい連中が多い事は確かだ。磨いた技を商品に、金でやり取りし暴れるところは気に入らないが、それ以外はどうにも嫌いになれない。金も絡まない今の情勢下で味方でいてくれる事こそが、頼もしく少し腹立たしい。
「この先の角を曲がればミュンスター橋がある! ミュンスター橋を渡ればグロスミュンスター大聖堂だ! ただっ」
「敵が待って居そうではありますわね! それもわんさか! いざとなればわたくしにお掴まりを! 一瞬で越えてご覧にいれますの!」
純白の『
「おいおい……」
隣を走る浜面仕上が口端を苦くし走る速度を軽く緩めた。確かに橋を塞ぐ相手はわんさかいる。ただし橋の上は既に嵐の通った後。いや、正に嵐の最中、阿鼻叫喚の嵐。銃撃音と砲撃音に紛れる鐘の音が撃ち鳴る度に、橋の上に止められた車両が火を噴き、照準を定めた戦車の砲身に銃弾が飛び込み破裂する。立って居た兵士の頭が射抜かれ川へと落ちた。鳴るのは鐘の音だけでどこに時の鐘が居るのかは一見しては分からず、諦めた幾らかの兵士は橋の上で車両の影に縮こまるか、自ら川に飛び込むか、呆然と空を見つめている。混乱を統制しようと立ち上がり声を張る兵士はすぐに狙撃の餌食となって川に向けて吹っ飛んだ。
「な、なあ時の鐘って……」
「これでまだ大人しい方だ。本来なら二十八人が動き超遠距離から一方的に銃弾を落とされる。落ち着いて周りを見ろ。川向こうのチューリヒ=マリオットホテルの屋上に一人」
およそ二キロばかり離れた高層建築物の屋上に細い白銀の線が伸びている。狙撃手でありながらここにいると示すように。分かっていても手の届かない遠方から一方的に穿たれる恐怖。少しすると白銀の槍はその姿を消した。戦車に狙われぬ為に移動するか。その隙は別地点からの狙撃が埋めるだろう。尻込む浜面仕上と黒子の肩を叩き、一足先に橋に足を落とす。
「このまま突っ込むぞ! 目的地はもう見えている!」
「法水といいスイス人て皆そうなのか⁉︎ 狙撃されまくってる橋を走り抜けろって⁉︎」
「時の鐘なら外さない。そうですわね?」
「おぉい! お前も絶対毒されてるって⁉︎ でも、くそ、分かった! 突っ込もう! 時の鐘なら外さないかッ、信じるぜベルさん、グレゴリーさん!」
「ベルとグレゴリーは時の鐘一番隊の中でも狙撃はそこまで────」
「今その情報必要かッ⁉︎」
いや、狙撃の腕は世界でも高い方であるのは確かだが、それは学園都市の技術で作られたゲルニカM-003のおかげの面が強いため、それ以外の銃となると極端に命中率が悪くなる者が時の鐘には多い。今の一番隊はオーバード=シェリーの趣味で変わり者が多いからな。ある意味時の鐘から半数も裏切り者が出たのはその趣味の所為とも言えなくはない。が、その趣味のおかげで一番隊がより強固になったのは皮肉か。
橋の上を走る中。私達に気が付いた兵士が銃を向けるが、そういった者達が優先して狙撃される。響く鐘の音に乗せられ、狙撃銃を握る者のお小言まで聞こえて来そうな勢いだ。そこまで精密でもなく当たればいいと荒い狙撃はおそらくロイ=G=マクリシアン。静かにお手本のような一定のリズムを刻む狙撃はクリス=ボスマンに違いない。リズムもバラバラ、緩急の適当な狙撃はガラ=スピトルであろう。狙撃にも性格が出ると言うか、オーバード=シェリーなら正に津波のように狙撃で全てを流し、孫市は時計の針が時を刻む音のような、重くゆっくりとした狙撃をする。ドライヴィーはいつも静かに淡々と。ハム=レントネンは他人の癖さえ真似るから分かりづらい。
兵士や傭兵達の叫び声を聞き流し、橋を走る中で更に混じる服に針を通すようなスルリと精確に射抜く滑らかな狙撃。目の前に伸びるグロスミュンスター大聖堂の塔の上に伸びる白銀の槍が一つ。私達がミュンスター橋を走り切ると同時、ロープを使い塔から深緑の軍服が降りてくる。
「待っていましたよ、カレン=ハラー。そして極東からのお客人。よく来てくれましたね。待った甲斐があったというものです。ただ、ハァ……、ガラさんもロイもだから日々狙撃の腕を磨いた方がよろしいと口を酸っぱくして言っているのですがね、美しさに欠けますよ、本当。ボスも当たればいいという考えですし、私の話を聞いてくれるのはクリスと孫市くらいのものです」
「えぇっと、あの……貴方は……お待ちくださいまし、確か孫市さんから聞いた話の中に……ガスパル=サボーさんですの?」
「いかにも。貴女は白井黒子さんですね? 孫市からの報告でお聞きしていますよ。ただそう……その服の組み合わせはいけません。その白銀のミリタリージャケットに他の服が食われてしまっています。例えばスカートは
「今ファッションチェックは止めろガスパル。それより貴様」
スイス特殊山岳射撃部隊『
「『
「先程から疑問だったのですけれど、何故時の鐘はグロスミュンスター大聖堂には入れませんの? それもまた」
魔術の所為。黒子が言おうとしていた言葉を肯定するようにガスパルは頷く。
「グロスミュンスター大聖堂の入口は『聖書の扉』と言われております。聖書や宗教改革の様子が刻まれていましてね。何も信仰をしない時の鐘はその門の魔術が発動しているグロスミュンスター大聖堂に立ち入れません。窓や扉に触れれば弾かれてしまいますから」
十六世紀、かつてあったプロテスタントの宗教改革。ドイツでルター*1によって宗教改革の火蓋が切られた頃、同時期にスイスでもフルドリッヒ=ツヴィングリ*2が宗教改革を起こした。それをきっかけに宗教戦争が起こったが、第一次カッペル戦争において、実際に戦闘は行われずに、カトリックとプロテスタントは互いに相手の信仰を尊重することを約束し、両軍の兵士はミルクスープを分けあって食べた。この故事はスイスにおける新旧両宗派の和解の象徴となる。
だからこそ、どんな神、天使、悪魔、宗教を信仰しない時の鐘はその故事に則った魔術が発動しているグロスミュンスター大聖堂に立ち入る事はできない。そして同じく、ローマ正教であり、それを絶対と信じ異教徒に刃を向ける
「私は……ここまでだ……。鍵は確かに届けたぞ」
懐から古びた金庫の鍵を取り出し掲げる。時の鐘は入れない。空降星もまた同じ。ならば後に残されたのは黒子と浜面仕上のみ。周りに他の誰もいない事を考えれば、二人しかいない。スイスの未来に通じる扉の手前まで私は確かに鍵を運んだ。だからこの先は……。
「あら、そういう事でしたらわたくしもおそらく入れませんわね。わたくしが信じるものは一つ。ここは学園都市ではありませんけれど」
右腕を摩る黒子に目を見開き、残る一人に目を向ける。
「いやッ! 俺はそもそも宗教とかよく分からねえし! だから多分俺も無理だってッ!」
「そ、それでは誰が行くと言うのだ! それでは金庫に誰もッ!」
「一人しかいないでしょう?」
「おう、一人しかいないな。それは俺にも分かる」
軽く目配せして頷く黒子と浜面仕上が私を見る。
「ば、馬鹿を言え! 私は
剣を握り刃を向ける。時の鐘が狙撃銃の銃口を向けるように。私に出来ることはそれくらい。信じるものが違う者を叩き斬って来た私に入れる訳が。
「でもカレンさんはインデックスさんとご友人だと聞きましたけれど? わたくしとも。ローマ正教ではありませんけれど、カレンさんに斬られた事などありませんの」
「そ、それは状況が状況だっただけだ! もし出会い方が違ければ私は────ッ‼︎」
「もしもの話をされても、それがどうかしまして? としか言えませんわね。カレンさんは何を恐れているんですの? ここまで来たくせに」
「恐れてなどいないッ! ただ私はッ、もし私が入れてしまったら私は……」
その背に小さな少女の手が触れた。歩くのも馬鹿らしいと言うように、扉が目の前に現れる。
「く、黒子……ッ!」
「自分を信じてくれる者が神だと貴女は言うのでしょう? その神の為に動くのだと。わたくしが行けると言うのに信じませんの? きっと孫市さんも、インデックスさんも、他の方も同じ事を言いますの。だから貴女が鍵を握っている」
「スイスに来るまで、俺もローマ正教なんかじゃないけどさ、ずっと俺達を守ってくれてたのはお前達だろ。イギリスでもそうだったって法水が言ってたぜ。ベルさんには悪いけど俺にはその扉を開けられそうもねえ。だから……頼む」
背に投げ掛けられる浜面仕上の言葉と、背中に手を添えてくれる黒子の顔を見つめて恐る恐る『聖書の扉』に手を伸ばす。今は剣も鎧もない。擦れて破れた空降星の戦衣装だけ。金庫の鍵を握り締め、扉に手を触れた途端に火薬と血でもない匂いが鼻先を擽った。
「あ……」
「ねえねえ何作る?」と、イタリアで折れそうになった私を料理場まで引っ張ってくれた銀髪の少女の顔が頭を過る。この匂いはそう……ミューズリーか。私にとってのミルクスープ。英国でもイギリス清教が溢れる中で同じ釜の飯を食べることになるなどと昔の私に言っても信じないだろう。多くの者が信じる明るい未来に。私もその中の一欠片。英国の全国民が奮い立つ中に私も確かに居合わせた。私の剣は誰かを斬る為にあっただけではないのだと、ゆっくりと開いた扉が示す。それと同時に
黒子の手が軽く私の背を押す。振り返った先で浜面仕上が握った拳を突き出した。ベルに悪いだと? 確かに極東の男は扉を開けた。黒子がそこまで運んでくれた。手に持つ鍵を握り締め、一歩グロスミュンスター大聖堂の中に足を入れる。人の気配のない薄暗い聖堂の中から扉の外を振り返れば、黒子と浜面仕上、少し離れてガスパルが行ってらっしゃいと手を振っている。
奥に向かって足を出せば蝋燭の火が灯り暗闇を照らした。大きなステンドグラスに目を流しながら、石造りの床を歩き続ける。階段を下り地下大聖堂へと下りれば待っているのは、大剣を握るカール大帝の大きな石像。ヨーロッパの基礎を築いたと言われる王の姿。その視線の先の壁に触れれば、手に持つ鍵が小さく震え、石造りの壁が割れた先に通路が伸びる。
冷ややかな空気が肌を撫ぜるその先に待っているのは鋼鉄の扉。金庫とは名ばかりの秘密の部屋への入り口のような扉に息を飲む。スイスを導く『
震える手を怒りを火薬に鍵穴へと差し込み、
────ガチャンッ!
重い音が鳴ると扉は来訪者を歓迎するような耳痛い音を奏でて一人勝手に開いていく。
「う…………あっ」
思わず口から声が漏れた。扉の声が止んだ中に、覚束ない足音が薄っすら響く。これまでどれだけ開けられずに閉められていたのか分からないが、黴や湿気の匂いはせずに、鼻を掠めるのは血の匂い。それも凝縮された濃い血液。百人や千人では足りない血で塗りたくったような、一面赤色の壁が待っている。
「な、いぞ。……馬鹿なッ‼︎ どこにッ⁉︎ こんな馬鹿な事がッ⁉︎」
紙の類は一つもない。どこに『
「ふざけ、る、な。ふざけ……ッ」
これまでどれだけの者が身勝手な思惑で死んだと思っているのか。何者をも憂ない想いでスイスが血に染まったなど許せる筈もない。考えれば、有事の際以外に『
「……本当は存在しない癖に、それを逆手に取って想像の怪物を作るのが目的だったとでも言うのか? 傭兵の国の象徴がハッタリだったと言うのか? これまでの『
戦いに生きる者に希望などないという暗示だとでも言うのか。何の為にここまで来たと思っているッ! 『
「こ、れは……ッ?」
壁は一面朱色に塗られている訳ではない。真正面から見つめていては分からなかった。壁に十字の白い線が引かれている。それはスイス国旗のようにも見え、私がぶつかったのはその手前。部屋の中央に突き立てられた朱色の大剣。スイス国旗の十字を切り取ったような大剣を見上げて重い吐息を吐き出す。
剣は王の象徴である。
血塗られた国旗から切り抜かれた大剣。それから
これはスイスの全て。スイス傭兵の歴史と技術が詰まった武力の象徴。これを握るという事は、それを全て背負うという事。これまで戦い流れたスイス傭兵の血が紅い大剣を形作っている。いや、大剣というのも正しくはない。血染めの十字架。傭兵の罪。戦う事でしか自分を示せない傭兵の咎。
これを握る者こそが────。
「スイスの『
重い。重過ぎる。こんな物を握れる者など存在するのか? 誰が握っていいものでもない。戦う為の無限の理由が血染めの十字架には流れている。戦場で戦い倒れた者の大地に染み付いた血を吸い上げて形となっている十字架から情けなくも後退る中で、グロスミュンスター大聖堂を揺らす軽い振動に天井を見上げた。
血染めの十字架が吸い取った血が教えている。孫市が血を流した事を。学園都市の第六位が血を流した事を。ベルンで血を流し煙草を咥えてチューリヒに繋がった空を見上げるオーバード=シェリーと沈=四の姿。血濡れの体で子供の前に立つララさん。ナルシス=ギーガーがグロスミュンスター大聖堂に向かっている。辿り着けば黒子と浜面とガスパルに勝てるか? 無理だッ! 誰に握らせる? 誰が掴む? 誰に握らせられるものでもないような罪を。
「あっ」
母と父の姿が十字架の血の中に垣間見えた。戦いで死ぬ最後まで、私の写真を握る姿が。
「私に……握れと言う気か? 私は相応しくない。戦いを止める為にまだ戦えと言うのか? 剣を握るしか能のない私に? だって私は……」
詰まった喉に無理矢理空気を送り込み、震えた声が吐き出される。誰もいないからこそ、スイスを作った者達に懺悔するように。
「私は……ただの寂しがりやの愚か者だぞ……、誰かの為にしか動けないのは、誰も見てくれないのが怖いから……、両親もいない……私を愛してくれる者はいなかった……シスターと孫市に誇って欲しくて、剣を握っても……、結局私は、私自身が私を誇れない……。悔しいんだ……誰かの為と言いながら、たかが紙一枚に踊らされて英国に向かった能無しだ。孫市の言うように私を信じない者の話など聞かなければよかったのかもしれないけど……、僅かでも信じてくれる者が居たとしたら、私は向かわずには居られなかった。それが私の存在意義だと……。
朱い十字架が揺れ動き形を変える。小さくなった十字架が描くのは小さな剣。私が初めて握った小さな……。
「そ……れは、両親が私に残してくれたものが、それだったから……、私を信じてくれたシスター達が、私を誇ってくれるようにと……私が……選んだ。私が……きっと、それで……向けてくれる笑顔を守りたくて……」
戦いしか知らないのなら戦うしかない。戦いを選ぶ理由はきっと誰もが同じ。守る為に。他人を、自分を。どんな脅威からも逃げずに立ち向かう者が必要だ。立ち止まる群衆の中から一歩でも、誰かが前に出なければ始まらない。それを誰もが待っている。でも待っているだけでは始まらない。誰かの為と言うのなら、どこまで背負え前に進める? それを嘘だと言わぬのなら、きっと掴めるはずだと朱い十字架が揺れ動く。
自分を臆病者の矮小な存在であると認めながらも、全て分かった上で掴めるのかと。本当は踏み出す足など持っていなかったとしても、誰かが信じてくれるなら、ないはずのものもあると言い切り足を出せる者なのかと、幻想を本当にできるのかと揺れる十字架に手を伸ばす。
「私は……夢や幻想を否定できない……。目に見えぬものに縋ってしまうよ……それでも私自身がその形となれるなら……、祈りも想いも私が乗せて剣を振るおう。剣を握るしかしてこなかった。誰にも握れないのなら、せめて……誰も握らなくていいようにッ。宗教の垣根も、人種の垣根も、国の垣根も超えて私を信じてくれるならッ、どうか私に握らせておくれ。私は自分を誇れなくてもいい! 私を信じてくれる者が誇れるならッ!」
私を信じた事が間違いではなかったと。
そう言ってくれるなら私はそれで────。
「……一足遅かったかな?」
「いッ⁉︎」
「……出ましたわね。お化け騎士」
夕焼けを背負ったナルシス=ギーガーがグロスミュンスター大聖堂の前に立つ。体を血に濡らした足取りはそれでも軽く、小さな水音を立てて肩に担いでいた大剣を軽く振るい地を小突いた。目を見開き拳銃に手を伸ばす浜面と肩を竦める黒子を前に、変わらぬ足取りで歩き続け、ガスパルの放った弾丸はナルシスを透けて遠く家の壁を砕く。
「どうにも、君達は無駄な事が好きなようだね。スイスの民でもない癖に、何をどうしてそう必死になる? 名前も知らない他人の為に命を賭ける必要があるのかな? 学園都市の学生は頭がいいと聞いていたんだけど。所詮は実験動物の家畜。街を豪華に見せる調度品だね」
「誰もが笑っていられる日常を守るのがわたくしの役目ですの。スイスがこんな有様では、笑えない方がいますので。その顔を笑顔に変えられるなら、それがわたくしの必死ですの」
「孫市みたいな事言わないでくれたまえよ。必死、必死。命を懸けるのがそんなに偉いのかな? それは所謂最終手段というものだ」
「……それは違えよ、皆きっと懸けてるのは命なんかよりずっと……大事なものなんだ。学園都市で、滝壺も絹旗もフレンダも、麦野も第六位も、ベルさんにグレゴリーさんも、俺もそれを見て来たから! その為にここに立ってんだ!」
「他人の世界を守る為に? 愚かだなぁ。それで強くなるのかい? どれだけ他人を慮ったところで無敵になれる訳でもない。自分を強くできるのは自分だけだ。そんな事も分からないならパカパカ建て付けの悪い口を開かないでくれ。不良品はいらないねぇ」
レーサーグローブを握る浜面の言葉を吐き捨ててナルシスはツヴァイヘンダーを握りゆらりと揺れた。夕焼けに包まれた街に溶けるように。滑る銀線が浜面の頭上に舞う。振り上げられた刃を見上げる浜面の背後へと浮き上がった黒子は浜面の肩を掴むと一瞬にして掻き消えた。
「君は邪魔だね。その能力と同じように消えてくれ」
振られた大剣が地に沈み、大地を削り弾かれた破片が黒子と浜面を打ち据えた。頬や服を裂き動きの止まった学生二人を追うように地を蹴るその横で、並んだガスパルが狙撃銃を振るうが大剣で流され拳がガスパルをグロスミュンスター大聖堂の外壁へと叩き付けた。グロスミュンスター大聖堂の魔術の効果で弾かれるガスパルの体が地を転がる。
「君が先かな
「ッ⁉︎ いえ、まだです」
振られる剣を目に、地面の僅かな凹みに指を這わせて体を引き上げるガスパルの真横を大剣が抉った。滑らかな手の動きで地を這うガスパルの狙撃銃が大剣に向けて振り落とされ、上から大剣を押さえ付ける。
「孫市とシェリーのあの武器はやっぱり少し変だったね。うん」
振り上げられた大剣が狙撃銃の銃身を斬り落とす。そのまま振り落とされる刃の先でガスパルが消え、ツインテールの残像にナルシスは強く舌を打つ。
「……その軍服」
「女性のお洒落に口を挟んで欲しくはないですわね」
「ふむ。忙しいとそこまで距離は跳べないのかな? じゃあ鬼ごっこだね。二人を抱えてどこまで跳べる?」
微笑を浮かべて身を翻すナルシスを目に、ガスパルを掴みながら慌てて浜面の横に黒子は跳ぶ。突き出される刃を目にすぐに跳ぶが、地面を削るように横に振られた大剣の飛沫が黒子達に突き刺さる。それでも空間移動をする黒子の前に大剣が落とされ銀の刃が振り上げられた。
「誰かがいるからそうなるのだよ。君一人ならそうはならなかった筈だ。後はあの世ででもやってくれ」
己の為に振るわれる大剣を止められるのはナルシスだけ。奥歯を噛み締め顔を上げる黒子の首へと伸びる刃を黒子も浜面も止められない。二人を突き飛ばそうと手を伸ばすガスパルの先で、黒子の瞳に夕日より朱い刃が映った。
「それは貴様だナルシス=ギーガー」
大剣がナルシスごと弾かれる。グロスミュンスター大聖堂の壁を砕き破り、夕日に照らされ紫陽花色の髪が風に揺れた。朱色の十字架を構えたカレンが十字架の上に手を添えると、横に伸びた十字架の部位が弓のようにしなり十字架の上に朱色の矢を形作る。
「……なんだいそれは? カレン……ッ⁉︎ まさか貴様ッ⁉︎」
「偽りの『
放たれた矢をナルシスは横に飛んで避けようとするが、ナルシスを過ぎ去り直角に曲がった朱色の矢がナルシスを追い飛来する。必中の
「それがそうかッ! まさかカレン、君が金庫を開けるとは驚きだ。
「気持ち悪い笑みを私に向けるな。貴様になどスイス傭兵の歴史は握らせない。これはスイスの努力と想いの結晶だ。誰も信じぬ貴様が触れていいものでもない」
「誰かの為に力を振るう事が全てだと言うのか? どいつもこいつも他人、他人と」
「貴様も私と同じだ。寂しい男。誰かが隣にいるのに気付いていない。私が隣り合ってやろう、せめて死ぬその時くらい看取ってくれる者が必要だろう? 貴様に死を告げる誰かが……。ここから先は私が…………いや、一人居たな、私を信じない男が一人」
「誰だいそれは?」
ナルシスに笑みを向けるカレンの瞳が向くのはその先。ミュンスター橋から大地を小突く振動がゆっくりとグロスミュンスター大聖堂に迫って来る。夕日に照らされ朱色に染まった『
「……おいおい、ゾンビかい孫市?」
「……俺はお前を信じないんじゃねえ、分かってるから信じる必要も頼る必要もねえんだボケッ、五代目『
「命令しろと命令するなッ! そしてそれさえも選り好みするか貴様はッ‼︎ 良いだろう好きにしろ法水孫市ッ! それも私が背負ってやるッ! ただしッ! 私も好きにするッ!」
「初めからそのつもりなんだよこっちはなぁッ! これまでのツケを払ってもらうぞ独裁者ッ! いい加減脳の血管切れそうだッ、その前にお前を千切ってやる!」
胸に開いた孫市の穴が熱を吸い込んだように頭が湯立つ。『