時の鐘   作:生崎

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瑞西革命 ⑬

 ────キィィィィン。

 

 大地を一度小突いた『白い山(モンブラン)』の張り詰めた音に、白井黒子(しらいくろこ)浜面仕上(はまづらしあげ)は忘れていた呼吸を取り戻し息を吸う。時の鐘(ツィットグロッゲ)空降星(エーデルワイス)、ナルシス=ギーガーを挟み立つ二人が視界の中に立ってから数秒。それしか経っていないにも関わらず、数分は息を止めていたのではないのかと錯覚する程に空気が張り詰めている。

 

 孫市とカレンの名を呼ぼうにも、口の中の水分が乾き切り喉が上手く動かない。殺気や剣気さえ飲み込んで、頭が理解を止めてしまう漠然とした大きな圧が黒子と浜面を襲っていた。

 

 それを滲ませるのは三つの影。

 

 飄々と手に掴めぬナルシス=ギーガーからは、前後に立つ二人には既に『百鬼夜行』を基にした魔術が意味を成さない事を察し、これまで掴まれないが故に隠していた力の片鱗が、圧力鍋から吹き零れるように漏れている。

 

 暗躍し、演じ、嘘で彩り、瑞西(スイス)さえも生贄に防御不要という緻密な魔術を描いた手腕は、言ってしまえば保険でありオマケである。物事をより簡単に楽に進める為の道具と同じ事。徒歩でも行けるが車に乗った方が楽。それぐらいの差でしかない。結局ナルシス=ギーガーも技術を繰る瑞西(スイス)傭兵であり、瑞西(スイス)傭兵の中でならオーバード=シェリーと名声を二分する歴代でも類を見ない異常者に他ならない。

 

 何ものにも染まらず、ただ自分さえも騙せるほどの外面をもって、どんな組織にも馴染もうと思えばナルシスは馴染める。それがどれだけ反吐が出るような行為であったとしても、必要ならば『望む自分』を演じられる。戦場の名優。その男こそナルシス=ギーガー。そんな男の剣技も性格と同じ。

 

 見惚れるような流麗な剣も、野生染みた荒々しい剣も、柔剣、豪剣、鉄を斬り裂き川を割る。やろうと思えばいつも出来た。故に型など存在せず、必要ならば即席で型さえ作り上げる。オーバード=シェリーが狙撃の天才であるのなら、紛れもなくナルシス=ギーガーは剣の天才。同じ天才であったとしても、カレンとは大きな開きがある。

 

 

 いや、()()()

 

 

 愚直に剣を振るう才能がカレンにはある。剣を振るうなら迷わない。逆に言えばそれしかなかった。それを今手にする『将軍の赤十字(レッドクロス)』の膨大な瑞西(スイス)傭兵達の歴史と技術がその差を埋めている。自分以外は必要ないと、二十九年分のナルシスの歴史の十倍以上。十四世紀から続くスイス傭兵達の努力と技術の歴史がカレンの手には握られている。

 

 傭兵。戦力を商品として売る者。単純に金を稼ぐのならば、もっと安全で楽な方法がある。なのに何故スイスの民はわざわざ傭兵産業に邁進し多くの者が『傭兵』の道を選んだのか。戦いたいから? 自分の力を示す為? そんな理由もある。かつて『血の輸出』とまで呼ばれたスイスの傭兵派遣。それが終わらず長い時続いたのは、必要とされたから。誰も好き好んで命を懸けて戦いたい者はいない。

 

 それを言ってしまえば世界各国はスイス傭兵にぶん投げた。自分達が戦わぬ代わりに戦ってくれる者を求めた。単純に戦いが嫌だから、その方が楽だから、もしくは自分に戦う力がないから。あらゆる思惑がある中で、しかし、スイス傭兵はぶん投げられたそれを受け止める事に決めたのだ。

 

 現代よりもずっと暴力が幅を利かせていた時代に、信じてくれる者のためにその脅威と向き合う事を決めた。手にあるのは剣や槍、体を張って強い弱い関係なく。人種も国も超えて必要としてくれる者の為に戦場に立ち続けた。その意志が形を得ただけの事。誰かの為に力を振るってこその傭兵。

 

 スイス傭兵の矜持がカレンの根元と噛み合ったからこそ、カレンは赤十字を握っていられる。

 

 宗教とは心の安らぎを求めるもの。それを超常の存在に求めるのか。自然の流れに求めるのか。正しい行いに求めるのか。無限の道が存在する。本来何かを信じる事に垣根などない。ローマ正教という世界最大宗派であっても同じ事。その緩やかに刻まれた境界線の外へと一歩カレンは足を出しただけの事。信じるものを変えた訳ではない。ただそれが大きく広がった。信じてくれる者に善も悪もないのだと。その広がった器にスイス傭兵の血が満ちる。

 

 血の歴史が今のカレンの圧を生んでいる。深く広大で(たお)やかに。誰にも許された暴力という平等を優しく振るう。握手もできる手を握り締め、向ける先を見つけたと突き付ける。言葉にせずともその立ち姿が最終通告。傭兵の国の傭兵の主。俺はお前の敵なのだとナルシスが信じるが故にカレン=ハラーは敵となる。

 

 ただそんなカレンとは真逆の男がナルシス=ギーガーの背後に一人。

 

 スイス傭兵の広大な歴史の中で、自分の法だけを掲げる異端児。人と少しズレている。生まれ出たその瞬間から見えている物が違う。どこまでも自分を研ぎ続け広大な世界を貫くような狙撃傭兵集団。始まりは平凡であったはずが、自分を積み続けて遂にそんな者達の世界と並んだ男。

 

 行き着く先がカレンと同じだったとしても、その過程がまるで異なる。スイスの全てになど目もくれず、死ぬその瞬間でも自分しかその手に握らない。純白を染めるものは何もなく、何色にも染まらない愚者。素晴らしいものも素敵なものも愛するものもその全てを素晴らしいと知って尚、それを追い自分のためにしか進まぬ者。決して信仰せず、ただ隣り合い手を伸ばす者の手を握る。貸して欲しいというのなら、報酬をもって自分だけの法則を貸し出す悪魔。

 

 その悍ましい甘美さに多くの者が魅了される。故に悪魔は消える事はない。自分と他人。その境界線を強く刻み込みながら、他人がいなければ自分も存在しないと理解し、悪を振り(かざ)し善と隣り合う者。それもまた傭兵。

 

 

 コインの裏表。光と陰。朱と白。どちらかだけなどあり得ない。

 

 

 誰かと共にいるために自分だけを磨き続ける。その矛盾が生む摩擦が法水孫市から滲む圧の素。死があるからこそ生があると吐いたナルシス=ギーガーと並ぶ為、死刑宣告を告げる執行人となる為に、他人の世界と己の世界の波紋を合わせる軍楽隊の死の音色は耳を塞いでも意味はない。

 

 肌を撫ぜる歴史の血の香りと、骨に響く終わりの音色。空降星(エーデルワイス)時の鐘(ツィットグロッゲ)を追い続けた二人が望むべき場所に這い上がって来たからこそ、その圧を斬り払うかのように苛立たしげにナルシスの圧も上がってしまう。

 

 

「う……ッ」

 

 

 三者三様の圧に押し潰されて浜面の喉から呻き声が絞り出される。水滴が水面を叩くような僅かな浜面の呻き声は隣に立つ黒子とガスパルにさえ聞こえなかったが、三人のスイス傭兵は別だった。その波紋に押されるように、ナルシスはツヴァイヘンダーの柄を握り締め、カレンと孫市は一歩を踏む。

 

 重なり合う二つの足音は小さくすぐに消えてしまうが、その一歩が大気を揺らしているように黒子と浜面の目には映った。たかが一歩。ゆっくりと、静かに、すぐに二歩目を出す事もなく、どれだけ時間を使っているのかも分からない二歩目が踏み出されるまで、黒子と浜面は呼吸を忘れる。ピアノ線の上で綱渡りでもしているのではないかと思ってしまう程の静寂と緊張。

 

 黒子と浜面の横で、ガスパルは冷や汗を止め処なく流し、瞬きさえせずに狙撃銃を構える事なくそれを見つめていた。

 

 

(いったいどれほどの────ッ)

 

 

 目に見えぬ応酬が繰り広げられているのか。最高のチェスゲームと同じ。静かに伸ばされるそのたった一歩で戦況が絶えず変わっている。状況だけ見れば二対一。だが、それでようやく五分と五分。激しく剣を撃ち合うでもなく、銃声すらない空間には、見る者だけが分かる狂気的な戦場が繰り広げられていた。故にガスパルも黒子も浜面も動けない。

 

 この拮抗状態の中にもし足を踏み入れれば『死』が訪れる。

 

 三人の身から滲む圧が、刃や銃弾となって見る者の足を縫い付ける。

 

 だから誰も気付かなかった。向かい合う孫市達三人は尚更に。銃声も砲撃音も鐘の音も鳴る事なく、いつしか静寂がチューリヒを包んでいた。時の鐘も、駆け付けたクーデターの軍勢も、その戦場を目に武器を下ろして息を飲む。思い描いていた戦場の遥か高みで繰り広げられている暴力対暴力。

 

 英国のような熱狂はなく、恐いほど静かな狂気がチューリヒを中心にスイス全体に広がっていく。土御門元春(つちみかどもとはる)が垂れ流す防犯カメラの映像の映ったテレビを見て、ある者はその目で見ようと戦場へ駆け付け、三人の傭兵に想いを寄せる。誰もが傭兵であるからこそ、三者三様の誰かに共感してしまう。自分を絶対と信じるのか、誰かの為に刃を握るのか、素晴らしきを追い自分を磨き続けるのか。スイス国民の意志の乗った代理戦争。何の為に力を振るうか。

 

 その者がどんな想いを持っていようが、誰かに想いを向けられてこそのスイス傭兵。誰もが拳を握り締めて見つめるその先で、また一歩足を出し、カレンの顎から大粒の汗が落ちる。

 

 自分が呼吸しているのかまだ生きているのかも定かではない。極限の集中と緊張が時の存在さえ頭の中から弾き出し、ただスイスの全てを握り振るう事に集約されている。剣を打ち合うよりも遥かに気を遣う。僅かなブレが死に繋がる。それがどうしようもなく分かってしまう。

 

 そして勝負は一瞬だ。五分も十分も掛らない。もし三人の中で誰かが一撃を決められると確信し動いたならば、およそ十秒もあれば決着がつく。

 

 それほどの情報量がたかが一歩に詰まっている。狙撃前の静寂のような空間に耐え切れず、諦めればそのまま終わり。焼き付くような情報量にカレンの鼻から血が垂れ大地を柔らかく叩いた。

 

 ぽたりッ。

 

 その音に『将軍の赤十字(レッドクロス)』を握るカレンの人差し指が僅かに跳ねた。目で見ても分からないような微々たる動き。その機微を逃す事なく、大地をほんの僅か足で擦り、ナルシスは吐き出そうとした息を無理矢理飲み込む。

 

 

(そろ)……ったッ」

 

 

 誰かが漏らしてしまった言葉が答え。しまったと慌てて口を開いた兵士は口を紡ぐが、誰もそんな事気にしてはいない。誰もが自分が零してしまったと勘違いしてしまう程に、目の前の緻密な芸術に目を見開く。

 

 

 ぽたりッ。

 

 

 孫市の胸から血が垂れる。呼吸をしているのかも分からぬ程静かに、踏み出される一歩がカレンの動きと完全に一致する。怪我の具合からして誰より重傷。そのまま前のめりに倒れても、誰も驚かないような有様でありながら、誰よりも強く(たし)かな一歩を踏み締める。胸の穴から垂れる血がカレンに孫市の動きを訴え、カレンから滲む波紋が孫市にカレンの動きを教えている。

 

 言葉にせずともそれ以上に膨大な会話をしているように、二つの影が一つの生き物のようにズレなく動く。

 

 

(ま……ご……いちッ!!!!)

 

 

 それにナルシス=ギーガーが誰より強く歯噛みした。カレンの動きだけに合わせているのなら、これほどナルシスも足は止めない。カレンの狭い世界とナルシスの狭い世界の波紋が重なり合うその瞬間を穿つように孫市は足を大地に落としている。死に掛けの男が、吹けば倒れそうな男が。ナルシスの足を最も強く踏みつけにしている現状がナルシスは我慢ならない。

 

 激情で場を乱せるならどれだけいいか。ナルシス=ギーガーの絶対の才能が、無理に先に動けば斬られるのは自分であると理解してしまうが故に大きく動けない。静かな中で無限にフェイントを入れている。それに一度でも引っ掛かればナルシスの刃はカレンか孫市のどちらかを刎ねられる。そうなれば一対一、ナルシスの負けは消えるのだが、そのフェイントの動きをカレンの握るスイスの歴史が過不足なく見切っていた。カレンが見切れるからこそ、その波紋を拾う孫市の動きも自然とフェイントに掛からない。

 

 カレンがいるからこそ孫市は負けず、孫市がいるからこそカレンが負けない現状こそがナルシスの全てを否定する。ジリジリと焼き付く太陽のように着実にナルシスとの距離を詰め、二人の圧が増す様がナルシスの必死を浮かび上がらせる。

 

 最初牙を突き立てるように吠えた時のまま、口を閉ざし静かに足を出していても、孫市とカレンの激情は冷めるどころか増している。温度計が壊れるくらいに熱を持ち過ぎ、熱過ぎて逆に冷めて見える。およそ十歩に満たず三人の間合いが重なり合えば始まり終わる。床を削るような孫市の一歩に、テレビで、その目で、戦場を見守る観戦者の肩が全て同時に跳ね上がる。

 

 

「孫市さん……ッ」

 

 

 その緊迫の中に紛れた黒子の目からは雫が溢れ、孫市はゆっくり顔を上げると軋むような笑みを向けた。

 

 

 隙。

 

 

 ではない。

 

 

 柔らかな表情とは裏腹に、鋭利に尖った孫市の音色に数ミリばかりナルシスは後退り、カレンも数秒足を止める。必死。どれだけの想いを勝手に上乗せされようが、自分の為に足を出す。その想いと同じ熱を返せるだけの自分であるため。黒子の一言が孫市の無駄を削り落とし、その一歩を更に強いものへと変えた。愛が捧げるものであるならば、孫市が愛を捧げる相手は一人だけ。追い続けている孫市を追ってくれる小さな少女。

 

 そんな少女に釣り合う為、そんな少女に泣いて欲しくはないからこそ、大丈夫だと態度で示す。どうしようもなく手を伸ばしてしまう相手に選ばれただけの価値があると示したい。世界中の誰よりも、例え神や天使が相手であっても、白井黒子に相応しいといつか言って貰えるように。例え生き様が少女の法にそぐわないものであったとしても、自分の歩んで来たこれまでに後悔しないように孫市は一歩を更に踏み込む。

 

 

(なん、なんだ君達は……ッ、なぜ、くそッ!)

 

 

 法水孫市とカレン=ハラー。その二人がナルシスの視界にチラつくようになったのはいつからだったか。齢十歳の少女が傭兵の剣術大会で優勝したら空降星(エーデルワイス)に入れてくれとやってきた時、ナルシスは気にも留めていなかったが、カレンは自分で言った通り優勝して空降星(エーデルワイス)の一人となった。

 

 時の鐘(ツィットグロッゲ)にやって来た極東の少年。各国から一流の狙撃兵が訓練の為に集まる世界最高峰の狙撃手集団に入ったと聞いた時はどうせすぐに死ぬだろうと思っていたのに、まだ生きてナルシスの目の前にいる。

 

 無関心を撃ち破った時、二人はナルシス=ギーガーの狭い世界に足を落とした。もしも一般的な家庭からひょっこりやって来た二人なら、ナルシスもそこまで気にしなかった。なぜイタリアでカレンに書状など送らせたのか。孫市を気にして極東の伝承にも手を伸ばしたのか。

 

 ナルシス=ギーガーも孤児である。トルコに捨てられた孫市や、両親が居なくなり教会に押し込められたカレンと同じ。暗闇でいつも明るい世界を眺めていた。路地の奥を振り返れば同じような者達がわんさかいる。

 

 

 明るい世界に目を向ければ? 

 

 

 煌びやかな世界の中でもそれは大きく変わらない。愛想笑い。豪華な装飾で飾っていようが中身は空っぽ。世界を素敵に見せ掛けるだけの調度品のような人間達で溢れているばかり。井の中の蛙であろうとも、誰より大海に夢を見ている。だからこそ、路地の奥でそれに気付かずなぜ地面ばかりを見つめているのか。

 

 

 俺は違うッ! と、ナルシス=ギーガーは心に誓った。

 

 

 調度品に手を引かれるなど我慢ならない。路地の奥でそのまま朽ちるのも腹立たしい。何故足が付いているのに自分から出て行かないのか。行こうと思えば何処まででも行ける。その証明こそ自分である。他人の助けも想いも必要ない。自分の足があるのだから、いらないものは踏み付けに、必要な物は自分の世界を彩る為に置いておく。いらなくなったら捨てればいい。そういう風に生きられる。生まれが全てなどあり得ない。この世に生まれ出たのなら、なんだってできると、全ては自分が始まりであると神さえ踏み台に証明する。

 

 そんな自分と同じだと、ナルシス=ギーガーはカレンと孫市を想っていた。想いたかった。這いずりながらも前に進む愚者二人は、お互いが全く違うものを見、ナルシスとも違うものを見つめていた。

 

 

 その目はなんだ? 

 

 

 なぜ調度品をそこまで大事に扱える? 

 

 

 たかが生まれや境遇に憐れみ馬鹿にしたような目をする空っぽの調度品になぜそこまで入れ込むのか理解できない。イカレ。変態。理解のできない気持ち悪いものが、何故か今同じ場所に立っている。見るものも考えも全く違う癖に、二人で一つの動きを完璧に合わせて迫ってくる。それどころかナルシスさえも巻き込んで、ナルシスも同じだと言うように。

 

 

(負けないッ、俺はッ、俺が証明するッ! 俺が俺を証明するのだッ! 誰にもできない事ができるとッ! 俺は君達にッ! 君達にだけはッ!)

 

 

 負けたくない。

 

 

 胸の奥につっかえた吐息を吐き出して、ツヴァイヘンダーが軋み唸る程に握り締めるナルシスの覇気に、カレンと孫市の足が止まる。同時に見守る群衆は後退った。刃の届く距離ではないのに、斬られた虚像を目に首を摩る。

 

 

 絶対の個。

 

 

 技術を磨くならそうでこそありたいと傭兵、兵士の羨望の目を一身に受け、それさえ掬い取る事はなくナルシス=ギーガーは君臨する。偽の『将軍(ジェネラル)』であろうとも、その技量と実力に嘘はない。傭兵達が憧れる最高の傭兵の一人である事に違いはない。

 

 

「うぁ……ッ」

 

 

 ナルシスの気迫に群衆の前列は蹌踉(よろ)めくが、その乱れた視界を二つの足音が叩き直す。足を止めたのは一瞬で、踏み出す足が引っ込む事だけはない。絶対を謳う独裁者を前にしようとも、一歩を踏むと同時に地に落とされた『白い山(モンブラン)』の切っ先が波紋を広げ、それを斬り裂くように地を擦った『将軍の赤十字(レッドクロス)』の剣先の音が群衆の背筋を正させた。

 

(流石はナルシス=ギーガー、気に入らないくそったれであろうとも、その積み上げた軌跡に敬意を払おう。だからこそッ! それを前に逃げる事はありえないッ! 青ピが俺を見つけてくれたッ! 黒子が追ってくれるッ! 浜面は約束を守ってくれたッ! 土御門は学園都市さえ離れて俺に知恵を貸してくれたッ! ボスもッ! キャロ婆ちゃんもッ! ロイ姐さんもッ! ベルもグレゴリーさんもガスパルさんもッ! ゴッソにスゥは俺の届かなかった学園都市までッ! 何よりカレンが立ってるのに俺が倒れるのだけはありえないッ! 『将軍(ジェネラル)』にまでなったお前を必ず俺が守ってやるッ! ここまで描いてくれた道筋を途切れさせるなんて、それだけは例え死のうとも描き切らなきゃ嘘だろうッ! 分かるはずだッ! スイスの全国民もッ! 望む物語の結末を俺が描くッ!)

 

(スイスの誰もが見つめているッ! 無数の想いが流れているッ! それを手にしているからこそ感じられる。誰かが私を信じているッ! 応えねばならないッ! 身勝手に我儘に私に押し付けてくれて構わないッ! 私が全て受け止めるッ! オルソラ、インデックス、アニェーゼ、黒子、浜面、土御門、青髮ピアス、私を信じてくれてありがとう、死ぬまで感謝しても仕切れない。その想いを、祈りをどうか私に運ばせてくれッ! だから今だけはッ! お前も信じてくれるだろう孫市? 私にもお前を守らせてくれ、私を置いて行かないでくれ、誰かが信じてくれるなら私はッ! どんな脅威も斬ってみせるッ! 磨き続けた技術は誰かの笑顔の為にあるのだと、私が描いてみせるからッ! スイスの未来に私が奇跡を込めてやるッ!)

 

 

「お……いッ」

 

 

 息を飲んだ浜面の前で、手の届く境界線が触れ合った。緩やかに確実に、お互いの命に手の届く距離に。刃を手にナルシスは動かず。死の境界線に孫市とカレンは足を踏み込む。そしてその足は音もなく止まった。

 

 

 誰かが大きく息を吸った。

 

 

 ツヴァイヘンダーの刃が揺れる。

 

 

 緊張に耐えられず誰かが膝を折る。

 

 

 『将軍の赤十字(レッドクロス)』がその肌を波打つ。

 

 

 一瞬を見逃す訳にはいかないと誰かが最後の瞬きをする。

 

 

 白銀の槍が天に向く。

 

 

 三つの吐息が同時に吐き出され、『白い山(モンブラン)』が揺れ動く。その長い銃身をしならせ地を削りナルシスの足を薙ぐように。

 

 

 キィィィィンッ‼︎

 

 

 鉄と鉄の擦れ合う音。『白い山(モンブラン)』を掬い取り、掬い上げられるように跳ねたナルシスの大剣が横薙ぎに振るわれる『将軍の赤十字(レッドクロス)』の側面を跳ね上げた。身を開いたカレンの姿がスローモーションのようにナルシスの瞳に描かれる。

 

 

()ったッ!!!!)

 

 

 大剣を振り下ろせばカレンの首を両断できる。『将軍(ジェネラル)』の首を刎ねられる。選ばれた者などよりも自分が絶対であると証明できる。振動で若干痺れた腕を体重と大剣の重みに任せて振り落とそうとナルシスが柄を握る音がミシリと響いた。

 

 

 ────ガシャンッ! 

 

 

 その音を吹き消す狙撃銃のボルトハンドルを引く音が鳴る。刹那にも満たぬ間にナルシスは眉を本当に少しだけひん曲げるが、胸に穴の空いたズタボロの時の鐘の軍服に銃弾の類は存在せず、そもそも弾丸が残されているのならば、グロスミュンスター大聖堂に来る前に狙撃すればよかった。

 

 

 ナルシスの気を削ぐ為のブラフ。

 

 

 振り上げられたナルシスの大剣の刃に映る孫市は、『白い山(モンブラン)』を狙撃銃に変え、ボルトハンドルを引いてはいるが弾丸を取り出す動作すら見せない。

 

 

 何より今から懐に手を入れ弾丸を取り出し、弾を込めて引き金を引くのでは遅過ぎる。

 

 

 そう思っていた。

 

 

 笑みを深めるナルシスの視界の端を一発の弾丸が通り過ぎて行くまでは。

 

 

 林檎一射(アップルショット)

 

 

 スイスの英雄、ウィリアム=テルの魔術の触媒。必中の一撃が外れた時のために、隠し持っている二つ目の必中。カレンの林檎一射(アップルショット)の触媒は。

 

 

 ────ガシャンッ!!!! 

 

 

 ボルトハンドルが引かれて開いた『白い山(モンブラン)』の口の中へ、吸い込まれるように『時の鐘(ツィットグロッゲ)』が生んだ特殊振動弾が滑り込む。

 

 

よし

 

 

 押し出されたボルトハンドルが『白い山(モンブラン)』へと弾丸を装填し、己に向いている銃口を目に一瞬目を伏せ、ナルシス=ギーガーは微笑んだ。初めての隣人を歓迎するように。客人を家に招き入れるように。

 

 

「……会いに来るのが遅かったじゃないか、黙示録の喇叭吹き(トランペッター)

 

 

 一つの時代が切り替わるごとに、時代ごとの最後の審判が下され、また新たな時代が始まって新たなものの見方が示される。終末を告げる時の鐘が鳴り響く。独裁者の狭い世界に波長を合わせ、耳を塞ごうが骨を震わす物語(人生)終止符(ピリオド)が偽りの主を撃ち抜いた。

 

 チューリヒに響く残響はテレビやラジオに乗ってスイス全体に響き渡った。震える空間に弾き飛ばされ、大地を削り孫市とカレンは地を転がる。

 

 張り詰めていた空気は揺さぶられて消失し、孫市もカレンも夕日の落ちるスイスの空を荒い呼吸と共に見上げていた。

 

 

「……終わったのか?」

「……終わったようだ」

「……そうか…………そうかっ

 

 

 同じ言葉を何度も繰り返し、カレンが『将軍の赤十字(レッドクロス)』を杖代わりに立ち上がる音を聞きながら孫市は目を閉じる。もう指先一つ動かしたくはない。歩み寄って来るカレンの足音を聞きながら孫市は寝転がっていたのだが、その足音が途中で止まり薄く目を開けた。

 

 

 呆けた顔で立ち尽くすカレン=ハラー。

 

 

 その顔は動かず固定され身動ぎ一つしない。

 

 

 何を見ているのかと孫市が瞳だけを動かしカレンの顔の先を見つめれば、ローマ正教の修道服を着た初老の女性が膝を折り打ち崩れている兵士達の人垣を割って歩いて来る。

 

「あ……、シ、スター……なんで、ここに……いや、それよりも私はッ」

「見ていましたよ、とても素敵な友人ができたようですねカレン。貴女は私の誇りです」

「シスター……ッ!」

 

 『将軍の赤十字(レッドクロス)』がカレンの手から滑り落ち、大地に転がる音がした。

 

 大事な『将軍(ジェネラル)』の証をほっぽり捨ててるんじゃないと孫市が言おうにも、子供のように泣きじゃくりシスターに抱きついているカレンに孫市は何も言えない。

 

 そんな、カレンの鳴き声が胸に開いた穴に響いて具合が悪いと顔を顰めていた孫市の頭が、不意に軽く持ち上げられた。小さく暖かな少女の手によって。

 

「黒子……」

「お帰りなさいませ、孫市さん……」

「あぁ、ちょっとぉ、膝枕ならもうちょっと元気な時にやって欲しいなぁみたいな……、それに今俺に触ると折角の『乙女(ユングフラウ)』が汚れちゃうよ……」

「汚してくれていいですの。貴方の色になら……今日だけの特別ですわよ?」

「今日だけかぁ、じゃあちょっと黒子、もう少し顔を寄せてくれ……もう少し……周りから見えないようにさ……」

 

 顔を寄せてくれる黒子で孫市の視界が埋まった頃、孫市の瞳から涙が溢れる。子供のように鼻をすすり、止め処なく溢れてしまう涙が大地に吸われてしまわぬように、黒子は優しく孫市の頭を抱え込んだ。

 

 

 

 

 

 

 十月二十四日。この日は特別な日である。

 

 

 瑞西(スイス)連邦五代目『将軍(ジェネラル)』が誕生した日。

 

 

 そして新たな瑞西(スイス)が始まった日。

 

 

 そしてこれまでの『時の鐘(ツィットグロッゲ)』と『空降星(エーデルワイス)』が終わりを告げた日。

 

 

 十月二十四日はそんな日だ。




瑞西革命編、終わり。ここまで読んでいただきありがとうございますッ! マジでありがとうございます! 心の底から感謝をッ!

長らく旧約内に跨って繰り広げられていたスイスのオリキャラ達のお話もこれで大きな一区切りがつきました。一度も私はスイスに行ったことないのに、スイスに本部を置く組織を考えるという無謀もこれで終わりです。だからあれ? これ変じゃね? スイスにそんなのねえよ! とぶっ飛んだところがあっても許してください。孫市にとっての旧約内ラスボスであるナルシス=ギーガーをもう少しちょこちょこ本当なら出してあげたかったですが、まあ仕方ないなッ!

最終戦は激しい感じではなく、狙撃手の戦いっぽい感じの雰囲気を出したかったのでこんな感じになっちゃいました。ガシャガシャ戦うのはまた今度ということで。

次回は幕間です。これからの時の鐘に少し触れます。ロシア編は孫市が重傷でありカエル顔の先生がいてくれないので、一、二話ぐらいで終わっちゃうと思います。

もう少しで旧約も終わり。もうちょっとだけ大きな区切りまでお付き合いください。ありがとうございました。

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