旧約の終幕 ①
病室の中でカタカタとパソコンを叩く音が響く。口に咥えた煙草から登る紫煙が風に揺らされ目前を過ぎ、火を消すために押し付ける灰皿には既に吸い殻が山となっていた。
それを一瞥する事もなく再び煙草を咥えて火を点ける俺の姿に呆れたように黒子は肩を竦めて、灰皿を手に取ると中身を捨てるためにゴミ箱へと向かった。
スイス動乱、十月二十四日に全てが終わり、今は十月三十日。ロシアへと足を向けた青髮ピアス、
本当なら俺もロシアへと向かいたかったが、身体中斬り傷だらけ、心臓スレスレに鉄の棒が突き刺さった穴が未だ完全に塞がらず、骨もくっ付いて居ない中で第三次世界大戦の激戦地であるロシアの地を踏むのは誰が見ても死ぬとしか思えないらしく、十月二十四日から俺はずっと病室に缶詰だ。
崩壊したスイスを取り敢えずの軌道に戻す為、
慣れていないだろうに『
「先輩、ノボシヴィルスクに居るミサカ19999号とミサカ20000号からの報告が届いています。同時にミサカ10777号から緊急でお知恵を借りたいと。ドーバー海峡でイギリスとフランスが遂に対面を果たしたようです。とミサカは立て続けに報告致します」
「分かった。クロシュ、10777号さんの要件を一番に片付けようか。撤退戦に使えるだろう戦術の擦り合わせだろう? 敵方を既に捕捉しているならどんな相手がいるのか情報をくれ」
時の鐘の事務服に身を包んでいる
苛つきを抑えるために煙草を咥えながらクロシュの言葉に耳を傾け、戻って来た黒子がベッドの脇、クロシュの隣に座る音を聞きながら、ベッドの横の小さな机の上に置かれた紙コップを満たすコーヒーを舐めた。
「歯痒いですわね」
「全くだ。だが今はいい方に考えるしかない。落ち着いて情報を見回せる者も必要ではある。普段それを俺は飾利さん達に任せているからな。偶には俺も誰かの必死の手助けをしなければ割に合わないというものだろうさ。それにここには三人もいる。三人いれば文殊の知恵だ。クロシュ、敢えて敵を撃ち殺す事はせずに足を撃ち抜けと伝えろ。必要な結果が撤退であるのなら殺し尽くす必要は寧ろない。無論全滅させられれば逃げるのも楽だが、脅威と判断され戦力を投入される恐れもある。相手側に怪我人を多数内包させて足を殺せ。敵の足が緩んだところで此方の重要度の低い土産を置いてやればほぼ確実に止まる。今回の目標は命を大事に。だろう?」
「では先輩の言う通りに。助かります。ミサカ達も心得はありますが、実際に多くの戦場を経験している方が居てくれるのは心強いです。とミサカはミサカ達の総意を先輩にお伝えします」
「なに、後輩の頼みだ。俺の頼みでもある。付きっ切りですまないなクロシュ」
俺と、御坂さんと服以外全く同じ姿のクロシュとのやり取りを微妙な顔で見つめている黒子に、「クロシュ」と言って
「確かに、折角
「どういう事ですか先輩? とミサカは首を傾げます」
ライトちゃんが自分の名前の呼び方を強制して来たように。名は体を表すという言葉もある。それで何が変わるんだという気がしないでもないが、それが少しでも助けになればいい。即ち。
「クロシュも自分のその呼ばれ方が気に入ってるなら自分をクロシュと呼べばいいのさ。いっそ改名してしまえばいい。今日から御坂クロシュとな。悪くないじゃないか言いやすくて」
「いえ、そんな、ミサカだけそれは……。それは許される事なのでしょうか? とミサカは汗ばんだ手を握ります」
「決めるのはクロシュさ。別に変えなくても、少なくとも俺も黒子も気にしないさ。なあ黒子?」
「妹様がご自分でお決めになったのでしたら、きっとお姉様も笑って受け入れてくれますの。ただ時の鐘が名付け親などと知られると、苦い顔をすると思いますけれどね」
確かに苦虫を噛み潰したような顔をする気がする。御坂さんから俺はあまり好かれていないしな。俺も御坂さんは苦手だし。眩く輝かしい少女であるのは確かなのだが、だからこそ同じ方に進もうとするとバチバチと電気を飛ばされて進み辛いと言うか。その輝かしさが眩し過ぎて目が痛い。上条と似たタイプだ。
「それにクロシュ、スイスはこんな有様だし、お前は時の鐘預かりなんだ。お前も学園都市に来るんだろう? そうなると一先ず『
「ちょ、ちょっと⁉︎ わたくしそんな話聞いてないのですけれど⁉︎ 貴方と浜面さんが時の鐘として動くのは勝手ですけれど、妹様まで⁉︎ 何自分だけいけしゃあしゃあと妹様とよろしくやろうとしてるんですのッ‼︎
「ば、馬鹿⁉︎ ヘッドロックしようとするな⁉︎ 俺怪我人! 俺怪我人‼︎ 煙草もあるし危ないぞ! 文句はクロシュを時の鐘に呼び寄せたボスに言え!」
そんな四六時中御坂さんの顔を見ていたいのかは知らないが、もう時の鐘に参入しているのならば、基本俺は味方になる。他の妹達の事は知らないが折角できた後輩だ。ほんとマジで待ち望んだ後輩である。浜面もそうだけど今居ないし。どんな理由があれ時の鐘になったのなら、目に見えるものを信じ、『
曰く『サタン』、『ある少数派的な精神性と思想を示す言葉』。サタンとはそれ即ち『人』の事。人を一つの世界とし、個の意思を尊重するのがサタニズム。宗教的主義の一つでありながら、何者をも信仰せず、虚栄や自己
神も奇跡もその効果を実際に目にしたならば、その存在を素直に認めはしても信仰はしない。故にクロシュ、ミサカ17892号さんにも
御坂さんの妹ならそんな心配はいらないだろう? と黒子にヘッドロックされながら笑みを向ければ、クロシュに小さくそっぽを向かれる。
「そ、そういきなり言われましても……ミサ……えと、ク……ミサカは……」
「時間はあるんだ。好きにすればいいさ。俺の
自由過ぎて手が付けられない。いつどこで出てくるのかも分からない電波お化けだ。黒子や飾利さんが見張っていてくれるなら俺も安心。
「……大きな妹様はちょっと」
「おい」
ちょっとじゃないよ。差別だぞ。
椅子に座り直す黒子を見送り、再びパソコンに向き合うと同時、クロシュから感じる波の乱れにふと指を止める。まだ見た事はないが、ひょっとして噂をしてしまった為に
「……どうした?」
「今ロシアで……上位個体と
その言葉に少し体が跳ね、口に咥えていた煙草から灰が零れた。
「不明な
「上位個体は今ろくに動ける状態ではありません。会敵者はミサカネットワーク内の
「
「新たなミサカである可能性があります。とミサカは目を細めます」
渇いた笑いが口の端から漏れる。学園都市も学ぶという字が付いていながら学習しない。人を道具のように生み出して何がしたいのか。ろくでもない物語を描きたくてしょうがないらしい。額に青筋を浮かべた黒子の手を握り締める音を拾いながら、煙草を灰皿に強く押し付け火を消した。
「……わざわざ
そこまで言い、無謀であると言葉は出ず、苛つく内心を隠すように煙草を咥える。……そうか、俺の使った手とある種同じ。
「……
なんにせよ、連れ戻すなら必ず戦闘にはなるだろう。説得されて帰るぐらいならわざわざ
ただ上位個体がいる中でわざわざ出向くというのは……
「……ライトちゃん、プロテクトを緩めて
「
ペン型の携帯電話の頭が飛び出し、それを掴み取り耳に押し付ける。スイスで妨害電波や妨害魔術が飛び交っていた内乱状態の時とは違い、今ならどれだけ距離があろうが繋がるはず。インカムを数度小突けば、久し振りに小煩い声が鼓膜を揺らす。
「やっほー! 法水君の方からわざわざ連絡を取ってくれるなんてどんな心境の変化だい? 愛しの
「話が長え。ファン云々はどうでもいい、俺はアイドルじゃないんだからな。今の問題は新しい
不機嫌にインカムを小突けば、ため息を返され
「確かに
俺が報酬取らないのをいい事に報酬取ろうとしてんじゃねえ。しかも何その報酬。もう
「孫市さん? どこぞの類人猿のような真似しないでくださいません? まったく……ここでインデックスさんの気苦労を知る事になるなんて……なんでわたくしが殿方に……」
黒子がぶつぶつ言っていて怖い。これも全て
「お前はもう
「やだ、とミサカは拒否。『
困惑してんのは俺だッ! それもう要求じゃなくて脅迫なんだよ! なんで
肩がどうしようもなく落ちてしまう中で、「例えば法水君の母君とか」と絶対聞きたくなかった例を出され、肩が一度強く跳ねた。それだけはマジでやばい。絶対嫌だ。なんの情報を送りつける気か知らないが、ろくな事にならなそうな事だけは確かだ。文句を吐こうと口を開けば、「分かったよ」と言った
「名称は
「ガチで人型爆弾か……しかも待て、自壊用?」
肉体的にではなく、精神的な爆弾として妹達を使うという事か。どんな結果になろうとも、上条が
「お前はいいのか
「それを私に聞くのかい? 私の立場はある意味
「ミサカは……」
膝の上で手を握り締めたクロシュは小さく俯き、そんなクロシュへと黒子は手を伸ばそうとするが。途中で取り止め自分の膝の上へと手を戻した。御坂さんの
「ミサカは……いえ……く……クロシュは先輩の後輩ですから。『今』を信じます。スイスでそれをクロシュは知りましたから。例えどんな過去があっても、それを選んだのはミサカです。他のミサカにも大事な『今』を。先輩……とクロシュは頭を下げます」
顔を上げたクロシュの瞳に宿る光を見つめ、口の端が勝手に上がる。己だけが持つ意志の輝き。それがどれだけ小さくとも、今確かに目の前にある。ならその輝きに応えなければ勿体ない。それができるのも今なのだ。俺の経験と記憶の引き出しに手を伸ばし、使えそうなものを探る。
「
インカムを小突き、一分、二分と時間が経つ。
スコープの狭い世界を除いても見えない遠方の地。
できるのはただ言葉を吐くだけ。
歯痒く、病院のベッドで時間を使っている事が忌々しい。穴の開いていた胸を撫ぜ、言葉が届いたのを信じるだけ。
「うん…………、
なにそれ……。ちょっと、それ本当に
「ちょっぴり盛っただけさ、とミサカはやったぜ」
「絶対それちょっぴりじゃねえだろ! 次会ったら覚えてろとか言われてんじゃねえか! 絶対怒ってんじゃん! 矛先が俺に向いてるじゃねえか! ちょっと……ちょっとッ!」
誰も俺と目を合わせようとしてくれない。全員俺を生贄に捧げる気満々だ。く、黒子まで……。病院にいるのに心が痛い。
なんにせよ、それだけ
「法水か! よかった……あのよ、なんかロシアでアックアさんて人に会ったんだけどどうすりゃいい? 傭兵くずれとか言ってるけど、傭兵同士ルールとかあるのか?」
思わずコーヒーが口から噴き出る。ロシアで? ウィリアムさんに? どんな確率で会えるんだそれは……。紙コップをテーブルの上に置く。盗聴の恐れもあるから手短に済まそう。
「……全部任せればいいんじゃないかな。『
通話を切る。
電話が来る。俺ではなく黒子に。携帯に目を落とし、顔を青くした黒子が俺に向けて携帯を投げ渡して来た。なんで?
「コォラ黒子ッ‼︎ アンタいつまでどこに行ってんのッ‼︎ 初春さんに聞いても教えてくれないしッ! 私もちょっと出ちゃうからね! ちょっと黒子! くーろーこッ! 聞いてるのちょっとッ!」
第三位の電撃姫がお怒りである。ちょっと出ちゃうってどこに? 何故コールボタンを押してから俺に渡した……。黒子の名前を呼びまくっている黒子の愛しのお姉様の声が病室内に響く中で、黒子に目を向ければ、激しく首を左右に振られる。こんな役回りばかり……。
「み、御坂さーん……」
「え……あ、アンタ……なんでアンタが黒子の携帯に出るのよッ⁉︎ はぁッ⁉︎ ちょ、待って待って! え? えッ⁉︎」
「く、黒子はちょっと今電話に出られる状態ではないと言いましょうか……あのー……ご用件は?」
「え? あー……アンタ達今どこにいんのよ」
どこと言われても……スイスと言ったら黒子の事を心配されそうだし、言わずに来たっぽいしそれはナシか。病院と言ってもそれは同じ……。となれば、波風立てたくないだろうから黒子も俺に渡したのだろうし、差し当たりなさそうなのは……。
「…………ベッドの、上?」
「え……へッ⁉︎ う、嘘あの、ちょッ⁉︎ あ、アンタらなにしてッ……あ、え、え、ご、ごご、ごめんッ‼︎」
ぷっつりと通話が切れる。なにがごめんなのか分からないが、兎に角どうにかなったらしい。よかったよかった。よかったのに何故黒子のツインテールは角のように逆立ち畝っているのだろうか。その握り締めた拳は何の為にあるのだろうか。
「先輩、ミサカ10777号から撤退戦が無事終わりましたと感謝の報告が。撤退戦も終わったことだし自由時間に移行するそうなのですが、撤退戦が終わった後にすべき恒例行事などはあるのでしょうかと質問が来ています、とクロシュは問い掛けます」
「え? あー……仲間と酒を飲んで煙草を吸う?」
「ではそのように、とクロシュはミサカ10777号に返信します」
引っ切りなしに報告が来て大変だ。ホッと息を吐けば黒子の拳が俺の頬を殴り抜ける。……痛い。
「絶対お姉様に勘違いされましたのッ⁉︎ ふぇぇお姉様! こんな事ならお叱りを覚悟でわたくしが出ればッ!」
「先輩、ミサカ19999号とミサカ20000号から質問が、とミサカは報告します」
あぁ、浜面からまた着信が。
あぁ、今度は土御門から着信が。
あぁ、青髮ピアスからも……。
十分、十五分、三十分、ほとんどは
「忙し過ぎるッ⁉︎ どうすればこうなるんだ⁉︎ いったいどうしたんだ今日はッ‼︎ 口が一つじゃまるで足りんぞッ‼︎ ここは情報の激戦区かッ⁉︎ げッ⁉︎ なんかよく分からない電話番号からも掛かって来てるんだけど⁉︎ 誰だよこれはッ!」
「
笑ってんじゃねえ! 苦情とか一々聞いてられるかッ! なんでもう仲良い感じで一緒に苦情寄越してんだよッ! 上条からはなんだ⁉︎
「どうもー、レッサーでーす。今……あ、電池切れる」
なんなんだマジでッ⁉︎ 上条でもねえしよッ‼︎
急に激しさを増し出す連絡を捌き捌き捌き倒し、一体どれだけの時間が経ったのか。頭から湯気が出ている気さえする。飾利さんはいつもこんな事をしているのか。学園都市に帰ったら絶対もっと優しくしよう。
灰皿にできた白い山を横目に紙コップへと手を伸ばし手を止める。紙コップを満たすコーヒーの水面に波紋が立つ。次第に大きさを増す波紋を睨み、その波を手繰り寄せるように病室の窓に張り付けば、目に飛び込んで来た光景に口から煙草が零れ落ちた。
聖ペーター教会が誇るヨーロッパ最大の時計盤が軋んでいる。それも何かに引っ張られるように。魔術。見ただけで異常と分かる光景に、教会の周りの人々と市民を守る為に居る兵士までもが走り離れた。時の鐘もカレンも今チューリヒにはいない。どんな魔術だ? 急にスイスに? 訳が分からない。
「先輩! 世界中のミサカから報告です! フランスのモン=サン=ミシェル修道院! イタリアの聖マリア教会! 多くの場所で異変がッ!」
多くの場所? いや待て、どれも十字教の……なにか……やばい。
今目にしているものを見逃すか否か。考えるまでもない。壁に掛けられている擦れた時の鐘の軍服へ手を伸ばす。
「黒子ッ‼︎ 聖ペーター教会の時計盤に跳ばしてくれッ! 今動けそうなのは俺だけだッ!」
「ま、孫市さんッ⁉︎ 貴方何言ってッ──怪我がまだッ! それでしたらわたくしがッ」
「分かってるッ! だが見過ごせる小さな異常でもない! 黒子だけが行くのを黙って見てろって? ふざけろ、俺は後悔を積み上げはしない。頼む」
「……それはッ」
「クロシュもお供します。先輩の事はお任せください、とクロシュは敬礼を捧げます」
俺の
「わたくしが居るのに孫市さんをお任せするはずないでしょう。行くのでしたらわたくしも。時計盤に行けばいいのでしょう? お安い御用ですわね!」
「何かに引っ張られているらしい時計盤に貼り付けば、問題の場所に連れて行ってくれるはずだ! 世界中で同時に起こっている問題を見過ごす訳にもいかないッ! 何かが起きるなら前兆がある。これがそれだッ! おそらく行くのなら今しかないッ!」
「目標は命を大事にです。それと、ミサカ10777号から、お姉様がロシアに来たと報告が、とクロシュは付け加えます」
「「えっ?」」
病室から時計盤に景色が変わり、引き千切れ空を舞う時計盤の上で黒子とクロシュを引っ掴み、時計盤に張り付きながら黒子と二人顔を合わせる。
最後の報告だけはあんまり聞きたくなかった。