時の鐘   作:生崎

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神浄討魔と羨望の魔王 篇
神浄討魔と羨望の魔王 ①


 黒い世界を一人の少年が歩いている。

 

「インデックス……」

 

 世界の終わり。『一九九九年七の月に恐怖の大王が来るだろう』といった予言や、各宗教の終末論に綴られた小難しい伝承も関係なく硝子のコップを落とし砕いたように呆気なくやって来た終末。色が消え失せ、影の中の沈んだように、平坦なのか立体的なのかも分からない黒に塗り潰された世界。どちらが前でどちらが後ろか、少年にもそれは分からない。

 

「御坂」

 

 初め砕け、砕け切った黒い世界には一組の男女が存在した。金色の髪に白い肌。黒い世界の中で唯一の色付いた女性。一見女神のようにも見える槍を持った女とツンツン頭の男子高校生は、ただアダムとイヴなどではない。空間移動でもされたように切り替わった黒い世界を、少年はこれまでと同じ『今』だとは思いたくなかった。

 

「レッサーっ! バードウェイ!!」

 

 しかし、どこまでも見たくはない現実だけが少年の前に広がっている。零した言葉を拾う者は存在せず、少年の口から放たれた言葉は、何に反射する事もなく黒色の奥に消えてしまう。

 

「ははっ。そんなに見たいなら見てこいよ。見なくても良い、いいや、見なければ良かったものをな」

 

 別れ際に嘲るように投げられた破壊の女神の言葉を否定する為に少年は歩き続ける。輝きのない終わりなき黒い荒野の上を。神の答えを否定するだけの証拠を追い求めて。これまで居た『船の墓場(サルガッソー)』も、東京湾も、その影すら、匂いさえない。

 

「……あ、ああ……」

 

 どれだけ歩き続けたか、太陽も月も星も瞬かない黒い空。時間という概念さえも墨で塗り潰されたかのように分からない。少年の口からはいつしか人の名は出なくなり、吐息に混じった呻き声だけが黒色に混ざる。真っ直ぐ歩き続ければあるはずの海の姿も、見慣れた人影の一つさえも、『無』というものを目の前に置かれたら少年はこれだと答えただろう。

 

 世界は壊れた。世界を壊した。そう神様が告げた通り。新たな神話の一節に投げ込まれたかのように現実味がない。ただこれが『現実』なのだと理解し飲み込んでしまった瞬間に、その重たさに少年の膝が折れる。重力さえあるのかないのか分からない世界で、そもそも少年自身さえも人の形をしているのかどうか。ただ分かってしまった事が一つ。

 

「あああああああああああああ! あああああああああああああ‼︎」

 

 自分一人。それを肯定する声も、否定する声もない。黒い世界に倒れて赤子のように体を丸めてしまえば、聞こえるのはか細い己の呼吸音。炎の海に沈む戦場や、鉄礫の振ってくる戦場の騒音の方がまだ何かの存在を感じるだけ優しい。息を押し殺せば完全なる無音。でもなく、今度は己が鼓動の音が耳痛く響く。この不毛な世界で自分は生きている。それが分かってしまう事がより少年の胸を締め付けた。

 

 目標もなく、何か名前のあるものがあるわけでもない。これまでの何かを目指そうにも目に映るものは何もない。完成前のゲームの中。電源の入っていないテレビの中。どこまでも意味のない世界。

 

 ただ、飲み込みたくなくても、あるのかも分からない時間が過ぎれば無理矢理喉の奥へと『理解』は落ちる。これはこういう世界なのだとある種認めてしまったなら、これまで見たくはなかったものが見えてくる。誰もいない、何もない、これまでに目を向けていればそうだとしても────。

 

「…………あるじゃないか」

 

 黒い世界には、少年、上条当麻だけが存在している訳ではない。黒い世界の中で唯一色付いていた者。破壊を齎した女神がいる。良いか悪いかはさて置いて、その輝きに気づいてしまったならば、ゆっくりと、誰に知られる事もなく、少年の体は重さを抱えて持ち上がる。二本の足で黒い世界の中立ち上がる。目指すべき何かがそこにある。だからこそ。

 

 

 ────ぬるりッ。

 

 

「……は?」

 

 上条の口から力の抜けた吐息が漏れ出た。上条が立ち上がったのに合わせ、黒色だけの世界の中に鮮血のような赤色が混ざる。血を塗りたくられたかのような赤色が上条を照らすそれは、上条の足元を凄い速度で走り抜ける。

 

「待……ッ! なんだッ⁉︎」

 

 走り抜けた赤色がは、そのまま遥か彼方の地平線へと向かい、そのまま消えるのかと思われたそれは、ぎゅるりと身を捩ると上条に向けて戻って来る。蛇行し赤い線を引くように泳ぐ赤い魚影。見ようと思えば蛇のように見えるし、見ようと思えば鮫のようにも見える。それが尾を動かす度に黒い世界に赤が混ざり捻れたように渦を巻くと、少ししてなんでもない黒に戻る。迫る赤い影に目を落とし、上条は目を見開くと一心不乱に走り出す。

 

(なんなんだッ! オティヌスの所へ向かおうと思った途端にッ! オティヌスからの攻撃? くそッ、避けられッ)

 

 すぐ側に迫った赤色を目に、一直線に走っていた上条は足に力を込め横へと飛んだ。急な方向転換に追い付けず、赤い影は通り過ぎる。そう思っていた上条の期待を裏切るように、赤い影は上条が横に飛んだ地点で動きを止めると、黒い大地に転がる上条の元へと獰猛な牙の並んだ頭を向けた。

 

「く、そっ! こんなとこで!」

 

 右の拳を握り締める。現実的ではない世界の、現実的ではない異形。異能であるなら上条当麻の右手に砕けぬものはありはしない。立ち向かうと決め、異形に右手を向けて赤と相対した上条は、ただ目にする違和感に僅かに眉を顰める。

 

 上も下もあるのか分からない空間で、赤い魚影はその通り影のようにのっぺりとしている。止まった上条を目に速度を落とし、緩やかに泳ぐと上条の足元で蜷局を巻く。真紅の絨毯の上に足を落としたかのように光り畝る床へとおずおずと上条は右手で触れるも赤い影は少し身動ぐだけで消える事はなく、上条を中心に静かにぐるぐると回るだけ。

 

「なん、だ? バードウェイ? それともレッサーが何かやったのか? でも、異能、じゃ、ない? 御坂? インデックス? それとも法水が何か……お前いったい……?」

 

 上条の疑問に答える事もなく、ぐるぐるぐるぐる回るだけの細く長い赤い魚影。視界からはみ出る程に途轍もなく大きく見えたと思えば、次の瞬間には視界の中にすっぽりと収まる程に小さく見える。取り敢えず襲って来る訳ではないらしいと察した上条は、気味悪そうに足を前に出す。

 

 ぬるりぬるり。その後を追い泳ぐ赤い魚影。上条が足を止めればその足元で蜷局を巻き、歩き出せば再び追って来る。前後左右、どこに動こうと追って来る襲って来る訳でもない獰猛な顔をした魚影の姿に、上条は頭を雑に掻き、膝を曲げて右手の指先で足元の赤い影を軽く突っつく。

 

「……味方なのか? ……それとも迷子だったり? いや、こんなところで迷子なんてそもそもおかしいか。なあ、出口……とかあるのか分からないけど、お前ここに住んでる生物なら何か」

 

 言いながら上条自身馬鹿らしくなってくる。足元の赤い色をした影に喋り掛ける男子高校生。学園都市でもまず見ることのないだろう間抜けな絵面に、誰もいないはずなのに妙な気恥ずかしさに襲われ上条は少し顔を赤くする。しかも上条が俯いた先で、赤い魚影は欠伸でもするかのように人ひとり丸呑みできそうな程大口を開けると、呆れたように首を捻る追い討ち。「うっ!」と一度息を詰まらせて、上条は頭を弱々しく抱えながら立ち上がる。

 

「あ、呆れられた、こんなよく分からないところで、変な生物? に呆れられた……ッ! じゃあなんでお前俺について来るんだ? 餌になりそうなものなんて持ってないぞ。……それとも、ただ寂しいのか?」

 

 こんな何もない世界で生きているのなら、ただ遊び相手が欲しいように目に付いた人間に寄って来ただけなのか。そんな上条の言葉にため息を吐くように赤い魚影は力なく口を開けて頭を下げ、上条は肩を跳ねさせて握った右拳を震わせる。

 

 訳が分からない。それに尽きる。オティヌスからの刺客という訳ではなさそうで、尚且つ上条が右手で触れても消えぬ影。確かに目に見えてそこにいるのに、別に触れられる訳ではない。殴っても消えないのなら、拳の行き場に困ってしまう。そもそも殴れるのかさえ分からない。

 

 上条は小さく肩を落とし、見た目に反して無害ではあるらしい赤い影にちらりと目をやって、何も変わらないならとりあえず当初の通りオティヌスを目指そうと足を出す。それを追い、変わらず赤い魚影も泳ぎだした。それを横目に上条は歩き続ける。

 

 魔術、超能力、それともただのそういう生物、又はどれでもない何か。それが何かは分からずとも、何もないはずの世界で、何かが隣に居てくれる。それがほんの少しだけ上条の足取りを軽くした。

 

 

 

 

 

「何だ、てっきり、どこかで折れて野たれ死んでいるものだと思っていたのに」

 

 どれだけ再び歩いたか、槍を黒い世界に突き立てて、それに体を預け立つ破壊の女神。ただ一人色付いているだけに、一度視界に入れば目指すのに苦労はない。気怠そうに口を動かすオティヌスの特別残念そうでもない呟きに上条は答えず、これまで見て考えてきた事をただ叩きつける。

 

「ここには何もなかった」

「最初からそう言っていた」

()()()()()()()()、これで終わりじゃない」

 

 上条の言葉にピクリとオティヌスは眉を動かすと、ゆっくりと上条に顔を向け、靡く金髪のその奥でほんの僅かに目を細める。それと同じく上条も一度目を下に落とした。足元で蜷局を巻く赤い魚影。その姿にオティヌスは鼻を鳴らし、後頭部を突き立てていた槍に戻した。

 

「……ペットでも見つけたか? そんな搾りかすを引き連れて」

「勝手について来てるだけだ! それにこれがある意味証拠だろ! お前は破壊したと言ったけど、こうして俺やお前以外に存在してる奴がいる! お前の言うことが正しくないなら、何かあるはずだ。こんな風になってしまった世界を、元に戻す方法が。いなくなってしまった人達と、もう一度会う方法が!!」

 

 上条の力ある言葉に、逆に気が抜けたようにオティヌスは小さく吐息を吐き出すと、片目に残った瞳だけを動かして今一度上条の足元で回遊している赤い魚影に目を落とす。

 

「それが証拠? 楽観的だな。そんないてもいなくても変わらないものが? そんなの染みと同じだ。ワインの入ったグラスを握り潰し飛び散った飛沫が服に付いたのと変わらない。だからこうしてすぐ消える」

 

 オティヌスが軽く手を握る。それだけで上条の足元の赤い魚影はのたうち回り絶叫を上げるかのように大口を開け、その身を弾け消えてしまう。ぞっと冷たい汗が上条の背を伝った。別に気に入っていた訳ではないが、上条の突き付けた証拠が一瞬で、いとも簡単に消え去ってしまう。オティヌスがこの世の絶対者。それを見せつけられて揺れてしまう心を、拳を握る事で押し留める。赤い魚影がいようがいまいが、上条は元々オティヌスに会うと決めていた。ここで揺れる訳にはいかない。

 

「良いか、世界は終わったんだよ。どんな方法を使ったかなんて関係ない、とにかく終わったんだ。お前の右手は、魔術の炎を消す事くらいならできるだろう。身を守る事だってできるかもしれない。だが、燃え尽きて灰になったものを元へ戻せるのか? 今消えたそれを戻せるか? それと同じだ。終わってしまったものは、もうどうにもならない」

「……本当に?」

 

 神の決定に上条は疑問を返す。

 

「オッレルスはこう言っていたぞ。幻想殺し(イマジンブレイカー)は、ありとあらゆる魔術師の身勝手な希望が生み出したものだって。世界を好き放題に歪めるだけ歪めた後、どうやったら元に戻せるか分からなくなった時の基準点や修復点として利用するためのものだって。だとすれば、今がまさにその時だ」

 

 握った右の拳を上条は突き出した。その拳の影を追うように、霧散したはずの赤く丸い影が黒い大地に浮き上がり、数珠繋ぎのように繋がると再び獰猛な顔の口を開け牙を光らせ上条の周りを泳ぎ出す。その姿に上条は目を丸くするも口端を小さく持ち上げてオティヌスを見据えた。間違っていない。そう赤い魚影が言っているようで。

 

「お前が何を考えているかなんて知らない、俺なんかには理解できないかもしれない。だけど、そんなのどうでも良い。……ここでくじくぞ。お前がメチャクチャにしてしまった全てを、どうにかして元に戻す。そのための材料だけなら、ここにある」

「……蜚蠊(ゴキブリ)よりも無駄に生命力の高い害虫共だ。良いだろう」

 

 消えぬ魚影に小さく舌を打ちつつも、オティヌスは何でもないように言葉を続ける。

 

「正直に言って、私も最後の関門はお前だと思っていた。ああ、実際にはその右の手首から先の事だ。幻想殺し(イマジンブレイカー)は、時代や場所によって一つの形に留まらない。お前は文字通りのクズだが、お前を殺した事によって、何か別のものに宿ってしまうと厄介な事になるかもしれないとは考えていた訳だ。それも気色悪いオマケ付きときた。そんな肥溜めより薄汚いものを平気な顔で引き連れているあたりどうしようもない」

 

 オティヌスの言葉に赤い魚影は口端を下げて牙を剥く。何か文句でも言っているのか。生憎何も鳴き声のようなものは聞こえはしないが、無駄に感情表現豊かな魚影を鬱陶しいとオティヌスは指を弾き首を跳ねる。揺らめき消える魚影は、ただすぐに元の形に戻ると上条の周りをぐるりと一度大きく回る。もう一度小さく舌を打ち、オティヌスは続ける。

 

「だから。やはり、頭の先から足の先まで粉々にするよりは、精神を折った方が最適か。幻想殺し(イマジンブレイカー)は、お前という檻の中に入れておく事にするよ。それで、せっかくの力も宝の持ち腐れにしておけるのだから」

「……来るなら来い。どっちみち、もう『ここ』には俺とお前しか────わ、分かったお前もいる。とにかく! 不利だろうが無謀だろうが、他の何かや誰かに任せておける状況じゃない」

 

 足元で『俺を忘れるな』と泳ぐスピードを加速させる毒にも薬にもならない赤い魚影に上条は肩を若干落としながらも、上条の答えに赤い魚影も強く鼻を鳴らした。音は鳴らず、鼻から赤い煙のような影を吹き出す魚影の鼻息も感じないが、上条とオティヌスは二人とも呆れた顔を浮かべてそれを一瞥し、魚影の影を頭の中から追い出すようにオティヌスは小さく頭を左右に振る。

 

「……これでも私は神のはしくれだぞ。まさかこのオティヌスが、矮小な人間ごときとわざわざ戦ってやるなんて思ったのか?」

 

 オティヌスが槍を掴み引き抜く。ずるりと引き抜かれた槍が光を放ち、それに身構えるように赤い魚影が上条の前で強く畝るが、足元である為に壁にさえなっていない。

 

「ガキ一人を押し潰すのに、魔神が直接手を動かす必要などない。忘れたか? 魔術の神とは、魔術でもって世界の全てを操る者を指す。全ては私の配下なんだ。面倒な流れ作業など手駒に任せておけば良い」

「何を……」

「最初に言ったはずだ。お前の精神をへし折ると」

 

 無力をただ眺めるような目で上条を見るオティヌスの足元まで赤い魚影は泳ぎ回るも、オティヌスはそれに目さえくれない。上条とオティヌスの間を行ったり来たり、無限の字を描くように動く赤い影は、鬱陶しいだけで何の力もありはしない。それら全てを追いやるように、オティヌスの言葉を合図に黒い世界が輝きだす。

 

「お前が守りたかったもの、お前がもう一度帰りたかった場所、お前が再び出会いたかった面影、その全て。……根底から覆し、認識を破壊する。たかだか十数年で獲得したものがどれだけ矮小だったのかを教えてやる」

 

 赤い魚影が大口を開け、その影さえ塗り潰すように白い光に満たされる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ハッ⁉︎」

 

 唐突に上条当麻は目を覚ました。周囲を見回せば狭い部屋の中、安っぽいパイプベッドの上。そこがどこなのか上条の記憶の中にはない。見慣れぬぬいぐるみ魚影置いてあれば、何よりその部屋には屋根が存在しなかった。外に面した壁は崩れ、何かが焼け爛れた匂いが外から吹き込んでくる。

 

(何だったんだ、さっきまでの『黒一色の世界』は……? 何かの夢……???)

 

 ただ、色付いた床があれば壁がある。急に何処ぞの部屋の中で目覚めた事は驚きだが、名前の付いた何かで溢れている空間にどうにも安堵してしまう。それでも混乱しているのも本当であり、何が何処まで正しいのかが分からない。安堵すれば浮かぶのは、兎に角今に対する疑問。

 

船の墓場(サルガッソー)』や仲間達はどうなったのか? 黒い世界が夢であり、ただ気を失っていたのなら、ここにいるのは仲間がいつものように上条を引き摺り取り敢えず手近な部屋に押し込んだのか? そういう事で良いのか? と身を起こしてパイプベッドに腰掛ける上条は、瓦礫の散らばる床に目を落とし次の瞬間頭を強く抱えた。

 

「なんでいるんだよお前まで……ッ、お前いったいなんなんだッ?」

 

 ひらひらと尾を振る赤い魚影。その姿に上条はひどい頭痛に襲われた気がした。黒い世界を泳ぎ回っていた赤い影が、何故か今も足元にいる。黒一色だった世界は夢ではない。その証拠のような魚影の姿に上条はガシガシ頭を掻き、足元で回っている魚影を鬱陶しそうに足で払うも、影なんだから払える訳もなく、笑うように口端を持ち上げる赤い魚影の不気味さに、上条はもう諦めてため息を吐いた。

 

「オティヌスの仲間、じゃないんだろ? 黒い世界の事を考えるとただの生物って訳でもなさそうだし、こっちの言うことも理解してるみたいだし、考えれば考えるほど分からない。お前みたいなのに懐かれても俺は何もしてやれないぞ? なのに」

 

 上条の話を聞いているのかいないのか、ぐるぐる泳ぎ回る赤い影は泳ぐ事を止める事なく、自由奔放な有り様に上条はまた一つ息を零す。オティヌスさえ消しきれぬ赤い影。その本質がなんであるのか。インデックスやバードウェイがいれば聞けるのにと頭を掻く上条の前で、赤い魚影はピタリと動きを止めると、頭を持ち上げるように壁へと影を伸ばし、周囲の何かを吸い込むように口を開け、何かを確認するように鼻を鳴らす。上条が赤い影の挙動に首を傾げるその横で、ジジッ、と置かれていた液晶テレビに画面にノイズが走った。その音に反応したように壁と床を赤い影が物凄い速度で泳ぎテレビに近寄ると、その体を貼り付けるようにテレビに巻きついた。

 

「どうしたんだ?」

 

 

 カチカチカチカチッ。

 

 

 チャンネルが急激に変わっていく。移り変わり続ける画面を上条が見つめていれば、画面の中のアナウンサー達、切り替わり続けるテレビから零れる毛色の違う声達が何か言葉を紡ぎ出しているのが分かる。細切れの波を繋げるように、赤い魚影が上条へ告げる。

 

 

「にー」「げ」「ロー」「にぃ」「下呂」「2」「芸」「6」

「に……げ、ろ? 逃げろ? 逃げろってなんだ? 何が……っ、おい!」

「つまらない事をするなよ残り滓風情が」

 

 テレビに巻き付く赤い影を見つめる上条の前に、不意に白い手が伸びた。掴めないはずの赤い魚影を手に掴み、マントを靡かせる金髪の魔女。赤い影を手に掴んだまま部屋の壁際まで歩くと腕を組み、牙をカチ鳴らす赤い影の事は気にする様子もなく壁に背を預け立つ。

 

「よお」

「魔神、オティヌス……ッ⁉︎」

「こらこら見るのはこちらではない。悪魔に(そそのか)されるなよ。お前が気にするべきはそっちだ」

 

 テレビを指差すオティヌスに上条は拳を握って身構えるが、テレビから上条の名前が流れてくると上条は身構えたままテレビの方へと瞳を移す。燃える街を背に原稿を握る女性アナウンサーの姿に上条は目を細め、齎される情報に上条の意識が移ったのをいいことに、オティヌスは握る赤い影の獰猛な顔をつまらなそうに覗き込む。

 

「一度溢れれば仮の器にすら戻らないか。目にした誰かがいるから消えない……いや、消えられないとは。望んだ欲に対するまるで罪だな。矮小で脆弱な、感情などがある故に消えることのできない小悪党。ただ誰かがいればそこにいるだけのお前に何ができる?」

「髫」縺ォ縺?i繧後k」

「くだらん。狙撃銃も握らぬお前に価値があるのか? ただ辿り着いた瑞西で初めて並ぼうと思ったものがそれだったからお前はそうなっただけだ。本来は羨望に身を焦がし磨耗し消えるだけの存在が、トルコの路地裏で野垂れ死ぬのが本来のお前だろう。そのズレが気に入らない。お前にできることなど」

 

 

 ────ゴゥンッ!!!! 

 

 

 鐘の音が鳴り響く。人の頭蓋を砕き割る銀の弾丸がテレビを見つめていた男子高校生の頭を吹き飛ばした。床に崩れ血溜まりを広げる上条当麻にオティヌスは強く舌を打った。

 

「チッ、一応繋がりがあるだけに組み込んだのが間違いか。奴が認識する前に狙撃されては意味がない。面倒な狙撃手共め」

「繝舌き縺?縲ゅヰ繧ォ縺後>繧」

「何を笑っているんだお前は、何よりお前何故消えない? まさか私がいるからとでも? ……鬱陶しい」

 

 赤い影を握り潰し、オティヌスは手にする槍の柄先で床を小突く。

 

「やり直しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………ハッ⁉︎」

 

 唐突に上条当麻は目を覚ました。周囲を見回せば狭い部屋の中、安っぽいパイプベッドの上。そこがどこなのか────。

 

 ぬるり、と赤い影が泳ぐ。それが上条の視界に入るよりも早く、伸びた白い手が赤い影を床から引き剥がすように握り締めた。上条の横になっているパイプベッドの下に引き摺り込むように手繰り寄せるオティヌスの顔を赤い影は睨み付け、逃げようとのたうつ影をちり紙を丸めるかのように丸く握り固めてしまい手元に置く。

 

「消さず固めてしまえば動けないだろうが、黙って見ていろよこの世界が温まってくるまで。何もできないのだからお前もただの観客として────ッ、おいッ」

 

 ぬるり、と。丸くなっていた赤い影が体を伸ばしパイプベッドの下から外へと泳いで行く。影は影。形などそもそもないも同じ。ただそこにいるだけの存在を固め置く事などできない。敵対者を喰い荒らすだけの牙を持っていなかろうと、輝きを羨み、誰かが待っているのならば、ただ並ぶ為に進む事をやめない。お前の事情とか知ったこっちゃねえと泳いで行く魚影の尻尾を掴もうとオティヌスは手を伸ばし、

 

「魔神、オティヌス……ッ⁉︎」

 

 パイプベッドの下から腕を伸ばして赤い影の尻尾を掴む破壊の女神をパイプベッドに腰掛けた上条が見つめる。その顔が横薙ぎに振られたオティヌスの腕に削がれ、上条当麻の体がベッドの上に横たわる。オティヌスは赤い魚影の尻尾を掴んだままぶん回し、燃え盛る空に向けてぶん投げた。

 

「この腐れ回遊魚がッ、やり直しだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よお」

「魔神、オティヌス……ッ⁉︎」

「良い感じに世界が温まってきたな」

 

 壁を背に立つ破壊の女神は、手の中でリモコンをくるくると回す。ただ、その腕にはアクセサリーのように赤い魚影が巻き付いていた。どこぞへと泳いで行かないように白い腕に固結びにされている赤い魚影は、上条を見ると『俺を見るな!』と言うように激しく頭を振っている。軽い調子のオティヌスとは逆に、必死に体をくねらす赤い魚影の取り合わせに上条が呆気にとられていると、赤い魚影の事など気にした様子もなく、上条当麻の現状を告げる薄暗いニュースをオティヌスは次々と切り替える。

 

「ようやっとエンジンの暖気も終わったか。世界は沸騰しているぞ。何しろ、瓦礫の山から上条当麻の首を見つけない限り、この乱痴気騒ぎはいつまでも続くと『実感』してしまったからな。これでも私は驚いているんだ。ここまで追い詰められた状況で、まだどこも核に手を出していないんだからな。これも、確実な死亡確認とやらのためかもしれんが」

「……何を、したんだ? 一体彼らに何をした!? 普通に考えて、彼らの矛先がお前からよそへ逸らされるはずがない!」

「おいおい、まさか私が連中を脅迫でもして指名手配させているとか考えているのか? そんな理不尽な要求に連中が応えるはずがない。そんな事したところで突っぱねるさ。そして私の手で惨めに────このどこに入ろうとしている! 見ているんじゃない!」

 

 頭をなんとか動かして服と呼べるのかも分からないオティヌスの服の内側へと頭を突っ込む赤い魚影をオティヌスは引き千切り、見つめてくる上条当麻の上半身を消し飛ばす。少しばかり荒くなった呼吸を整えながら、足元で再び泳ぎ出す赤い魚影を目に、オティヌスは腕を組み、目の端を吊り上げた。

 

「お前の事などもう気にはしない。せいぜい指を、いや尻尾でも咥えて眺めていろ。何をやっても意味はないと絶望しろよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここは『見……』の違……世界だ」

「な、に……?」

「だから、ここは『……方』の違う世……だ」

「何だって……?」

「だからお前の『見方』の」

 

 ゴンッ! とオティヌスが言い切る前に、崩れた床から落ちていた上条は大地に衝突して意識を失いオティヌスは拳を握り締める。体を這い回る赤い魚影の尻尾を掴み、オティヌスは力任せに大地に叩きつけた。水溜りに石を投げ込んだように水っぽい動きで体を跳ねさせ、オティヌスの足元をぐるぐると赤い魚影は泳ぎ回る。

 

 一度オティヌスが鬱陶しいと手を払い触れてしまえば、それをいい事に触れられると赤い魚影はオティヌスの体を這い回る。力を込めて消したところで上条の足元に浮上し泳ぐだけ。ただそこにいるから鬱陶しいと、ただ赤い魚影に少しばかり苛ついている事実にこそ苛つき、オティヌスは足元を泳ぐ赤い魚影の尻尾を再び掴んで引き上げた。

 

「お前はそこまで私の邪魔をしたいか。ただそこにいるだけの分際で。いいだろう。お前のその腐った精神も奴と共にまとめてへし折ってくれる。大罪の悪魔風情が神を舐めるな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、誰がお前の事をきちんと見ていたんだろうな?」

 

 オティヌスが愉快そうに言う。倒れている上条のすぐ近くでしゃがみ込み、上条の顔を見下ろして。

 

「私は『魔神』としての力を『槍』で整え、『見方』の違う世界を作った。お前は、ある側面ではヒーローで、ある側面では破壊の化身だった。……だけど、それが一体何なんだ? もしもお前という人間を正しく見る事ができれば、誰か一人くらいは助けに来てくれたかもしれなかったのに」

 

 月詠小萌が大ぶりの包丁を振り上げているすぐ横で、防ぎようのない絶望の一歩手前で時を止めたかのような空間に、オティヌスの声だけが静かに紡がれてゆく。

 

「たとえどれだけの人間に囲まれていたって、お前は誰にも見てもらえなかった。上条当麻という名前と、外殻と、後は行動の履歴から、きっとこんな人物なのだろうと勝手に思い込んでいるだけだった。だから簡単に印象を操作され、『見方』の方向性に振り回された。なあ、こんなのが本当に必要なのか? 命を懸けて守るほどの価値があるっていうのか? お前達は、所詮、個人と個人に過ぎないというのに」

 

 オティヌスの言葉に上条は倒れたまま、眼球だけを僅かに動かす。その先で赤い魚影が蠢いた。忙しなく体をくねらせて、上条に何かを伝えようと細長い体で何かの形を作り上げる。『teacher』と見えなくもない字を体で描き悲しそうな顔を月詠小萌に向ける赤い魚影を目に、「おまえ……」と上条は小さく呟く。届いているのかいないのか、項垂れる赤い魚影に上条は小さく口元を緩めると、ひび割れた唇を軽く舐めた。

 

「……あるさ……それでも、きっと、守るだけの価値はあるさ」

 

 上条の答え。それに体を震わせて、上条の下へと泳ぎ蜷局を巻いた赤い魚影はオティヌスに向け、牙の並ぶ大きな口を弧の形にする。そんな赤い魚影を踏み消して、オティヌスは笑う。赤い魚影よりも凶悪に。黒い色を覗かせて。

 

「なるほど。お前は生きたまま鍋で茹でられても、熱湯の熱さに気がつかないほど間抜けな食材らしい。……『右手』の不変性が最大の敵だと思っていたが、どうやら、それ以外にも障壁はあったらしい。あまりにもくだらなく、真面目に取り組むのも馬鹿馬鹿しいほどのものが。だったら、こちらも趣向を変えて楽しむとしようか。お前もその方がいいだろう? 脅威が必要じゃない方が。無駄な手間だけを掛けさせてくれる」

「……なにを……」

 

 上条の問いに答える事なく、再び浮上する赤い魚影を床から引っぺがし、ぶん回しながらオティヌスは歩き離れて行く。オティヌスが指を鳴らした直後、振り上げていた包丁を振り下ろす月詠小萌の姿を、赤い魚影は掻き混ざる視界の中で悲しそうに見つめ鳴いた。

 

 

 

 




りゔぁいあたん : 隣にいる。ただそれだけ。

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