時の鐘   作:生崎

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神浄討魔と羨望の魔王 ②

「…………ハッ⁉︎」

 

 学園都市、とある高校のとある教室。見慣れた教室の中で『上条』は目を覚ます。クラスメイト達の喧騒と、鼻先を掠める美味しそうな匂い。どうも昼休みの最中に眠ってしまっていたらしいと、『上条』はまだ覚めやらぬ目元を拭い身を起こす。

 

「今のは……何だったんだ?」

 

 あまりに現実味のあり過ぎる夢。炎熱の暑さ、黒煙の煙たさ、飛び交う銃弾に舞い落ちる爆弾。生まれる瓦礫と流血による惨状が未だこびり付く。ただ汗に覆われた肌と、血の滲んでいない脇腹と、折れてはいない左腕。耳を擽る楽しげな声に段々とそれも薄らいでゆく。所詮は夢なのか。傷のない肌を摩りながら、ようやく『上条』は安堵の吐息を口から零した。

 

「一体何をしているのよ、『上条当麻』?」

 

 そんな『上条』の元へと呆れた声が飛ぶ。聞き慣れた女生徒の声に急ぎ『上条』が目を向ければ、想像通りの人物が立っている。吹寄制理。破壊に塗れた世界の中で、火傷と血に染まっていたはずの少女が呆れ顔で立っている。思わず席を立った『上条』は、それが嘘でない事を確かめる為に近寄り手を伸ばした。

 

「なんだっ、吹寄!?」

「何よ?」

「おい、火傷は大丈夫なのか!? 血は、流れてないか。手当てとかしなくても大丈夫なのか!?」

「ちょ、ちょちょちょっと何でいきなりあちこちまさぐって……どこ触っている貴様!!」

 

 突如、骨同士のぶつかる鈍い音。握られた鉄壁少女の拳が『上条』を手慣れたように殴り飛ばし教室の床へと転がしてしまう。

 

「どんな夢見ていたか知らないけど、いつまで寝ぼけているつもりなのよ!?」

「え、あ……夢???」

 

 ただその痛みと、間に挟まれたいつも通りの言葉。第三者が投げてくれた『夢』という言葉に、『上条』の中で張り詰めていた何かが滑り落ちる。そうしてできた隙間を埋めるように、青髮ピアスと土御門元春が、薙ぎ倒された机に手を掛けて身を起こす『上条』の前へと身を乗り出してくる。

 

「むふふう。誰もがいつかやってやると夢見ていても、まさかの真正面から揉みしだきにかかるなんてのはカミやん以外にゃありえないのだぜい?」

「今のは……一体……何やねんな。寝ぼけて吹寄の果実を掴みにかかるとかどんだけ新技繰り出しとんねんカミやん! それは、そいつはたとえ思いついても真顔で実行する勇気がボクにはあらへん……っ!! これが日向を歩く者との違いか!!」

 

 いつも聞くようなただの軽口。悪友二人の文言に『上条』は薄っすらと口端を持ち上げ吹寄に殴られた顔を一度拭ってから、軽口に軽口を返し拳を握る。いつものただの馬鹿騒ぎ。これまでの血みどろ地獄を払拭するかのような騒ぎに引かれるかのように、教室の扉がガラガラと音を立てて開く。

 

「とうま! 私は作り置きのお昼ご飯だけでは不満が残るんだよ! もうこうなったら前々から提唱していた第二ご飯の導入を正式に申請します!!」

 

 インデックスが、

 

「はいはーい、午後イチの授業を始めますよー」

 

 月詠小萌が、騒々しい中へと混じっていく。それを遠く、窓の外で一人の少女が見つめていた。とんがり帽子にマント、綺麗な金髪を風に揺らす眼帯を付けた破壊の女神。一人コスプレしているような奇天烈な少女は存在していないかのように気にされる事もなく、目の前で繰り広げられる『上条』の『騒がしくも楽しい日常』に鼻を鳴らしながら、手に握る赤い魚影を持ち上げる。首根っこを掴まれた赤い魚影は長い尻尾を振り回すも、オティヌスの足に当たったところで、絹が肌を擦る程の感触しか与えられない。赤い影の獰猛な頭をオティヌスは持ち上げ教室の方へと向けながら、首を傾げて口を開いた。

 

「楽しそうなんじゃないか? 馬鹿みたいに騒がしくて。アレがお前達の『日常』というものなのだろう?」

 

 オティヌスの声に赤い魚影は教室の中へと目を這わせて力なく首を振った。『上条当麻』の日常。その中心に居座る『上条』は黒いツンツン頭などではなく、身長も体重も、姿形も全く違う。ただ誰もが『上条』と呼び、上条当麻を取り巻く世界の中に居た。しかし、その世界もそこに色が足りない。上条当麻の日常の中に赤い癖毛は揺れていない。それを誰も気にする事なく、いつもの騒がしさがそこにある。

 

「何かの間違いだと思わないか? ボタンを掛け違えたように、普段戦場を歩き回り血に染まっている男が、戦場と隣り合っていない者達の中に混ざっている。そうでないとして、傭兵、雇われた時だけそこにいるお前がいつまで日常の中に居座る気なんだ?」

 

 赤い魚影を覗き込む魔神の瞳が言っている。たまたま今日いない訳ではない。そもそもこの世に存在しない。それでも騒々しさは変わらない。

 

「お前が必要とされるのは戦場でだろう。前の世界で上条当麻は何度狙撃の餌食になった? 上手いものだったじゃないか。姿も見せずに頭を撃ち抜く。武器も持たない一般人相手に。日常にお前は必要ではない。日常に混ざっているように見えても、それは日常に塗れた者達が傭兵としてのお前を知らないだけだ。知っている者も多少なりとも日常からズレているからお前を許容しているに過ぎない。傭兵など居なくても世界は回る。いないならいないで別のものに代替するだけの消耗品。それともお前はいつか失くした『普通の日常』が手に入るとでも思っていたのか? そんな事はあり得ない」

 

 赤い魚影はしばらく教室を見つめていたが、オティヌスの顔を一瞥するとため息を吐くように頭を小さく振ってぷいっとそっぽを向く。その頭を鷲掴みに、オティヌスは力任せに自分の方へと赤い魚影の頭を向けた。

 

「理性の皮をなくし考える頭も無くしたか? 見たいものしか見ようとしないとは都合のいいことだ。お前がいなければ何人が死なずに済んだ? ハワイでも、バゲージシティでも、お前がいなければもっと死者は少なかった。死なずに済んだ者をお前が殺した。どれだけ綺麗に外装を整えたところでお前はただの人殺しだ。お前が多くの者を戦場へと引き摺り込んだ。そんな者が混ざっていて、お前の友人は、お前の担任は、お前を恐れないと思うか? 戦場の中では違かろうと、日常の中ではお前こそがただの脅威だよ」

 

 オティヌスが手を放し、赤い魚影が大地に落ちる。べちゃりと大地にできる赤い水溜りは誰の目にも映る事はなく、いつの間にか放課後になったのか、道を行き交う学生達に赤い水溜りは踏み付けにされる。それにどの学生も気付かず、踏みつけられようが赤い水溜りは影だからこそ傷も付かない。足音の雨の中で赤い水溜りは微睡むように動かなかったが、ふと、空を震わせる波紋に揺り起こされるように頭を上げた。

 

 視線の先で揺れるツインテールと花冠。右腕に腕章を巻いた女子中学生二人組。

 

 その二人の少女を静かにしばらく見つめ、赤い魚影は泳ぎ出す。少女達とは真逆の方向へ。放り出された見慣れたとある学校へ向けて。額に薄っすら残った熱を追うように、足を止める事がないように、身動ぎ畝り、あるはずのない葛藤をふるい落すように教室を目指す。並ぶと決めた者がそこにいる。その輝きを目指し尾を動かす。

 

 傭兵なんていないに越した事はない。そんな事は赤い魚影だって分かっている。傭兵という概念がそもそもなければ、赤い魚影の収まっていた外装が学園都市に来る事もなかった。赤毛の男がいなければ、白井黒子も初春飾利も、戦場の中心に近い位置になどいない。もう少し戦場から離れたところに居たはずだ。戦場を渡り歩きただ過ぎ去るだけのはずが、下手に居座ってしまったが為に多くの者を戦場に呼んだ。それは正しい。

 

 が、正しい事がもう一つ。

 

 引き金を引いたのは他でもない赤い魚影。それだけは、神に言われて引いた訳ではない。ただ己で決めて己で引いた。吐き出す弾丸に乗っけるものはただ己だけ。唆された訳でも、他の誰に引かせた訳でもない。もし時を巻き戻しスコープを覗いた先に同じ光景が待っていたなら、迷う事なく同じように時の針を進ませる。深く考えずともそれだけは赤い魚影にも分かる。なぜならそれこそが焦がれて止まない輝きだから。ただ見つめるだけでいたくないから。それだけは変わらない。

 

 手が届かないものが平和な日常であるのならば、それこそいようがいまいが関係ない。それ以上に喜ばしい事はない。この世界に傭兵は必要なくても、今尚脅威に立ち向かっている少年がいる。それも知っている。ならばこそ、魔神が吐き出した通り、戦場にこそ赤い魚影は泳ぎ向かう。そここそが赤い影の泳ぐ井の中だ。

 

 

 

 

 

 教室に赤い魚影が戻って来れたのは、すっかり日が落ちようとしていた頃。夕日に染まった教室の中には、椅子に座った少年が一人、そして教卓の上にはもう見慣れた破壊の女神が優雅に足を組んで座っている。邪魔されずに少年へと向けて言いたい事を言えたからか、教室の入り口から見える赤い魚影には目もくれず、オティヌスは椅子の上で拳を握り締め震えている少年に向けて、もう遅いと言うように嘲り言葉を投げつけた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

『上条当麻の日常』の中心に居た上条当麻ではない何者か。では教室の隅の椅子に腰掛けているツンツン頭の少年は誰なのか。教卓の上に腰掛ける世界を創り上げた先生からの問題に、ツンツン頭の少年は呼吸を荒げ、目の焦点が合わずに激しくブレる。『上条当麻』が別にいるなら、名前を呼ばれぬ己はなんであるのか。

 

「よお、名前を教えてくれよ、お前の名前を」

 

 オティヌスが尋ねる。教室に並んだ机の上を、飛び石の上を渡り歩くように足を出して少年の前に来た破壊の女神が。少年の身に降り掛かる女神の影に炙り出されるように、脂汗が少年の肌から滲み出す。

 

「なあ『上条当麻』。お前は、本当は、本来は、どんな人間だったんだろうな。そこでまっとうに憤り、友のために神へ挑もうとまでしたお前の周りには、一体どんな人間がいたんだろうな。お前は誰かを庇うために、一体誰を切り捨ててしまったんだ?」

 

 それでも神は問いを止めない。ただ一人の少年が押し潰されそうになったとしても、公園で子供が蟻を指先で潰すが如く、その言葉に躊躇はない。不明瞭。不確か。不明。分からないが故の恐怖に体を強張らせる少年を磨り潰し切ろうと神の言葉が一人の人間に降り注ぐ。

 

「いたはずだ。あんなふざけたハーレム野郎ほどじゃなくても、『本当のお前』にだっていたはずだ。そうやって、勝てるはずのない相手と戦う事が分かってでも、命を懸けて守りたかった相手が。その人は今、どうしているんだろうな。お前が『本当のお前』を捨てて、居心地の良い『上条当麻』を主張している間、どこで、何を?」

 

「言えよ」と追い討ちをかけながら、口を開かず俯く者へと破壊の女神は愉快そうに目を落とす。ジグソーパズルの最後のピースを嵌め込むように、ただそれを自らもったいつけるかのように、神らしく慈悲という餌を項垂れる者の前にぶら下げる。

 

「暇潰しの礼だ。正しい名前を言えたら、お前を元の場所へ帰してやる。……友達、恋人、家族。もしもお前が『本当のお前』を見つける事ができたなら、『本当のお前』と繋がっている人達の所へ、お前を帰してやる」

 

 神の慈悲に項垂れていた者は俯けていた顔を上げる。それを待ち受けていた神様は、一枚の写真を見せびらかすように人差し指と中指で挟み抱え、少年の目の前へと泳がす。舞い落ちる写真はクラスの集合写真。少女の体に沿い落ちる写真の先、舞い落ちた机の上で赤い魚影が蜷局を巻いて待っていた。机の上に落ちた写真に身動ぐ事もなく、赤い魚影の顔が少年を見つめる。動かずに。ただ静かに。

 

 ゲームのルールを説明するように続けられる魔神の言葉を聞き流し、その邪魔をする事もなく赤い魚影は椅子に座る者の顔を見つめ続ける。写真を見ようとする少年の視界を塞ぐように動かない机に張り付く赤い魚影に椅子に座る者は手を伸ばし、触れられぬ影の上に手を置いた。

 

「荳頑擅」

 

 言葉になっていないノイズのような、風の唸る音のような定かでない音を少年は聞いた気がしたが、意味の分からない赤い魚影の呟きは意味の分からないまま霧散してしまい、場を満たすオティヌスの声だけが戻ってくる。ただ、名前を呼ばれた。実際に声は聞こえずとも、その証拠に赤い魚影は無数の牙の並んだ口を開けたり閉じたり繰り返している。

 

「俺は……」

 

 少年の零した呟きの続きを催促するように、赤い魚影が細やかに頭を上下させる。赤い影を見つめる少年の瞳に光が灯る。名前を呼ばれる。それは誰かがいるからこそ成り立つ。他人がいるから自分がいる。夢のようだった黒一色の世界からどういう訳かついてきている赤い魚影。前の世界でも、燃え盛る戦場の中で少年と離れず近くにいた赤い影。己を迷う事はないと、一緒に居たからこその瞳に少年は小さく頷いた。

 

「俺は上条当麻だ。それ以外の何者でもない!!」

 

 上条の神への答えに破壊の女神は『不快』を隠そうともせずに強く顔を歪め、赤い魚影は並んだ牙で大きな弧を描き上条と共にオティヌスを見つめる。絶対的な世界の主であるはずの少女が感情を大きく揺らす姿を笑うように赤い魚影も身を震わせる。身体の底から響くような舌打ちをオティヌスはすると、机の上で畝る赤い魚影を踏み付けにしながら口を開く。

 

「どこで気づいた? まさかまた根拠のない自信だとか思考停止寸前のポジティブシンキングだとかじゃないだろうな」

「お前もヒントをくれたけど、別にそれも必要じゃない」

 

 オティヌスに踏みつけられ机の上で磔になっている赤い魚影の上へと上条は手を置き引き寄せようとするが、上条の手では掬う事ができず影は影のまま机に張り付いたまま。それでも確かにそこにいる。己が目で見る事ができる。

 

「どんな状況でも、どんな場所にいても、誰かが俺の名前を呼んでくれるなら。俺は俺だって胸を張れる。例えこの世界で俺が『上条当麻』じゃなかったとしても、それで俺がこれまで積み上げてきたモノを捨てる理由にはならない。例えこれまでを俺が失っても、この先同じものを掴めなくても、これまでを見てくれていた奴が一人でも側に居てくれるなら俺は俺なんだ」

 

 誰かがいるから己である。いつも己が狭い世界は誰かの世界と隣り合っている。例え自分で自分が分からなくなっても、ただ一人誰かが側に居てくれれば己を見失わずに済む。力もなく、人の姿をしているものでなかろうと、何者かがただ隣にいるだけで己という楔になり得る。

 

「だからお前は、俺に俺を諦めるなって言ってくれたんだろ?」

 

 笑う上条の顔を見つめ、微妙な顔で赤い魚影は首を捻る。『そんな気の利いた事は言ってない』とただ少年の名を呼んだだけの赤い魚影は、何にせよ間違えなかったなら万事解決と微妙な顔のまま獰猛な顔を一応上下に動かした。ただその顔は次の瞬間破壊の女神の足先に踏み壊され四散。床に舞い散った赤い影が上条の足元に集まるのを眺めながら、オティヌスはより強く舌を打つ。

 

「お前は自然愛護団体の職員か? そんな言葉にもならない泡のようなものを呟く影を『誰か』と呼ぶなど。それが『何か』も分からない癖に、そんなものがこれまで離れず近くにいるから俺だだと? 馬鹿には高度過ぎたか。その博愛精神と悩まないというある種の才能。そんな自分に不安を覚えない所だけは素直に感心してやる」

 

 呆れたように刺々しい言葉を並べながら、破壊の女神が指を鳴らす。それだけでまた世界が壊れる。黒一色になった世界に上条は取り残され、足元で泳ぐ赤を目に、変わらず上条は拳を握った。

 

「だけど、こちらのカードはどれくらいあると思う? 何万程度で済むとでも? お前達仲良くどうしようもない『最低』とやらに漬け込んでみようか」

 

 世界が再び塗り替わる。次の脅威はすぐに来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた。ただ上条の口からは声が出ない。喉が渇き過ぎて呼吸さえも喉をざらつかせ、あまりの空腹に胃袋が溶けてしまったかのように体の中が痛み重い。霞んだ目では周囲が上手く見えず、ただ暗いという事だけは分かった。その体に突き刺さる数多の足音。僅かに目を泳がせれば、少し遠くから光が差し込み、その中を多くの足が行き交っていた。

 

 どこかの路地裏。暗がりの中でただ光の中を行き交う者達を呆然と眺める以外にできる事はない。側に多くの者がいるはずなのに、存在していないのではないかという程に気にされず、質量さえ持っているのかと勘違いしてしまう暗闇に押し潰されるのをただ待つだけ。そんな中でどさりという音がする。その音も足音や街の喧騒に呑まれすぐに消えるが、暗闇の中ではよく響いた。上条が僅かに目を動かし向ければ、小さな少女が倒れていた。

 

 路地の隅に転がるゴミと同じく動かない少女。呼吸さえ忘れて眠っているような少女が何故倒れたのかは考えずとも分かる。

 

(死…………)

 

 渇きと空腹に喰い散らかされた姿。重い暗闇に抵抗する事を辞め、路地の影と同じくただ大地にへばりつく事を選んだ姿。それに誰も声を上げる事もなく、光の中では変わらず人々は行き交い楽しそうな声が流れてくる。

 

 誰かがいないから孤独なのではない。路地の外にも、路地の中にも誰かがいるのに、気付いているはずなのに声も掛けず、見ようともしない。誰かがいるから孤独がある。太陽が昇り落ち、月が昇り落ちる。雨が降り、倒れた少女から死臭が滲み、その中でまた一人、また一人、誰に気にされる事もなく路地の中で渇きと空腹に心折られ少年少女が倒れていく。

 

(う、あ…………っ)

 

 なぜ気付かない? なぜ見ない? 自分が何をやったのか。何もしていない。何もしていないのにただ迫り寄る『死』を待つばかりの毎日。いっそのこと生きる事を諦めた方がいいのではないか。日に日に霞む視界と、より言うことを聞かなくなる体。渇きと空腹も天井を飛び越えそんな感覚さえも薄らいで来た。そのまま消える感覚と共に意識も消そうか。暗幕の落ちかかったそんな上条の目の前を、赤い魚影が通り過ぎる。

 

 そしてその影を追うようにアッシュブロンドの長い髪が空を泳いだ。

 

 森で染めたような深緑の軍服。白銀の長い槍を背負った少女は、別世界からやって来た妖精のようにさえ見える。誰も踏み込んで来ない路地裏の中を悠々と歩く幼さの残る狩人は路地の中座る少年少女に軽く目をやり、その中の一人の前で足を止めると、何かを呟き手を伸ばした。何を言ったのかもう上条の耳には聞こえない。

 

 少女が手を伸ばした先で、蹲っていた影はどれだけ時間を掛けたのか、ゆっくりとただ確実に風で折れてしまいそうな荒んだ腕を伸ばして少女の手を掴む。その答えに少女は微笑むと、伸ばした手を掴み返した者を引き立たせ、光の先へと歩き出した。

 

(待…………ッ)

 

 連れ出された者は一人だけ。なぜ選ばれた? なぜ光の中に行けた? 他にも似たような者は多くいるのに、その中でただ一人だけ。縋るように手を伸ばしたくても、意思に反して腕は全く動いてくれない。泣き叫ぼうにも口も開かず、目尻から溢れ伝う結晶を生むだけの水分さえない。

 

「運がなかったな。所詮その程度なんだよ人生なんて。自分で選ぶ事はできない。選ばれなかったが故に朽ちる以外残されていない」

 

 影の中に座る破壊の女神の言葉に反論する事さえできず、いつしか路地の中には上条と赤い癖毛の少年だけ。輝きが通り過ぎたのはただ一度。この先二度と暗闇に差し掛かる光はなかった。雨が降り、雨が止み、太陽が昇り、月が落ちる。それでも意識が断ち切られる一瞬前で上条はひび割れた唇を小さく持ち上げた。

 

(…………よかった)

 

 自分ではないがただ一人、隣り合っていた名も知らぬ者が光の先へと抜け出て行った。お互い名前さえ知らないが、それでも名も知らぬ誰かを進ませる誰かが何処かにいる。世界は厳しいだけではない。自分ではなくてもそれが知れただけ幸運だと。

 

「そこまで馬鹿か」

 

 魔神の呟きを最後に暗闇の中に上条の意識は沈んでしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月明かりの下で炎が瞬く。硝煙と血の匂い。自分の鼓動さえ掻き消す爆発音が続き途切れる事もない。その音に揺り起こされるように上条は目を見開き、血生臭い匂いと戦場の喧騒に立ち上がろうとした上条は横から伸びて来た手に襟首を掴まれ力づくで地面に引き落とされた。眼に映る赤い癖毛の男。見慣れた軍服に身を包み、手にした狙撃銃のボルトハンドルを引くと中に弾丸を詰めていく。

 

「の、法水⁉︎」

「騒ぐな静かにしろ。弾丸の餌食になりたいのか? バカンスに来た訳じゃないんだ。最前線で騒いでも的になる以外なれるものなんてないぞ。この状況だ。気がはやってるのは分かるし、こんな仕事で気が乗らないのも分かるがな。いいか失敗は許されない。もう標的は目と鼻の先だ」

 

 狙撃銃に弾丸を込め終えた傭兵が、上条の襟首を掴んだまま、背にしていたビルの外壁から上条と共にひょっこり顔を出す。先に広がる抉れたアスファルトと燃え盛る大地に崩れたビル。その間にある空間を数多の死体が埋めていた。上半身が吹き飛び腸でナスカの地上絵を描いたように転がるもの。焼け爛れ半分骨が見えている少女。両手両足が千切れ転がりながらも呻き声を上げている男。むせ返るような死の匂いに込み上げる吐気を抑え切れずに嗚咽する上条の肩を軽く叩くと、僅かに眉を顰めただけの傭兵があっちを見ろと指を伸ばした。

 

 その先にアサルトライフルを握る集団がいた。「アレが目標」と平坦な声で言い切る傭兵に思わず上条は目を見開く。

 

「アレが目標って……おい法水! だってあいつら、俺達とほとんど歳変わらないんじゃないか? いや、中には俺達より若い……なんでッ」

「お前は作戦の説明中寝てたのか? 何聞いてたんだよマジで。気持ちは分かるがな。仕事だよ、歳若かろうがテロリストに変わりはない。いつの因縁持ち出して来たのか知らないが、奴ら武装発起して隣町に雪崩れ込んでやがる。狙いはその隣町の先にある先祖の土地を奪った奴らの町らしいんだが、通行の邪魔をするならとお陰で隣町は火の海だ。ここで奴らの先遣隊を止めなければ、本隊が隣町に踏み入ってしまえば住人は全員死ぬ。なんとかして出鼻を挫くぞ」

「出鼻を挫くって……それって……殺すって事なのか? 何もそんな……話し合えば!」

 

 それで済むならこんな事態にはそもそもなっていないと、飛んで来た砲弾で遠く背後の塔が吹き飛ぶのを聞きながら傭兵は舌を打つ。道の先では這いずる少年に向けて少女が銃を向け、躊躇する事さえなく引き金を引いていた。あまりのアンバランスな光景に、上条の視界が大きく揺らぐ。

 

「話合おうにも飛び出した瞬間蜂の巣だぞ? それが正しい事と信じて歩いて来る者を止める事は難しい。銃を取り上げたところで奴ら体に括り付けてる手榴弾のピンを迷わずに抜きやがる。得物なかろうが突っ込んで来るし、体を押さえつけても舌噛み切るわ、下手すればこっちの喉を噛み切られる。捕まったと見るや仲間ごと撃ち抜くしな。具体的に何が過去にあったのか知らない癖に、それでも迷わず信じ引き金を引き歩く者にできることなんて」

「それでも! 何かあるだろ! きっともっと良い方法ってやつが! お前だって本当はこんな事したくないんだろ? そんなにすぐ諦める必要なんてないだろうが! 誰もが笑顔でいられる何かがきっと!」

「誰かのそれを守る為にここにいると忘れるな。誰もが善人じゃないんだよ。その平穏を投げ捨てたのが他でもない奴らだ。軍さえ見て見ぬフリをしている中で、戦う力もない隣町の者達がない袖振って必死に金を集めて呼んだのが俺達だ。何の為に傭兵がいると思ってる? お前はなぜここにいる? 金の為ならちゃんと働け。ただ銃が撃ちたいなら良かったな今がその時だ。どれでもないとしてもここにいるだけの理由があるんだろう? 引き金を引くのはお前自身だ。引けないと言うならもう邪魔だから帰れ。俺だけでやる」

「俺は────ッ!」

 

 バスッと。軽い音が響き上条は尻餅をついた。銃声の残響と穴の空いた胸元に上条が目を落とし穴に指を添えた途端。上条の中身が零れ落ちる。撃たれた。小さな滝のように噴き出し落ちる赤い流れを呆然と上条は見つめ、上条を撃った遠く銃を構える相手へと傭兵は強く舌を打ちながら狙撃銃を構えスコープを覗く。倒れながら、それでも上条は腕を伸ばし、狙撃銃を構える傭兵の服の裾を引っ張った。

 

「の、り、みずッ。頼、む…………ッ」

 

 狙撃銃の先に立つ小さな少女。体に不釣り合いなライフルを手に、ただその手は震えていない。たまたま撃った訳ではない。狙い撃った弾丸が運悪く上条を貫いただけ。反動を殺し切れずに銃を握ったまま尻餅をついている少女の頭蓋を傭兵が吹き飛ばす姿を上条はただ見たくなかった。迷わず構えた傭兵の手が小さく震えていたから。

 

「……馬鹿だなお前は。ここにお前は不要だよ。その優しい厳しさは────」

 

 スコープから顔を外し、どうしようもない子供に微笑むように口端を小さく持ち上げた傭兵の顔が、時を止めたかのように上条の目に映った次の瞬間。数多の銃声と共に傭兵の体が横合いに吹き飛ぶ。身体中に穴を開けて転がる傭兵を上条は声にならない吐息を吐いて見つめ、その先を銃を携えた子供達が通り過ぎて行く。

 

「お前のその無駄な優しさが人を殺した。おめでとう大量殺人鬼。血の滴る戦場にバケツ一杯の赤色をぶち撒けた。手に取れないものだってあるに決まっているだろう? 右か左か差し出される選択しなければならない死の前にこれまで何度も立ち塞がっていたのがお前が友人と呼ぶその男だ。そんな奴とお前は隣逢えるのか? 何よりも作られるはずだった平穏を壊したお前が」

 

 血溜まりの中に沈む上条の青褪めた顔を目の前でしゃがみ込む魔神が覗き込む。その背後から聞こえてくる無垢な人々の絶叫と立ち昇る黒煙。魔神の背後をゆっくりと走って行く戦車は穴の空いた傭兵の体を轢き潰し、咆哮を上げて砲弾を吐く。

 

「だか、らって、諦められる、か? まだ何も、決まってないのに。法水だって、本当は……だから、手を伸ばして、みなきゃ……」

 

 瞳から光を消した上条の下で赤い魚影がぐるぐる泳ぐ。それにオティヌスは目を這わせ鼻を鳴らすと、アスファルトの上で細切れになっている傭兵を一瞥し指を鳴らす。

 

「揃いも揃ってしぶとい奴らだ。住む世界がそもそも違う癖に何を求める。どうしようもない現実を前に理想を語るほど滑稽な事はない」

「縺? 縺九i遨阪∩荳翫£繧九@縺九↑縺?s縺?繧」

「だから積み上げる? 積み木遊びか何かか? お前が捨てられるのが先か、その男が折れるのが先か。見ものじゃないか。織り交ぜられる自分の世界を恐怖して待て」

 

 

 

 

 

 

 

 

 戦場。戦場。暗闇と孤独。悪意が死を呼び、善意が牙を剥く。詰め将棋のように終わりを突きつけて来る世界達。無実の罪で首を括られ、生きたまま肉を削がれてバラバラにされる。仲間から見放され戦場に孤立。新しく友人になった者と次の日には銃を向けての殺し合い。たった一発の銃弾で全てを失い、ただ積み上げられた暴力で骨を折られる。無数の悲劇と地獄のような戦場を交互に繰り返し、ただ目の前に突きつけられるのはどれも同じ別の死の形。肉体的に死なずとも、精神を下ろし金で擦られるような無数の世界が終わりなく続く。

 

 それでも折れない。曲がらない。例え行き着く先が悲劇でも、死が待っていようとも、自分を貫き辿り着いた結末であるなら。朦朧とした意識の中で、どんな世界の中に居ても変わらず泳ぎ蜷局を巻く赤い魚影に指を這わせて上条は身を起こす。繰り返される悲劇の中で、それでも思考を止める事なく積み上げてきた上条の答え。

 

「……お前は、何かを壊している訳じゃない」

「だから何だと言うのだ?」

 

 その答えに感心するでもなく、積み上げられたものにオティヌスは鼻を鳴らす。数多の世界を渡り歩いても変わらない赤い魚影とオティヌスを上条は見据え、切り替わり僅かに続け残っている乱れた世界の明滅を目に確信する。

 

「世界なんてものが数万数億も都合良く存在している訳でもない。ここは、やっぱり、俺達の世界だったんだ。最初っから、何にも……どこにも……移動なんかしていない……」

「知ったような口を叩かれてもな。そもそも私は、平行世界説なんぞ唱えた覚えもないぞ?」

 

 所詮は『見え方』が変わっただけ。正義の味方も見方を変えれば悪であり、悪も見方を変えれば正義になり得る。ただ見る目に悪意を、不可能を、諦めを、不幸を、無力を足すだけで見える世界は色褪せる。その小さな違いこそが大きな違いを生んでしまう。

 

「お前は、本質的に……『生み出す側』の人間だ。たとえ、それが悪意に満ちたものであっても、家を押し潰す行為を瓦礫の山を生み出したと表現するような最悪の野郎でも……それでも、本質は変わらない。『生み出す側』の人間。だから」

「神と呼べよ。そして、やった事は単純だ。世界が変わって見えるよう、新しいフィルターを随時生産して世界へ差し込んだ。だから世界は変わって見えた。いちいち全部壊していちいち全部作り直すよりは手間が省けるからな。それに、世界の異物を均す特性の力である以上、世界そのものを変えてしまえば、その右手も機能しづらい。その回遊魚に至ってはどの世界でも変わらんしな。……とはいえ、世の中は結果が全てだ。結局、歴史にはこう記される。『魔神』は世界を壊しては作って、それを繰り返して、ただ一人の少年をどん底まで苦しめ続けたのだ、とな」

 

 十字教、仏教、神道、黄泉、浄土、地底、海底、天国、地獄、『位相』と呼ばれる数多の色眼鏡を通してどんな世界を眺めようが、行き着く先が同じならどれを選んだところで変わらない。ただ一人の少年を破滅させる為に『最低』を見せ続ける。

 

「『()()()()()()()()()()などは、あらゆるフィルターの向こうにわだかまる『まっさらな世界』……すなわち宗教に依らない科学の世界を直接いじくろうとしていたようだがな。『()()()()()()()()()は不変の感情を刺激してあらゆるフィルターを無視しようと考えたわけだ。……まったく、こんな場面に遭遇できるなんて幸福だぞ。チベットに夢を見た欧州の『黄金』だって、ここまでは手が届かなかった」

 

 結果が不幸だったとしても、辿っている過程は幸福であると吐き出す『魔神』の姿に、上条は右手を握り締め、その足元で無限を描くように赤い魚影が泳ぎ回る。『生み出す側』の対となる『打ち壊す側』。そんな右手を、幻想殺しを上条当麻は持っている。世界の歪みを『元に戻す』基準点であり修復点、元の世界が変わらず存在するのなら、上条の右手が貼られたフィルターを引っぺがし、上条のよく知る世界に戻る可能性は死んではいない。

 

「おやおや、良いのか? そんな安易に一縷の望みへ手を伸ばしてしまって」

 

 ただそれを見透かしたように破壊の女神は嘲笑う。魔神が何を言っているのか理解できずに固まる上条の顔をオティヌスは笑みを浮かべて覗き込み、足元で蜷局を巻く赤い魚影を一瞥した後、強く鋭く指を鳴らす。

 

「望みがある事が、勝算を知ってしまった事が、決定的な致命傷になる事だってあると言っているんだ。見え方の変わらない世界の方が、結果致命的だったりな」

 

 世界は変わる。

 

「すぐに分かるさ。嫌でもな」


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