狙撃銃の銃身で大地を叩くが、雪のおかげで上手く波が広がらない。
上条と隣り合いボルトハンドルを引き、弾丸を込めながら、白い世界の中に漂う赤い二つの影へと足を向ける。風に乗って流れてくる少女と女性の声が紡ぐのはロシア語。
ロシア語はそこまで得意ではないのだが、喋る言葉とサンタクロースのように赤い修道服のおかげで、どこの勢力の刺客なのかは容易に分かる。
それがカモフラージュであったりするなら世界各国の諜報員並みの変装技術であるが、生憎と向かって来る女性二人のうち、一人の顔には見覚えがある。俺だけでなく上条もそうだろう。
『
初めて会った時は中身が『
ただ問題は、使う魔術がイマイチ分からん。
それなりに面識があるローマ正教とは別。同じ世界三大宗派ではあるが、ロシア成教は曰くゴーストバスターズ。サーシャ=クロイツェフが『殲滅白書』なる機関に所属している事を思えばこそ、もう一人の女性も同じ所属である可能性が高いだろう。似たような修道服を着てる訳だし。
僅かに考えを纏めながらも足は止めず、上条も足を動かし、向かってくる二人も止まらない。縮まってゆく距離を見つめて、ボルトハンドルを押し込んだ。
引き金を引けば手が届く、が、既にお互い見える距離。狙撃としてはそう意味もなく、撃てばそれが戦闘開始の合図となる。『
ではもう一人の魔術師はどうだろうか?
サーシャ=クロイツェフ同様に近接戦に秀でた者なのか、それとも中、遠距離、補助を得意とする者であるのか。体つきを見るに前者は可能性として低そうだが、魔術師や能力者を体格だけで判断すると馬鹿を見る。相手が二人とも高速近接戦が得意なら上条だけを前に突っ込ませる訳にもいかず、かといってロシア成教の女性の一人が距離を置いての戦闘が得意なら、俺と上条二人揃って前に出ては足元を掬われる。
つまりここは……甲斐甲斐しい大和撫子のように上条の後方、三歩下がって控えているのが正解か。
ただそれは……。
「どうかしたのか法水? 急に笑ったりして」
「いや悪い、こんな時だが……いや、こんな時だからこそ、俺は俺が思うよりもずっと上条を信頼しているらしい。傭兵としては喜ぶ事でもないんだろうが」
「なに言ってんだ。戦いに関してはお前の方が俺よりずっと先輩だしさ、俺はずっと前から法水のこと頼りにはしてるぞ?」
「……そういう事言うあたり上条も一般人じゃないよなぁ、いい加減そこは諦めたらどうだ相棒?」
「馬鹿言えよ、俺はこれからもずっと普通の高校生だからな」
「なにをもって『普通』と言うのか今度ちょっと話し合おう」
客観的に見て普通という行為から逸脱しているはずなのだが、絶えずそれを指標としている。普通こそが尊いものであり、きっとそれが『不幸』の対極に位置しているもの。『不幸』の反対はきっと『幸運』などではない。だからこそ、それを追う者からは目が離せないのか。
横目で上条の微笑を一瞥し、上条が口を引き結ぶのに合わせて前を望む。耳に届く笑い声の混じったロシア語を聞く限り、相手方はそこまで気負っている訳でもないらしい。追うのが魔神というだけであり、魔術組織として普段やっている事に変わりはないからか。これが相手にとっての『普通』であり、俺にとっての『普通』。
これまでの相手は『それなりに親しい』という不確定要素があった為に殺し合いにまではならなかったが、ロシア成教にそれは望めそうにない。残念だとか運が悪いのではなく、それが今の『普通』だ。
「日本語は分かるか?」
その中に上条が一石を投じる。放つのは拳ではなくまず言葉。上条に瞳を向ければ目が合い小さく頷かれた。この中で一番戦闘を避けたいであろう上条だからこそ。『話し合い』だけで終わる事を望んでいるのだろうが、「答える必要はないんだけどねえ」と笑い返された魔術師の言葉にその望みは否定される。
「私はワシリーサ、こっちはサーシャちゃん。覚える必要はないけどよろしくね」
サーシャ=クロイツェフの隣を歩く魔術師が名を告げる。ロシアでワシリーサ。その名前に少し引っ掛かるが、足を止めた上条の少し後ろで俺も足を止めた。追われている以上わざわざ自己紹介の必要もないと、「戦う以外の道は?」と魔術師の名乗りに言葉を返す上条の声を聞き流しながら、必要のない分の理性を削ぎ落とす。
息を吸って息を吐く。この問答におそらく意味はない。
上条の言葉を遮ろうと力で返すのか、それとも言葉で返すのか。生み出され第三の瞳で見つめられる『間』こそが、引き金を引くタイミングを教えてくれる、だから会話に参加せず、相手の発する言葉の意味も深く考える必要はない。相手の動きだけを注視する。
「あ、泣き落としならNGなのでよろしくう。そういうのって別にここでやる必要ないものね。暗い地下室でもできる事だから」
「アンタ達の目には、俺達はどう映っているんだ?」
「解答ですが、過去何度か『グレムリン』に接触した折、あるいは『
「……なるほどな」
空を震わす言葉の波紋に手を伸ばし、振動を吸い込むようにそこから相手の深部へと本能の舌を這わせる。呼吸のリズム。筋肉の収縮。骨や関節の軋む音。ワシリーサとやらは動く気ねえな。初動は完全にサーシャ=クロイツェフ任せか。納得したように言葉を並べる上条を目にサーシャ=クロイツェフの手に力が入る。少女が手にしたバールを握る音を掴む。そして魔力の揺らぎ。
赤い外装に黒い拘束服。それに隠されているのは、金属ペンチ、金槌、
「……くっだらねえ。別にオティヌスのやってきた事を肯定するつもりはねえけど、これじゃ五〇歩一〇〇歩じゃねえか」
────ゴゥンッ!!!!
上条の言葉が引き金を引かせる。前に飛び込もうと足を踏み込んだサーシャ=クロイツェフへと迫ったゴム弾は、しかし、バールを振り上げたサーシャ=クロイツェフに弾かれた。
だが、それでいい。やはりだ。『
銃撃の衝撃に僅かに停止したサーシャ=クロイツェフに向けて引き金を引き続ける。都合五発。一、二、三、四と弾かれるが、最後の五発が少女の足先を穿ち後方に弾いた。
「上条」
名を小さく呼ぶと同時に上条がワシリーサに向けて足を出した。受け持つ相手は決まりだ。上条の右手が魔術師にとって脅威であっても、近接戦が得意な奴相手に一々向かわせる必要はない。ボルトハンドル穿ち引いてゴム弾を装填しながらサーシャ=クロイツェフに向けて足を伸ばす。
「魔術師の壊し方なんてよく知らないが、人間の壊し方は通じるだろう?」
「解答ですが、それは此方も同じ事です」
焦りは薄い。相手もプロだ。サーシャ=クロイツェフはすぐにバールを構えて身を落とす。バールの魔術的効果が何かは分からないが、当たらなければないのも同じ。わざわざ上条に向けて飛び込もうとしていたあたり、接触する事で効果を及ぼす物には違いない。
ならば
アニェーゼさん達と違い遠慮もなく向かってくる相手。最低限の線引きはするが、それ以外躊躇できる程余裕はない。距離を詰めながらボルトハンドルを押し込み、銃口を向けようと腕を振るう視界の端で、ワシリーサが何かを宙に放り投げた。それを見た上条が横に飛ぶ。
僅かに揺れ動いた瞳が、捉えた物の答えを告げる。
手榴弾や魔術道具の類ではない。ただ俺には馴染み深い物。
ロシア軍仕様の無線機。
何故今それを投げるのか、魔術に使う為の触媒か。雪の上に落ちる無線機を目に、サーシャ=クロイツェフから無線機へと銃口の向かう先を変える。注意を引く為のブラフである可能性もあるが、何が魔術に使われるか分からないのが魔術師の怖いところ。ひけらかされた手は潰すに限る。
引き金に指を添え、赤い影が瞳の先に滑り込んだ。
ヒュッ‼︎ と風を切る音が目の前を通過した。慌てて狙撃銃を立てるように手元に引き寄せ、半身に体を動かしたところで通過したバールが持ち上がった前髪を数本奪ってゆく。続けて横薙ぎに振るおうと足を一歩前に出すサーシャ=クロイツェフへと距離を取らず寧ろ詰め、振るわれるバールの方向と同じ方へ体を振るい、踏み出した一歩を軸に身を捻り、背中で少女を弾き飛ばす。
「上条! その無線機ぶっ壊せ!」
「ただの無線機なのにぃ?」
「よく言うッ」
ワシリーサの問いに鼻で笑い返す。ならサーシャ=クロイツェフが俺が撃とうとするのをわざわざ止めるか。横に飛び避けた上条に狙いを定めた方が、俺達を倒す為なら手っ取り早い。無論そう動かれれば俺も銃口の先を変えるだけだが、そう動かなかったのだから無線機には何かあると行動で示している。
『……ザザ……聞こえていますか、上条当麻、法水孫市』
無線機から待っていましたとばかりに流れてくる幼い声を聞き舌を打つ。何もない訳もない。律儀に名前を呼んでくるあたり、既に始まってしまった戦場で話し合いでもしたいのか。ただその予想は、右手にバールを持ちながら、立ち上がり新たに左手で鋸を引き抜いた少女に否定される。戦闘行為は継続。つまり平和な話し合いなどではない。
サーシャ=クロイツェフは飛び掛かってくる事もなくゆっくりと足を出すと、無線機の壁となるように俺の前へと移動する。
……なるほど。
「本命はそれか」
「答える必要がありません」
口ではなく態度で答えてくれてはいるがなッ!
『我々は対魔神用の特異な術式を構築しています。本来は人間に向けるべきものではありませんが、あなた方に対しても十分な効果を発揮するでしょう。それでも我々に挑みますか?』
「くそったれが!! こっちだって三大宗派の一角がたった二人だけだなんて思っちゃいねえよ! それじゃいくら何でも世界が優し過ぎる!!」
『一本足の家の人喰い婆さん……』
無線機に向かって駆け出しながら身を起こす上条を前に、ワシリーサがロシア語で何かを呟く。魔力の乗った言葉が銀世界に静かに広がり、言葉と空気の摩擦から生まれる火花が弾けるかのように炎を生んだ。ワシリーサを中心に炎が渦巻き広がりだす。足元の雪を溶かしながら迫る炎の壁に上条は右手を伸ばし、それを阻止する為に動こうとするサーシャ=クロイツェフの足元に弾丸を落とす。
邪魔はなく、異能を砕く音が響く。
だが、戦況としては五分五分。いや、それよりは此方がやや劣勢。サーシャ=クロイツェフの動きは抑制できるが、それは相手も同じ事。ワシリーサの魔術を上条は砕けるが、ワシリーサも上条を足止めできる。ともすれば、雪の上に落とされた無線機が戦況の天秤を握っている事になる。
『なるほど。いくつもの危機を乗り越え、第三次世界大戦を終結させ、『グレムリン』との闘争においても自分が中心に近い位置にいた。そんな自分達であれば、人にはできない偉業を成し遂げるチャンスもある。そう考えている訳ですね』
「……なに言ってんだコイツ?」
「法水、あの女の魔術師は俺が正面突破でゴリ押す。そっちは任せるぞ」
「集中させてくれるなら、サーシャ=クロイツェフは俺が穿とう」
小さく息を吐き出して、狙撃銃から
近接戦に集中するなら、狙撃銃の本体は寧ろ邪魔だ。無線機を壊すにしろ、なんにしろ、壁となっているサーシャ=クロイツェフを行動不能にする事が急務。相手の武器に注意し、手足をへし折れればそれでいい。壁の役割さえ果たせさせなければ、後はどうにでもなる。雪の消えた大地を
『……ですが、特別な『個』である自分なら『全』の意思など踏み倒せるというのは、少しばかり『傲慢』ではありませんか?』
「はあ?」
気の抜けた声が思わず口から漏れ出た。金属音に混じった無線機から流れる言葉の意味が分からないとかそういう事ではない。その言葉の波紋が人の芯を揺さぶったかのように、上条の片膝が崩れ落ちたから。重力が増したとか、
「おい上条!」
「……なん、だ。遠隔地からの、攻撃……っ?」
『対魔神用のプロセスの一環です。あなた方に対しても効果があると警告はしたのですが。……ただ一人はどうも面の皮が厚いようですけど、鍛えた技と体で好き勝手する、それがあなたの意思ならばそれこそ『傲慢』というものでしょうに』
余計なお世話だ意味が分からん。『傲慢』だのなんだの勝手にレッテル張られたところで、止まる訳もない。姿は見えず出されるのは言葉だけ。自分の体に数度触れて体の自由を取り戻す上条の横で、眉を寄せながら数度大地を
「面倒だな……上条あれなら耳を塞げ。
「させると思うぅ?」
笑うワシリーサに舌を打つ。相手が言葉を発しそれで効果のある魔術なら、俺も上条と同じように体の自由を奪われていなければおかしい。そうでないという事は、別のトリガーがある。そんな条件無視して聞かなければいいだけの話だが、耳を塞ごうにもそれをさせない壁が二枚。
『国家規模の資金と準備を重ねてきた、ロシア成教の秘奥とも呼ぶべき術式です。特別な右手を持つ自分ならそれを一足飛びに追い越せるなどというのは、やはり『傲慢』ではありませんか?』
ただ打ち消す為に調律している時間がない。持ち上げようとしていた上条の体が再び落ちた。なるほど。先程から言葉に含まれている『傲慢』が発動キーか。でなければわざわざ言葉に含む意味がない。言葉だけで相手の膝を折るとはやってくれるッ。これも一種の共感覚のようなものなのか? だが何故上条にしか効かない?
一歩足を動かせば、サーシャ=クロイツェフも一歩を踏む。耳を塞いだり、無線機の音を掻き消す為に調律しようとすればまず間違いなく突っ込んでくる。やや劣勢どころの話じゃないな。どいつもコイツも一手で王手を決めてきやがる。一々無線機の声を聞いている暇はないが、紡がれ続ける無線機の声の切れ端を本能が僅かに吸い混んでしまう。
『────異教の神を我々のものとした上で、相手の都合を聞かずに我々の法則でのみ裁いてその価値を『再設定』する術式。『色欲』『傲慢』『怠惰』『暴食』『嫉妬』『強欲』『憤怒』。まずは分かりやすい『七つの大罪』から始めましょう。不適切な方法で得た力をよしとせず、罪の一つに応じてその力を七分の一削ぎ落とす。……七つ揃えば、あなた方は心筋さえ動かす力を失いますのでご注意を』
偉そうな魔術だなおい……。舌を打ち、上条に身を寄せながら足を動かす二つの赤い影を見つめる。言葉の魔術も厄介だが、何より戦闘のできる相手が二人いる事が厄介だ。上条がまともに動けないなら、状況は既に二対一に近い。無線機はぶっ壊せば済むが、この二人はそうもいかない。先程異能を破った時、上条は左胸付近を右手で触れていた。再び触れればリセットできるのだろうが、上条自身にそれができないのであれば、俺がそれをさせようにも大きな隙になる。
『自己の目的にさえ叶えば女性の顔を殴っても平気なのですか? それはなんという『憤怒』でしょう』
拳の形の握られていた上条の右手から力が抜ける。
「……ふざ、けんな。命のやり取りやってる最中に怒りを覚えないようなヤツがいてたまるか……っ!!」
『だから努力を放棄すると? とんでもない『怠惰』です』
並べられる罪への言葉に、僅かな身動ぎすらも上条はしなくなる。脳からの命令を体が受け付けていないように上条の動きが止まってしまった。
そんな上条に滑り寄る赤い影。
サーシャ=クロイツェフが握るバールを掬い上げるように下から払う。ギャリッ! と、固い音が響きバールと
「第一の質問ですが、なんなんですかあなた?」
「そりゃこっちの台詞だ。気色の悪い魔術を使いやがって……」
『そこまでして魔神オティヌスに肩入れする理由は何なのでしょう? 世界の脅威たる魔神を自分のものにしたいという『強欲』? あるいは、単純にその容姿に惑わされた『色欲』? いずれにしても、あなた方は欲にまみれている』
「くそッ、あの無線機」
「ちょっと本当に面の皮厚いね。サーシャちゃんその傭兵近づけさせないでねえ」
ため息を吐きながらサーシャ=クロイツェフが突っ込んでくる。バールと鋸を握り締める少女を睨み、両手で
左から迫るバールは前に右に大きく体を揺らし倒しながら、相手の肘に向けて軍楽器の切っ先を当てる。ガツッと走る衝撃。サーシャ=クロイツェフの腕が
「────ッ」
歯噛みする少女の空に浮いた右腕に体をぶつけ、振り上げた
ゴグンッ‼︎ と響く鈍い音。少女の左手から鋸が落ちる。大地に少し背を減り込ませ口から息を吐き出す少女に目を落とし、
が。
「……危ねえな」
足を削ぐように振るわれたバールを背後に跳ぶ事で避けた。左肩は折れていない。自分で無理矢理外しやがった。荒い息を吐いて立ち上がり左肩を嵌め込んでいるあたり、拘束服みたいな服を着ているだけあって拷問術のようなものが得意なのか。少しアテが外れた。
「ぬるぬると……ッ、鰻男ッ」
そんな風に初めて呼ばれたぞ。ただなるほど、単純な格闘戦なら勝機はあるらしい。ならこのまま────。
『でも、もうお分かりですよね? あなた方は正義に憧れた。我々巨大宗教が担うべき役割を、個人の力で成し遂げられると信じたかった。それは『嫉妬』です。明確な罪だ』
がくりッ、と片膝が落ちる。勝手に体から力が抜けた。「あぁようやっと」と呟くワシリーサの言葉が耳を撫ぜ、隙と見たかサーシャ=クロイツェフが再び俺に向けて突っ込んでくる。
「ッ、まだだッ!」
力が抜けたくらいならまだやりようはある。その為に波の技に対応した格闘技術を短い間に少しでも磨いた。抜けた力に逆らわず前に体を倒す。低く低く転がるように。振るわれるバールの下に体を潜らせ、勢いに身を滑らせて体を振って立ち上がる。
『……であれば、あなた方の現状は『酔っている』の一言で済ませられるのでは? それもやはり、立派な罪だ』
「ちょッ、おい上条ッ!」
上条の体から静かに力が抜けてゆく。示される『暴食』、並べられた七つの罪。それで完了したと言うように、無線機から小さく漏れ出る息が聞こえる。向かい合うサーシャ=クロイツェフは油断なく口を引き結び、その背後ではワシリーサが逆に微笑を浮かべた。
『……上条当麻の方がまだ素直だと言うべきなのでしょうか。未だに七分の一。理解しないように努めているのであればそれは『怠惰』であり、あなたが今歯を噛みしめるのは友を救えなかったという『憤怒』故でしょうか。勝敗はもう明らかのはず、それでもまだ勝利を欲する『強欲』までも振りかざす気ですか?』
罪への言葉が並べられる。『怠惰』、『憤怒』、『強欲』。それを噛み砕くように歯を食い縛る。身の内の底で魚影が揺らめく。いや、揺らめくというより感情が渦巻き、俺に肉迫しようと動くサーシャ=クロイツェフの足元に、
「……第一の質問ですが、上条当麻は既に死に、あなたはまだ動くと言うのですか? だいたいあなた、第二の質問ですがなぜ未だ動けるのです? どれだけ厚顔無恥なのですか」
「……厚顔無恥だと? いやいや、寧ろ『怠惰』だ『憤怒』だ『強欲』だなどと考える暇がある方が
「それが魔神に組したあなたの理由ってわけなのかしら?」
「組した理由? 仕事を引き受ける事を決めた以上の理由が欲しいのか? 俺にとってはただの仕事。受けるに値する『必死』があった」
『仕事などと諦めているそれは『怠惰』なのでは? それとも自分ならやり切れるという『傲慢』ですか?』
「いいやロシア成教、お前達は分かってないな。言葉遊びで放たれた弾丸を叩き落とすなんて無謀だぜ。刃を俺の首元に突き付けて止められると思うなよ。それこそがッ」
ただただ気に入らない。なにを『必死』相手に余裕を見せる。俺は遠方で偉そうに踏ん反り返っている奴に並びたい訳ではない。言葉さえあればどうとでもなると見せつけられて、物語はおしまいと終止符など打てる訳もない。そんな姿形ない脅威にだって並ばなければ。
「これまで何度も負けてきた。この先も何度も負けるだろうよ。でも今回ばかりは負けたくないんだ。俺は俺が目にしたものを信じたい」
『……大望を望むそれは『嫉妬』ですか』
「分かっているじゃないか」
一度乗せられた罪にそれ以上は乗せられない。七分の一。力の抜ける要因であるそれを噛み締めながら、上手く力の入らない両腕を垂れ下げて
「死人を守ってどうしたいの? それとも現実が見えないのかしらあなた?」
「質問ですが、北欧の主神は死体を利用するという報告も受けていますし、その為でしょうか?」
「人生の終わった者を誰が使うか。ちゃんと俺は『今』が見えてるよ。言葉だけで俺を止められると思うな。『必死』もないそんな言葉で」
サーシャ=クロイツェフが大地を蹴る。振られるバール。受け止めようにも腕がうまく上がらない。であれば、より力を抜いて沈み込み、地に伏せるように体を大地にぶち当てた衝撃で体を持ち上げ
ガリッ!!!!
噛みちぎるようにサーシャ=クロイツェフが左手で引き抜き振るった金槌に、
一度荒く息を吐き出し、倒れ転がり、転がり、勢いを増して起き上がり、身を振り地を削るように滑る。
『あなたは他の罪を無視して『嫉妬』だけでそこまで動くと言うのですか? それは何より『傲慢』で『怠惰』で『強欲』です。『嫉妬』だけを貪るなどと、そんな偏食な『暴食』が許されるとでも?』
「……憧れて何が悪い? 追って何が悪い? 俺の望む俺はいつも俺が並びたい者達の隣にいる。俺はそれに近づきたい。暴力が必要ならそれに並ぼう。優しさが必要ならそれに並んでみせる」
『傲慢』? 俺は俺より強い者がいるのを知っている。力で。心で。それを差し置いて思い上がる余裕などない。どれだけ戦場を知っていても先達がおり、日常では、佐天さんや小萌先生に教えられてばかりだ。一人ではできない事が無数にある。
『憤怒』? 俺だって苛つく事は勿論ある。ただそれは、何よりも自分の手が届かぬものに対して。脅威に届かぬ手が恨めしい。並びたいものに並べない事こそ悲劇だ。怒るも何も、それは『羨望』するが故に。
『怠惰』? 立ち止まっては追いつけない。磨き削り積み上げ続け、未だに届かぬ頂きは数知れず。そんな暇は存在しない。理解しない事が『怠惰』などと、その暇を寧ろくれ羨ましい。
『色欲』? 姐さん達のおかげで下手な幻想はとっくの昔に砕かれた。オティヌスとか見た目だけならアレただの痴女だぞ。娼婦街にでも行けば似たようなのいくらでも見れる。俺を誘惑したいなら学園都市から
『強欲』? そんなに多くの者はいらない。俺はただ『必死』が欲しい。目にしたそれと今まさに隣り合っている。他に何がいるというのか。追って追って、ただ望む一瞬が俺には必要だ。それ以外俺の眼には映らない。
『暴食』? 場に酔う時間がもったいない。眼にした輝きに身を焦がし、立ち止まってなどいられない。噛み砕き、吸い込み、足を出す為のそれは『羨望』の輝き。遠く夜空に光る星に手を伸ばす事を誰が咎められる。
ただ、ただそれだけがある。
無線機から零される『嫉妬』と呼ばれる罪が並べられる度に、身の内の奥底で蠢く本能が、目の前に置かれた餌を追うように浮上してくる。理性で押し留めようにも、奪われた隙間を縫うように止められない。
『嫉妬』『嫉妬』『嫉妬』『嫉妬』『嫉妬』『嫉妬』。
七つも罪は必要ない。他の罪さえ食い漁り、君臨するのはただ一つ。
額から垂れた血に視界を覆われ瞼を落とす。見つめる波の世界の中を、無線機から零された言葉が泳ぎ回った。
『世界さえ天秤に掛けて、魔神の為に動き続ける理由はそれに並びたい『嫉妬』だと? 世界を壊す程の力に? それとも『全』の意思に? それとも恐怖を振り撒いている『今』に? どれほど罪深いのですかあなたは……ただ一つの罪で他の罪さえ塗り潰すなどッ』
「…………底を知りたいなら奪ってみせろよ『ワタシ』を。GODさえ抱え切れぬのに? 何を焦る? それさえ奪えてしまうかもしれない何者かにお前さんが『嫉妬』してるだけじゃねぇの? 言葉しか吐けない今に。未だ折れない者達を前に。それがテメェの『必死』なのかぁねぇ? 『必死』の違いに恋い焦がれますか? 壊すしかできない今の『必死』に。そうだとするなら────」
「ッ⁉︎ あなたッ!」
『……あなたは……なんなんですか?』
無線機から流れ出る焦りの揺らぎにハッとする。思わず口を引き結び肩口で口を拭う。なんだか勝手に口が回ってしまった。気色悪い。腕が上がる。響く金属音。バールと
「こういう事だッ‼︎ 引っ込めッ‼︎」
息を吐き切り身を転がし起こす。腹部に叩きつけられる金槌の衝撃。を身を捻る動きに乗せるように流した。指の先まで響く衝撃の振動を逃すように身を渦巻き波を巻き取る。そのまま伸ばした
『……結局暴力で黙らせる。それは『傲慢』なのではないですか?』
「戦場で暴力使うなって? じゃあここはどこなんだ? 刃物の切っ先チラつかせてやって来て場を整えた奴の言うことかよ。なあ上条?」
「…………ああまったくだ、相手の言い分を最後まで聞かずに暴力で黙らせるのがお前達の神様のやり方か!? だとすりゃとんでもねえ『傲慢』だな!!」
「……っ、まずい!!」
これまで動かなかった上条が、身を起こそうと僅かに体を持ち上げる。死んだだの死人だの。上条の心臓が止まっていないことなど、波を見つめていたから分かっていた。俺が注意を引いた分、上条に考える時間ができたはずだ。何より、上条の言葉にワシリーサが身を起こし、苦い顔をした事で確信する。
七つの大罪に当て嵌め裁くこの魔術は、俺や上条だけに効くような便利な品ではないらしい。おそらく魔術の使用者にも同じように適応される魔術。見えない裁判所のようなものを構築し、一定の範囲内にいる者に適応されるのだろう。でなければ、俺が『嫉妬』を指摘した時と、上条が『傲慢』を口にした時にロシア成教が動こうとする道理がない。
「失敗だった。失敗だったぜロシアのお偉いさん……。七つの大罪なんて持ち出した事がそもそも失敗だ。それに無理に七つ揃えようとした事がな。だからお前は失敗した」
上条の声を背に聞きながら、目元の血を腕で拭う。呼吸をする度に金槌で殴られた脇腹が軋むが、骨は幸いに折れていない。『言葉を暴力で黙らせるのは傲慢』と上条が定義しぶつけたからか、ワシリーサもサーシャ=クロイツェフも歯噛みし動かない。罪の言葉を発していたのが無線機だった事を思えばこそ、問い掛け、又は問い掛けられて罪か否かを決定するのは、無線機で喋っている者と、問い掛けられた者だけか。種が分かればなんだって事はないが、効力と手軽さを考えるとひでえ魔術だ。
『何を……』
「だって、『暴食』を今の俺達に当てはめるのはあまりにも無理があるだろう。飲み食いだの酩酊だのが罪になるっつったって、そりゃあ酒に対する罪なんじゃねえのか。オールボーに行くまでの間にまかないの野菜くずスープ以外何一つ口に入れていない俺達に向けて『自分に酔っているから暴食に当てはまる』なんていうのは、屏風の中の虎と同じくらいの妄言だ。そして、アンタ自身も突き付けた罪に自信がなかったから、最後の一手は完成しなかった。『暴食』は発動しなかった。それで全部気づいちまったよ」
戦場の光景を外から眺めていたロシアのお偉いさんがジャッジを下す術式。よその宗教に難癖つけて力を削ぎ落とす、それだけの方法論。そう上条は結論付けて言葉を並べる。屁理屈こねて言ったもん勝ちの魔術。相手が罪を認めればそれで嵌る。なんとも性根の悪い異端審問。
「まあ一番の計算外は法水だろうけど、なあ法水、お前のそれってスイスの『
「……え、知ってんの?」
俺だって全容は把握してないのに、なんか俺より知った顔で上条が頷いている。黒子にもまだ言ってないのにッ。やばい、なんかクッソ恥ずかしい。俺の本能の正体をどこで知ったんだこの野郎ッ。トールやベルシ先生もなんか気付いてるっぽいし、ひょっとしてオティヌスもか? おぅ……叫びたい気持ちを自分を殴る事で抑える。
「お、おい?」
「何も言うな……いいから続けろ上条」
血の滲む唾液を大地に吐き捨て、俺はワシリーサとサーシャ=クロイツェフの動きに集中する。てか集中させてくれ。
「とにかくお前の魔術が一方的な屁理屈を現実の攻撃へ転化できる術式だとして、最低最悪の積み重ねだが、正体がそんなもんならこっちにだって勝ち目はあるぞ!!」
『勝ち目がある? 個人の欲望が組織の努力を上回れるとでも言うのですか。あなたの大義はそこまで他に優先されるのか!? そんなものはひどい『傲慢』だ!!』
「かもしれない」
相手に指摘を肯定し、上条は言葉を続ける。肯定はしかし諦めとは違う。暴力の鎮まった静かな空間で、裁判長との問答が始まる。七つの大罪を逆に上条が突き付ける。
諦めない平凡な一人の少年の意見を全て集団の力で押さえ込めると思っているなら、そっちの方がよっぽどひどい『傲慢』であると。
交わされる理解できない問答に目くじらを立てるそれは『憤怒』であると。
オティヌスを殺し、オティヌスの恐怖を残す。オティヌスを黙って投降させれば済んだかもしれない犠牲を見過ごし、恐怖と疑念の解決をほっぽり捨ててただ殺す。犠牲をなくす努力を怠るそれは『怠惰』であると。
自分達の手でオティヌスを倒す栄誉が欲しいのか。何も知らない人達を犠牲にしてでも栄誉を欲するのは『強欲』であると。
ここに居らず安全な遠方の何処か。命懸けの戦闘の最中にコーヒーか紅茶でも嗜んでやがったら『暴食』であると。
実際にオティヌスに会った事もなく、一言さえ交わした事もない。にも関わらず、向き合うよりも殺した方が手っ取り早く楽であると考えたそれが〇番目の罪であると。
ところどころ俺も、言った上条にもきっと耳痛いだろう話ではあるが、少なくとも効果はあった。沈黙した無線機が答え。上条からの問いに最初声を荒げていた無線機の奥の裁判長が己に決定を下したらしい。背後で立ち上がり調子を確かめるように手を開いて閉じるを繰り返す上条の肩を軽く小突く。
「『嫉妬』と『色欲』が抜けてるぞ。まあ『色欲』なんてどうしろってんだって話だが」
「『嫉妬』はお前が突きつけただろ? だいたい『嫉妬』に関してお前に勝てる奴多分いないだろうし、法水こそが天敵みたいな術式だったな。いや、法水以外にもあと六人いるのか。会ったことあったり?」
「する訳ないだろ。てか会いたくない。ロクな事にならないと勘でもなくそんな気がする。だいたいなんで知ってるの? 俺の本能に呼び名があるってこと。冗談でもなく確信してるな?」
「いや、なんて言うか、オティヌスと一緒に会ったからさ」
「……上条、これが終わったら一度病院に行こう。カエル顔の先生に診て貰った方がいい」
「俺は病気じゃねえよ!」
いや、だって会った事あるとか正気じゃない。だいたい本能に会うってなに? 精神世界にでも侵入を果たしたのか。ただ、上条が嘘を言っていないという事が分かってしまうだけにゾッとする。ホラーだよ。オティヌスと上条が急に仲良くなった事と関係あるのか。特別聞く気もなかったが、少しばかりは聞いた方がいいかもしれない。ため息を吐く上条と同じく俺もため息を吐き、残る二人の魔術師に上条と共に顔を向けた。
「……どうする? サポートなしでも続けるのか」
「割と悩みどころだけど、今回はやめておこうかしらねえ」
上条の問いにそう言いながらも考える事もなく、ワシリーサは気軽に答えを告げた。
「このまま殺害を強行しても良いんだけど……すると、今度はあっちの坊やが自縄自縛で七つの罪に囚われそうだし。くそっ、ローマ正教を見習って現場にブレーカーを用意するべきだったかしらね」
サポートに徹していただけでワシリーサは全然底を見せていないからな。殺害を強行する、できる手段が残っているのか。上条と二人ならやってやれない事もないかもしれないが、なんとも不気味だ。格闘戦なら分があっても、魔術戦となると話は変わる。見逃してくれるならその方がいい。
「そうそう。あの術式がまだ機能しているから私達は手出しできないんだけど、一応アドバイスだけはしておくわね」
「なんだ急にお優しいな」
首を傾げながら、放り捨てた狙撃銃の本体を拾う為に
「効果範囲の話。一つ、一定範囲内にいるロシア成教徒。二つ、総大主教が敵と定めた人物。……これには名前と写真の他、五感のどれかで当人の存在を感じ取る必要がある。この二つの条件に合う人物と総大主教自身の三項目が、『七つの大罪』に関わる人物の全体像という事になるわね」
「何の話をしているんだ……?」
「盲点」
「ッ⁉︎ 上条ッ‼︎」
狙撃銃を拾う事を諦め、上条の体を蹴飛ばす。
アドバイス? いや、ただの時間稼ぎッ!
標的を視界に収めたからか、膨れ上がった波紋に肌が泡立つ。態勢を崩した上条の元いた位置に何かが突き抜け、そのまま曲がると避ける上条を追い、その側頭部を殴り飛ばす。
見てから動きを変えられる人の限界を容易く超えた圧倒的速度。一撃で精密機器のように意識を断ち切る攻撃力。それを兼ね備えている者は多くない。身の内の底で魚影が蠢く。それを力で抑えつけるように、肩に大きな手が置かれた。聞き覚えのある声と共に。
「動くな法水孫市。傭兵を知る者であればこそ、なにが最良か分かるはずである」
近接戦最強の傭兵であろう、ウィリアム=オルウェルの声が静かに背後で響く。上条を抱え上げる天草式の女教皇、神裂火織を目にしながら、薄く笑い
意識が断ち切れ視界に暗幕が落ちた。