呼吸を一定に、親指の折れた左手を握り込む。その違和感ある感触を削ぎ落とすように身を僅かに左右に振った。
鼓膜を叩くのは呼吸音と身の軋む音。視界の端で吹っ飛び転がる兵器達の残骸が、別世界の出来事であるように現実味薄くなり頭の片隅へと消えていく。
眼に映るのはただの一人。感覚の瞳さえも波の世界に浮かず一人の少女の全てだけに向けられる。
それと共に浮上しそうになる心の不純物を理性ではなく本能で押さえつけ蓋をした。
必死。それだけを追って来た。何でもない自分が、誰でもない己を確かなものとしたいが為に。漠然とした想いの起伏は様々で、どれが一番とは言い切れない。強大な脅威を己が力で穿った時、追い求めたなにかを掴んだ時、地平線の先に輝く太陽よりも輝かしい絶景を瞳に収めた時。
多くの頂点が存在する中で、ただそれは決して形あるものというわけではない。わけではないが、今は目の前に形として立っている。ツインテールを風に揺らして、緑の腕章を腕に嵌めた少女として。精一杯に呼吸を整えても、はやる鼓動は治らない。その鼓動に押し出されるように傷から垂れる赤い雫をもう舌で受け止める事もなく、ただ目の前に立つ少女を見つめた。
「……さあ黒子、俺が相手で遠慮してるって事はないだろう? 来いよ」
細く息を吐き出し、己が鼓動の広がる狭い世界に感覚を這わせる。波を拾うのではなく波を吐き出す事で狭い世界を渦巻き支配する波の技術。理性の檻の鍵を開け、泳ぎ出す本能に意識を切り替えた。騎手が馬に乗るように手綱を握り放さぬように、向かうべき場所は己で決め、本能で邪魔の要素を選別させる。
身を揺らし動かぬ俺に黒子は目を細め、俺の周囲の波が揺らいだ。
黒子の姿が背後に浮かぶ。鉄杭と黒子。
腕を極めようと体に伸ばされる黒子の脚。それを気にせず身を振った勢いのまま腕を前に強くねじ込み、黒子の顔の横を突き抜けて虚空を貫いた拳の衝撃に押されるように黒子の体が雪の上に転がった。
「ボスにとって戦いは猟。俺にとっては漁なんだ。目にした脅威を逃すと思うな。俺の日常は浅くはないぞ。戦場ならば尚更だ」
漁師が網を投げるように、己が鼓動で世界を押し広げ大波の腕を少女に広げる。目にしたならば、届く距離にいるのなら、手を伸ばし引っ込める事などあり得ない。己が瞳で、波の世界を見つめる第三の瞳で眩い少女を飲み込むように心の底に蜷局を巻く魚影が大口を開けた。
その鋭い牙を拳に乗せるように腕を振るう。
その場を漂っている時は不出来な海藻のようであっても、何かを追っている時は別。獲物目掛けて一直線に身を振り揺れながら突っ込んでくる男の赤毛が、怪物の舌のように目に映る。
「貴方は本当に…………ッ」
遠慮がない。躊躇しているのかどうかさえ、口元の笑みを見てしまうと分からなくなる。世界さえ壊す魔神を相手にするような仕事も断る事なく参加して、かと思えば急に手のひらを返して今度は世界を敵に回す。正直理解が追い付かない。お姉様も、インデックスも、同じように手のひらを返した類人猿に意味が分からないという顔をしながらも、問題の理解は置いておき、その源は何となくでも分かっている。それはわたくしも同じこと。
どんな場所でも、状況でも、立つ国さえ違くても、やっている事はいつも変わらない。
悲劇をなくす為、脅威を穿つ為、そうして自分の体を削る。どれだけ自分の身を削っても、終わり良ければ全て良しと明るい結果に笑みを向ける横顔を一目見てしまえば、怒りよりも呆れてしまいなにも言えなくなってしまう。どれだけ自分が傷つこうが、悪の烙印を押されようが、素晴らしい過程と結果があればそれでいいと。
だからきっと今回もそれは同じ。どれだけ世界が悪であると決めつけたところで、目にした本人がそれで終わりと納得しなければ、拳を握る理由に成りえ、引き金を引く理由に成りえる。それが少なからず分かってしまうのは、自分も身を切る側であるからか。
だからこそ強く止められない。前へと進むその背中に目が向いてしまう。背中に追い縋り背を引くでもなく、その隣に並ぼうと足を伸ばしてしまう。いつもならそうだ。いつもなら……。
ただその背を追って、隣に並んで、必死を追う横顔を望み仕方がない殿方ですのとため息を吐く。止まらないだろう事は分かっているから、そんな男だからこそ追っているのだから、ただそれでも、折れた左手の親指と、軽く抉れた額、鼻柱を横断している爪痕を見て、何も思わないはずもない。血で肌を汚すその奥にどれだけの傷が隠れているのか。『
もしあと一時間、二時間と見逃せば、それだけ確実に傷が増える。どころか、わたくしとお姉様が間に合わなければ、ついさっきもう死んでいたかもしれない。
殺しているのだから殺されもする。想像よりも呆気なく人は死んでしまう。第三次世界大戦直前、『神の右席』と『
燃え朽ちる人の体が、蜂の巣になった人の体が、死体ではなく置物のように見えてくる。何度も何度も目にする中で、心が麻痺してしまったかのように、もう終わってしまったのだから気にしていても仕方がないと勝手に脳が答えを弾く。それこそが何より恐ろしい。その恐怖が日常と非日常の境界線を心に引く。
孫市さんも、カレンさんも、学園都市にいる暗部の幾人かも、もうそんな世界の住人だ。気遣いはするし、絶対の基準を各々が持っていても、いざという時必死に躊躇なく必死を返す。『死』を喰らい背負い変わらずそこに立ち続ける。引き金を引く者はそれを気にしない。どこかで自らに引き金を引かれても拒まない。ただ当事者はそれで良くても、外から眺めている者は違うのだ。
「少しは自分を省みなさいバカ!」
空を這いずるように伸びてくる拳の下を掻い潜るように身を滑らせる。軽く髪を擦り突き抜けた拳の勢いのまま、雪の上に足を滑らせたまま、孫市さんは鋭く身を捻り方向を転換した。一歩を踏み出す事もなく、身を振り滑り寄ってくるスイス傭兵。およそ人の動きとは呼べない摩擦の消えたような移動法に舌を打つ。
自分に何ができるのに漠然と能力を鍛える学園都市の学生とは別。脅威を穿つ為、敵を壊す為、目的を持って鍛え積み上げられた暴力の結晶。平時でこそ振るわれないそれは、戦場でこそ振るう為のもの。そうと決めているからこそ、それを振るう軌跡に淀みはなく、鋭さは鈍らない。
今は類人猿の為に、オティヌスの為に、夢見る必死に届ける為に振るわれる破壊の技術に相対する事になると、ここに来ると決めてから分かってはいた。
傭兵は味方にもなれば敵にもなる。
何度もその変わらない事実を孫市さんは口にしていた。わたくし達に対する忠告か、それとも自分が引き金を引く時に躊躇しない為の戒めか。事実ゴリラ女も、ハム=レントネンも、敵として立ちはだかった。それが今回は孫市さんだっただけのこと。ただ違いがあるとすればそれは、壊す為ではなく、守る為にここにいる。
残骸の時も、スイスの時も、関わる時はいつも何かを守る為に何かを壊している。それがそれはかとなく気に入らない。壊さなければ守れないのかということではない。それが必要な時もあるという事は分かっている。ただそれをしなければならないのは貴方なのか。貴方が選んだからといって、自分を削る事が正しいと言うのか。削って削って、削り擦り切れるまで削る必要があるとまでは思えない。それを必死と言うのであれば、それは許容できるものではないから。
「貴方はそうやって! 学園都市で手にした日常まで削る気なんですの?」
「それで日常が守れるのなら! 見つめた狭い世界の中で、見つめ続けて何もせずにお終いにはできないだろう! そこに確かな輝きがあったのなら、擦り切れ消えてしまう前に指が掛かるなら手を伸ばすさ! そうでなきゃ何で俺がここにいるのか意味がなくなる!」
「それで自分が消えてしまえば世話ないでしょうが! その最後の一瞬が最高だったとしても、線香花火のように散ってしまっては、良かっただなどと言う事はできませんの! どんな時でも前に進むその姿に目を引かれても、消えてしまったら、残された者はどうすればいいんですの? 貴方は考えた事がありますか!」
「……そんな先の事など考えない。 今目に見えているものにも手を伸ばせないようじゃ、未来だって掴めるか!」
「ならば今考えなさい! わたくしはそれがッ!」
大きく息を吐き出して、滑り寄って来る孫市さんを目に呼吸のリズムを一定に整える。真正面からぶつかり合っても、波に飲み込まれるように暴力の渦に巻き込まれて終わる。学園都市で何度も手合わせしてきたからこそ分かる。能力も魔術も利用しない単純な破壊の技術は、時の鐘や軍人には及ばない。それでもそれを止めるためには、逃げていては掴めない。だからこそ向かうは相手の懐。拳を振り被る孫市さんの前へと足を伸ばし、磨かれた暴力に相対する為に磨いた技術を行使する為頭を回す。
目の前に血の滲む拳が迫った。
するり。
空を薙ぐ拳の感触に小さく目を見開く。
するり。
「……貴方の心配をしてはいけませんの?」
超至近距離での連続
「わたくしの心配は重荷ですか? 貴方が擦り切れるのをただ黙って見ている事などできるとお思いですの? 貴方は世間から見れば真っ当ではないのでしょうけれど、それでも貴方が守ってきたものがある。それがくだらないものとは言えませんし、必要なのも分かってはいますの。誰かの代わりに貴方が引き金を引く。でも、そんな貴方を守る事は許してくださらないのかしら? 誰かが貴方を止めなければ、きっと貴方は近い未来に消えてしまう。そこまで貴方が背負う必要なんてないでしょう」
太腿に沈んだ鉄杭が、黒子の言葉を拾い骨の芯を震わせる。痛みはほとんどない。そのはずだ。蓄積された疲労故か、沈みそうになる膝を踏み込み、そのまま身を振り黒子に肩をぶつけるように前に出る。するり。腕を振る。するりと。この至近距離でよくもまあここまで当たらない。組手をし過ぎて癖でも盗まれたかッ。時の鐘の軍隊格闘技と波の技術を用いた格闘技術。動きを変えようが、狙いとしてのパターンはそこまで変わらない。だからといってここまで当たらないものか? 僅かに浮かぶ疑問は、目の前に現れた黒子の細められた目に掻き消される。
「来年の夏も、秋も、冬も、一緒にいてくれると言ったでしょう? わたくしと一緒なら寂しくはないと。それでも貴方は先へと行ってしまう。目にする今の必死に誘われて。そうして消えてしまいそうな貴方を掴んではいけませんの?」
太腿に突き刺さる二本目の鉄杭。その感触に沈む膝を起点に雪の上を滑って身を捩り、一旦黒子と距離を取ろうとするが、すぐに背中に当たる手のひらの感触。
跳ばされるッ。
空中か最悪地中か。どこに跳ばされようが、受け身を取る為知覚を広げ、背後に振った右腕は虚空だけに触れ、腕に黒子が巻き付いた。右腕を極められるよりも早く渦を巻くように全身で腕を振るい黒子の体を引き剥がす。ピキリッ、と鈍い腕を立てる腕から離れた黒子が宙に身を翻し、雪の上に柔らかく降り立った。これも戦闘における天賦の才能か。怒気が薄れた冷淡な黒子の顔に白く濁った息を吐き出し、右腕の調子を確かめるように一度回す。
「貴方が消えてしまうくらいなら、わたくしがここで貴方を止めます。恨んでくれていいですの。これは貴方の為ではなく、わたくしの為。その方が、貴方には分かりやすくていいでしょう?」
首を傾げる黒子を前に、一度大きく息を吐き出した。己が想いで磨いた技術を振るうのを、否定する事は俺にはできない。もし俺と黒子の立場が逆なら、上条を前に『グレムリン』殲滅の仕事が続いていたなら、間違いなく俺は立ちはだかっているだろうから。自分の為と言いながら誰かの為。……どうにも体から力が抜ける。黒子の優しさに拳が緩む。どこまで追って来る? 世界を敵に回しても、黒子は目の前まで来てくれた。それが何よりも、否定しようもない事実となって目に映るから。
「……それは甘いよ黒子。お前は優し過ぎる。俺の価値なんて磨いた技術ぐらいにしかない。だからそれを振るうなら、悪くはない結果が欲しいじゃないか。そんな事のためになら俺はお前にも拳が振るえるような奴だ。必要ならそれで相手を壊す。そんな俺に消えるなって? それは随分と俺に虫のいい話じゃないか? なあ? 俺にはその手を握ることはできない」
「資格がないとでも? 救われる資格や助かる資格なんて、そんなもの誰にだって必要ないでしょう? 伸ばされた手は掴めばいい。貴方が言ったことではないですか。例え貴方が世界から『悪』と呼ばれる者であっても、貴方だから守れたものもあるはず。だからこそ……貴方がオティヌスに手を貸す理由はなんですの? 仕事だなんて思考停止した答えは要りませんわよ」
「……上条の依頼を引き受けたのは、オティヌスが槍を手放す事を選んだからだ。魔神は力を捨ててただの日常を選んだ。それに勝るものがあるか? 例え罪を重ねた者であっても、それを背負い矛を手放す事を選んだ奴に俺は引き金を引けはしない。だから俺はここにいる」
「……貴方も手放せばいいでしょう孫市」
「それを選べないから俺はここにいるんだよ」
何が正しいかは見えている。狙撃銃をほっぽり捨てて、学園都市で傍観者として過ごす道もあると分かっている。ただ上条達や黒子達と日常を繰り返す。そんな日々は悪いものでは絶対ない。ただし、俺はもう自分が引き金を引けると知っている。ただ日常を繰り返す中で、変わらず上条や黒子が危険に突っ込んでいる姿を見送る事など俺にはできない。引き金を引けるから。例え誰の為にならなくても、俺自身が己を捨てない為に、俺は狙撃銃を手放せない。
「……分かっているよ我儘だ。虫のいい話なんだろう。俺が俺を決めつけても、そうではないと黒子や上条達は言ってくれるんだろう。でも狙撃銃を捨てられない俺だから、お前達の優しさに甘えてはいられない。縋ってはいられない。お前達に隣に居て欲しいんじゃない。俺は俺が隣に居たいんだ。黒子、俺はお前の伸ばされた手を取れない。手に取るなら俺から掴むさ。……そうでなきゃあ、お前達に合わせる顔がないじゃないか。好きに進んで、いざとなったら手を引いて貰うなんて、かっこ悪いじゃないか。だから、黒子が隣に居てくれて良かったと思えるような俺でいたい。これだけは変えられない。それでも磨く事はできるから。資格云々の話しじゃない。不安にさせたなら悪かった。例え世界を敵に回しても、俺は黒子の元に帰るよ必ず。死なずに黒子の前に帰ってくる」
「……その根拠は?」
「好きなだけ試してくれていい。黒子に誓った通り。俺は強いぜ」
息を吸って息を吐く。俺自身、絶対の強者ではない。負ける時は負けてしまう。勝利以上に敗北を重ねた。それでも、ただ弱いと吐く事だけはしない。黒子の前では折れず立ち続ける俺でいたい。俺を止めるためなんかに力を使ってくれる黒子に、へし折れ崩れる姿はもう見せたくない。
たった一人の俺の必死。惚れた少女なのだから。理由なんてきっとそれで十分。黒子が隣にいるそれだけで、俺は自分を強いと言い切れる。言い切れなければならない。強く眩い少女の隣に居たいからこそ。
ツインテールが視界から消えた。
広い世界は必要ない。押し拡げる波紋を極限まで削り落とす。薄皮一枚纏うように。俺自身が世界の形。身を振る動きさえ止めて、静かに呼吸を繰り返す。寄せては返す波のように繋ぎ目をなくし、体からそっと力を抜いた。世界を押し広げ世界を吸い込む。この世はプラスマイナスゼロでできている。波が膨れ上がれば次には萎み、波が萎めば次には膨らむ。受け入れ吐き出し、吐き出し受け入れる。どちらか片方などあり得ない。
空間を飛び越え落ちてくる鉄杭を薄皮一枚触れたところで身を引き、鉄杭が服の肩口を裂いた。足先を裂き、腕を裂き、空間を飛び越え迫る鉄杭は、ただし突き刺さらずに飛んでゆく。
息を吐く、視界がブレる。
────ずるり。
波同士のぶつかり合う僅かな摩擦に身を滑らせて立つ俺の横顔に拳が落とされ、その衝撃を巻き込み身を捻った。
右から放たれた衝撃を、左足を軸にして体を回す。膨らみ萎む衝撃の波を渦巻き円の形に巻き込みながら、押し寄せる波を散らさない。波を捻ったその形は『メビウスの輪』。全身で
これが、これこそが波の格闘技術の完成形。振り上げた拳が黒子の頬を擦り、エネルギーを使い切るように体を回して、軸にしていた左足の横、元の位置に右足を戻す。
「……やっぱり初めては上手くいかないな。次は……当てるさ。なあ黒子。俺はもう負けないよ、お前の隣に立つ為に」
奥歯を噛む。構えもせずに雪の上に立つ男をどうすれば止められるのか頭を回すが答えが出ない。そもそも
いや、あるにはある。まだ勝ちの目は残っている。
鉄杭を
「……行くなと言っても、行ってしまいますのね貴方は。それでいて、来て欲しくない時でも貴方はやって来てくれる。それがわたくしはどうしようもなく悔しい。守りたくても守れないッ。貴方も、お姉様も、わたくしには遠く、その背を追ってばかり、追わなければ消えてしまう……追っていても消えるかもしれない貴方達に、わたくしにできる事は小さな事だけで……」
「……なら」
「何も言わないでくださいまし」
口を開きかけた孫市さんに目を細める。慰めの言葉や諦めの言葉は必要ではない。諦める事だけはあり得ない。迷っている時間などない。追って追って、並べた時間が一瞬であったとしても、その一瞬をこそ手にしたいから。一瞬さえあれば遠くまで跳び越えられるわたくしだから。恋い焦がれる者達が進み続ける歩みを止められずとも、どこまででも追い続ける。きっと限界などありはしない。足を止めたならそこが限界。追い続け追う者が消えてしまうかもしれない一瞬を、取り零さずに掬い上げる事が出来たとしたら、それこそがわたくしの必死であると。
僅かに潤む視界を握りつぶすように右腕に巻かれた腕章を掴み引き上げれば、孫市さんが小さく口端を持ち上げた。言葉にせずとも分かっていると言いたげな嬉しそうな顔が癪に触る。前を歩いているようで、お姉様も、孫市さんも、いつもわたくしの背中を押してくれる。わたくしの進む道が間違いではないと言うように。顔を綻ばせて信じてくれる。
だからどうしようもなく、わたくしの頬もつい緩んでしまい、一度咳払いをして口を引き結んだ。言葉にしなくても信じてくれる嬉しさと気恥ずかしさをぶつけるように空間を飛び越えて、
「これが、わたくしの答えですのよ」
孫市さんのニヤケ面を足蹴にし、返しの一撃を避けることなく、受け入れるように両の手を前へと伸ばす。
「バ────ッ⁉︎」
蹴飛ばされた顔を振るって渦を巻き、無限を描き戻した顔の先に待つ少女の笑顔。避ける気も防ぐ気もなく、自ら飛び込んできた必殺の間合い。体の力を抜き、高鳴る事なく安心して一定のリズムを刻む鼓動。黒子の顔をぶち抜こうと動く拳を、無理矢理地に落とした足を踏み込み打点をズラす。黒子の顔の横へと抜けて進む腕を折り畳み、衝突の勢いは黒子を抱えて雪の上を転がる事で外へと逃がす。
焦ったッ……焦った本気で焦ったッ。
上条と神裂さんに向けて死ぬ気満々で突っ込んだ時に、神裂さんが顔を引き攣らせた歪ませた理由がよく分かる。自分の暴力が何を生むのか、そんな事は、磨いた技術を振るう己が一番よく分かっている。一瞬脳裏に首のへし折れた黒子の姿が浮かび、その影を振り払うように身を起こす。
雪の上に仰向けに横になる黒子は驚いた顔をする事なく、眉さえ動かさずに薄く微笑んだまま、口から白んだ吐息を吐き出した。緊張の糸でも切れたのか、急に早まる黒子の鼓動に強く歯噛みし、安堵と怒りが同時に湧き出す。
黒子の頬を指で撫ぜ、波の世界に目を向けて傷がない事を確認しながら、なんと言うべきか頭を回し口を開いたところで、伸びた黒子の手のひらが頬に添えられ、紡ごうとしていた言葉が押し込められる。
「分かりましたでしょう、わたくしの気持ち……。心配なんですのよあなたのことが。いつかこうして身を捧げて消えてしまわないかと。わたくしの知らないところでいなくなってしまわないかと。だってあなた、仕事でもわたくしに引き金を引かなかったじゃありませんか。今もまた……」
「だから……線を引いてたんだ。入れ込み過ぎると指を引けなくなっちまうから。もっと敵を見るような顔をしてくれよッ。じゃないと例え前に進む為であっても、俺は黒子だけは穿てないッ」
「大馬鹿者ですわねあなた。それでは負けないなどと言って、わたくしに勝てないじゃありませんか。……それでも前に進むと言うのでしたら、わたくしの不安を拭ってくださいません? 世界だとか魔神だとかは関係ない。わたくしは、あなたを追って来たのですから」
振り払う事は簡単だ。目を向けなければいいだけだ。ただ理性が、本能がそれを否定する。引き金を引いて引いて引き続け、血と硝煙の香りを背負い遠くで瞬く輝きを見つめる。輝かしい誰かの人生の必死の一助になれたのなら、それだけで俺の人生も悪くはないと思えるから。でも、それでもどうしても手を伸ばしてしまうものがある。鈍い輝きの中にいて、綺麗な白銀の輝きは強過ぎる。正道を歩く事は叶わないのかもしれないが、それでも、例え神に否定されようと、手を伸ばしてしまう少女が目の前にいる。
「黒子、俺は────」
少女が俺を掴んでくれても、それでも俺は進む事をやめられない。俺の見つめる狭い世界の外側は、多くの輝きに満ちている。その輝きに誘われて動く指先を止められない。輝きを一度目にして仕舞えば、足を止めるなど勿体無いから。削って、磨いて、擦り落として、そうして残るのは己だけ。ただそうして削り落としてゆく中で、捨てる事のできないものが存在する。背負う狙撃銃と同じく、いつも背負っていたいもの。どれだけ多くを削っても、削り切れずに、ただ一人の少女がいるだけで、戦場から離れたほんの僅かな日常が華やぐ。
それをもう手放す事はできない。掴んでいたい。その変わらない輝きを。誰に許しを乞えばいいのか分からず、熱っぽさに喉の奥が引き攣った。鼓動が早まる。視界が揺らぐ。それでも引き金に指を掛けたならば押し込むのみ。時の鐘は外さない。俺は外さない。例え結果がどうであろうが、削り出した想いは吐き出さなければ届かない。
黒子が僅かに息を零す。薄く広がる白いヴェールの奥で輝く、黒子の瞳を覗き込む。噛み合わない歯を食い縛り、純白の雪の上で身動ぐ黒子に向けて、なんとか口の端を持ち上げて口元に小さく三日月を浮かべる。弱々しく歪な三日月を。
「────
黒子が目を瞬き、身から溢れる熱で雪が溶けた気がした。身の内で暴れる本能を、黒子の顔の横に着いた手で雪を握り締める事で抑えつける。すぐに蒸発して手から零れてしまう透明な冷たさも熱に沈んで意味はなく、紅く染まってゆく黒子の顔を静かに見つめて口を閉ざす。ただ呼吸をするだけで、燻る熱が逃げてしまいそうで、引いた引き金の重みを確かめるように呼吸を止める。
黒子が小さく微笑み、
────バッチコォンッ!!!!
振り切られた黒子の手のひらに吹き飛ばされ、雪の上を無様にゴロゴロ転がった。
…………痛ぇ。マジで痛ぇ。体よりも心が痛ぇよ……。
「お姉様‼︎ わたくしの用事は終わりましたわ! この大馬鹿野郎はもう何を言っても聞きませんから、ほっといて後は学園都市に帰って来てからこってり絞りますの!」
「ちょッ⁉︎ まだこっちは話し中だっつうの‼︎ だからアンタはこれで終わるんじゃ! みたいな安心した顔してんじゃないわよゴラぁぁぁぁッ‼︎」
バチバチ空に稲妻が走り、上条の叫び声が薄っすら聞こえる。立ち上がり御坂さんに叫び終えた黒子は、鼻を鳴らすと仰向けに転がる俺の横にゆっくりと腰を落とした。掛ける言葉が見当たらずに目を泳がせていると、額に黒子の手がぺしりと音を立てて落とされる。
「減点、それはもう大減点ですの! ロマンチックの欠片もないですし、場所もタイミングも、まあ貴方らしいと言えばそうなのかもしれませんけれど、戦場で言いたい事を言って、それでわたくしが喜ぶとでも? これがテストなら赤点で居残り補習ですわよまったく…………まあでも、未来を誓ってくださいましたから、大目に見て見逃して差し上げますの。わたくしは、一度手にしたら放しませんわよ絶対に。……わたくしは、あなたを戦場でなんて死なせてあげませんの。あなたがしわくちゃのお爺さんになって、ベッドの上で間抜けな顔でこの世を去る事しか許しませんわよ」
「……その時は、しわの増えた黒子の手をきっと掴むよ。……遥か遠くの必死は眩しいな。時間を掛けてしか行き着けない。……あんまり眩しくて、黒子の顔が見れねえや……」
「……ならこれで見えるでしょう? これから何度でも、そうでなければ許しませんから。次はもっと場所や言葉を選んで欲しいですわね。でなければ、わたくしはあなたに手錠を掛けさせてあげませんの。指に嵌まるような小さな手錠さえ」
「そいつは難題だな。だから言ったんだ、小人も気を利かせて指輪ぐらい作ってくれても良かろうにさ」
「その前に貴方はまず女心を学びなさい。段階を幾つもすっ飛ばし過ぎですの。わたくしはそれが得意ですけれど、貴方は一歩ずつが信条でしょう? 孫市さん」
「そりゃそうだ。……黒子、俺と付き合ってくれ。俺はお前に隣に居て欲しい。俺を隣に立たせてくれ」
「喜んで。ただ、わたくしは二股も浮気も許しませんわよ」
「誰がするかよ」
たった一人の少女が俺の人生の宝物。この先の人生で俺は、自分のことだけでなく、強く眩い少女のことも添えて書きたい。いつか誰かに聞かせた時に羨むような人生をきっと。手放したくない愛しい人。手を伸ばしてしまう輝き。俺の顔に手を添えて覗き込む少女の背で弾ける稲妻の輝きに目を細め、少女の微笑みを忘れてしまわないように目に焼き付ける。その笑顔を見られるだけで俺は、きっと世界の裏側からでも帰って来れる。
少女の笑顔の背後で見え聞こえる、雷鳴と兵器の弾ける音が俺にとっての
「そんな都合の良い、ただただ甘ったれた世界に。今さら誰がすがるかっつーの!!!!!!」
…………ただちょっとうるさ過ぎるぞ。
稲妻の音と電撃姫の叫びにため息を吐いて身を起こし、御坂さんに吹き飛ばされる上条を見上げながら座る黒子に肩を寄せた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。本当に、ありがとうございます!
195話ですね、もうすぐで200話とかいうびっくりな話数になってしまいますが、100話では登場人物をまとめましたが、200話はどうしたものでしょうね。登場人物をまとめるには新約はまだ中盤ですし、とはいえ折角なのでなんか書きたいなと思います。なのでアンケートを取ります。5話前にアンケートを取るのは、皆さんが気に入らなかった場合アンケートを取り直す為です。そんな感じでお願い致します。
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