時の鐘   作:生崎

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グレムリンの夢想曲 ⑫

 乾き張り付いた血の欠片を手で払い落とす。雪に混じる朱色を軽く目で追い、何度目かも分からない深い吐息を吐き出した。口から漏れる白い吐息が撫ぜる肌は朱く染まり、白い世界では浮き上がって見えるだろう。そんな影が並んで三つ。俺も、オティヌスも、上条も、血に濡れていない箇所を探す方が難しい。この有様でヒッチハイクも難しく、オーデンセの街から歩き続けてようやくイーエスコウ城も目と鼻の先だ。

 

「……決めたのかよオティヌス。全部終わったら、どんな道を進んでいくか」

 

 オティヌスに寄り添うように歩く上条がそんな事を言う。聖人に殴られ意識を奪われようが、未来に対して頭を回せるくらいには回復してくれたらしい。これもただ殺す為でなく、嬲る事に聖人が気を割いてくれたおかげか。感謝はできそうにもないが、不幸中の幸いだ。細かく裂けた指の傷を擦り合わせて、冷え固まった血を削り落とす横で上条が続ける。

 

「パン屋さんでもお花屋さんでも何でも良いって、前にも言ったろ。……なんかさ、やりたい事とか見つけられたか……?」

「はは。そんな可愛らしいのは柄じゃないさ」

「この先、どれだけ我慢を強いられるか分からないんだぜ。だったら、何でも良いじゃん。似合ってないとか、雰囲気じゃないとか、そんなのどうだって良いだろ。本当に、一番にやりたい事を見つけろよ。そっちの方が応援のし甲斐だってあるってもんだ」

「……やりたい事、か。……お前はどうだ傭兵」

「え? 俺? なんで?」

 

 オティヌスが僅かに口を閉じ、不意に話を振られて思わず指を止める。小首を傾げて小さく微笑むオティヌスのただの少女の顔に呆気にとられて眉を畝っていると、「参考までにな」とオティヌスは言葉を付け足した。

 

「お前はこいつと違って戦場に生きる者だ。もし手にした力を置くとしたら、その後お前はどうなんだ?」

「そりゃあ…………考えたこともないな」

 

 傭兵ではない自分を思い描く事はあっても、本気でそれに手を伸ばそうと考えた事はない。朝起きて、家族と朝食を食べ、学校へ行き、友達と馬鹿をやって、家に帰り家族と過ごす平穏な日常。そんな生活を送った事がないからか、一般的な当たり前というやつからは随分とズレた。オティヌスと違いどうしようもなく世界を変えてしまうような力を持った事がないし、銃を置いて未来に何を見るのか。俺には未知の領域だ。でもきっと。

 

「お前と同じだ多分」

「……私と?」

「パン屋とか、職業は別になんでもいいんだ。もし矛を置くとしても自分の為には置ける気しないし、もし置くとしたならそれは、一生にきっと一度の────」

「ああ、いい、分かった。その先は言うな。恥ずかしい奴だ」

「お前が聞いたんだろうがよ!」

 

 顔を歪めて引いたような顔をするオティヌスに牙を向けば、少しして鼻で笑われ、べっと舌を出される。矛を置くとしたらそれはきっと誰かの為で、強過ぎる刃で隣り合う者を傷付けない為。

 

 大事なのはやりたい事ではなく、きっといたい場所だ。

 

 口端を苦くする俺から視線を切り、オティヌスは首を傾げる上条に向けて「本当に何でも良いのか?」と尋ねる。

 

「俺に聞いてどうすんだよ」

「いいや、お前に聞いておきたい。本当に、私は、どんな夢だって追っても良いのか……?」

「良いに決まってんだろ」

 

 上条が即答する。瞼の腫れた上条の顔を見つめるオティヌスに気付くことなく。口元を綻ばせるオティヌスと首を傾げる上条を見比べ、一歩二人から距離を取る。うわぁと口端を落としていると、オティヌスに睨まれたので元の位置に足を戻した。

 

「何だよ、なんか夢でも見つかったのか?」

「お前に聞かせる道理はないがな」

「知らぬが仏だ……先に言っておくがそれ関連に対して俺は力にならないと決めている」

「別にそれに対してお前の力になど期待していない」

「何で急に喧嘩してんだお前ら」

 

 喧嘩してるんじゃない。ただただ呆れてるんだよ俺は。オティヌスと睨み合う中で零される上条の言葉に力が抜ける。ザクザクと雪を力任せに掻き分け歩き、首を傾げる上条は放っておく。風に吹き上げられた地吹雪の向こう側には、もう目指した城の影が見えている。歩き続け、歩き続けて辿り着いた目的地。

 

 イーエスコウ城。

 

 一五五四年にフラン=ブロッケンフスによって建設された、『樫の木の森』という意味の名を付けられた城。多くの庭園に巨大迷路、吊り橋、博物館。普段は一般に公開され、多くの観光客で賑わっているだろう古城の周りに人の影は見えず、冷たい風だけが地を這っている。

 

「実際問題、城はどうでも良いんだ。湖上にあれが建つ前に『目』を投げ入れていたから。重要なのは周りの湖の方なんだが、誰もが後付けの城に注目してくれるおかげで、今の今まで誰も『目』には気づかなかった……」

 

 と、オティヌスが言うので、城には向かわずに外周の湖畔に向けて足を伸ばす。湖面の冷気が風に運ばれ押し寄せているのか、口から溢れる息がより深く白む。ただ、そに寒さに負けぬ程に鼓動が跳ね、身の内の熱が上がった。

 

 待ち望む必死、それを見る為にこそここまで来た。はやる気持ちに足取りが速さを増し、近づくごとに足が緩んだ。

 

「よお」

 

 空を震わせる高鳴る鼓動が押し寄せる。誕生日でも待つ子供のように、強い感情に染まった鼓動が、吹雪を掻き分け空を走った。見知った波紋を楽しそうに零す影。隠れる気も隠す気もない。こっちを見ろと言わんばかりのうねりを伝い顔を向ける。

 

 吹雪の奥に聳えた弱々しい鼓動を刻む階段と玉座。それの上に腰掛けた黄色い男。腰掛けているものが人間であると目にするより早く気付き、刻まれている拳の軌跡に目を細める。

 

「……雷神、トール……っ!?」

 

 上条が黄色い男の名を口にする。腰まで伸びた金色の髪、輝く青い瞳、キメ細かい白い肌には大した傷もなく、黄色い上着の上にストールを纏ったぱっと見少女のような男。視線を向ける俺達に笑みを向け、これ見よがしに足を組んで頬杖をつく。学園都市での女装趣味もそうだが、悪趣味な演出が好きな奴だ。

 

「ああ、こいつらみんな『グレムリン』の正規メンバーな。オティヌスに聞けば一人一人解説してくれるよ、そいつ尊大だけど上から目線の説明好きだから。なーんかみんな揃ってフクロにするなんてつっまんねー事考えてやがったからさ、手っ取り早くぶっ潰しちまった。うん、大した経験値は手に入らなかったな」

「かと言って、道を譲ってくれる訳でもなさそうだな」

 

 オティヌスが尋ねれば、トールは雑に手を叩く。空虚な拍手の音が響く中、狙撃銃も軍楽器もインカムもなく、手持ち無沙汰になった指を擦り合わせた。何度か手を開いて握り、体がまだ動く事を確かめる。僅かに揺れ動くトールの瞳を見返すが、トールはすぐにオティヌスへと顔を戻した。

 

「当たり前だろ、俺は別にアンタ達の味方じゃない。つーか、むしろ、敵でいられた方が楽しいに決まってる。そうだよ、そうそう。上条ちゃんよ、アンタはやっぱりそうじゃなくちゃつまんねえ。学園都市で見かけた時は完全に腐ってやがったが、今なら十分楽しめそうだ。それに魔神オティヌスなんて化け物に、怪物を呼ぶ喇叭吹きまでついてくるなら完璧だ。ったく、どんだけ経験値デカ盛りなんだっつの。経験値のフルコースかって。冗談抜きに腹が破れちまうかもしれねえな、こりゃあ」

「……気をつけろ。事前に『投擲の槌(ミョルニル)』とケリをつけたという事は、今のトールは槌からの補助を受けていない。それは雷神としての力を失っている事を意味している」

「『投擲の槌(ミョルニル)』さん? いや、あのドラム缶さんならそもそもここには来てないと思うぞ」

「ド、ドラム缶さん?」

 

 微妙な目を上条に向けられ、オティヌスに鼻で笑われて堪らず咳払いをする。だってドラム缶さん以外に言いようないじゃんあれ。他にどう説明すればいいと言うのだ。だからトールも失笑してるんじゃねえ。ボロボロの最早布切れと化しているコートを脱ぎ、ほっぽり捨てる。足をゆっくりって動かす俺の背に、オティヌスの声が掛かった。

 

「おい待て、トールが『雷神』の内なら、まだ倒せる見込みもあるだろう。だが『全能神』としてのトールを表に出しているなら話は別だ。この惨状もそいつのせいだろう。単純な話、ただの『雷神』にここまでの破壊は生み出せない」

「はっはっは、解説どーも。な? そいつ説明好きだろ。でもまあ、孫ちゃんにその説明は必要ねえかな?」

「いつまで偉そうに座ってるんだよ。お前も傍観者は嫌なタイプだろうに。テレビでも見るかのように寛いでるならそのままずっと座っててくれ」

「そう拗ねるなよ。いいじゃんかちょっとくらい。孫ちゃんも俺に負けずせっかちだよなあ」

「お前と一緒にすんなバトルマニア」

 

 玉座の上から軽く跳び上がり、人間製の階段に一歩ずつトールは足を落とす。呻き声を軽やかに踏みつけに小さな笑みを浮かべ、ゆっくり足を出すトールの姿が搔き消え、世界を取り巻く波が食い千切られる。ゴギリッ‼︎ と響く鈍い音。顔に握られた拳が沈み、体の中に衝撃が走る。

 

「の……法水ッ‼︎」

「おい!」

 

 上条とオティヌスの叫ぶ声が響く中、吹き飛びそうになる体を捻り振り回し無限の字を描く。エネルギーを折り畳み散らし返すメビウスの輪。叫び声の残響と拳の衝撃を巻き取るように渦を巻き、体の中に流れる衝撃の波を叩きつけるように元の位置へと振り回していた右足を落とす。拳の衝撃に開いた傷から血が滲み、赤い線を宙に引く。背後に殴り抜けたトールに顔を向け、顔の傷から垂れた血を指で拭った。

 

「おいおいおい孫ちゃんよ! それしっかりと形にしちゃったわけ? 俺の為に?」

「……なんでお前の為なんだよ。いいトコに当てやがって。ちくしょうめ、また傷が開いた」

「いいねいいね! で、どうすんだ? 三人同時にかかってくるか? それとも、まずは上条ちゃんと孫ちゃんが相手かよ? それとも一対一になんのかな。どれでも良いけどさっさと決めてくれ」

「先に殴っておいてよく言うなお前。上条、オティヌス、先に行け。ここが終点なんだ。ぐだぐだしていられるか。お前の相手は俺だ『全能神』トールッ‼︎」

「ハハハハッ! そうでなくっちゃあな! 追いついて来たな『羨望の魔王(Leviathan)』! 傭兵? いいや、お前ももう戦士の顔になってるつの‼︎」

「待てお前達!」

 

 オティヌスが叫ぶが待つ訳がない。薄皮一枚に鼓動の波紋を押し広げる。始まりのゴングはトールの拳。トールの姿が消え、横殴りに衝撃が走った。歪む視界に鋭く息を吐いて蜷局を巻く。右の頬を殴られたなら殴り返す。回る体の足を踏み締め、身を捻りながらトールの頭に抜けて握った拳を振り落とす。

 

 

 ゴギリッ‼︎

 

 

 拳を擦り抜けるように波が噛み千切られ、トールの姿が移動する。突き上げるように放たれた拳が胸を叩き、伸びる右拳と殴られた胸の衝撃を捻るように体を螺旋に巻いて波を逆巻く。腕を振るい殴られ身を捻り、腕を振るい殴られ身を捻る。黄色と赤い線を走られて渦を巻き続けるが、トールの拳の威力が殺し切れず、どうしても僅かに芯に通る。威力こそ聖人には及ばぬ人のものであるが、やはりダメだ。ほとんど同時では当たらない。ズレのない同時でなければッ。

 

 腹部に滑り込んで来たトールの足先に大きく弾かれ、渦を巻きながら雪の上を滑り、その速度を緩めて突っ立つ上条とオティヌスの前で足を止める。口から溢れる血を大地に吐き出し、体を左右に小さく振った。

 

「ははっ……孫ちゃん。どうやってそこまで積み上げたんだ?」

「……世界有数のアサシンと裏を取り合い、空間移動能力者の正義の味方と技を競い、カチキレた聖人と殴り合えばコツくらい掴める」

「そりゃ素敵だな。俺も一緒に立ち会いたかったぜ」

「言ってろ、ただ殴り合いたいなら後で幾らでもやってやるよ。だから」

「いいや、そりゃダメだ。言っておくが、俺はオティヌスを殺すよ」

「トールお前……ッ「だろうな」……法水⁉︎」

 

 背後に立つ上条とオティヌスにさっさと行けと後ろ手で手を振るう。他の『グレムリン』をトールが先に殲滅したのも、結局は多で個を嬲るのが気に入らなかっただけ。気分の良くない喧嘩はしない。トールがもうそういう奴だと分かっている。ただ、多で個を嬲るのが気に入らないだけで、やる事は変わらない。寧ろ同じ目的の仲間を穿ったからこそ、目的だけは違えないはずだ。そしてそれは此方も同じ事。トールの必死と俺の必死。ただそれをここで比べるだけ。

 

「お前は嫌いじゃないよトール。分かりやすくていい。お前となら純粋に技を競って良いと思える。傭兵の矜持も、仕事も関係なくな。俺とお前にごちゃごちゃした理由は必要ないだろう?」

「俺はオティヌスを倒す。孫ちゃんは上条ちゃんとオティヌスを届けたい。まあ簡単な図式だわな。お互い戦場でしか生きられないんだ。その為に積み上げた。やろうぜ孫ちゃん。世界で最も原始的な戦いってやつを。お互いに積み上げ続けたものをぶつける殴り合いを!」

「殴らせないくせによく言うよなマジで! 獲物ばかり目の前にチラつかせやがって! 牙を突き立て噛み付き食い千切ってやる!」

「おい傭兵!」

「なんだ‼︎」

「先に…………ッ、いや、なんでもない」

 

 とんがり帽子のツバを引いて顔を隠すオティヌスにさっさと行けと手を振り、肩を回し鳴らして一歩を踏む。

 

「ッ……法水任せたぞ! お前に任せた!」

「任された! 時間だけは完璧に稼いでやる!」

「なんだよ、なにやるのか知らねえけど、時間稼ぐって勝てない宣言?」

「んな訳あるか! 俺は負けねえ! トールお前も楽しみに待てよ、きっと最高の必死が待ってるはずだ! だからこそ! ここが俺の終点だ! ここで絞り出し切るッ‼︎」

「楽しませろよ、ベイビー」

「来いよ俺の『羨望(せかい)』へ」

 

 体の奥底で蠢く魚影が浮上する。上へ、上へ。熱のこもった瞳が脈打ち瞳孔が開いた。心臓が激しく鼓動を打つ。一対一。選び置かれた戦場を、トールが違える事はない。俺が折れない限りその牙は俺だけに向く、磨き抜かれたトールの牙が。

 

 自ら『グレムリン』を潰し、わざわざ『グレムリン』の総意を背負い込んだトールこそが終点。ただの戦闘狂には収まらない戦士の拳に向かい合う。

 

 その拳が響かせる音こそ、『グレムリン』の夢想曲(トロイメライ)

 

 

 ────メギリッ!!!! 

 

 

 骨と筋肉の軋む音。先制の一撃は掴み取ろうにも掴めない。突き立てられる拳は受け入れるしかない。殴られるのが嫌だなどと宣うぐらいなら、そもそもこの場に立ってなどいない。殴られ殴り返す拳が空を切り、蹴られ蹴り返す足が空を切る。蜷局を巻いて逆巻く世界で二色の線を引きながらも拳が交差する事はない。

 

 第三の目で客観的に眺める限り、目に映るのはトールに一方的に殴られるだけのもの。ところどころ滑り込む芯を捉える一撃に弾き飛ばされ、大地を足で削りながら体勢を正す。

 

「ほらタイミングが合ってねえぞ孫ちゃん! それがお前の限界か!」

「うる、せえッ! この野郎! 俺の限界をテメェが決めんじゃ……ッ! ぐッ⁉︎」

 

 一発、二発、三発。

 

 足を止めたところに、距離関係なしに飛来する拳が、空間を飛んで身に刺さる。殴り飛ばされ宙を舞う体が、すぐに体に落とされた二発目を受けて大地に叩き付けられた。肺から空気が押し出され、声にならない嗚咽を奏でて歯を食い縛る。

 

 立つ。止まる。渦を巻く為に差し込む、休符のような動作が邪魔だ。手や足を地に着いて止まる事もなく、転がりながら渦を巻きトールの拳を受け入れる。

 

「ハハッ! 最早人間の動きじゃねえな! どう動いてんだそれ? 魔術や超能力はからっきしでも、格闘者としてならもう上から数えた方が早いんじゃねえの?」

「俺は格闘者じゃなくて狙撃手だ! 穿つッ!」

「いや無理だ」

 

 突き出した拳とトールの拳が交差する。なぜ交差している? 浮かんだ疑問は身に突き刺さる衝撃に霧散され、雪の上を転がり滑る。

 

 

 …………フェイント。

 

 

 ただ出した拳を途中で引っ込めタイミングをズラされただけ。どう動こうが、トールは世界を喰い千切るように世界を縮め、振るう拳や蹴りが必ず狙った相手に突き刺さる。どんな積み上げ方をすればそんな魔術に行き着くのか。絶対に負けられない戦いでもあったのか。それともどこまでも勝ちを欲した結果か。

 

 拳の威力が想像を超える事はないが、ないからこそ、トールの積み上げには嘘がない。体から溢れる血を白い雪が吸い上げる。吸い切られないうちに触れる大地を握り締め、地面を舐めるように身を振って起き上がる。

 

 息が苦しい。目眩がする。痛みはほとんど感じないが、指先からせり上がってくる痺れを握り込み、垂れ下がる腕を持ち上げる。

 

 ただ目にした先に待っていたのは、少しばかり退屈そうにしたトールの顔。もう既に勝負の行く末は見えたと言うような鈍った瞳の色に強く歯を噛む。

 

 なんなんだその顔は────ッ。

 

「孫ちゃんとの殴り合いは楽しいけどさ。完成したオティヌスには遠く及ばないだろ? 俺が計算した予想スペックが正しけりゃ、あいつの猛威は今ここにある世界を占めるくらいが限界なんつー俺の比じゃなかったはずだ。ここに来るまで、世界は何回滅びた? それに勝った上条ちゃんとの勝負ならいい経験値になると思ったんだけど、孫ちゃんとじゃあ、結局ただの殴り合いだ。それじゃあ悪くもないが良くもねえよ」

「……なんだ()()って」

「孫ちゃんは強いが、それは人の範疇を出ない。技術が大事なのは俺も分かってる。技術なんて使わなくても殴れば勝てる聖人や、魔術師が奇跡を磨いている間に孫ちゃんは拳を磨いているだけ。人の中でどれだけ高みに上っても、奇跡を再現し、世の法則を乱して特異な力を発揮する能力者や魔術師には届かない。その力は人が手にする事のできる力の範疇だ。自分の得意な領域に引き摺り込み、相手が積み上げていない部分を穿つ事で孫ちゃんは勝ってきた。だからこそ、殴り合いで勝てないなら、お前は俺には勝てないぜ」

 

 トールの姿が消え、顔に拳が埋まる。蜷局を巻いて拳を突き出した先。フェイントでタイミングをズラされ、二発目の拳に芯を捉えられて殴り飛ばされた。後ろに転がりながら勢いのまま立ち上がり、口から垂れる血を拭う。

 

「上に立てばさらに上が見えてくる、力の追究には終わりがない」

「ぶっ⁉︎」

 

 フェイント。フェイント。突き出される拳を引かれるそれだけで、タイミングがズレるそれだけで、回転を止める一撃を放たれ、二発三発とトールの拳が沈む。体から何かが崩れる音が響く。

 

「絞り出せる力には限界がある。それをどう効率よく使うのか。どう限界を超えるのか。泥臭い殴り合いはもう随分前に俺は踏み越えたぜ?」

「げぅッ! ……ゴホッ、ガ……ッ⁉︎」

 

 全能神。絶対必中の打撃。一歩が正真正銘勝利に近付く一歩であり、一撃一撃が確実に相手を削ってゆく。トールの拳が体内で擦れ合う音を聞きながら、何度目かも分からない地面を舐めた。痛みをあまり感じないだけに、何よりも空虚な衝撃が体の内側を削いでゆく。魔術師として、格闘戦の最高峰である事は間違いない。

 

 積み上げてきたものが、一発の拳に否定される。手を伸ばしても届かない。身の内で魚影が蠢く。手を伸ばしても届かない輝きに痺れを切らして大口を開けるように浮上する本能。

 

 身を削り、技術を飲み込み、破滅に突っ込もうと前進をやめない本能の衝動に意識が明滅した。

 

 

 ────ゴンッ!!!! 

 

 

「…………おい?」

「引っ込んでろッ‼︎」

 

 地面に額を打ち付け、雪の上に朱色が広がる。

 

 本能に身を任せて突き進むのは気分が良い。必要のない考えが滑り落ち、前に進む事に迷わなくて済む。

 

 ただ今は要らない。必要ない。

 

 獣のように牙を剥き、盲進する歩みは欲しくない。期待されない目。そんなものはスイスに行き着く前の日本で嫌という程浴びてきた。敗北。スイスで持たぬ才能を抱え嫌という程積み重ねた。

 

 それが嫌で、情けなくて、積み重ねてきた必死の技術。

 

 嘘にしたくはない。誓いを破りたくはない。

 

 俺が俺である為に削り出した俺だけの技術の結晶は、俺一人で積み上げた訳じゃない。

 

 ボスが、ロイ姐さんが、クリスさんが、ガラ爺ちゃんが、ゴッソが、ハムが、ドライヴィーが、上条、青髪ピアス、土御門、浜面、御坂さん、飾利さん、佐天さん、一方通行(アクセラレータ)、垣根、釣鐘、円周、木山先生、他でもない黒子が、隣り合ってくれた者達が削り出してくれたもの。

 

 

「俺は負けねえッ」

 

 

 誓ったから。

 

 

「ここが終点なんだッ」

 

 

 追い求めた必死を見る為に。

 

 

「だから本能(おまえ)は引っ込んでろッ!」

 

 

 例え俺を突き動かす源が本能であっても、進む先を決めるのは俺だ。

 

 俺が引き金を引く。俺が並ぶ。

 

 日本からイーエスコウ城まで来れたのも、俺や上条やオティヌスの力だけではない。世界を敵に回しても、背を押してくれる者はいる。だからここまで来たのなら俺自身の目で人生の最高点を拝む。

 

 立ち上がり足を踏み出した。トールの拳が無慈悲に突き刺さる。蜷局を巻いて回る世界の中に、再びトールの拳が滑り込んだ。その拳に乗せようと動く体の手前で拳が止まり、フェイントを挟んだ二撃目が脇腹に沈み込んだ。

 

 

 メギメギメギリッ!!!! 

 

 

 限界を超えてへし折れる肋骨。それを気にせずに全身を絞り、足を踏み込んで腕を振り切る。口から溢れる血も拭わずに顔を上げた先、僅かに切れたトールの頬に笑みを向け、拳を握った両腕を広げた。

 

「マジかよ孫ちゃん……、ハハッ、まだ先があるって言うのか?」

「先なんて、あるか! これは、ただの痩せ我慢だ! 例え、ここで、俺が倒れても、お前に、負けん! 何より俺が気に入らねえのはッ‼︎ 何をお前が先に諦めてやがる!」

「諦める? 俺がか?」

「そうだ! 削り出した至高の技を手にして満足か? 殴り合いなら誰にも負けない? ただの殴り合いならどうせ誰にも負けない、追いついて来ないと諦めてんだろテメェは! 誰も結局自分には追いつけないとよぉッ‼︎」

 

 退屈な顔。それを向けられる事が何よりも恨めしい。そんな顔を向けられる自分自身が嫌になる。俺が望むのは、俺が羨むのはそんな自分自身じゃない。トールよりも何よりも、きっと先にいる、並びたいものに並んでいる自分が羨ましい。

 

「俺には確かな才能なんてなかった。トール、お前も自分はそうだと言っていたな。全く違うものでも、同じように積み上げてきたお前にだけはそんな顔をされたくねえなッ‼︎ 魔術を磨いたお前の拳と、技術を磨いた俺の拳に価値の差があるなんて言わせねえ! そうだろライバルッ‼︎」

「ライ……バル?」

 

 笑みの消えたトールが首を傾げる。

 

「前にお前が言っただろう? 俺達は友達かって? 俺達は友達にはなれねえよ。きっと、お前がそうだ。お前が俺の生涯のライバルだ。生まれも辿って来た人生も違かろうが、日常を知っても戦場にしか生きられない俺達は! 磨いた自分を後悔なくぶつけられるのはお前だけだ! だからこそ俺はお前に並ぶ‼︎」

「……ライバルか……そうか……それだ。ライバルッ! 良いなそれ! 俺と本気の本気で殴り合ってくれるってなら! だからズルイなんて」

「言うかボケッ‼︎ だからさっさと掛かって来い‼︎ お前を一人にはさせてやらん‼︎」

 

 トールの口元が深い弧を描き、その姿が静かに消えた。身を削る衝撃に体を回す。無限の字を描いてぐるぐると。そうして小さく舌を打つ。勝てる可能性など万に一つもない。突き刺さるトールの拳と同時に極限まで近付いても掠るだけ。完全に嵌る同時がいる。僅かでもズレればトールは掴めず離れていく。

 

 トールの世界。ただ腕を振るうだけで勝利に近付く勝者の世界。

 

 

 だがそれでも、勝てずとも負けない。

 

 

 世界を巻き込むように渦を巻き、弾かれようと渦を巻き続ける。拳。蹴り。骨を軋ませる一撃の中で、織り交ぜられるフェイントを気にせず、腕を振るい、与えられる一撃を散らし切れずとも僅かに勢いを増して渦を巻き続ける。体がバラバラに崩れそうだ。今にも雪の上に身を投げ出したい。そんな想いを噛み砕き、ただ逆巻く波を大きく揺らし高めてゆく。

 

 目ではもう世界を追えず、雪に反射する光が線を引くように目に映った。目を閉じた波の世界を押し広げるように、その中心でひたすら蜷局を巻いて回遊する。徐々に徐々に世界を吸い込み圧縮されていく世界の重みに耐え切れず、避けた皮膚から血が溢れ、その刻まれた裂傷を広げてゆく。

 

 

 ずるりッ、と。

 

 

 突き刺さったトールの拳が、螺旋と無限の回転に負けて身の上を滑った。必ず当たる。絶対必中。避けられないそれは、絶対にどこに当たっても、絶対に滑るようにすればいい。身を滑る拳を巻き取るように体を捻り続け、圧に潰される肺を押し広げ、無理矢理息を吸って息を吐く。

 

 第三の瞳というスコープを覗く。触れるトールの波を侵食し、鼓動の波紋を掬い上げる。一発。放つ弾丸に全てを懸けるように、心の引き金に指を添えて。

 

 

 ────ゴゥンッ!!!! 

 

 

 鐘を打ったような音がした。骨と骨のぶつかり合う音。脇腹に埋もれたトールの拳。頭蓋を捉えた俺の拳。『魔王の渦牙(エンドロール)』。刹那を切り取った写真のように描き出された一瞬の後に続いて、何かが千切れたような音が響き膝が折れ片膝を着いたまま背後に力なく転がってしまう。起き上がろうと地についた手に力が入らず体が滑り落ちた。引き攣ったように踏み込んだ左足が動かない。持ち上げようとした右腕が明後日の方向を向いて雪の上を滑るだけで持ち上がってくれない。

 

 

「────ま、ご、いちッ!!!!」

 

 

 俺の名前を叫ぶ声がした。なんとか瞳だけを動かし、声の方へ瞳を泳がす。視点定まらぬ視界の中で、頭から血を垂らすトールがふらふらと起き上がり、その姿が消えた。

 

 

 ぺちりっ。

 

 

 力の入らぬ拳が俺の体を横に転がす。荒い息を吐き、血を拭もせずに振られ続ける弱々しい打撃が俺の体をゴロゴロ転がす。その威力を噛み締めて、転がる勢いを使ってなんとか身を持ち上げ振るう腕が上がらない。低空を泳いだ俺の体がトールにぶつかりそうになってトールが消え、俺の上に落ちて来た。

 

「お、も、いぞ、……こら」

「お、前より、重く、ねえ」

 

 起き上がろうにも、体が動かず、トールは小さく体を持ち上げる。振るわれる拳が俺を叩き、それを追ってトールが雪の上に倒れる。それを数度繰り返し、雪の上に倒れたまま、肩で大きく呼吸を繰り返しながらトールの動きが止まった。

 

「……く、そ、また、負けちまった。黒子に、怒られ、っちまう」

「ふざ、けんな。こんなんで、あと二回、やれるか。頭がガンガンしやがるッ。マジで、ぶん殴りやがったな」

「ここ……まで、やって、引き分けにしか、できないとか、チートだ。ズルイぞ、この」

「ズルイって、言わない、っつったろうが、お前がおかしいんだって。……殴りやがって。ハハッ」

「なに笑ってん、だ。キメェ。……くはっ」

 

 零した小さな笑い声はすぐに消え、静寂が辺りを包み込む。痛みが薄く全く体が動かないおかげで、人形にでもなった気分だ。荒い息をしばらく繰り返し、ゆっくりと、本当にゆっくりとトールが身を起こす。まだ動けるあたり、勝者がどちらかは言わずもがな。ぼやける視界を覆うこともできず、ただ弱く奥歯を噛み締める。

 

「……並びやがったな」

「…………一瞬だけだ」

「なら、次は一秒くらい並べよ」

「一分でも、二分でも、並んでやるッ。次はッ」

「……ああ次は、なあライバル」

 

 笑顔で手を伸ばしてくるトールに強く舌を打とうとするが、舌が滑って上手くいかない。この野郎ッ。これ見よがしに手を伸ばしやがる。歯を食い縛り、なんとかへし折れていない左手を持ち上げようとするが、数十センチしか上がらない。その手をトールが掴み、俺を引き上げた瞬間。

 

 

 ────ズンッ!!!! 

 

 

 芯を震わせる強烈な振動が響く。倒れそうになる体をトールの力ない手に支えられ、瞳を泳がせた。振動の中心。上条とオティヌスが向かった先に、異様な紋様が花開いている。その莫大な揺れ動く波紋は、手に取ろうとしなくても体に滑り込みその正体を告げてくる。その波紋は魔神の鼓動。

 

「……おい、孫ちゃんよ。そもそもさ、お前達はここで何をしようとしてんだ……? オティヌスがここに『何か』を隠したのは予測できたんだが、その中身についてはサッパリでな」

「オティヌスの捨て去った『目」を、回収しに来た。魔神の力を、捨てる為に、だったんだ、が」

「……なるほどな、いや、だがアレは……救われたくないんだよ。オティヌスは、自分の意思で上条当麻に救われる事を拒んでる。『魔神オティヌスを救った罪』をさんざん目の当たりにしてきたあいつは、今後もアンタ達が業を背負い続ける事を拒んだんだ。上条当麻と戦った事でオティヌスが死ねば、アンタ達の功罪をプラマイゼロに戻せるとでも思ったんだろうよ」

「プラマイゼロぉ? あの野郎、選んだなら、諦めるなって言ったのに、最後の最後で足踏みしやがって」

 

 俺が腕と足を折った意味。神様だったらそれこそ汲んでくれてもよかろうに。ぶん殴ってやりたいが、もう体が動かない。こんな光景を見る為に俺はここまで歩いて来た訳じゃない。プラマイゼロどころかマイナスだ。マイナス。プラスがどこにも見当たらない。なんだか急激に体から力が抜け、トールの体に寄りかかったところで、トールが破壊の渦の中心を顎で指した。深い大きな笑みを浮かべて。

 

「逃げるなぁ!! オティヌスッ!!!!」

 

 親友の声が響く。ここまで隣り合って来た男の声が。失いかけた力が体に戻り、なんとか体を持ち上げる。向ける瞳に映り込むツンツン頭。一歩一歩足を踏み出し、拳を握る日常からの来訪者。

 

「どうなると思う?」

「……決まってるだろ、ここからは瞬き禁止だ」

 

 脅威に突き進む普通の少年。神を日常に引きずり落とす為に突き進む男の隣に立てない事が寂しいが、その輝きからは目が離せない。オティヌスが諦めてしまおうが、決して諦めない男が残っている。神に最後の挑戦状を叩きつける背中を静かに見つめ、トールと共に拳を握る。

 

 

「まずは、その幻想をぶち殺すッ!!!!」

 

 

 上条の誓い、上条の必死。上条当麻の物語。

 

 その一ページを脳裏に刻み、一〇の『弩』が世界に放たれ、上条の右手が神を掴む姿を見る事は叶わぬまま目の前に暗幕が落ちる。ただきっと、悪い結果にはならないと緩む口元を変える事はできず、最後に見た輝きを追って、握っていた意識を手放す。

 

 

 意識を失った暗闇の中でふと、オティヌスの感謝の言葉を聞いた気がした。

 

 

 

 

 




ここまで読んでいただきありがとうございます! 次回は幕間です。

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