「……やっぱりねぇ」
第七学区、教員向けのマンションの一つ。その一室こそが
ベランダに周り火災時に避難の為ぶち開けられる薄いしきりを乗り越えたところで、「だっこして?」と息を切らせて手を伸ばしてくるコーラ=マープルの声が背を叩いた。食蜂さえ乗り越えられるしきりすら乗り越えられない脆弱さ。これでは肉壁としての役割さえも果たせないのではないかと頭を痛めながら腕を手に取り引っ張れば、そのまましきりの上から転げ落ち、食蜂を下敷きに着地する。
「……私が言えたことではないけれどぉ、あなたその運動能力の壊滅力どうにかしようと思わないの?」
「そもそも運動しようと思わないからねぇ〜」
「私の上で寝転がらないでくれる? それよりも先に言うことがあるんじゃないかしらぁ?」
「食蜂ちゃんの上快適! 柔らか〜いの!」
「ぶっ飛ばすわよ?」
勿論そんな筋力食蜂にはないのだが、コーラに限って言えば、食蜂もぶっ飛ばせそうな気がしてくる。年齢にそぐわない幼さと体重の軽さを持つ綿菓子少女。食蜂が拳を握るのを横目に、コーラは気怠そうに身を起こすと、抱き枕を引き摺りながら立ち上がる。『ところ天の助』と名を書かれた青く四角い不気味な抱き枕は何でできているのか、引き摺っても解れてしまったりしない。
「……その可愛くない抱き枕いつまで持ってるのよ。だいたい何のキャラなのかしら?」
「多角的に世界を見るわたちにしか見えないものがあるのだよぉ〜。娼館に来れば他の子達にも会えるよぉ〜? 『ボン太くん』とか、『コロ助』とか、『バルカン300』に『ジャスタウェイ』、『ゆっくり』とかね!」
「よく分からないのだけれど、あんまり見たくはないわねぇ」
「えぇ〜? 可愛いのに」
コーラの抱き枕シリーズの要らない情報はさっさと放り捨て、敵の腹の中でありながら、緊張感の薄いコーラの所為でどうにも食蜂の気が抜ける。結局ここまで連れて来てしまったが、食蜂以下の体力を誇るコーラにいったいなにができるのか。頭が回るのは確かなようでも、信用もそこまでできそうになければ、役に立つのかも分からない。
ここまで来たなら、後は寧ろ統括理事会の一人のブレインなどをやっている雲川の気だけでも引ければいいと、兎に角部屋の中へと足を踏み入れ、センサー塗れの玄関を見て、手に入れた情報通りの罠塗れの姿に食蜂は肩を竦めた。
それに合わせて食蜂操祈の携帯が震える。
特に表示される名を見る事もなく食蜂が携帯に出れば、返って来たのは想像通りの相手の声。
『おいおい、いきなりご挨拶だけど。名門常盤台のお嬢様というのはみんなそんな感じなのか』
「どこの、誰と、一緒にされているかは聞きたくもないんだけどぉ、ここで逃げ出したって事はやぁーっぱり後ろ暗い事情力があるって受け取っても良いのかしらぁ?」
『無数のリモコン振り回して好き放題する『
「そう……あなたは知ってる訳なのね。この物臭な小人のこと」
『こういう生き方をしていれば、ある一定のラインを超えると必ず店の名が出てくる情報屋だからね。それを知り、目をつけられてご愁傷様と言いたいところだが、その必要はないかもしれない』
食蜂と電話の会話を気にする事もなく、部屋のリビングに仰向けに寝転がって赤っぽい瞳を泳がせるコーラを横目に見る食蜂の目の前を、赤い光点が滑り、食蜂の胸元で動きを止めた。レーザーポインター。狙撃の印に強く顔を顰める食蜂の耳に、焦りの見えない変わらぬ雲川の声が流れる。だが、その声を掻き消すように気怠そうな声がリビングに溢れ、食蜂の意識を携帯から己へとコーラは引き剥がす。
「それはオススメしないかなぁ〜」と気怠い声が。
「雲川ちゃんに狙撃の技術がないのもそうだしぃ〜、そうなると誰か用意しなきゃならないわけだ。人的資源プロジェクトで貸しのある時の鐘だとしたら生憎アレは入院中だしぃ〜、そもそも殺しにやって来ている訳でもない一般人をあの傭兵達は撃たないしねぇ〜。何より食蜂ちゃんにもアレは貸しがある訳だし。そうなると残りは誰でしょぉ〜? 雲川ちゃんの言うこと聞いて、尚且つ控えている食蜂ちゃんの派閥の能力者に気付かれずに位置取れる者となると限られる。人的資源プロジェクトでもう一人、貸しのある陰陽師を使ってるのだとしたらそれもバッテン。そんな使い方をして、わざわざ『シグナル』と『時の鐘』の好感度を下げるのは勿体ないからねぇ〜」
喋りながらゴロゴロとリビングの中をコーラは寝転がり、ベランダに続く窓に近寄ると足で窓を閉めた。ぴしゃりと音を立て閉まる窓の音に食蜂の持つ携帯から小さな舌打ちが溢れる。
「それにこれで狙撃は無力化完了なのら! ここが腐っても雲川ちゃんの隠れ家ならぁ〜? 窓は当然防弾仕様って感じ? それも生半可な強度じゃないよねぇ〜? なんて言っても統括理事会メンバーの頭脳ちゃんだもの。ねぇ食蜂ちゃん、わたちが話してる間、いつ雲川ちゃんの話は止まったか聞いてもいぃ〜い?」
「えっとぉ……あなたが話し始めてすぐかしら」
「じゃあ雲川ちゃんはこの部屋にいるね。もしくは隣の部屋かな。隠しマイクの類があるなら、隠しスピーカーもあるはずだしそこから話し掛ければいい。わざわざ盗聴の危険性もあるのに携帯に電話を掛けて遠距離をアピールする必要はないって感じぃ〜? でもわたちの話を聞いてすぐに口を閉じちゃったならぁ〜、それでもう幾らか居場所の答えは絞られるしぃ〜。ね?」
コーラが仰向けに転がり動きを止め、食蜂に向けて目を向ける先。食蜂の背後で影が動く。その気配に慌てて振り返った第五位の前に立つ、携帯を握る『ブレイン』が一人。忌々しそうに舌を打って携帯を閉じると、携帯を閉じる食蜂と、笑みを浮かべるコーラへと続けて目を流し目尻を歪めた。
「とんだ厄ネタを連れて来てくれたな『
「それもオススメしないかなぁ〜、わたちが急にここで死んだらそれが引き金。『インディアンポーカー』を使って見せる快適な夢にサブリミナル効果でトラップを刷り込んでるからさぁ〜。わたちが解除する前にわたちが死ねば、ありとあらゆる知られちゃまずい情報が世界に溢れちゃうよ? これは善意の忠告さ」
「何が善意だ気味の悪い。それで何の用で来た? 偽善の旗を掲げるお前が争い事に自ら突っ込むとも思えないが?」
腕を組み、片眉を上げる雲川へと浮かべた笑みを崩すことなく、コーラは手で食蜂を指し示す。都市伝説が本当で驚きなどと言っていながら驚いた様子も見せない雲川は、隠れ家周辺にばら撒いていたカメラで事前に食蜂とコーラの会話を見聞きしていたが故。
それを思えばこそ、表面的には険悪な顔をしてはいるものの、雲川はそもそも食蜂と自分を殺すつもりはないとコーラは当たりをつける。この場にいる誰しも、ただ一方的に殺してはデメリットの方が大き過ぎるからこそ、同じようにコーラも牙を剥く事はない。雲川もまたそれを察していながら顔には出さず、コーラも表面的な笑みは崩さず、雲川が指を弾きレーザーポインターの光が消えた。表向き険悪な空気に食蜂は眉を潜めつつ、話の形になったならとリビングのソファに腰を下ろす。
「……一年前の夏、彼の話よ。お恥ずかしい事に、私は今、自分の記憶が正しいのかどうかに自信力がない状態になっているんだゾ。だけど同じ過去の時間の中で、同じ彼と行動を共にしていたあなたの証言があれば、私の過去が是か否かの参考にはなるんじゃないかしらぁ」
『彼』が誰を指すのかは言うに及ばず。その名を口に出さずとも雲川の肩が小さく跳ね、続けてうんざりと顔を歪めて食蜂の対面のソファに座ると足を組んだ。
「なるほど、それで私が疑われた訳か……だがその質問には意味がないけど。私とお前は、共に彼と同じ過去の時間を共有している。しかし一方で、私達は彼という共通の知り合いを持つだけで、互いのプライベートには踏み込んでいないはずだけど。私の事件をお前は知らないし、お前の事件を私は知らない。なら、答え合わせは成立しないけど」
食蜂は雲川の話に舌を打ちつつ首に掛けていた銀色の防災ホイッスルを取り出し心当たりを聞くが、雲川から有益な情報を得られず『物的証拠』にもなり得ない。そうなると後は上条本人に確認するしかないのであるが、「それはオススメしないかなぁ〜」と変わらぬ調子で食蜂と雲川の座るソファの間から気怠い声が立ち上った。
「下手に火の粉を振り撒けば今回はややこしくなるだけだよぉ〜。ただでさえ今病院にいる彼らは注目の的だしね。記憶が不確かだからと聞いたとして、誰かさんに『
最もらしい事を言いながら、しれっとコーラは己が為の布石を打つ。上条当麻が動く動かないはどうでもいいが、『時の鐘』に動かれるとただただ面倒。暴力としては優秀でも、必要以上に悪目立ちする。それに加えて『シグナル』という名が兎に角邪魔だ。
「『新入生』さえ叩き潰し、
「……それもまた善意の忠告なのかしらぁ? それで私の疑心が晴れたとしても?」
「またまたぁ、食蜂ちゃんも分かってるでしょぉ〜? それが食蜂ちゃんにとって大事なものだという事は分かるけど、本当に気にするべきは、記憶が本物か、ではなく、誰が裏で手を引き手を出して来たか。恋は盲目って言うけれどぉ〜、それで周りが完全に見えなくなっちゃうほど、やわじゃないでしょ食蜂ちゃん。結局黒幕を叩き潰せば、記憶の真偽も分かるんだしね」
「その黒幕が分からないから困っているのだけれど……」
何より大事な思い出に手を出され、頭に血が上っている事もそうだが、それで全貌が見えぬ程に視界の狭まる食蜂でもない。なんであれ、手を出して来た黒幕はきっちり叩き潰す。食蜂の答えに、コーラは頷くと、うつ向けに転がって、自分の首の後ろを指で叩きながら、食蜂に向けて笑みを送る。
「黒幕は未だ分からなくても、何をされたかは分かるんじゃないかなぁ〜って。食蜂ちゃんの首の後ろに付いてるそれ。それが答えへの手掛かりじゃない?」
「……首の後ろ?」
「失礼するよ」
言うが早いか、雲川はソファから立ち上がると、食蜂の背後へと回り込みその首筋に目を這わせる。食蜂もまた首の後ろに手を回し、指を伸ばしたところで、指に何か小さく硬い物がぶつかった。その小さな機械に雲川は目を細めると、『
「はぁ……いるんだ。基本スペックが高い能力者になると、力のごり押しで大抵何とかできてしまうもんだから、自分の能力の細かい抜け穴のチェックを怠るヤツが。彼にボコボコにされるパターンだな」
「……あなたすぐにこれが口から出て来たって事は、私におぶられていた時にはもう気付いてたわね? なんで言わなかったのかしら?」
「言ったでしょぉ〜? 情報に対して必要なのは納得なの。どれだけ情報が正しくても、納得しなければ価値はない。雲川ちゃんが黒幕だと思い動く食蜂ちゃんにまずはそれは違うと納得して貰わなきゃ。先にそれを教えていたとして、雲川ちゃんに会う前の食蜂ちゃんは、雲川ちゃんがそれを埋め込んだ可能性が高いと考えると断言してあげちゃう」
「……ほぅ、つまりお前は『
「そうなるね!」
「ぶっ飛ばすぞ」
「なんでぇ〜⁉︎」
例えそれが必要な事であったとしても、揺れ動く感情は別物だ。また性懲りもなく勘違いで突貫され、雲川が面白いはずもないが、これも普段の行いか。ただそれを分かっていて見過ごされたとなれば話も別。寝転がっているコーラの筋肉のないマシュマロのような体に雲川は足を這わせて体重を掛ける。
「雲川ちゃんの疑いを晴らしてあげたのにぃ〜、ぐえぇ〜、中身が出るぅ〜」
「……これだけ筋肉もなく、普段から寝転がっているだけなのが見るからに予想できるのに余計な脂肪がないのはなぜだ?」
「踏みながら何を確認してるのさぁ〜! 食蜂ちゃん助けてぇ〜!」
「今のうちにあなたはもう少し踏まれていた方がいいんじゃないかしら? それより早く首の後ろのものを取って欲しいのだけれどぉ」
浜に落とされたクラゲのように手足を伸ばし床に伸びるコーラから雲川は足を下ろし、ため息を吐きながら食蜂の背後に回ると、その首の裏に貼り付いている数ミリ程の機械を摘み取る。ずるずるずるずる。手を引く雲川に合わせて、食蜂の体の内から抜け出る何か。いったいいつ埋め込まれたのか分からないが、その体内を滑る言いようのない感覚に強く眉間に皺が寄る。
「機械系に滅法弱いお前の弱点を突かれたな。取れたぞ」
そう口にする雲川の言葉を追って食蜂が振り返れば、引き抜かれたそれが目の前で揺れていた。本体と思わしき数ミリの機械から伸びる髪の毛よりも細い繊維状の『何か』それがなんであったとしても、体内に入っているとしては長過ぎる代物に、寄生虫でも見るかのような嫌悪の目を食蜂は浮かべる。食蜂の体内に入っていた奇怪な異物から雲川がコーラへと目を落とせば、仰向けに寝転がったコーラの目が異物を捉えて小さく頷いた。
「うん、『ストロビラ』だねぇ〜それ。能力開発に強く関係する脳をいじらずに、人間の精神を高精度で操るための基礎研究の産物。心臓の刺激によって各部から分泌されるホルモンの量を調整する事で、脳に一切触れずに精神を操る装置だよぉ〜。我が娼館にいるおばさんのお仲間みたいな機械だねぇ〜」
「……ああ、そういう事ねぇ」
「……腐っても情報屋だな。だとすると、さっきの繊維、お前の心臓に届いていたのか」
ほいほいと必要な情報を投げ寄越してくるコーラに雲川はより目を細める。腕力や運動能力さえ壊滅的ではあるが、その頭の中に詰まっている膨大な情報が何よりも危険だ。何をどこまで知っていて何を知らないのか。底の見えない力ではなく、底の見えない思考にこそ警戒をするが、何も考えていないかのように寝転がり笑みを浮かべる小さな少女を見ているとただただ力が抜けてくる。その容姿や喋り方さえも相手を油断させる為のものだとすれば、それこそ抜け目がない。
「この『ストロビラ』を直接開発した研究機関周りか、そのデータを盗み見る事ができる人物を洗っていけば、小細工を弄した下手人に辿り着く事もできるだろうけど」
「そうねぇ。それについては純粋力で感謝しているわ」
お互い後ろ暗いものがあるもの同士、『悪かった』などと易々言う事はないが、感謝ぐらいはする。「あなたもね」と雲川に続きコーラに落とされた食蜂の笑みは薄く、ここまでやって来た時の気迫や覇気に欠けていた。
「……でも、実際に私の体にこいつが取り付けられていたっていう事は……」
「ああ。あまり、こういう事を言う趣味はないけど」
「良いわよ」
「『ストロビラ』かその亜種が実際に装着されていた以上、お前の記憶や言動の信用度はかなり怪しいと見るべきだけど」
それが全て。よたりと食蜂はソファに凭れて深いため息を吐く。黒幕に制裁を加えるよりも何よりも、全ては幸せな思い出が偽物ではなく本物であると信じたかったから。
それがここで途切れてしまった。
思い出は偽りだった。
途切れた真実に強い無力感が襲い、どうにも体に力が漲らない。黒幕を叩いたところで嘘は嘘。存在しない記憶に対して怒りも薄く、偽りだった事実こそが何よりも重く食蜂の心にのしかかる。
「どうする? 一方で、『ストロビラ』が外れた以上、お前はすでに黒幕の思惑の外にいる。この先も狙われるかは別問題だけど、当面最大の危機は脱しただろう。進むか、引き返すか。自分で選んでみたらどうだ」
「そうねぇ、ここから先の事は自分で考えてみるわぁ」
そう返して食蜂操祈は雲川芹亜の住む教員用マンションを後にした。深夜となった学園都市の街並みに足を伸ばし、重々しい足取りで歩き続ける。そのゆっくりとした動きにコーラが足をちょこちょこ動かしながら隣に並び、抱き枕を抱き締め食蜂を見上げた。
「あなたもありがとね。もうついて来なくてもいいわよぉ」
「う〜ん、それはだねぇ〜」
「女王」
抱き枕に耳を押し付けるようにして唸るコーラの言葉を塗り潰すように、スッと音もなく二人の横から縦ロールの少女、帆風潤子が現れ声を掛けた。律儀に食蜂のお願いを守り今まで待機していた少女は、ため息ばかりを零し歩いていた女王の覇気ない姿を心配して顔を歪めながら隣に立つ。
「お顔が優れませんが、いかがなさいました……?」
「いえ、大丈夫よ」
「何かトラブルがございましたら、わたくし達に一言、やるべき事だけを仰ってくださいませ」
「そうねぇ。生憎、今は一人がベストの選択なの。本当に必要になったら、その時は遠慮なく『命令』するからそのつもりでねぇ」
そう言って食蜂は夜の街へと歩き続ける。立ち見送る帆風は何もできない事に歯噛みするが、その背をコーラは手を伸ばしぽんと叩くと、グッとサムズアップしてトテトテ食蜂の後について行く。『命令』を聞く駒ではなく、誰の言う事も聞かない『
「……あなたにお任せしてもいいと?」
「内ではなく外にいる者にしかできない事もあるのだよ女王蜂の
「しょ、娼館⁉︎」
初々しく顔を赤くする少女には笑みと共に手を振って、先を行く食蜂の後を追う。トテトテトテトテたったの少しの歩みで汗を浮かべて。怠い。面倒臭い。心の底から湧き上がる強い衝動に舌を打ちつつ、追い付かない食蜂を目指し歩く。
足を止め、ハンドバッグからリモコンを取り出し己が頭に突き付ける食蜂の下へと。
「それは、オススメ、しないかなぁ〜」
ようやく食蜂に追いつきそれだけ言って、コーラは汗だくの体を食蜂の隣に転がし大きく肩で呼吸をする。善意からの忠告。親切の押し付けを横目に見下ろしながら食蜂は大きなため息をまた一つ零し、リモコンを頭に押し付けたまま口端を歪める。「まだなにか用?」と不機嫌を隠さないビーハイブの女王の低い声に眉を潜める事もなく、コーラはいつものように言葉を紡ぐ。
「『忘れる』事は大事だけどぉ〜、それが全てじゃないかなぁ〜って」
「……あなたに何が分かるの?」
「さて? わたちはお客ちゃんが気付かない事を告げるだけ。食蜂ちゃんの記憶が確かじゃないとしても、不可解な点が残っているのは食蜂ちゃんだって分かってるでしょぉ〜? 例え偽りであったとして、植え付けられたのがなんでその記憶なのか。なぜ上条当麻? もっと植え付けるにしても何かありそうじゃないかね」
「例えそうだとしても…………まだ私はコレを抱えていなければならないの? 偽りの記憶を偽りじゃないかもしれないと盲信して? そんなの……」
「例え偽物でも、食蜂ちゃん、うぅん、操祈ちゃんが本物だと信じるならそれは本物だよ。偽物だと思っても、偽物じゃないと信じたいなら。一方的に思い出を消しちゃうのは……そんなの快適じゃないもんね」
「じゃあ……どうすれば良いって言うのよ」
ビーハイブの女王の問いに『
目を丸くする食蜂の前にストレッチャーが蹴り出され、目の前を通過し建物の外壁にぶつかるとそのまま転がった。開け放たれた背部ドアから伸びる長い足。それが地に落とされると、続いて亜麻色の髪が外へと出てくる。白衣では隠し切れないプロポーションを振り撒いて、整った顔で熱っぽく微笑む美女の顔が女王の顔を覗き込み、その額に燃えるように熱い手のひらを添えた。
「あら、お嬢様、大分体温がお高いですねェ。これはいけません。住所不法侵入に深夜の徘徊。ホルモンバランスが崩れているようでねェ。悪い子ですねェ。でも大丈夫。私達『即応救急』にお任せくださいませ。しっかりと『学舎の園』までお届けいたしますわ」
「キモいんだけどおばさん」
コーラの一言を受け、温和な顔で食蜂の額に手を添えていた白衣の女は表情を豹変させると、食蜂の額から手を放し、コーラの顔を覗き込むように睨み付ける。体の火照りを怒りに変えて。
「誰がおばさんだオメーなァッ‼︎ 働いて来た奴に言う事じゃねェよなァ? クソ餓鬼。もう少し合わせろ! 後ちょっと頑張れば女王蜂が股を開くかもしれねえだろうが‼︎」
「キモい。必死なのがキモい。あと無駄に熱っぽくて熱っ苦しいから離れてくれるぅ〜?」
「そんな事はいいから早くしてくれないかしら? 貴女もよ『
「海美ちゃ〜ん! お疲れなのら!」
車の助手席に座る
「ほら、足元に気を付けろよな。うちが後部座席までエスコートしてやる。必要ならその先もなァお姫様」
「いや、おばさんは運転だから。エスコートじゃなくてハンドル握って」
「オメーマジで空気読めよ」
「すごい読んでると思うのだけれど私は」
「い、いやあのちょっと? あなた達……」
「ようこそ操祈ちゃん。電脳娼館
止まるステーションワゴンを路地の奥から睨み付ける影があった。背に日本刀を隠した男の影。車へと乗り込むメイヴィスと食蜂を見送り、扉が閉まろうとするその刹那、闇の中から大きく足を踏み出した。
メギリッ!!!!
その男の顔面に拳が沈む。建物の壁を擦り抜けて突き出された拳が男を捉え、壁へと弾きそのまま壁を削りながら路地の奥へと転がし飛ばす。顔面から血を滴らせて呻き男は立ち上がろうとするも視界が覚束ずに足が滑り、そんな男に目を落とす事もなく、男を殴った影は不慣れな手つきで耳に掛けたインカムを手で抑えた。
「おぅ、確かにいた。アンタの言った通りだったぜ星の嬢ちゃんよ。にしてもよく見えんなアンタ」
『まあいる場所がいる場所だからな。
「ああ良いぜ。好きなだけな。そこは当主としてなんとかしてやるよ。最悪俺が直接出向けなくても、月の剣豪にでも届けさせてやるぜ、現代のかぐや姫よぅ」
『……それ大丈夫なんだよな?』
『一応映像で顔合わせはしているがよ。アンタ私を見て何か思うこととかねえの?』
「別にねえ。強いて言うなら苦労すんなお互いって感じか? 『特別』なんて別に欲しくはねえよなあ? 『普通』が一番だぜ。コンビニで立ち読みしたり、カラオケ行ったり、遊園地行ったり、その方がずっと良いに決まってらあ」
『くくくっ、山籠りと死闘の果てに今も刃を握ってる奴の言う事がそれか?』
「勿論、それこそが俺の夢だぜ」
楠は即答し、北条の剣士が立ち上がり刀を引き抜くとする先に一歩で詰め寄ると、柄の先に手のひらを添えて差し押さえて動きを止める。若干つんのめる男の顔に肘をカチ上げ、より路地の奥へと転がした。
「星の嬢ちゃんくらい声も良けりゃ、カラオケ行ったら楽しいだろうさ。俺行った事ねえけども。やる事終わったら宴会として一緒に行くか?」
『はッ! 夢みたいな事言いやがる! 私が行けると思うのかよ?』
「必要なら俺が連れ出してやるよ。夢ってのは叶えなきゃ嘘だぜ。死ぬ時後悔はしたくねえからなあ。どうだ? 楽しみが控えてた方がやる気も出んだろ」
『……まぁ、行けたら行ってやらなくもねえけど? ……行けたらな。この見た目で行けるとも思えねえけど』
「大丈夫だろ。俺の知ってるかぐや姫は大岩を拳で砕くケチ臭え奴だ。世界一美人てのは否定しないでいておいてやるが、星の嬢ちゃんに変なとこなんて別にねえよ」
『私も分かった。アンタの感性は当てにしない方がいいらしいって事がな』
呆れ切った郭夜の苦笑混じりの言葉に楠は肩を竦め、路地の奥で蠢く影を見つめてギザギザした歯を擦り合わせる。防犯カメラもないような路地の奥に男を押し込み切り、肩を回して骨を鳴らした。
「ここまで来ればいいだろうもう」
『表付近でも別に問題ないだろ。『
「花冠の嬢ちゃんな。まさか
「と、当主ッ」
鞘から刃を引き抜く剣士の姿に、楠はより強く歯を擦り合わせた。学ランの内側、背に背負った刃達に手を伸ばす事もなく、ズボンのポケットに手を突っ込むと大きな、それは大きなため息を吐き出す。呆れ。落胆。怒り。どれでもあってどれでもないような重苦しい吐息に北条の剣士は刀を握り込み構え、それを目に足を下げるはずもなく、寧ろ一歩楠は足を前へと伸ばす。
「テメェらなぁ、俺に好き勝手突っ掛かってくる分には構わねえ。一族丸ごと敵に回しても構いやしねえ。ただ、ただそれだけは許せねえな。北条の技を振るっていい相手は、突っ込んで来る馬鹿野郎や、月の使者に向けてだけよ。道端で振るって何がしてえ? 勘弁しろよなくそったれッ、俺が過ごすはずの普通の世界がテメェらの所為で普通じゃなくなったらどうしてくれるんだ?」
『利己的だね』
「うるせえ、低俗上等だ! だいたい」
「ッ、当主! その首貰い受けるッ!」
「北条の技を一番振るい、一番身に受けて来たのは誰だと思ってんだくそったれ」
楠が先代と刃を合わせること一年のうち三百六十五日。一年二年では足りず、毎日毎年、打ち据えられ、蹴飛ばされ、殴られ、斬られてきた。毎日毎日剣を振るう。いるのかも分からない月の使者に連れ去られたなよ竹のかぐや姫を月から取り戻す為に。何人、何十人もの当主が積み上げ築き上げて来た北条の技術。その旅路、およそ一三〇〇年。透ける刃を透ける技術で捉え、振られる刃を足で横殴りに楠はへし折り、下がろうと足を踏む剣士の足を、蹴り上げた足を落として踏み付け縫い付ける。
「北条なら下がんな阿呆。俺らの技はビビったら負けだぜ」
「き、さまッ」
「貴様じゃねえ。俺は楠。
「ッ⁉︎」
防御しようと折り畳み前に出した北条の剣士の腕を物理的に透け抜けて楠の拳が男の顔を殴り飛ばす。『トンネル効果』。無限分の一の確率を手繰り寄せ、刀どころか人体さえも透過させ、突き進むのは当主だけ。危うく不確かで不明瞭な北条の神業。その一三〇〇年に渡る技を完成させた男こそ、北条家第百三十七代目当主、北条楠。防御不可能の完成形。月の神にさえ届き切り裂く刃。同じ技でも練度も質もまるで異なる一撃に、大地に転がった男は手から刃を落とし動かない。
「俺を一方的に殴れるのは本気になった巫女さんぐらいのもんだ。
「と、当主、俺の、名前ッ」
「当主だぞ。一族全員の名前くらい覚えてるに決まってんだろ。十六代目が日記に当主の心得とか書きやがったからなくそッ。他に言う事あるか?」
「…………お見事、で、ございまする。当主、様ッ」
それだけ言って意識を手放した男から視線を切り、楠は頭を粗雑に掻き身を翻す。男を学園都市の外にほっぽり出す作業は
「次だ星の嬢ちゃん。先に
『一族の当主が借金持ちとかどうなんだよそれって感じだな。兎に角このまま『
「頭脳労働担当ね。俺からすればアンタらの方が凄いと思うがな。まあ、その前にちょっとコンビニに寄って行こうぜ」
『またかよアンタ⁉︎ 一人殴る度に寄ってんじゃないかよ!』
「いいだろうが別によ! ご褒美だ! こっちのかぐや姫もケチ臭えな!」
『ちっ、仕方ねえ。その代わり少女漫画を私にも立ち読みさせろ。ちゃんとカメラに向けろよ。じゃなけりゃ見えねえ』
「またあれやるのかよ……また店員に怒られるッ」
数分後、とあるコンビニで防犯カメラに少女漫画を向けながら立ち読みしている異様な男が通報されたのは言うまでもない。何故かその通報は歴史の裏に葬られたが、花冠を頭に乗せた
Queen×3 篇の他のキャラの日常は誰がいいかなアンケート。上から幾つか採用します。
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第六位と『強欲』
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黒子のスキルアップ教室
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トールがお見舞いに来やがった
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第七学区立柵川中学 初春、佐天、黴家当主
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他のッ!