時の鐘   作:生崎

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載舟覆舟 ⑦

「あ、あの、なんだか皆さん、今日はもうお休みするみたいなんですけど……」

「そうかよ、学生の癖して勤勉なこった。学生ってのは夜更かし上等の代名詞じゃなかったかぁ?」

「あ、あはは、は……」

 

 とあるボロいアパートの一階の側面の壁を背に座り、どこで売っていたのか瓶コーラを手に持つエルキュール=カルロフの冗談じみた言葉に、パトリシア=バードウェイは乾いた笑みを返した。

 

 銭湯を上がってから、パトリシアの抱えている問題と、それを気にする上里翔流(かみさとかける)を全スルーして、やれ『腹が減った、飯にしよう』だの、『なんか疲れた、今日はお休み』だの、上里を取り巻く女性達は大した度胸とでも言うべきか、全く自由奔放だ。

 

 そんな上里勢力の中で、輪の中に入っているように見えて全く我関せずと振る舞う男が一人。銭湯から上がり、料理を作る事になって駄目になりラーメンを食べに行くとなっても、『そんな量じゃ足りねえ』と一人別行動し、今もまた同じ。パトリシア同様に上里達との繋がり薄いらしい北条八重も浮いてはいるが、エルキュール=カルロフは群を抜いて酷い。

 

 唯一パトリシアの目から見てカルロフと仲が良さそうに見えるのは上里のみ。少女達とは悪態をぶつけ合うだけで、建設的な話など微塵もなかった。そんな中でカルロフの立ち位置がいまいちよく分かっていないパトリシアが伝令役を頼まれたのは、少女達の興味が上里にしかない以上当然の流れであるのだが、困った事にパトリシアもカルロフが得意という訳ではない。

 

「あ、あの」

 

 他の者達はもう休みと一度パトリシアが告げたにも関わらず、カルロフからは全く動く気配を感じられない。これまでを思えばこそ、カルロフが馬鹿正直に『よーし、じゃあ一緒に寝ようか!』などと友好的な台詞を吐いたりしないだろうとパトリシアも予測はできるが、それにしても反応が薄い。出会った時よりも尚、少女達が日常に話の矛先を向け始めてからより一層。

 

 怠そうにカルロフはコーラの瓶の中身を飲み干し、ゴミ箱に投げ捨てる事もなくパトリシアの前で粉々に空瓶を握り砕き、キラキラとした硝子の破片が若干張り付いた右手を軽く振った。

 

「話は分かった。いつまで突っ立ってんだテメェは? 寝んなら勝手にさっさと寝ろ。一々オレの許可が必要だとでも?」

「えと、あの、あなたは?」

「昼も夜も関係ねえ。闘争の切符は既にあんだからなぁ。オレの最優先はそれだぜ? 暇潰しも悪くはねえが、今は寝てる時間が勿体ねえ。それで? テメェはどうすんだ?」

「私ですか……?」

「他に誰がいる?」

 

 背丈の高いカルロフは、見上げる事もなく座ったまま目の前のパトリシアへと顔を向ける。それで目線の高さが合ってしまう。退屈そうな視線の色を向けられ、パトリシアは一度ボロっちいアパートの二階へと顔を向け、カルロフへと目を戻した。

 

 カルロフに問われた事で、今一度パトリシアの中で違和感が浮上する。なんだかんだと善意や好意を向けられ、食事の時もこれから寝るという時も、パトリシアが一緒なのは最早当たり前といった風な空気感。

 

 今日出会ったばかりなのにも関わらず。それを居心地悪いと思わないまでも、パトリシアが彼らを信用していないにも関わらず。

 

 その噛み合わない違和感が、集団の中で浮いているカルロフからの問いに思い出される。パトリシアが彼らと行動を共にしているのは、勢いに流されただけであって、出会ってからパトリシアの抱える問題のもの字程しか進んでいない事を思えばこそ、今からでも部屋に戻らず姉を探して学園都市の街へと走っても問題ない。

 

 それをしないのは、他でもなく輪の中の空気感が悪くはないから。あるとすればパトリシア側の問題。『助けてくれる』と言う相手の好意を甘受しているだけ。でありながら、信用し切れない今がある。浮かび上がった葛藤は拭う事はできず、パトリシアはアパートの外階段へと足を向ける事もなく立ったまま動きを止めた。

 

「あの人達は……」

「オレの知った事じゃねえ、物好きな奴らだ。暇潰しに一生懸命でなぁ」

「あなたも?」

「奴らとは暇潰しの種類が違え、テメェともなぁ。寝んならさっさと行け、突っ立ってられると目障りだ。それとも部屋に投げ込んで欲しいのか? どれでもねえならどれでもねえで座るかどっか行くかしろや。中途半端が一番うぜえ」

「……どこかに行っても」

「構わねえぜ、オレも付いて行くがなぁ」

「な、なんで?」

「テメェの都合なんてどうでもいい。オレはオレの都合でしか動かねえ。言っただろうが、テメェは闘争への片道切符よ。オレが奪ったんだからオレの好きなように使う」

 

 初めて顔を合わせた時と同じ。善意や好意を押し付けてくる上里達とは違う、闘争を追い求め、それ以外は暇潰し。気を遣っているように、優しくしてくれているように例え見えたとしても、カルロフにとってそれは闘争の場を整える準備以上の意味はない。

 

 対応が似ていても根本の過程が異なる。カルロフからパトリシアが感じる空気感は、善意や好意ではなく、寧ろ悪意に近い。パトリシアが悩み悩んで頭と心を痛めている問題をまるで問題視していない。

 

 南極で唐突に正体不明の生命体かも分からぬ怪物に寄生され、憐れみを受け取れる被害者として優しさを受け取れる立場にパトリシアはいる。パトリシアの境遇を知れば、多くが可哀想と目を細めるだろう。そんな中で、パトリシアはその優しさ故に命さえ掛けてくれている姉や優しい誰かの好意諸々を無視して、己が我儘を優先しようと考えていた。

 

 が、カルロフにそれは通じない。

 

 そもそも、パトリシアの事を憐れんでも可哀想とも微塵も思っていないから。百均の便利グッズくらいにしか思っておらず、謎の技術を用いて命を削っている姉を助けたいとか、その結果自分は死にたくないだとか、パトリシアの想いは全無視し、全ては闘争までの場を彩る前菜(オードブル)

 

 パトリシアといるだけで、寄って来るだろう闘争の形になる者がいると分かっているから。パトリシアが善意の手を振り切って逃げようが、カルロフはパトリシアを逃さない。逃げられない。少女の身の内に燻る怪物の力をもってしても。

 

 故にパトリシアは部屋へと戻らず、またカルロフの隣に腰を下ろす事もなく立ち尽くす。その姿にこそ『強欲』は舌を打つ。

 

「うじうじうだうだ面倒くせえ、んだテメェは? そうやって突っ立って誰かに気にされんのを待ってんのか? 馬鹿馬鹿しい、くだらねぇ、欲しいものがあんならなぜ手を伸ばす事をしねぇ?胸の前で手を組んで差し出されるまで待つペットかテメェはよ?」

「別に私は……ッ」

「あぁ言えてんぜ。優しくすんのはテメェらの勝手、ボランティアご苦労様ってなぁ? 腹の底で渦巻く欲がある癖に、いつまで狸寝入りしてんだぁ? テメェは何を迷っているフリなんかしてやがる?」

「フリとかそんなッ!」

「嘘を吐き捨てんな捻るぜ? ならテメェはなんで赤いボロ布と闘った?」

「それ、はッ」

 

 言葉に詰まり一歩足を引いたパトリシアの前で、カルロフは巨体を持ち上げた。

 

「欲するものがあるからこそ、闘争という形が成り立つ。どこぞの聖人みてえに優しさも苦しみも受け入れて身を預けるイエスマンならそもそも闘争なんて巻き起こらねえ。あんだろうテメェの欲が。それを違うと宣うようなら、なぜ拳を握りやがった?」

「だってそんなのッ」

「反論しやがったな? 内容はどうでもいい。ならそれがテメェの欲するもんだろうが。それには誰の意見も必要ねえはずだ。欲ってのはそういうもんだ」

「だからって、だからってッ‼︎」

「だからなんだ?」

 

 荒ぶる事もなく、ただただ淡々と言葉を紡ぐカルロフはブレない。百や千、万に及ぶ最もらしい理由や葛藤を述べたところで、カルロフには響かない。それが手放せない欲から来る付属品であると見据えるだけに。

 

「なんであなたはッ」

「なんでなんでと駄々っ子かテメェは? 欲するものを奪う事が不可能だと思うなら、可能になるまで奪えばいいだけの話」

「でもそんなのはッ」

「嫌われるのが怖えのか? 怒られるのが怖えのか? 失敗を恐れるか? それとも成功をこそ恐れるか? 必要のねえ恐怖だぜ。結局はどれも力で奪えばいいだけだ。言い訳の存在しねえ真正面からの力技で奪っちまえば、泣き言ぐらいしか返っては来ねえ。狡いだの、悪いだの、喚きたい奴に喚かせとけばいいだろうが」

「そんなのあなただからできる事じゃないですか!」

「あぁオレにはできる。ならテメェはやらねえのか?」

 

 大きな手の人差し指に軽く胸を突かれ、パトリシアはその場に尻餅をついた。目に見えて分かる暴力の化身。筋肉と言う名の力の象徴。パトリシア何人分はあるかという肉の塊とはそもそも規格が違うのだ。そんな色を覗かせる少女にカルロフは大きく舌を打った。「気に入らねえ」と吐き捨てながら。

 

「オレを諦めの理由に使うんじゃねえ、欲がブレねえ以上、どんな理由並び立てようが上っ面でしかねえ癖によぉ。オレが初めからこうだったとテメェらは思ってやがるのか? 今目にしているオレが完成品として変わらず生まれ出たとでも? ふざけろボケが。羨むぐれえなら教えて(うばって)やる。奪い続けてきたから今のオレがあるんだぜ」

「……奪うって、何を?」

「勝利をだ。クソ餓鬼の頃に売り払われた地下格闘場でオレは勝利を積み重ねた。敗北はそれ即ち死だ。鍛える時間なぞありはしねえ。闘争こそが鍛錬だ。腕が潰れても足がある。足が潰れようが頭突きでもすりゃあいい。五体満足かどうかも関係ねえ、闘う意思があれば闘える。生きるとは闘争に強奪よ。勝利を、生を望む瞬間には一ミリも嘘が介入する余地はねえ。だからオレはオレなのさ。オレはオレの力で力の頂点を掴む。嘘だなんて言わせやしねえ。それに文句も言わせねえ。それがオレの絶対のルールだ」

 

 戦いに備える為に鍛えるなんて事はしない。闘い、闘って、闘い続けて備えられた肉体こそが全て。カルロフの心も体も闘争によってこそできている。筋繊維の一本一本が辿ってきた闘争の証。カルロフを前に怪物だの化物だのという文句は、現実逃避の為の糞のような言い訳でしかない。

 

 闘争の為に邁進する誰の意見も必要としない嘘のない覇道。カルロフがそう見定め決定しているそれは、神であろうとブらせない。カルロフのこれまでを想い憐れもうが、力の虚しさをどれほど説こうが暖簾に腕押し。人という名の生物として単純な暴力の頂きを目指す心には、シンプルが故に対抗できる手札などありはしない。

 

 単純だから明快。

 

「じゃあ……良いって、言うんですか? 私は、お姉さんを死なせたくない。それで、私も死にたくない。そんな、夢みたいな都合のいい事を言ったとしても」

「愚問だなぁ? それがテメェの欲なんだろうが? 必要のねえ理由や言い訳で覆い隠す必要がどこにある? 心の底から欲するなら奪えやぁ!」

「じゃあ良いんですね! そんな都合の良い結果が欲しいからッ、善意や好意に甘えて使い潰してッ、不可能を可能にしたいが為にッ‼︎ 私はそれが欲しい‼︎ 誰にどんな迷惑を掛ける事になっても、私は最後まで何も捨てたくない‼︎ お姉さんの目論見通りに進めて体の中で膨らむ腫瘍のせいで死なせてしまう訳にはいかないし、かと言って私が先に死んで『理由』を奪ってしまえばお姉さんはこの先ずっと家族を切り捨てて生き延びた人ってレッテルを架して生き続けることなる。そんなのは嫌だ‼︎ だから‼︎」

「奪おうじゃねえか理不尽も不可能も。奪おうって時に失敗したらだの考える馬鹿はいねえ。驕れよせいぜい。自分にはできて当然ってなぁ? それでもダメだと考えんなら」

「分かってます。行きましょう!」

 

 拳を握って立ち上がり、身を翻してカルロフを先導するようにパトリシアは歩き出す。向かうのはアパートの二階。白い標識の扉の前。ボロい鉄階段を軋ませて後を追って来るカルロフへと振り返る事もなく、パトリシアはアパートの扉を勢いよく開いた。

 

 布団を敷いて眠る準備をしていながら、上里達は誰も横になってはいない。窓の縁に腰掛けていた上里をパトリシアは見つめ、欲に光る瞳を向けた。

 

「助けたいんですよね? じゃあ助けさせてあげますよ。自己満足でもなんだっていい、力を貸してくれると言うのであれば、借りてあげます! 私の欲しい結果の為に使い潰してあげますから! 調べる必要はありません、教えてあげますから。それで面倒だな、なんて頭でも抱えてくださいよ。手を小招いて欲しいものを逃してしまうくらいなら、私はもう迷わないッ!」

 

 信用も何も関係ない。必要だからただ使う。裏切られたらだとか、いいように使われてるだけじゃとか、余計な葛藤は投げ捨て欲しい結果への最短の道をひた走る。調子が良い、都合が良い、あらゆる文句は受け入れよう。

 

 例え何を言われたところで、パトリシア=バードウェイの目指す先は変わらない。それが手放せない欲だから。

 

 そんなパトリシアを見据えて上里が右手を伸ばし、少女達は目を細めた。

 

()()()()()()()()()?」

「そんなモノは必要ありません。私はここで欲しいモノを理不尽から奪います!」

 

 伸ばされた上里の右手を前に、質問の意図が分からずともパトリシアは身動ぐ事もなく即答で吐き捨てる。一度決めきってしまえば、逃げている時間の方がもったいない。なんとも自己中心的なパトリシアの宣言を前に、上里は右手を引っ込めると困ったように小さく笑った。

 

「まるでカルロフが二人に増えたみたいだな……。先に悪魔と握手するなんて誰かが見たら怒るんじゃないかな?」

「テメェらがまごついてるのが悪いんだろうがくだらねえ、ビルの上から鬱陶しく降って来る視線共をテメェはまずどうにかしやがれ上里。テメェも奪う方が得意な癖に、回りくどいんだよテメェはなぁ」

「そうかもね」

「ややわぁ、上里はんの優しさを理解しないゴリラは。結局こうなりはるてうちらは最初から分かってましたよってからに。寧ろゴリラみたいに厚かましくなってそのお嬢ちゃんが可哀想や」

「テメェらに厚かましさを咎める権利はねえだろうが痴女共が」

「「「誰が痴女だッッッ‼︎」」」

 

 銭湯でのふざけた行いなどすっかり頭から消え去っているのか、少女達の喚きを聞き流しカルロフは鼻を鳴らす。そんなやり取りを眺めてパトリシアは頬を少し緩め、勢力の中心である少年へと再び顔を戻した。

 

「それで」

「うん、改めて握手をしよう。ぼくにも協力させてくれ。迷いなく一本の道を貫くきみをぼくは尊敬するよ。だから尊敬する人のために出し惜しみはナシだ。ぼくの持っている全てを使って、きみのために世界と戦おう」

 

 差し出される上里の右手をパトリシアは掴む。その唯一無二の意思のこもった感触にこそ上里は顔を綻ばせ、カルロフは一人笑みを深めた。闘争の為の切符は切られたのだ。葛藤という駅からは既に出発を終え、向かう先は暴力を必要とされる闘争の場。カルロフを見上げてパトリシアは呟く。

 

「必要ならあなたにも暴れさせてあげます。私のために」

「吐かせ。ただちったぁ良い女の顔になったぜパトリシア、ただオレを使うって言うならオレに使われても文句は言うなよ? オレもテメェを使い潰すつもりでいんだからなぁ?」

「いいんですか? 私安くないですよ?」

「ハッ! 言うぜ!」

 

 悲劇に酔いしれるヒロインなど欲していない。葛藤に悩む者も必要ではない。己が欲を追い求める、奪う必要のない己と同じ輝きにだけ向かい合う。ただ底知らずな強欲であるが為に。

 

 

 

 

 

 

 そうして互いの知らぬ所で戦場に繋がる導火線に火が点った。

 

 妹の為に命を削るレイヴィニアと、姉の為に命を削るパトリシア。

 

 レイヴィニアの為に幻想を殺す上条当麻と、パトリシアの為に理想を届ける上里翔流。

 

 必死を追う『嫉妬』と、闘争を望む『強欲』。

 

 クイーンを挟んで二枚のジョーカーと二枚のワイルドカード。優劣はなく、目指す先は変わらない。にも関わらず、決して混ざらぬ黒と白。混沌とした戦場を嘲笑うのは悪魔のみ。

 

 火の点いてしまった導火線は、残念ながら長くはない。

 

 

 

 

 

 

「行くのか脳幹?」

「頼まれたからな」

 

 第七学区の業務用冷凍庫に偽装したハンガーの入り口を背に、ガラ=スピトルは頭に被ったテンガロンハットを軽く手で押さえた。中に詰まっていた冷気は完全に失せ、並ぶ兵器群の駆動音を耳にしながら、友人との通信を終えた友人へと『憤怒』は目を向けた。

 

「私は頼まれていないんだが」

()()()()()()()

 

 友人との通信で既に何かを察し心を決めている友人の返答を前に、『憤怒』は聞こえない程に小さく舌を打つ。その怒りの矛先がどこに向いているのか、愉快そうに見返してくるゴールデンレトリバーのつぶらな瞳と向かい合い、『憤怒』は肩を竦め返す。

 

「残念だな。アレが駄目ならお前に雇って貰う腹積りだったが、臨時収入はまたの機会のようだ」

「お前風に言えば未来とは若者が作るべきものだろう? お互いに歳を取った。出しゃばり過ぎれば老害と呼ばれるぞハワード?」

「お前に言われたくはない」

「私にとってはこれが仕事だ。お前の仕事は違うだろう。アレイスターの『計画(プラン)』にお前達が必要とされていないだけだ」

 

 迷いなく紡がれ続ける言葉を前に、少しばかり『憤怒』はテンガロンハットのツバを引き下げる。魔神が相手ともなれば共闘できても、それ以外となるとまた別というだけの話。少しの間を挟んで「どうにもならんか」という『憤怒』の言葉に返されるのは、「どうにもならんさ」という答え。

 

「自分に怒りを向ける事で葛藤を生み己を押し殺す術を身に付けた弊害か、随分と大人しくなったものだな。昔のお前ならもう少しスッパリと割り切っていただろう」

「昔話を持ち出すのは歳を取った証拠だな脳幹。多くの葛藤やしがらみを前に、妥協する事を覚えてしまったとでも言うべきか。突き進めるのも若さと言ってしまえばそれまでだが」

「若さなんぞを持ち出す事こそ年老いた証だぞ? お前も、あの男も、人外地味ている癖に妙に人間臭い。そこが気に入ってはいるのだがな」

 

 どちらがより年老いたかなどという不毛な比べ合いにお互い自嘲の笑みを浮かべ、今日はいつになくはっきりとものを言う老犬を見据えて『憤怒』は目を細めた。

 

 妄執だ。もう何十年も前に己が目的を決め抜いてしまった者達であればこそ、それを失う事は存在が消えるのと同義。

 

「……人間は誰しも心に悪魔を飼っている。『悪』と名が付いているからと、それは決して許されざるモノなどではない。『悪』とは『欲』であり、『悪魔』とはそれを追い求める心のことだ。人である以上、それは否定できない」

「『悪』とは『欲』か。愚かだが好ましい答えではある」

「当然だろう。私から見ればお前だって人間だ」

「年老いて目まで節穴になったか?」

「ついでに耳もな。辞世の句のような台詞はいらん。お互いに仕事を終えたら祝杯でもあげるとしよう。お前にべったりな助手の所為でろくに話もできなかったからな。死ななければ負けではない。『木原』も『時の鐘』も次の芽が新たなステージに駒をもう進めているのだしな」

「……円周君か、今の彼女とは私も少し話をしたいものだ」

「憂いがあるなら未来を楽しめ脳幹」

 

 ロマンを嗜む老犬に別れを告げ、『憤怒』はその場を後にした。随分と甘ったるい魔王の背を暫し見つめ、老犬もまた身を翻し準備を終える為に動き出す。どんな言葉を並べようとも、やるべき事は変わらない。それが彩を与えてくれても、進むべき道にブレはない。遥か昔に己を決めた者達であればこそ。その道が敗北に例え繋がっているかもしれないと分かっていようともその歩みに淀みは生まれない。

 

「怒りを押し殺し続け怒りを燃やし続けるか。私を人間などと定義するお前達の方がよっぽど人間だよ」

 

 口へと葉巻を運びながら木原脳幹は小さく微笑んだ。次に舐める酒の味はなんであろうかと、医者に怒られそうな事を考えつつも、迫るその時の為に休む事なく動き続ける。

 

 

 

 

 

 

 

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