女王艦隊 ①
コトリと置いた綺麗な食器には使われた痕跡がない。それもこれも布教の為に世界中を友人が飛び回っていたからだ。磨りガラスの上を十字に渡る木枠の向こう側へと目を向ければ、薄いベージュの壁を持つ煉瓦造の建物の間を、石畳の道路が走っている。今までよく見た光景だが、それも今日でおそらく見納め。チェストに乗った写真を見る。この町で撮った一枚の写真。ここはキオッジァ。イタリアの一都市と言うよりは一市区町村だ。
ヨーロッパのイタリアで有名な都市といえばヴェネツィア。だが、ヴェネツィアという名は二つある。一つは日本で言う県としてのヴェネツィア。もう一つはその中にある日本で言う県庁所在地としてのヴェネツィア。大きなヴェネツィアの中にある多くの市区町村。キオッジァはその中の一つでしかない小さな町だ。
だが私はヴェネツィアよりもこの町の方が好きだ。ヴェネツィアと比べれば田舎だし不便で人も少ない。だがその方が良い。ジュデッカ運河、サン=マルコ広場、フェニーチェ劇場。ヴェネツィアには観光客が挙って見に来るものが多くあるが、栄華を極めた歴史の名残が多く残る土地よりも、人の営みがよく見えるこの土地の方が肌に合っている。
友人と映った写真を見ながら過去の記憶に想いを馳せる。キオッジァの小さな礼拝堂にも友人とはよく行ったが、友人と初めて会ったのはヴェネツィアのサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂で。ヴェネツィアの街を一望できる鐘楼の上で初めて会った。それから良く友人の布教の護衛として同行したりしたが、それをする事ももうない。
「あの……」
昔の記憶に潜っていた意識が恐る恐るかけられた声に引っ張られる。声の発信源へと目を移し、眉間に皺を寄せると相手は背筋を伸ばして二、三歩後退った。
見るからに軽薄そうな格好。ズボンとシャツ、町を歩けばどこにでもいる若者と同じ格好ではあるが、その中身が気に入らない。黒い髪に平らな顔。私が最も気に入らない男と同じ国の人間。あの男と同じ国の出身だから嫌っているわけではない。日本にだって我らの信徒がいる。嫌うのには当然理由がある。日本の異教徒。天草式とか言うわけの分からぬ連中だ。
天草式、ローマ正教とは別の十字教の一派であり、しかもそれに余計な神道だの仏教だのとゴテゴテとくっつけている。そんなふわふわした連中を信用すると言う方がおかしい。だが、ここは友人の家。一度目を瞑ってふっと息を吐く。いけない。こんな有様ではまた子供に怖がられてしまう。気に入らない相手でも神の命が下っているわけではないのだ。
視界を黒く塗り潰す私に、天草式の震えた声で「それはどうします?」とまた声をかけられた。ゆっくりと目を開けて天草式の弱く指した指先の方へ顔を向けた。先程纏めたまだ使われていない綺麗な皿達。バザーに出してもいいとは思うが、これからの事を考えればそうでない方が良いだろう。
「……持っていけ。あいつは料理が得意だからな。行った先で振舞う事もあるだろう。割るなよ」
そう言えば、「は、はい!」と言って忙しなくガチャガチャ音を立てて天草式の男は皿を持って行く。割るなよと言ったばかりなのだが聞いていなかったのか。もっとゆっくり持っていけ、せっかちな奴だ。もし割ったら拳骨だ。
本当なら友人と二人、せめてゆっくりと引越しの片付けをしたかったのだが、天草式が要らぬお節介を焼いてくれたおかげでもうほとんど終わってしまった。早ければ今日にも終わるだろう。今一度チェストに乗った写真を見る。
写真の中の頭の上からつま先まですっぽりと修道服を着込んだ友人。オルソラ=アクィナス。敬虔なローマ正教の教徒であった彼女がなぜかイギリス清教に改宗した。いや、理由は分かっている。法の書。オルソラがそれを解読したらしいという情報と共に事態は急速に動き、私が辿り着く前に全てが終わっていた。いったい何があったのか。今では情報が秘匿され何も分からない。こうなったのも全て一人の女のせいだ。
神裂火織。
事態の真相を確かめようとオルソラに会いに行こうとしただけなのに、ローマ正教の騎士共々巻き込まれて行く手を阻まれた。聖人、神の子。そうであるはずなのに神の劔である私の邪魔をするなどと!
思わず握り拳を振るいチェストを粉々に殴り壊してしまった。慌てて宙に浮いた写真をキャッチする。チェストの中はどうせもう中を移していて空だ。チェストを殴り砕いた音が天草式を呼んでしまったようで、先程の男ではなく今度はピンク色の服を着た女がひょっこり部屋の扉の隙間から顔を出して来た。
「ど、どうかしましたか?」
「……可燃物を殴り壊しただけだ。纏めるからゴミに出せ」
「は、はい!」
それだけ言ってパタパタ女は去って行く。扉の向こうの廊下からは、「ヤバイ」だの「
砕いたチェストを纏めていると、部屋の扉の奥、玄関の扉が開いた音がする。オルソラが帰って来たのかとも思ったが、部屋の扉を開けて入って来たのは先程の女。まだ私に何か用があるのか。女は困ったように指をツンツン合わせて、目を泳がせる。鬱陶しい!
「何だ。ハッキリしろ」
「は、はい! えーっとオルソラさんのお客様みたいなんですけど。そのー、暴れたりしません?」
「は?」
女の肩が跳ねる。思わず低い声が出た。この女は何を言っているのか。私が猛獣にでも見えているのか? 友人の客が来てなぜ私が暴れねばならない。自然と目がキツイものになっていく。女は顔を青ざめさせて、「ごめんなさい⁉︎」と言うと出て行ってしまった。何なんだ忌々しい。苛立ち奥歯を噛み締めて何とか気を保たせていると、部屋の入り口からポテポテと白い修道服を着た少女が歩いて来た。
「貴様は……」
目が見開いた。確か禁書目録。『
「ほう、貴様私を知っているか禁書目録」
「うん、まごいちに写真を見せて貰ったんだよ」
ためらう事もなく禁書目録はそう言う。無防備。私がローマ正教の一部『
「孫市、あの男に私の事を聞いたか。なら聞こう禁書目録。なぜ警戒しない」
「まごいちが子供に好かれたいのに嫌われてる可哀想な子って言ってたから、怖い人じゃないのかなって」
あの男は‼︎ 禁書目録にいったい何を吹き込んでいるか!
「いいか貴様、あの男が口にするのは全てデタラメだ。聞く耳は持つな。自分のためなら幾らでも引き金を引く異常者だぞあの男は」
「そうなの? でもスイス料理ご馳走してくれるし、まごいちは良い人なんだよ」
そう言って禁書目録へ大きなスプーンでアイスクリームを削り口へと放り込む。口の大きさを超えた巨大なアイスクリーム。口の周りが汚れるのも気にせず押し込んでいる。しかし、あの男を良い人とは。あの男はイギリス清教にでも取り入ろうとでもしているのか。少女を餌付けして気を引こうとは相変わらず狡い事を考える奴だ。
「あの男の事はまあいい。それよりもなぜ『
「旅行なんだよ! とうまが来場者ナンバー当ててね、五泊七日の北イタリア旅行! ぶー、だって言うのにとうまったら早速迷子になっちゃってね、とうまってば普段の生活でもぬけてる事はあるけど」
「……ああ」
握っていた拳を緩める。気が抜けた。我らは魔術師だが剣の達人でもある。相手の目線、仕草、声の調子、呼吸、あらゆる要素が相手の状態を教えてくれる。禁書目録は嘘は言っていない。本当に旅行に来たのだろう。しかし禁書目録がオルソラの客とは。法の書の件は禁書目録が動いたという報告があったはず、その後オルソラがイギリス清教に行ったのだ。知り合っていてもおかしくはないか。
「それでね、それでね! とうまったらまたまたバーゲンていうのに遅れちゃって、晩御飯はハンバーグって言ってたのに冷蔵庫が空っぽで、危うく餓死寸前だったところをまごいちが救いの手を差し伸べてくれたの! えーっとあの料理の名前は」
話はいつの間にかとうまという男との日常生活に移行している。とうまという名前の日本人には一人しか心当たりがない。上条当麻。右手に『
ララさんは今はバチカンにあるローマ正教の病院に入院中であり、また謹慎中だ。神の命があったわけでもなく、『
あの男に出されたらしい料理の名前を思い出そうとでもしているのか唸る禁書目録に目を落とし、ため息も落としながら私も椅子に座る。気を張っているのが、この少女の前だと馬鹿らしい。
「おそらくアルプラーマグロネンだろう。あの男は急に人が増えた時は大体それを作る」
「あ、そんな名前なんだ。知ってるって事はカレンも食べた事あるの?」
「……まあな」
『
「美味しかったんだよ!」と言いながら禁書目録はまたアイスクリームを口へと運び「これも美味しいかも!」と言い頬を緩める。呑気な事だ。
「カレンも食べる?」
「いらん。それより口を拭け、お前だって異教徒でもシスターだろう。せめてもっと綺麗に食べろ、ってコラ! 袖で口を拭こうとするな! 全く、イギリス清教というのは子供に何も教えないのか? 一応は同じ十字教だろうに。神に与えられた衣服を粗末にするなど、プライベートの時は私のように普通の洋服でも着ればいいのに」
「神に与えられたわけじゃなくてこの修道服は……うぷっ」
「どうでもいい、ほら動くな」
取り出したハンカチで口元を拭ってやる。これが『
そんな事をしていると遠くの方からガラガラと床の上を転がるローラーの音が聞こえて来た。このタイミング、禁書目録にはツレが来たらしいと伝えてやると、パタパタ走って行く。忙しい奴だ。少しするとすぐに男の叫び声が聞こえて来た。うるさい。また少しして静かになると、幾人かの足音がこちらに向かって来る。
「うわ、良いなぁ広い部屋……。って、アパートなのに上に続く階段があ、る……?」
そう言いながら扉から顔を覗かせたのはいつぞやの黒いツンツン頭。私を見るなり足を止めて固まると、次の瞬間背後にいる者達を守るように腕を軽く広げ「
「なんでお前がここにいやがる⁉︎ まさかオルソラを!」
「ふふ。そちらは屋根裏みたいなものでございます。差し詰め、四・五階といった所でございましょうか。チーズを置いておくためだけの場所でございますので、立つと頭をぶつける程度のスペースしかございませんけど」
「オルソラさんこんな状況でもいつもの感じ⁉︎」
「おいオルソラ、その男を黙らせろ。近所迷惑だ。確か日本には立つ鳥跡を濁さずと言う言葉があると聞いたが。最後に近隣住民から怒られたくはないだろう」
「え、あ、なんかごめん。いやでも!」
喧しい男だ。これならまだ禁書目録の方が図太い。ワタワタと喚く上条当麻を無視して、オルソラは「さて、と。それでは最初にご飯の用意をしてしまうのでございますね」とリビングから台所へと足を向ける。腕時計に目を落とせば確かにそんな時間だ。
「いやあのオルソラさん⁉︎ こっちは」
「大丈夫でございます。彼女は私の昔からのお友達ですから」
「え、そうなの?」
目を丸くした上条当麻が私を見る。まるでお前友達いたんだという目が最高に鬱陶しい。舌を打てば、上条当麻は苦笑いを浮かべてよろよろ退がった。しきりにぶつぶつ「いやでも、いやぁ」と繰り返す姿が腹立たしい。これだから日本人は。それら全てを無視して「さて何を作りましょう」と台所へ向かう友人に、私はため息を吐いた。
***
「そうではない。もっと柔らかく手を使え」
「まーまーでございますよ」
「うー、難しいんだよ」
「慣れだ。上達するには繰り返すしかない。どんな剣士も最初は素人だ」
「……インデックスが料理の手伝いをしてる……これは、夢か?」
何やらアホな事を言っている『
「痛⁉︎ 指切ったんだよ⁉︎」
「それもまた修練の証だ。絆創膏を巻いておけばすぐに治る。さあ皮剥きが終わったら私に渡せ」
「料理って大変なんだよ」と涙目の禁書目録から皮の向かれたジャガイモを受け取り軽く宙に放り包丁を数線。下に置いておいたボールに落ちる衝撃に合わせて、バラバラとジャガイモは崩れる。それを見て「見事でございますね」とオルソラが小さく手を叩いた。
「カレンって料理できるの?」
「当たり前だ。ふん、あの男よりも私の方が腕が良いと教えてやろう。例え誰かに教えながらでも完璧に作ってみせる」
禁書目録にそう答え、パスタを茹でる。ピッツォッケリ、蕎麦粉を使ったパスタ。これにキャベツとジャガイモを加えチーズソースをかけたものだ。パスタを茹でている間に禁書目録にチーズソースを作らせる。
「ん、良い感じだ。貴様は完全記憶能力を持っているんだったな。レシピを覚えるのに役立つ。才能あるぞ、もっと料理を覚えると良い。必ず自分のためにも誰かのためにもなる。美味い料理を食べて嫌な顔をする者はいない。分かるだろう?」
「うん」と言って禁書目録はツンツン頭の方をちらりと見て「頑張ろうかな」と小さく呟いた。神に仕えるシスターとしてどうなんだと思わなくもないが、異教徒の事だから放っておく。異教徒が腐って行く分にはどうでもいい。そんな私達を見てオルソラは「あらあら」と頬に手を添え、ツンツン頭は口をあんぐり開けて目を点にする。なんだその腑抜けた顔は。
「なんだ貴様、言いたい事があるなら言え」
「いやなんて言うかお前ってもっと危ない奴だと思ってたからさ」
「ふん、私は神の剣、神の命がなければ剣は振らん。貴様が気に食わない右手を持っていようと、此奴が『
ツンツン頭はようやっと口を閉じ、ぐちぐち言う事はなくなった。とは言え神の命さえあればさっさと斬り捨てたいのは確かだ。幻想を握り潰す右手などこの世にあるだけでおぞましい。だが、禁書目録は別だ。十万三千冊の魔道書をその身に宿す少女。こんな年若い少女に魔道書を押し付けるとは。イギリス清教は腐っている。是非ともローマ正教に来るべきだ。
そうして少しパタパタとした料理は終わり、食卓の上には大分色とりどりの料理が並んだ。私も料理はできるが、やはりオルソラには敵わない。私と禁書目録が一品を作る間に三品も作っている。テーブルには私とオルソラ、禁書目録と上条当麻を含めて四人。天草式は宗教的な理由で食べないそうだ。禁書目録と上条当麻は「いただきます」と手を合わせ、私はオルソラと揃って祈りを捧げる。禁書目録はそれでいいのか。
「うぅ、美味しいんだよ! いつもとうまが作るご飯の五百倍、ううん千倍は美味しいかも!」
「いつも手伝いもしねえテメェに言われる筋合いはねえけど、でもインデックスが手伝ったこれも本当に美味いな!」
「こ、これからは頑張るもん! ねえねえカレン、後でもっと料理教えてね!」
「良いだろう、ただし引越しの荷造りが終わったらだ。安心しろ、そこの男の百倍は立派な料理人にしてやる」
そうしていずれ改宗させてくれる。ふふふと笑う私の横であらあらとオルソラは頬に手を添える。料理に舌鼓を打ち、もうイタリアに来たのに満足したといった二人にオルソラは少し呆れたように笑う。オルソラを呆れさせるとは困った二人だ。
「と、ところで……やはりこちらに来たという事は、目的はヴェネツィアの方でございますか?」
「一応さー、旅行のプランじゃそうなってたんだけど、なんか現地のガイドと連絡つかねーんだよな。ホテルのチェックイン済ませたら本格的にどうにかしなくちゃなんねーんだろうけど。やっぱりこの辺じゃヴェネツィアが一番の見所なのか?」
「見るならヴェネツィア、住むならキオッジアでございますけどね。ヴェネツィアは車の利用ができませんし、湿気やカビ、底冷えなどの問題もありますから。……何より月々の家賃がよその数倍もかかるのでございます」
どこでも有名な観光地というのはそんなものだ。『
「でも、その不利を吞んででも見るべき価値はあるのでございますよ。何しろあそこは『水の都』『アドリア海の女王』『アドリア海の花嫁』……とまぁ、様々な言葉で絶賛されるぐらい綺麗な街でございますから」
「行くならサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂に行け。あそこはヴェネツィアの街を一望できる。ヴェネツィアの綺麗さが一番よく分かる」
「ふふ、そうでございますね」
「へー、でもなんか、アドリア海シリーズが多いんだな」
「まぁ、元々ヴェネツィアはアドリア海の支配者たる海洋軍事国家という経緯がございますので、ワンセットとして扱うのが妥当だったのでございますよ。ヴェネツィアには『海との結婚』という年に一度の国家的儀式がありました。当時の総督……国を束ねる者が、アドリア海に金の指輪を投げてヴェネツィアとアドリア海を結び付ける婚礼の儀でございますよ。それぐらい海は身近にあったのでございましょうね」
オルソラの説明に、「ありゃ? ヴェネツィアって、元々国だったの?」とあまりに当たり前の事を言うので、もう放っておいて話を聞き流しオルソラの料理に集中する。もうこの料理を食べるのもこれで最後だろう。よく二人で台所に立ち料理をしたが、それをする事もない。オルソラはローマ正教を離れたが、私はローマ正教から離れる事はない。なぜなら私は神の剣。剣が一人でにどこかへ行ってしまう事などないのだ。
ヨーロッパは小国の集まり。例え他の国の事でも、その歴史は知っているのが普通だ。オルソラが分かりやすくヴェネツィアの歴史を説明している横で、私はパスタをゆっくり口に運ぶ。
「ともあれ、ここまで足を運んだのならヴェネツィアは見ておくべきだと思います。私のような十字教徒にとっては非常に興味深い様式を学ぶ場所でもありますが、そうでなくとも単純に綺麗な街でございますし。キオッジアにはモーターボートはございますけど、ゴンドラはございません。あちらの街では、ここでは見られない光景があるのでございますよ。このイタリアで、車がなくても都市機能を維持している街なんてヴェネツィアぐらいしかありませんし」
「へー、面白そうだな。そう言えばカレンがここによく来るって事は法水なんかもよく来るのか?」
その質問に手が止まる。わざわざイタリアにいるのになんでこうもあの男の名前を耳にしなければならない。姿が見えなくても鬱陶しい男だ。私が何か言うよりも早く、少し悩んだ後に「ああ」とオルソラが口を開いた。
「孫市さんでございますか。大変美味しかったのでございますよ」
「は? え? 美味しかった?」
「オルソラ、それは前に私が育てていた牛だ。この男が言っているのは人間の方だ」
「牛って……、お前牛に法水の名前つけたの?」
別に良いだろう。どうせ食べる事が決まっていた牛だから孫市の名前をつけてやった。孤児に振る舞い食べたと伝えた時のあの男の顔は傑作だった。今でも思い出すと笑えてくる。普段役に立たないのだから、牛とはいえ孤児達が喜んでくれたのだから良いだろう。私が一人思い出して薄く笑う隣で、ポンとオルソラが手を打つ。
「ああ、カレンの愚痴によく出てくるお方でございますね。なんでも自己破滅願望者で、遠くから敵を狙う卑怯者で、そのくせ前にずんずん進んで行ってしまう困ったお方だとか。この前も急に世界最高級の塩を箱で送って来たと聞いたのでございます」
「法水……」
何やら上条当麻が遠い目をしだす。別に間違った事は言っていない。あの男の事を人にいち早く伝えるならその言葉の羅列が正しい。俺は狙撃手だ、とか言いながら敵に突っ込んで行くような男だ。ただの馬鹿だ。顔を顰める私を見て、それでも「で? どうなんだ?」と上条当麻は続ける。食事中のなんでもない話として共通の話題を出すのは良いが、なぜわざわざあの男の話題なのか。オルソラに助けを求めるつもりで顔を向けたが、「私も聞きたいのでございます」と笑っている。私は大きく息を吸い、肩を落とした。
「……そうだな、あの男もイタリアには何度か来てる。ゴンドラで昼寝は最高だとか馬鹿な事を言っていたな」
「法水ってイタリア語分かんの?」
「何を当たり前の事を。貴様はあの男の事を何も知らないのだな。知らなくても良いと思うが。……スイスは立地が特殊だ。私もだが、英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、ロマンシュ語を話せる」
「マジかよ……。あれ、じゃあ日本語は?」
「……私の場合はあの男のせいだ。アレと組まされる事がなぜか私が一番多くてな。時の鐘から送られて来るのもなぜかあの男だし、私が日本語を分からないのを良い事にペラペラ有る事無い事言いおって、おかげで覚える羽目になった。気に食わない奴だ」
いつもいつも自分の事しか考えぬ自己中野郎だ。九年前に初めて会ってから冒険がどうの英雄譚がどうのとくだらない夢想家のような事しか言わない。仕事は選ぶとかぬかし神の命を断る愚か者。そのくせ『
強く握りしめたフォークがひん曲がる。それを見て上条当麻と禁書目録の口の端が歪んだ。隣ではオルソラが変わらず笑っている。
その後昼食を終えて夜に入る手前で引越しの荷造りは終わってしまった。途中シャワーを浴びているオルソラの元にどういうわけか上条当麻が突貫し、斬り伏せようかとも思ったがオルソラに止められたので殴っておいた。一発で気絶するとは軟弱な男だ。あの男なら殴り返してくるというのに。男とは馬鹿ばかりだ。
法水孫市の入院日誌 ①
九月二十四日
新たな事を始めるので、折角だから見直す事が出来るように日誌をつける事にする。一日目、もう無理だよ。出る音が多過ぎるんだよアレ。全然音楽にすらなりやしない。ただ音の出る棒をブンブン振っているだけだ。しかもどの音がどの音に対応するのか全く分からん。ライトちゃんにチューニングを頼み、何とか音を合わせてみようと試みているが、これ習得するのに何年かかるんだよ。ボスにはもう時の鐘初の軍楽隊になるって言っちゃったし後には引けない。丁度見にやってきた黒子さんと御坂さんには笑われるし。今に見ていろ。いずれあっと言わせてやる。
九月二十五日
二日目。やばい。俺には音楽の才能があったらしい。軍楽器を振るのはまだダメだが、普通に笛のように吹くのは問題ない。折角だから木山先生から貰った譜面を一つ試してみた。お見舞いに来てくれた黒子さんと御坂さん、初春さんと佐天さん、春上さんに枝先さんにも効果があるのか試したが効果はあった。夜に御坂さん達が病室に殴り込んで来た程だ。曰く目覚めの歌だとかで、音を聞いていた時は朝に鳴く鶏とか目覚まし時計を連想したが、正しく似たような効果が出た。目が冴えて眠れねえ。これはやばい。睡眠薬を飲んでも眠れなかった。不眠症にならない事を願おう。
九月二十六日
三日目。クソが! これじゃあただの笛吹き野郎だよ! 戦場の中を笛を吹きながら歩くなんて最高に間抜けだ。なんとしても動きに合わせて出る音によって効果が発揮できるようにならなければならない。一から動きを作るのでは大変だ。時の鐘の軍隊格闘技と組み合わせるのが良さそうだ。実際それで前よりもかなりマシになった。ただ喜びで振り下ろした軍楽器が足に当たり、骨がポッキリ逝った。骨を震わせる振動音。音叉としても使えると言うのはこう言う事らしい。早く言え、足が一本犠牲になったぞ。だがこれは使えそうだ。ただ変な場所で足が折れたため寝転がっていたら白い男に笑われた。この野郎、黒パン買ってこい。