時の鐘   作:生崎

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「行くのか」

 

  オルソラ=アクィナスとアニェーゼ=サンクティスの少し困ったような笑顔が私を見た。ところどころ包帯を巻かれた私の痛ましい姿を見てではない。天草式が回復術式を使ってくれようとしたが、私は断った。この傷は、ローマ正教の意向に背いたかもしれない戒めだ。

 

  『女王艦隊』は叩き潰され、ビアージオ=ブゾーニは上条当麻に敗北した。誰の思惑かは分からないが、ローマ正教の思惑は完全に潰された。その思惑の鍵として連れられていながら、反旗を翻しビアージオと闘ったアニェーゼはローマ正教に居座る事はできない。オルソラ同様、来る者拒まずの『必要悪の教会』に身を寄せるしか、アニェーゼとアニェーゼの部下達が安全にこの先暮らすのは難しいのだ。分かってはいる。だが、それが少し寂しいのは事実。ローマ正教からまた一人友人が離れて行く。

 

「そんな顔をしないでくださいませ、『必要悪の教会(ネセサリウス)』に身を寄せても、ローマ正教の教えを手放すわけではございません」

「分かっているさ、だがな」

「私はオルソラ嬢と違って少々役職が高いですからね、貴女が差し向けられやがるかもしれませんが、まあその時はその時でしょう」

 

  私の頭内に引っかかっている事を、さらりとアニェーゼは口にする。オルソラだけでなく、アニェーゼまで。何よりオルソラが関わっている事が少しマズイかもしれない。オルソラが持ち前の交渉術を使い、ローマ正教の者をイギリス清教に引っ張っているとでもローマ正教側が判断すれば、オルソラごとアニェーゼを断罪しろという命が下ってもおかしくはないのだ。

 

「……そうだな」

 

  私はそんな命が下っても、従わないという事はない。私は『信じてくれる者()』の刃。ラルコのわけの分からない問答で掴んだ答えだが、それで私の生き方が変わるわけではない。

 

「カレンは残るんでしょう?」

 

  少し俯くように顔を下げていた私に、当然そうだろうといった風にアニェーゼは呟いた。そしてそれはその通りだ。ローマ正教は少しおかしくなっている。学園都市で起こった小競り合いに、このイタリアで起こった一件、たったの一週間にも満たない間にこれほどの大規模な動き。それもどれもローマ正教の敵のみならず、大多数の者も巻き込みかねない行いが頻発している。私も思わない事ではない。あのラルコ=シェックのように、目についた者をただ殺すような事を了承する事は難しい。しかし、

 

「私を『信じてくれる者』がローマ正教にはまだいる。それだけで私がローマ正教に残る理由になる。そう心配するな、この件は教皇の命によって私は動いた。私がローマ正教に残っても罰せられる事はないだろう」

「それにローマ正教の中でも純粋な武闘派の貴女をむざむざ手放す真似はしないでしょうからね。ただでさえ『空降星(エーデルワイス)』も一人欠けたんですし」

 

  そうアニェーゼは言いながら、私が手に持つ袋を見る。中に入っているのはラルコの頭蓋骨だ。崩れる『女王艦隊』の旗艦の中から、これだけは手に取る事ができた。死ねば悪人も善人もない。後は神の決断に任せるのみ、あんな奴でも供養の一つぐらいはしてやってもいいだろう。ラルコが死んだのだという証拠も必要だ。

 

「でも、ラルコさんはなぜこの件に加担したのでございましょうか。ビアージオ=ブゾーニの思惑は学園都市を『ロザリオの刻限』という霊装を用いて『女王艦隊』によって破壊する事でございましたが、それに賛同して、という事だったのでございましょうか」

「さてな、あの男の考えなど知りたくはないが、これまで以上におかしな行動だったのは確かだ。最後、今でなければ無理とも言っていた。何より」

 

  まるで私を試しているようだった。神とは何かという問答、ラルコの認める『空降星(エーデルワイス)』とは何なのか。どうも息もしずらい重い空気が流れているように思う。これはまだ序の口で、火山が噴火する前の余震に過ぎないのだと言うように。何よりもあの男を頼れとラルコは言った。それが一等おかしい。ラルコはラルコで、自分以外信じないような男だ。それが頼れと、そんな言葉ラルコの口から初めて聞いた。何かが起ころうとしている。だがそれが何かは分からない。

 

「まあラルコの事はいい。……それよりこれでお別れだ。私は一度バチカンに戻る。オルソラ、アニェーゼ、もう会う事はないかもしれないが」

「そんな事ないのでございますよ、お手紙も書きますから、今度三人でロンドン見物でも致しましょう」

 

  私の言葉を遮るように否定して、オルソラは柔らかく微笑んだ。全く、顔に似合わず我儘な友人だ。『空降星(エーデルワイス)』であり神の剣である私を、危険など考えずに共にロンドン見物しようなどと。アニェーゼも呆れたように一度オルソラの顔を見たが、何を言っても無駄だと悟ったのか肩を竦めるだけで何も言わなかった。

 

「まあオルソラ嬢だけじゃあ道に迷いそうですからね、そういうのも悪くないでしょう」

「そんな事はないのでございますよ、私はいつもちゃんと目的地についています」

「法の書の時も道に迷いに迷ったと聞いてるんですがね」

「布教の時も一度少数民族の集落に間違えて突貫した事があったと記憶しているが」

「むー、二人ともひどいのでございます」

 

  頬を膨らませるオルソラの頬を突いてやり、私は二人に背を向ける。ロンドン見物か、それも悪くはないのかもしれない。友人達と三人で、ただの女学生のように笑いながらロンドンの街を歩く姿を幻視して思わず口角が上がった。私もオルソラもアニェーゼも、そんな姿とはかけ離れたところにいるが、もしそんな事ができたのなら素敵な事なのかもしれない。

 

  だが、そんな光景はいつ来るのかも分からない。私は神の剣、振るわれる時が来たのなら迷わず振るわれる。背後でまだ楽しげに話しているオルソラとアニェーゼの声に押されるように、足を出す。向かう先は担架に乗っている『幻想殺し(イマジンブレイカー)』と白いシスターの元、何やら上条当麻は酷く項垂れているが、禁書目録は私に気付くと笑顔を見せた。

 

「どうかしたか?」

「うん、イタリア旅行は終わりで、これから学園都市に帰るんだって、それでとうまが項垂れてるんだよ」

「だっておかしいだろ! まだ一日しかイタリアにいれてねえんだぞ! し、しかも帰ったら!あぁぁ、帰りたくない!」

「怪我人のくせに喧しい男だ」

 

  これが今回の功労者、アニェーゼを助け出し『女王艦隊』を潰した男。今の姿を見る限りそんな事をしでかした男には見えないが、私に食って掛かって来た時といい、時折凄まじい爆発力を見せる男だ。男の右腕に目を落とす。『幻想殺し(イマジンブレイカー)』。その効力は気に入らないが、それが今回アニェーゼを救ったのは事実。魔術や超能力がなくても人は生きていけるといつも言っているあの男の考えが正しいとでも言うかのようだ。人を救えるのは人だけか。

 

「上条当麻、何はともあれ感謝しよう。貴様がアニェーゼを救った。それにオルソラの事もだな。重ねて感謝を。ありがとう」

「え、お、おう」

 

  おかしな者でも見るかのように上条当麻は呆けた。私が感謝の言葉を言うのがそれほどおかしいのか。私だって相手が気に入らなかろうと感謝ぐらいする。これまで騒がしかったのに、急に静かになった上条当麻を禁書目録は横目で睨んでいるのだが気がついていないのか。ため息を零し、禁書目録へと体を向ける。目の高さを合わせるように少し屈んで。

 

「禁書目録、お前にも今回は助けられたな。ありがとう」

「いいんだよ! カレンには料理も教えて貰ったし! でも私まだまだだから……そうだ! カレン電話番号交換しよ! そうしたら学園都市にいても教えて貰えるかも!」

「インデックスさん⁉︎ それはいいのか⁉︎ って言うか俺の部屋で『空降星(エーデルワイス)』と秘密の会談するつもり⁉︎」

 

  上条当麻が喧しい。しかし、言っている事に間違いはない。『必要悪の教会(ネセサリウス)』の切り札の連絡先を私に教えるなど、正気じゃないと思われても仕方がない。だと言うのに、禁書目録は気にした様子もなく、修道服から携帯電話を取り出すと、ポチポチ押して自分の電話番号を確認している。

 

「いいのか禁書目録、私は『空降星(エーデルワイス)』だぞ」

「何で? だってもう友達だもん」

 

  柔らかな笑顔、この少女には『空降星(エーデルワイス)』という肩書きなどどうだっていいのか。オルソラといい禁書目録といい修道女らしからぬ我儘娘だ。禁書目録の笑顔を見ていると、深く悩む自分が馬鹿らしいと思えてくる。教義は教義でしかなく、それをどう捉えどう行動するのかは自分次第。オルソラも禁書目録もそうなのだろう。教義を超えた人の意志で動いている。そしてそれはおそらく……。手に持ったラルコの頭蓋骨の入った袋に目を落とす。神とはなんぞや、神を信じよという『空降星(エーデルワイス)』の教義、私の神とは信じてくれる者なのだ。

 

「友達か、私にとって友人はこれで三人目だな」

「じゃあいいの?」

「ああ、そんな友人にお願いだ。オルソラとアニェーゼのこと、よろしく頼むぞ」

「分かったんだよ!」

 

  禁書目録に引っ張られるようについ笑顔になってしまう。視界の端に映る上条当麻は呆けた顔で私の顔を見るだけで何も言わないらしい。私の顔に変なものでも付いているのか。禁書目録に携帯電話の番号を教えていると、「貴女のそんな顔は久し振りに見たわ」と鐘を打ったような低く凛とした声が飛んで来た。

 

「オーバード=シェリー」

「あら呼び捨て?」

「……さん」

 

  時の鐘のトップ。『御使堕し(エンゼルフォール)』の時とは違い、時の鐘の軍服に身を包んだ姿で立つオーバード=シェリーは少し怖い。森を溶かしたような軍服が覆うのは、透き通るような白い肌と服にかかるシルクのようなアッシュブロンドの長い髪。この一見有名な画家が美しい女性を描いたというような存在が、戦況をひっくり返したという現実は見ただけでは信じられない。横では上条当麻が「これが軍服萌えの境地……」とか意味不明な事を呟いている。オーバード=シェリーは私が手に持つ袋へ一度目を落とし、つまらなそうに目を外すと軍服の内ポケットから煙草を取り出し咥える。

 

「ラルコは死んだのね。まあいつか死ぬとは思っていたけれどそれが今だなんて、思ったよりも臆病な事だわ」

「臆病?」

「ええ、だってそうでしょう? 貴女に押し付けたんだから」

 

  煙草に火を点けて、オーバード=シェリーはゆっくり息を吸い込んでそして紫煙を吐き出し右の肩をぐるりと回す。

 

「はぁ、アバランチM-001は肩が凝っていけないわね。ああいうのはロイジーが使うべきなのよ。……ちょっとロイジー! もっと丁寧に運びなさいな」

「へいへい、っと。お、『幻想殺し(イマジンブレイカー)』じゃんかー、久し振りー、孫市(ごいちー)の奴元気してる? ヒヒヒ、『女王艦隊』の上でお前に向かってたローマ正教の修道者あたしが狙撃してやったんだぞ、感謝しろよ、なあ? ってそっちは禁書目録? 初めて見た! へーこんなちっこいのがねえ。カレンもひっさびさ! そうそう、あたしイタリアはあんまり来ないんだけど何かいい酒」

「早く行きなさいよ」

 

  オーバード=シェリーに肘で突かれて「ぐふぅ」とわざとらしく声を出しながらとぼとぼ歩いていく。だが、ロイ=G=マクリシアンの姿などあまり目に入らなかった。目がいったのはロイの担ぐ大きな巨砲。全長で五メートルはありそうな大砲だ。決戦用狙撃銃など馬鹿らしい。一メートル程の幅の大きな盾のような純白の四角い箱に取り付いている四メートルはある銃身。馬鹿げた大きさだ。これをオーバード=シェリーは振り回していたのか。重量だけで絶対三十キロは超えている。上条当麻も禁書目録も口を開けてそれを見ている。

 

「と、時の鐘って、法水の奴あんなのも使うのかよ」

「使うわね。それよりも上条当麻、貴方のお陰で今回は仕事が楽にすんだわ。これは報酬よ、偶然とはいえ功労者には報酬があって然るべき、イタリアから支払われた報酬の中から一部貴方に支払うわ。これで貸し借りはなしよ。禁書目録、『必要悪の教会(ネセサリウス)』にも振り込んでおくからそれでいいわね。ドライヴィー」

 

  オーバード=シェリーが時の鐘の部隊員の名前を呼ぶと、どこにいたのかいつの間にか上条当麻の隣にドライヴィーが立っていた。黒い肌が夜の闇に紛れて非常に見づらい。ぼすりと上条当麻の腹の上に大きなアタッシュケースを乗せて、上条当麻の肩にポンと手を置いた。

 

「あ、えと、ドライヴィーだっけ? 久し振りだな。それで、えーとこれは」

「……イェー」

「い、いえーい、って駄目だあ! やっぱり何言ってるか分かんねえ‼︎ 法水! 通訳! 通訳をくれ!」

 

  喚く上条当麻の前でドライヴィーはアタッシュケースの蓋を開ける。中に並べられた百ユーロ札。それを見て上条当麻の動きが止まった。恐る恐る百ユーロ札の方へと手を伸ばして指で突っついている。

 

「日本円で一億くらいかしら? 正確にはもう少し多いけれど」

「え、えぇぇ⁉︎ ほ、本当に貰っちゃっていいの? 怖い⁉︎ お金が怖い⁉︎」

 

  ポンと一億を簡単に出された状況に上条当麻は頭を抱えている。金の価値は人それぞれ、私はそんなもの貰ったとしても全て私を育ててくれたシスターの居る教会に寄付しているのでどれだけ価値があるのかなどどうでもいいが、上条当麻にとっては違うらしい。

 

「それよりもオーバード=シェリー……さん、押し付けたとはどういう事だ? 貴女は何を知っている」

「まだ何も知らないわよ。でも、押し付けたというのは本当よ。ラルコ=シェックは才能に逃げたのよ。自分には無理だと高を括って、そういう意味では孫市の方が男ね」

「無理とは?」

「自分で考えなさい『空降星(エーデルワイス)』、自分の体が汚れているなら、他人に拭かせず自分で拭って」

 

  それだけ言ってオーバード=シェリーは踵を返した。それに続いて、看護師や天草式の面々に混じってポツポツいた緑色の服を着た者たちも離れていく。それを見送り、オーバード=シェリーの言葉を身の内に反響させた。ラルコの言った濁っている血、オーバード=シェリーが汚れていると言うように今の『空降星(エーデルワイス)』には私の気付いていない何かがあるのか。

 

「カレン、大丈夫?」

 

  禁書目録の心配そうな顔が私を見上げる。それに私は一度口を引き結んで笑顔を返した。私は大丈夫、心配などされなくとも、その優しい想いに応えてみせる。だから、

 

「大丈夫だ。安心しろ友よ」

 

  『私を信じてくれる者()』のため、私は(つるぎ)であり続ける。

 

 

  ***

 

 

  バチカン、聖ピエトロ大聖堂。国全体が世界遺産登録されているというバチカン市国の中にあるローマ正教の総本山。一級の芸術家達によって造られた聖ピエトロ大聖堂の洗練された空間は、中に居るだけで無作法な事をしてはならないという戒めのような空気が流れているが、そんな暗黙の了解を踏み潰すような荒々しい足音が響いている。

 

「チッ、結局ブゾーニの馬鹿が失敗したってコトよ。しかも『アドリア海の女王』の核部分まで破壊されて、二度と再現はできないときたモンだ。……まったく、『刻限のロザリオ』を考案し、組み立て、実用にまで漕ぎつけたコトは誰のおかげだと思ってんだか。こっちとしちゃ納得がいかないのよ。何より納得できないのはアイツが行方不明だってコトよ! 誰だ庇ってんのは! このストレスはどこに向けて発散すりゃ良いってのよ!!」

 

  ヒステリックに女性の叫びを聞いて、二人の男は肩を竦める。聖堂内に差し込む月明かりに当てられて、地面に落とす人の影は三人分。一つは腰を曲げた老人のもの、もう一つは若い女性らしいメリハリのあるもの。そして最後の一つは、鎧を纏った騎士のようなものである。

 

「……しかしな、いくらお前であっても、あれは少々早急に過ぎた。イギリス清教の介入は予想外とはいえ、そうでなくとも壁はいくつにもわたって点在しておった。……正直に語る。介入がなくとも、ビショップ・ビアージオは成功しなかった。あやつに、破綻に対処するだけの能力を期待するのは間違っている」

「アンタ誰にモノ言ってんのよ? 私がやれっつったコトはやんの。それが世界の法則ってモンでしょ。馬鹿馬鹿しい、この期に及んでまだそんなコトも学んでないの?」

「貴様こそ、誰に口を開いているか理解は追いついているか」

「全くだね。君がどういう立場の人間か当然分かってはいるよ。だが、彼に礼を失するというのであれば、悪いが俺は容赦はしないよ」

 

  凄味をました老人の気配に呼応して、騎士の男の圧力も上がる。異常だ。ただ、口を開いただけの二人の男だが、それだけで相手の全てを掌握したというような重い空気を放っている。ただの一般人であれば、それこそ膝をついて許しを乞うような空気の中、女は気にした様子もなく、寧ろ鼻を鳴らしてそんな空気を吹き飛ばす。

 

「ローマ教皇でしょ。そんなコトがどうしたの? アンタもよ、ナルシス=ギーガー」

 

  ローマ教皇とナルシス=ギーガー。ローマ正教のトップと『空降星(エーデルワイス)』のトップを前にして、それがどうしたと言うように女は言葉を紡ぐ。

 

「やめてよねー。アンタ達も分かってるコトでしょ、ローマ正教っていうのは本当は誰が動かしているか。アンタがここで消えても別の教皇がその座に就くだけってコト。でも私が消えたら代わりは利かない。理解できないコトかな? だったら試してみましょうか」

「口が過ぎるよ」

 

  老人が何かを言おうとしたが、騎士の男がそれを遮るように老人の前へと立ち、背中に背負った大剣に手をかける。ツヴァイヘンダー、二メートルに近い大剣の銀の肌が薄っすらと月明かりの中に姿を出すのを女は見て、じゃらりと女の舌先から伸びる鎖が音を奏でる。

 

「そう言いながら悪意もない癖に、偽善者(ナルシスト)が」

 

  女の影が一度ゆるりと揺らめいたが、騎士の男の前に老人が出て来た事で足を止める。一発触発の前触れに、臆せず足を踏み込む老人の胆力は相当のものだ。例え一級の魔術師であろうとも、女と騎士の男の間に割り込む事は死を意味する。だが老人は小さくため息を零すだけで気負った様子は微塵もない。

 

「主から十字教の行く末を直接その手で授かったのは聖ピエトロ一人のみ、のちの教皇も様々な活躍を遂げたものの、それでも彼の遺産整理や管理という役柄が強い。私は人に選ばれたのであって、主に選ばれたのではない。私にも分かっておる。だからこそ口には出すな。分かりきっている事を今一度繰り返されるのは頭にくる」

「はいはい、だからアンタも欲しいんだ。選挙の票数ではなく、そういう唯一無二の選ばれた証が。そしてアンタはローマ正教を戻したいってコトなのね。人の多数決ではなく、一なる教えと意志で道を決めてきた、かつての十字教の形に」

「……、繰り返すなと告げたはずだ」

「悪い悪い。でも、私から見てもアンタはまだ駄目ってコトよ。アンタはまだ足りない。だからこっちには来れない。そういえば、教皇って選挙で決まるのよね。それに選ばれるっていうコトは名誉だと思うけど、アンタはそれじゃ満足しない。理由はあっさり簡単、『神の子』やその使徒が行伝していた時代では、むしろ十字教は多数決の少数派だったんだもん。そして少数派であってもその力が数に負けるコトはなかった。だからアンタは多数決の票数自体にあまり神聖な価値はないと思っている。その価値は、例えば多数決に全く囚われない私みたいな人間が持ってると睨んでんのよね。なのに自分の所には票数ばかりが集まってくる。……難儀というか、贅沢な悩みだと思うけどねぇ?」

 

  女の長ったらしい演説に合わせて、老人はぐるりと顔を背ける。バチリと音が弾け、その音に合わせて男は今度こそ背の大剣を引き抜いた。聖ピエトロ大聖堂という聖域では似つかわしくない行為だが、それでも許しては置けぬと地面の一寸手前で振り抜いた剣圧に空気が弾ける。それを見た女は遂に眉を顰めて手に持ったものを振り抜く。鎖の先、十字架を擦るように振られたその動きに合わせて、聖ピエトロ大聖堂は壊さないように、しかし、男に向かって確実に横合いから空気の塊が降り掛かる。

 

  だが、その一撃はスルリと騎士の男をすり抜けた。それを見た女の口端が歪む。

 

「丑三つ時だったか? チッ、それスイスじゃなきゃ使えないんじゃなかったの?」

「種明かしをすると思うかい? 『神の右席』」

 

  『神の右席』何かしらの組織名を騎士の男は口にするが、それに首を傾げる者はこの場にはいない。この場にいる誰もが知っているから。一々それに対する疑問を口にする者はいない。だが、代わりの疑問を女は口にする。

 

「……ナルシス=ギーガー、アンタ何でラルコ=シェックをイタリアに送った?」

「俺が? アレはラルコの独断だよ。だから君の思惑がせめて上手くいくようにカレンに教皇の書状を送って貰った」

「時の鐘なんて傭兵集団を使ってね。どこまでがアンタの手の内か、いずれ足元掬われるわよ。そんな傲慢な有様だと」

 

  女は騎士の男から視線を切り、つまらなそうに一枚の紙を取り出して、老人に向かって紙を投げる。スイス傭兵共の思惑など、女にとってはどうでもいい。

 

「ソイツに目を通してサインをしなさい。陽が昇る前にね」

 

  それだけ言って、女の影は闇に消えた。騎士の男がこの場にいる状況で、長話は無用だと判断しての事だ。そして、女が言ったからには老人は何があろうとも『否定』だけはしないとも分かってはいるから。老人は投げ渡された紙に目を通して眉間に皺を寄せる。

 

「教皇、貴方の命とあればアレでも斬りますが」

「……いや、よせ」

「仰せの通りに」

 

  そう言って男は騎士らしく膝を折って頭を垂れる。ただでさえ良くない状況で、『空降星(エーデルワイス)』と『神の右席』の衝突などやられては堪らないと老人は顳顬に手を置いた。何よりも『空降星(エーデルワイス)』も『神の右席』もクセが強過ぎる集団だ。教皇とはいえ一人の人間、自分の手には余る事だとため息を零した。

 

「それで教皇、書状にはなんと?」

「……これだ」

 

  少しの間悩んだが、老人は手に持った紙を騎士の男の目前に差し出す。

 

『Toma Kamijo. Potrebbe investigare urgentemente? Quando lui èpericoloso, lo uccida di sicuro.』

 

  書かれていた内容は、『上条当麻。上記の者を速やかに調査し、主の敵と認められし場合は確実に殺害せよ』というもの。それを少しの間男はそれを見つめて、噛みしめるように目を伏せる。

 

「……『空降星(エーデルワイス)』からボンドール=ザミルを送りましょう。アレ一人よりはそれで安心です」

「だが、ラルコ=シェックが死に、『空降星(エーデルワイス)』は一人欠けたままだろう。ララ=ペスタロッチの傷もまだ癒えてはいまい」

「問題ありません。カレンから報告を聞いています。上条当麻を追うとなれば、『時の鐘(ツィットグロッゲ)』法水孫市が出て来ます」

「法水孫市、国連の監視者か。また面倒な」

「死人に口なしですよ」

「……分かった」

 

  教皇から了承を得た。それに頷き、ナルシス=ギーガーは身を起こす。ボンドール=ザミルへ神の命を伝えるために。

 

「君に神の御加護がありますように」

 

  誰かに向けてナルシス=ギーガーはいつものように言葉を紡ぐ。教皇に向けてではない。ボンドール=ザミルに向けてのものか、法水孫市に向けてのものか、それとも女に向けてのものか。全てを知るのはナルシス=ギーガーただ一人だ。

 

 

 

 

 


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