車から夜のロンドンの街を眺める。
バッキンガム宮殿から一八〇五年のトラファルガーの海戦*1における勝利を記念して造られた広場。トラファルガー広場に繋がるザ=マルを通って、王への玄関口であるアドミラルティ・アーチを抜ける。イギリスで五番目に大きな鉄道ターミナルであるチャリング=クロス駅を前に右に曲がり、そのまま真っ直ぐ進んでテムズ川にぶつかったところで左に、テムズ川に跨るハンガーフォード橋とゴールデン=ジュビリー橋の下を潜り抜け、テムズ川に沿って車で走れば、イギリス王族のお膝元、バッキンガム宮殿から十五分ほどで辿り着くのが、これまたイギリスの観光名所の一つ
不満を滲ませ黒塗りのジャガーのハンドルを指で叩く。
「こんな事態だし人手が足らないんだろうなっていうのは俺も理解している。がだ。いくら人員不足でも鍵だけ投げ渡されて運転任せたはないと思わないか? イギリスにいる間は好きに使っていいとは言われたが、信頼されているようで涙が出るな」
「あ、あはは。あ、サマセットハウスが見えて来ましたよ! とっても速いです!」
笑って誤魔化して話を逸らすんじゃない。
ウォータールー橋を潜り左手に見える石造りの巨大な建造物の背を見ながら紫煙を吐いた。アンジェレネさんが煙で咳き込まないようにパワーウィンドウを僅かに下げる。車に乗ることは滅多にないのか、「牛の人⁉︎」と怯えていたのに車に乗った途端目を輝かせて足をぶらぶら揺らす始末。
「アンジェレネさん、それでカレンの奴は
「は、はい牛の人」
「その牛の人ってのよせ! アンジェレネさんがカレンの育てた牛を食ったんだってのは分かった! 俺には法水孫市って名前があるんだからそっちで呼んでくれ」
「り、了解です、まごいち」
肩をビクつかせてアンジェレネさんはそう呼んでくれる。ひぇ! と縮こまるものの、すぐに窓に噛り付いて目を輝かせるアンジェレネさんの現金さに肩を竦めて大きくため息を吐いた。
このローマ正教内の一部で法水孫市=美味しかった牛肉の元、及び修道女の修道服剥ぎ取り野郎問題が終息する日が来るのか分かったものではない。これが
「それで? カレンの奴は何をどうしたんだ? バッキンガム宮殿に侵入してただ突っ立ってただけだと聞いたが? 観光にでも来たのか?」
「それは……私も詳しくは知りませんが本当に静かに立っていただけだそうです。何を聞いても上の空で、まるで何かが抜け落ちたようだったと……魔術的な首輪の線も当たりましたがそういった痕跡も見当たらなかったそうでして」
「……他に分かっていることは?」
「なにもです。最初シスターアニェーゼが話を聞こうとしたのですがそれでもダメで……、シスターアニェーゼも私たちも『不時着を妨害してきた謎の集団』の捜索に駆り出されているので離れなければいけませんでしたし、これ以上シスターカレンが話さないようなら痛い手段を取るしかなかったそうですから、まごいちが来てくれてよかったです!」
アンジェレネさんの言葉に堪らず小さく噴き出してしまう。アンジェレネさんに随分とまあカレンの奴は心配され慕われているようで驚きだが、シスターカレンとか初めて聞いたんだけど、超似合わねえな。騎士とか、剣士とか、そういった方面の方が似合う奴だ。アレも修道服を着る事もありはするのだろうが、想像しただけで笑えてくる。だって絶対似合わないもの。ヤバイ、ツボに入ったかもしれん。
「あのー、まごいち?」
「ぃ、いや……くくっ、そ、そうね、シスターカレンね……後で言ってやろ……」
不思議そうに首を傾げるアンジェレネさんの視線を散らすため咳払いをして煙草の灰を落とす。アンジェレネさんのカレンの呼び方は置いておき、かなり気になる部分が前のアンジェレネさんの言葉の中にあった。
「『不時着を妨害してきた謎の集団』とか言ってたな。なんの話だ? そんなことあったのか?」
「テロ事件のあった旅客機の事です。幻術で燃料メーターが下がったように見せて不時着させる作戦だったそうなのですけど、魔術の妨害に会い途中で術が乱れたそうでして」
テロ事件のあった旅客機って俺たちが乗ってた旅客機じゃないか……。落ちてしまいそうになる煙草を慌てて咥え直す。そう言われれば燃料メーターが異様な落ち方をしているとか言ってたな。てっきりテロリストのデータの所為だと思っていたのだが、
「なぜ集団だと分かる? ある程度目星が付いているのか?」
「はい、エジンバラを中心にスコットランドの魔術勢力を探っているのですけど、『結社予備軍』と言う組織構造が主流のようで──」
「待て」
アンジェレネさんの話を強引に塞き止める。「ど、どうしました?」とおっかなびっくり聞いてくるアンジェレネさんには悪いが、少し待って貰い乱れた思考を落ち着ける。待てよ待て、待った待った。テロに遭った旅客機を不時着させる為、イギリス清教が燃料メーターを幻術で操った事は分かった。それを妨害した集団がいるらしい事も理解した。
「なぜスコットランドを探った? テロリストはフランス人で仲間もフランスから乗り込んで来た。なのに捜索した場所がスコットランド?」
「ぼ、妨害して来た魔術の反応はスコットランドから確認されたそうですけど……」
国外ではなく国内か。一気に怪しい話になったな。
これがフランスからだったら、テロリストの仲間の可能性がかなり高いんだが、いや、そもそも魔術で幻術を妨害するなんてまどろっこしい事はせずに、そんな遠隔魔術が使えるのなら、もっと重大な部分で誤作動起こして最悪旅客機を墜落させればいいはずだ。テロリストの要求的にも最悪墜落させるつもりのようだったし。
それが落とすどころか、寧ろ飛ぶ手助けのような事をして、テロリストが墜落させる事なく要求を飲ませる自信があったから? いやいや、遠隔で幻術を妨害するなんて事ができるなら、旅客機の中の様子だって知ろうと思えば知れるはず。失敗したと知った上でやったことが妨害だけならば、やるべき事を間違えている。
だとするなら、テロリストと結社予備軍とやらは分けて考えるべきか? でなければテロリストが魔術師でなかった理由が思いつかない。結社予備軍が唆したのだとしても、それならそれで手助けが雑過ぎるし……それとも目を逸らさせる為の陽動としてでも使ったか? 妨害した者の正体はフランスの魔術師か内通者か、何分判断材料が少な過ぎて答えが出せない。分かったのは未だ敵っぽい不明戦力がイギリス国内にいるっぽいという有難くない事実だけだ。
「……なるほど、悪い事態ってのは本当にドミノ倒しのように積み重なるな。そう言えばアンジェレネさんは迎え……と言うか一応案内で居てくれるんだろう事は分かるんだが、他の修道女と動かなくていいのか?」
「私の部隊の隊長はシスターアニェーゼですが、そのシスターアニェーゼから
お目付役、と言うよりは連絡役か? アニェーゼさんとやらはカレンの友人であるそうだし、何より
煙草を灰皿に突っ込み大きく息を吐く。童歌『ロンドン橋落ちた』で有名なロンドン橋を過ぎ去れば見えてくる、世界遺産に登録までされた女王陛下の宮殿にして要塞、『
囚人達の末路として知られ、この門をくぐった者は生きて出る事はできないとまで言われた拷問と断頭台の施設、ジョン=フィッシャーにトマス=モア*2、アン=ブーリン*3、トマス=クロムウェル*4、などが処刑されている。これを思うと、自らを天使長と名乗った程のヘンリー八世の傲慢さが垣間見える。
そんな血生臭い話もあるが、現在では一般開放されており、世界最大のダイヤモンドなどが展示されている人気の観光スポットで間違いない。だが、用事があるのはそこではないらしい。
闇の中に踏み入るのを躊躇うように車を止めて外へと降りる。怪物の胃袋の中のような生温い空気の中、獲物を誘うように揺らめく炎がランプの中に灯った。その炎が影を食い破るように壁を照らし、これまで影に紛れて存在すら感じさせなかった扉が姿を現わす。
血を吸い取ったような暗い木の扉。ゴクリとアンジェレネさんが唾を飲み込み、俺もまた気を紛らわせる為に煙草を咥え火を点ける。戦闘が終わったばかりの戦場のように空気が微睡んでいる。新鮮ではない古びた血が、逃げ場を求めるかのように薄く重苦しい匂いを放っていた。それを吹き散らすように紫煙を吐けば、その紫煙を押し返すように木の扉が死にかけの鶏のような呻き声を上げて開いた。
「お待ちしていたのですよ法水さん、カレンが待っておりますのでどうぞこちらからお入りください」
重苦しい木製扉から顔を出したのは、
「さあさあ時間もないですのでお早く。正にタッチの差というものでございますね」
「何が?」
「さあ参りましょう」
全く疑問にオルソラさんとやらは答えてくれず、言うこと言ったと言うように扉の奥へと消えて行ってしまう。アンジェレネさんがオルソラさんの背に張り付くように付いて行ってしまったので、残されたのは俺一人。俺に話を聞けという話なのに、俺を置いていってどうするんだ。待ち惚けを食らう訳にもいかず、置いて行かれては内部の道など分からないので渋々付いて行く。
中に入ればすぐに真っ直ぐ伸びている狭い通路が待っていた。狭く暗く、滑らかではない乱雑に組まれた石の壁は、両側から迫って来ているような圧迫感を感じ、一定感覚に置かれたランプの炎が流動的に明暗を作り出し、血管のように脈打っているように見える。人同士がすれ違える程の横幅もなく、おそらく日本の武家屋敷と同じ、武器の類を振り回せないようにか。
「それで? どこに向かっているんだ? 遠いのか?」
「法水さんが来てくださらなければカレンへの拷問が始まってしまうところでしたから、カレンも私にさえ何も話してくださらず困っていたところだったのでございますよ。これも普段の行いと言うものでございましょうか」
「……あれ? なんか会話巻き戻ってない?」
「い、いつものこと! いつものことですから気にしないでください!」
アンジェレネさんがフォローをくれるが、普通に気にするんだけど。靴音の響く薄暗い通路を延々と歩かされるのはちょっと困る。終わりないよく知りもしない施設の中というのは俺でも不安だ。
「あー……それで」
「もう着いたのでございますよ。どうぞこちらへ」
「あ、そうですか」
なんとも間の取りづらいオルソラさんは足を止め、分厚い木の扉を手で指し示す。ギギッと開いた木の扉、中に入らずとも部屋の狭さが見て取れる。一歩そちらへと足を向け、中に入ろうとする俺を先頭にオルソラさんとアンジェレネさんも中へと入る。
部屋は三メートル四方ほど、中央には簡素な木製テーブルが置かれ、テーブルを挟んで椅子が二つづつ置かれていた。入り口手前の椅子には小さなクッションが置かれており、逆に部屋の奥側の椅子は粗雑で肘掛の部分には腕を固定する為だろうベルトが付いている。尋問をする側とされる側を目で分かるようにしているような感じがあり、椅子に手を置けば固定されているのか動かない。
ゆったりと椅子に座る気も起きず、アンジェレネさんとオルソラさんの気配を背に感じながら、背もたれに両肘をついて紫煙を吐く。薄く煙の広がる先、眉一つ動かさず慣れたように小さく息を吐いた。着心地悪そうな拘束服に身を包んだ
「……魔術師の尋問室とは質素だな。時の鐘の尋問室なんてもっとごちゃごちゃ拷問器具が置いてあるってのに」
「……ほとんどナイフだろう、ラペル=ボロウスが使う為の、肉の部位によって使い分けるのだったか? …………全く、なんで本当に来てしまっているのだ貴様という奴は」
そう力なく吐き出してカレン=ハラーは小さく笑った。柔らかなと言うよりは自虐の笑み。呼んだくせに来るとは思っていなかったのか。アンジェレネさんが何かが抜け落ちたと言ったように、いつもの覇気がすっぱり消え去っている。アンジェレネさんとオルソラさんは口を開かず、この場での会話は俺に任せているようなので、好きに喋らせて貰うとしよう。
「で? なんで俺を呼んだんだお前」
「……別に呼んでなどいない」
はい、もう話終わり! なんなのこいつ!
俺になら話す的なこと言ったらしいのに呼んでないとか、なんのために俺はここに来たというのか。急激にやる気が落ちて来るが、英国女王エリザードさんの頼みでもあるので無下にもできない。
「俺になら話すとか訳分かんないこと言ったんだろ? なんでそんなキモいこと言ったのお前、やばい言ってたら鳥肌が……」
「……居ると思わなかったからだ。だからなんでイギリスに居るんだ貴様は」
「もうやだこいつ! 俺もう帰っていい? いいよねもう、拷問頑張ってねー」
「ああ! お待ちを! もうカレン! 折角来てくださったのですからもう少し、法水さんもどうか落ち着いてくださいませ!」
部屋を出て行こうとしたらオルソラさんとアンジェレネさんに軍服の端を引っ張られた。カレンが拷問されるのがそんなに嫌なのか、カレンにこんな知人が居たとは驚きだ。足を止めて肩を落とし深いため息を一つ。筋力の差で二人を引き摺りながら出て行くこともできるが。
今一度カレンの顔を見る。
「お前の褒められそうなところは髪色ぐらいだったのにな、青白い顔しやがって、折角の髪が青
「……貴様はいつもそうだ。私の髪を初見で褒めたのなど、シスターと貴様とオルソラとアニェーゼぐらいのものだ。言いたい事を言う奴だ貴様は」
「見たままを口にしているだけだ。だからもったいないもったいない。額縁が最高でも中身がいまいちだとな」
固定された椅子にわざわざ座るなど面倒なので、アンジェレネさんとオルソラさんの手を払い壁に寄りかかる。口を開いても俺とカレンではお互い悪態を吐くだけで全く会話が進まないので、なぜ呼んだのかもう一度だけ聞く。これで話が進まないようなら最後だ。
「……ラルコ=シェックが今際の際に吐いた、いざとなったら貴様を頼れと世迷言をな。……貴様は極東だろうから、意味もない言葉だと思っていたのだが……」
「アレが俺を頼れって? 意味不明だ。だいたい俺を頼るような奴じゃないだろお前は。……はぁ、感謝の言葉は
「インデックス? なぜ……あぁ、ユーロトンネルか」
「俺はおまけだがな。で、何があった?
口を引き結んで肩を落とすカレンの姿が答えだ。浜に打ち上げられた海月のように力ない神の劔は張り合いがなさ過ぎて気が抜ける。言葉でタコ殴りにしてもいいのだが、萎れた紫陽花を突いても楽しくない。カレンの覇気がないとどうにも落ち着かない。だからカレンの前の椅子に腰掛ける。
ただ待つ。カレンが口を開くまで。
何がどうあれラルコ=シェックの言葉を信じ口にしたなら、それこそカレンも切羽詰まっているはず。
煙草が燃え尽き灰皿もないので木製机に押し付ける。
机の上に並ぶ燃え殻の小さな柱が二つ三つと増えた。
アンジェレネさんが我慢できずに身動ぐ布ズレの音を耳にしながら、五本目を咥えたところで目の前で紫陽花が揺れる。
「……バッキンガム宮殿に座す女王を殺せと命が下った。……教皇の命は絶対だ。だが、これまでそんな命が下ったことはなかった。イギリスにもローマ正教の者がいる。そんな者たちを女王エリザードは別に迫害している訳でもない」
「そりゃあの女王様だからな、寧ろ迫害してる方を民衆と仲良くぶっ飛ばすだろう」
「だろうな、ふふっ……これまで私が相手してきたのは人身売買組織や麻薬の売人、カルト教団がほとんどだった。
グッとカレンを包んでいる拘束服が膨れ上がる。拘束服と腕を固定したベルトが弾け、立ち上がり振り上げられたカレンの拳が木製のテーブルを叩き割った。どんな膂力だ……。打ち崩れるテーブルを目に首を傾げ、怒りで広がった紫陽花色の髪を振って握った拳をカレンは垂れ下げた。どうしようもない想いを押し込めるように。
「それで教皇に不審でも募ったか?」
「違う! 違うのだ……それは違う」
「何が違う」
「……バチカンでの内部抗争でローマ教皇が倒れられた。それを近くで見ていた孤児の少女がいた。そのローマ正教の幼子は、誰か頼れる者を探しララさんの元に来たそうだ」
流石はローマ正教の子供に大人気の
「その少女曰く、教皇は何かから街を守っているように見えたと、ただ一人、何かから……」
「ローマ教皇が?」
教皇が街をか。反乱分子か急進派かは知らないが、相手の方が過激なのか?
学園都市に宣戦布告紛いの演説をかましてくれたのは他でもない教皇だが、街を、信徒を守るだけの気概はあるのか。人は誰だって自分のために生きていると思っているが、教皇の身の内にも何か譲れぬものがあったのだろう。関係ない一般人を隠れず自ら守ったその精神には敬意を払おう。
「……敵は誰だ?」
「そう言うことではない! 分からないか孫市! 教皇はたった一人で街を守った。たったお一人でだぞ! その時他の者は何をしていた? 他でもない我らが長は! 少女の話では聖ピエトロ大聖堂に確かに
その言葉にハッとして咥えていた煙草を握り潰した。そうだ最もおかしな点はそこだ。ナルシス=ギーガーだけは必ず教皇の側に居る。先にナルシスさんが倒れたならまだしも、健在であったなら、動かないのはおかしい。何をしていたのか疑問だったが、そこに居ながら何もしなかったのが正解なら、
「我らに命が下ったのはその後だ。他でもない教皇の名でな! ローマ教皇が文を綴れるような状態でない事をララさんが教えてくれた! なら誰が我らに命を下した! 私は! 私はな孫市ッ! 私は‼︎」
カレンの叫びを身をよじる事もなく静かに聞く。誰かが
「……私はこんな事の為に剣を握っているのではない」
カレンが椅子に力なく腰を落とす。
毎日毎日剣を振り、神の敵を葬る為に技を研ぐ。行動原理は気に入らないが、目的は結局のところ時の鐘や必要悪の教会、天草式、どれとも違わない。平和の為だ。大事な者の平和の為。その剣は争いを生み出す為に研いだ訳ではない事ぐらい分かっている。結果として争いの渦中にあったとしても、根本にあるのは同じこと。
「それがお前がバッキンガム宮殿の前に突っ立ってた訳か」
カレンが何を想ってバッキンガム宮殿を見つめていたのか。
それは俺には分からない。別に知りたくもない。俺はローマ正教ではないし、
泣き疲れた子供のように縮こまるカレンに手を伸ばして寄ろうとするオルソラさんを手で制する。オルソラさんの気持ちも分からなくないが、俺はまだ聞きたい事を聞いていない。バッキンガム宮殿に突っ込まなかった理由は分かった。だがまだ分からない事がある。
「それでカレン? お前は何をしてるんだ?」
「……なに?」
「こんな薄暗い監獄の中で引き篭もるのが趣味だとは知らなかった。それがお前の描きたかった
憧れて、並びたくて、才能がないと分かっていてもそれでも諦め切れずに追い掛けたもの。
引き金引き過ぎて指の皮が擦り切れ血で滲もうが引き金を引いた。他の者より時間が掛かろうが、何度も何度も軍隊格闘技の技を繰り返し無理矢理体に覚えさせた。それは全てなりたい自分になるためだ。その為の場所はそこにしかないと自分で決め、這いずってでもそこを目指した。
それを努力と呼びたいなら勝手に呼べばいい。
それさえ超えて、ただそこに居たいから、自分が自分である為にする行為は正義だ。そこに決して悪はない。それだけは宗教も、科学も関係なく、素晴らしいものを追いかけることに悪はないと信じるから。
「
懐から
新たな煙草を口に咥えるが、火を点けようとしても上手く点かない。
「あの、法水さん?」
「……オルソラさんか」
かけられた柔らかな声に振り向かず、そのまま止めていたジャガーまで歩き寄り掛かかった。咥えていた煙草は点いてくれないので足元に捨てる。
「ありがとうございました」
「なにが? 礼を言われる事なんて何もしていない」
「ここに来てくださいましたでしょう? それに、カレンを元気付けてくださいました」
「俺が? アレを? 元気付ける?」
何とも的外れなオルソラさんの言葉につい笑ってしまった。アレを元気付けるなんて勘弁だ。俺はただ気に入らない奴が余計に気に入らなくなっていたから弾丸を放っただけである。
「違うのでございましょうか?」
「ああ違うよ、まるで違う。俺がアレを元気付けるなんて有り得ない。聞いたかさっきの? 結局あいつが落ち込んでるのは誰かの為だ。そんなんだからすぐ萎れる。誰かの為誰かの為、献身的で笑えるな。そんな事の為にあいつは毎日剣を振るんだ。誰かが傷つくのを自分が見るのが嫌だからじゃない。誰かが傷付いていたらその誰かが信じてくれるから剣を振るうのがアレだ。自分の為にでも振ればいいのによ、誰かに意志を預けるからああなる。剣を握るのは自分なのに、斬った責任だけ背追い込んで、意志は遠い夜空の向こう。それが
「法水さんはカレンのことよく分かっているのでございますね」
「気持ち悪いこと言うな」
嫌よ嫌よも好きのうち? な訳ない。嫌よ嫌よは嫌なんだよ。
俺は他人の為なんかで頑張れない。結局自分が全てだ。自分という狭い世界の中で生きている。その枠組みを放棄して、他人の狭い世界の中を行ったり来たりは出来そうもない。だが、カレンはそれを平然とやる。誰かの為、それは少し羨ましい。絶対言ってやらないが、カレンは俺にできない事をやる奴だ。黒子の笑顔、上条の笑顔、ボスの笑顔、多くの者のそんな顔を他でもない俺が見たいから俺は動くだけ。ただカレンは、そんな笑顔を見れなくても、信じてくれてどこかで誰かが笑っているなら動くのだ。
「悪友、いえ、ライバルというものでございましょうか?」
「俺とカレンが? どうせ言うなら宿敵だ宿敵。アレの根本が何か付き合い長いせいで知ってる。あっちも俺を知ってるだろう。知った上で苦手とかじゃなくて嫌いなんだよ。嫌敵手だ嫌敵手」
どうせあいつもまた狙撃手がいらない言弾放って来たぐらいにしか思っていない。それでいい。別に俺だって会う奴会う奴全員から好かれたいとか思ってない。俺は
「……だからどうせすぐ出て来るだろ。英国にはカレンを信じる奴が少なくとも三人いるんだ。それでしかも今は困ってるときた。そんな時にこんな場所で手を拱いている奴じゃない。神の為とか言ってマッハで出て来る」
「法水さんが仰るならきっとそうなのでございましょうね。ふふっ、法水さんは自己破滅願望者の困った方だと聞いていたのですけれど、思い違いだったのでございましょうか」
カレンの奴何言ってんの? 世界巡りながら俺の評判落としてんの?
「おいなんだそれは、ほらこれだ。だからアレは嫌いなんだよ」
「そう仰らず、前にいただいた法水さんも美味しゅうございましたし」
「ちょっと待ったなんの話? それカレンの牛の話じゃね? 今いるそれ?」
あらーと頬に手を添えて微笑むオルソラさんに俺の訴えは全く届いていないらしい。にこにこ
「相変わらず好き勝手言う奴だ貴様は、時の鐘の弾丸を寄越して霊装の触媒でも与えた気になったつもりか? 自分の事しか頭にない刹那主義者め、礼など言わんぞ孫市」
「いらねえわそんなの、背中に張り付いてるのにやれ」
「そうだな……すまなかったオルソラ、アンジェレネ。迷惑をかけたな」
「いえいえ、困った時はなんとやらでございましょう」
「シスターカレン、本当にもう大丈夫なのですか?」
「ああ、オルソラが甲冑も剣も持ってきてくれたからな。仔細ない」
それでか。
背に背負った大剣。
目に痛い無骨な鋼鉄の鎧。
紫と黄色のストライプ柄のズボン。
シスターとか超絶似合わないスイス衛兵の立ち姿。褐色の肌に血の気と覇気が戻り、俺の嫌いな
「それで? どうするんだカレン」
「バチカンに戻りナルシスさんに話を聞かねばならん。が、今すぐイギリスを出る事も叶うまい。我が友とイギリスのローマ正教の者の危機、ローマ正教の意志が分からぬ今、信じてくれる者の為に劔を握ろう。癪だがイギリス清教に協力せねば出るのも難しいだろうからな」
「いいのかよ、ユーロトンネルぶっ飛ばしたのだってローマ正教かもしれないのに」
「それも教皇が倒れられてからの可能性が高いだろう。ローマ正教の動きがどうにも不審だ。私は
カレンはそう言い腕を組んだ。欲しい言葉は受け取った。カレンは嫌いだが、その身に刻み込んだ技術は信頼できる。
「……目指す先が同じなら。と、言う事は組むのは久々か。こちらでも詳しいローマ正教の動きが知りたい。逸早く戦争を終わらせる為にな。ってなわけで頼むぞ肉壁」
「言っていろ、やるからにはこの世の乱れを綺麗に撃ち抜いてみせろ。外したら斬り殺すぞ卑怯者」
カレンに向けて舌を打てば、親指で首を搔き切る仕草を返される。
ひえっ、とアンジェレネさんがカレンの背から飛び退き、あらあらオルソラさんは微笑んだ。
なんにせよ、ローマ正教と
「カレンお前重いんだよ! 車傾いてんじゃねえか! 甲冑捨てろ! ってか助手席乗ってんな!」
「甲冑を捨てるわけないだろう馬鹿者! だいたいオルソラやアンジェレネを貴様の隣に座らせられるか! 修道服剥魔が!」
「それお前らが勝手に言ってるだけだからね! お前本当に後ろの二人と同じローマ正教? お前には絶対的にお淑やかさが足りねえんだよシスターカレン!」
「変な呼び方をするな貴様! 鳥肌立ったわ! その呼び方を許しているのはアンジェレネやルチアたちだけだ!」
ルチアって誰だ⁉︎ カレンの奴急に知り合い増やしやがって!
「お、お二人とも落ち着いてください! なんかさっきから揺れが酷いです⁉︎ これじゃあ走る棺桶ですよー⁉︎」
「まーまーでございますよ」
「シスターオルソラ! それどんな感想なんですかー⁉︎」
「分かった! カレンお前降りて走れ! 車と並走できんじゃねえのお前なら!」
「ふざけるなよ貴様! 貴様が降りろ!」
「俺運転手なのにッ⁉︎」
カレンとの話が終わってバッキンガム宮殿に戻ったはいいものの、会議は既に終わっていた。
もうやだこの