咲楽が生活していた家は、住宅街の端にある小さな一軒家だった。だった、というのは、少女の親がもう既に亡く、家を維持する大人が居ないのであれば、そこに幼い少女が住み続けることなど出来る筈もないからだ。
着の身着のままで、しかし家の方とは逆に歩いていっているのは、混乱の最中にある幼子でも、かろうじて理解できていた。
それに、少女に、父母以外の血縁ある者もない。祖父母の話も一度として聞いたことはなかったのだから、今の少女は、正真正銘の天涯孤独で。
──……そうなるくらいならいっそ、おとうさんとおかあさんと一緒に黄泉路を下りたかったなぁ、と。
車の影になっていて、生き延びていたとはいえそのまま放っておかれれば肉体的に死んでいた可能性は高かった。またそれをくぐり抜けても一人きりの孤独が咲楽の柔らかい心を殺すはずだった。
……そうならなかったのは、温かい、紛れもなく生きている猫がその体温を感じさせてくれたからで、けれどもだからこそ狂いきることのなかった幼子には、生き延びてしまったことはひどく酷な話でもあった。
近い銃声の音、赤く輝く月明かりにてらてら光る血に怯える咲楽をなだめるように舐めたのもやはり猫で、だからきっと、少女を抱えあげてどこかへ向かっているこの男を連れてきたのもそうなのじゃないか、と。
──服からは、花火のような匂いがした。
小脇に抱えられた少女を見下ろすようにして、男の肩に収まっている猫がにゃあと鳴く。
覗き込んでいる目がひどくきれいだった。赤い月明かりの中でも変わらない、甘そうな蜂蜜色の金に、抜けるような空の青。
不安に思わせる今の空よりも余程安らぐ色は、けれどもこんな最悪の時に見るべきものじゃなかった。でもそれにこそ咲楽は救われた、それが事実だった。
自分が死んだとして、父母と共に逝けるだろうけれど、そこにこんなきれいな目の猫は居ないだろうから、それがほんの少し心残りで、親と天秤に掛けてしまった自分に咲楽はこっそり嫌悪した。
轟音がして、小脇に抱えられている状態から身をよじって後ろを振り返る。大通りのビル群の壁を走る自動二輪が遠くに見えた。
急ぎめに歩いていた男は、その速度を緩めないままに、空いている手で器用に咲楽の視界を覆ってきた。ほんのりとした温もりに、視界がないのに何故だかほっとする。
父よりも少し低めのテノール音は咲楽に、ややぶっきらぼうな調子で「悪い夢は、見なかったことにして忘れたらいい」──と、そんなことを言う。
その言葉がどこまでを指しているのか、言われている咲楽自身が決めろというのは、無神経で無自覚の残酷さがある。
「に゛ゃー」と猫が非難の声を上げたのが聴こえて、けれども咲楽は、その言葉の中に不器用な、庇護者めいたものを確かに感じていた。
咲楽は、あの空すら飛んでいるように見えた魔法の二輪車を、悪夢だとは思わないけれど忘れることにした。
咲楽は、この日の、父と母が目の前で息絶えた記憶を悪夢だと断じているけれど、見なかったことにも忘れることもしたくはなかったから、心の傷を自らも承知の上で、脳裏にしっかり刻みつけた。
**
じぃ、と眺める私の視線が気になったのか、ご主人が私の方に顔を向けて「どうしましたか」と首を傾げた。
基本的に私が物分かりがいい猫であるからか、私が望んだことについては割と甘い判断であるご主人であるので、戻ってきた私に対しては頬のあたりをむにむにする罰を下されるだけで済んでいた。単にご主人が癒されたかったからとかそういう可能性は表に出さないのが利口だろう。
……あの後、歩く彼に抱えられたままのサクラは、精神的なストレスやら疲労、処理しきれない情報に幼い体がキャパシティを越えたようで、気を失うように眠りについた。
私の、無言の訴えを受け取った男は、小さな獣であった私が未練を思うくらいには付き合いがあって、しかもそれが一方通行ではなかったようだった。この意を汲み取ってくれたことは何も偶然ではなく、おそるおそる、ご主人の居ないところでひっそりと呼ばれた名前は、生前の仔猫だった私の、まぎれもないこの男が少年期に呼びかけていた名前である。
どちらも私であって、だからご主人の飼い主としての嫉妬などは、人間の意識を持つゆえに分からなくもないのだけれど、そこを突き詰められると少し困ってしまうところである。
私の座っている背中に泣きついて「小雪ママ……」とメンタルを崩壊させている職員から離れると、背中に断末魔じみた悲鳴を受けた。無視してご主人の膝に飛び乗ると、なんだか微妙な表情で「相変わらず人気者のようで」と言われた。……え、これ私のせいになるんです?そもそものところ猫なんて奔放なものでしょうに。
むしろああいう人はセラピーより仮眠させるべきだと思う。そうしたらきっと、私の背中の毛が顔面のどこから出たか分からない汁でしっとりさせられる被害も減るだろうに。
背中に一度触れて、何事もないかのように手を無事な頭に移動させたの、分かっているんですよご主人。次の休みに洗ってやろうとかいう気づかいも筒抜けですよ。
ぐりぐりと頭を撫でられるのに身を任せていると、「あの男は気に入りましたか」と言われた。
──……ほら、やっぱり気にしてる。
その視線をたどると、その先にはある人物、異能者のデータが紙にある。
織田作之助。耳に馴染むような、そんな名前だ。
初対面で喉を鳴らしたことをさすがに気にしているらしい。……言われてみたら確かに、明確に、自発的に人に近づいたのは私が思い出す限りでは彼だけだった。そしてそれは、私に前世という下地があって、そのことを理解し受け止める人間の意識があるからだ。
……異能という人外じみた力が存在する世の中で、そのくせ前世なんていうのは似たように埒外のはずなのに夢物語の出来事である。同じファンタジー分類だと私は思うのだけれど、理解はされない。私自身は肝心のところはこのまま秘めておこうとしているけれど、やっぱり、ほんの少し、爪の先くらいは不公平だと感じてもいる。
私と、彼が世話した猫。それは、同じ存在でありながら別個体である。その事実は、私以外の誰もが知らなくてもいいことだ。
懐かしさは、ご主人がご主人であることを否定することはないのだから。何も変わらないとは言わないけれど、だから心配しなくていいよ、私のあるじさま。
自ら頭を手のひらに押しつけて、私はご主人の温もりを感じながら、次の言葉を待つ。
「あの夜に、子供の側に居たらしいですね」
うん、そうだね。……呼ばれたから。
「彼……織田作さんが、拾った子供を養うことにしたようです」
うん。分かってる。彼はそういう性格だったよ。
「うち一人の、……女児が、あなたを恋しがって泣いているらしいですよ。小雪」
おや、と思って、冗談混じりのように「罪作りな猫ですねぇ」と言うのを見上げると、ちょっと虚ろな目をしていた。余裕なさそう。
うん、私は一人しか居ないからね。必然的にご主人と居る時間が減っちゃうね。
でも、たとえ私が、ご主人を最上級に大事に思っていたとして、それが子供を泣かせてはいけない理由にはならないから。
「小雪」
「にゃ」
「お願いですから、あちらに遣っている間に、あちらの子になりたいだなんて言い出さないでくださいよ……!」
「…………にゃん」
信用ないなあ。
がぷ、と指を甘噛みして歯をたてると、上目遣いで見上げたところに私によく見せる弱さがあったので、まぁこれも飼い猫の特権かな、と思いもするけれど。
……でも完全に許した訳じゃないので、いつもより多めにおやつ要求しましょう。食べ物は嗜好品であって実際不要な謎体質ですし、太るはずもないので体重は心配ないですよ。
抗争後、その諸々の処理。
小雪:猫主。特務課の狂える社畜からの呼称は「小雪ママ」。
勝手に抜け出した件はご主人にとても怒られる。
かつてのご主人にも等しいひと(織田作)ももちろん大事だけど、やっぱり一番はご主人。理性+感情は感情オンリーには勝る。それゆえに優先度はご主人≧織田作。
安吾さん:ご主人。今更猫なしの生活には戻れないもふジャンキー。
割と深刻に猫が離れていかないか心配しているが、気にしすぎである。精神は鋼鉄ではない。
部下が猫の背中に顔を埋めて毛並みをしっとりさせているのを見ると微妙な顔をする。たまに仮眠室に叩き込む。
織田作:この後咲楽以外にも子供を拾った。
色々衝撃的なところを見た子供たちが錯乱したり泣き出したりするのを世話することになる。
後々親を亡くした彼らの家に行って写真などの品を取ってこれたら、と思っている。
咲楽:親の死よりも生への執着がぎりぎりのところで勝った少女。
裏社会の、見てはいけないものについて何となく察しているし、それを目の当たりにしたら戻れないことも理解している。
小雪は猫の友達。抱っこしたりきれいな目を眺めて心を落ち着かせている。