夏の暑さ、じっとりとした湿気が体にもったりと纏わりついていた。
日に当たっていなくてもその高温が体温を奪っている。冷房なんて上等なものはない。力尽きたらそのままだ。
置かれた水の入った器。そろりと舌を伸ばす。
──夢を見ている。
それはかつて、猫だった私が経験していたことだ。
短い生の一部をこうして時折り追体験して、けれど目覚めた時に、夢で見たというその事実を思い出すことはない。
現実であればただその記憶の奥底にあるもの。それを気まぐれのように、ふわりと表層に浮かべて思い出すだけで、そこにはあまりリアルな感情は伴わない。
夢の中、私の入る段ボールは、これを置いた人が出来るだけ静かなところに、野犬に喰い殺されることがないようにと注意を払って選んだ場所にある。
だから、人気はほとんどない。来訪者があるとすれば、それは──
足音を遠くに捉えて、耳をぴくぴくと動かした。
近づいてきている。動物にしては重く、人間にしては身軽。
すぐそこまで来て、段ボールの上部が開く。覗き込んだ少年が、「居た」と控えめに微笑んだ。
──……これは夢である。
私はこれが現実でないことを自覚している。
少年の鳶色の目が静かに瞬いて、生活臭のごとく当たり前に香る硝煙の香り、そこに甘いミルクの匂いが混じりあっていて、くるると空きっ腹が早く早くと訴えた。
入っていた水をその場に捨てて、ミルクが注がれる。とくとく、器に満たされたそれに誘われるように私は飛びつく。ちろちろと舐めると、ひんやりと冷たい。
未だ乳飲み子に等しいやわやわとした体で、けれども私は、死に逝く中でこの少年に見つけられるまでを耐えることが出来たくらいには幸運で、生き汚かった。
「最近は此処も危ない」
呟くように言った少年が、ミルクを飲み終えた私に出来た口ひげ(ただ、体毛も白色なのだから見た目ではまるで分かるはずもないのだけど!)を服の端で拭ってから、抱え上げ何処かへと歩いていく。
私は、抱えられた腕に体を落ち着けながら、それでも外の世界に興味が尽きなかった。
視界が高い。世界は相変わらず広くて、けれど地べたから見上げるしか出来ない時には考えたこともなかった「果て」というものを感じていた。
歩いて歩いて、外への関心が一定の歩調による眠気に負けかけていた時に、ひんやりとした石畳に降ろされる。
此処の方が過ごしやすい、と静かに言う声は、けれどもあくまで記憶であり、夢の出来事だ。
私は心ばかりの礼でちろりと少年の指を舐め、ころりと転がった。
街の外れにあるのだろう、そこそこ木が繁る中にある神社。木陰が多く、自然の匂いが鼻を擽る。
私はにぃ、と鳴いた。幼い思考できっとありがとうと伝えたかった。
鳶色の瞳が柔らかく細まって、硝煙の香りを纏わせた掌が壊れ物を扱うかのようにそろそろと背中を行き来した。
……
…………
………………
ぱち、と目を開けると、「おや」と言う声と一緒にご主人と目が合った。
ソファーに寝そべっている私と視線が交わるということは、ご主人はわざわざ膝をついて私の寝顔を眺めていたらしい。ご主人といえど一応私もレディなんですけど、寝顔を見るなんてそこのところどうなんですか。
ぱち、とまばたきする。眠気を取り払おうとしているのに、やわやわと手が背中を撫でてくるからまたちょっと眠くなった。
首を振る。視線を感じて起きたのか毛並みを触られるのに起きたのか、定かではなかったけれども、その触り方に何か違和感を感じる気がした。
はて、と私は内心首をかしげて、それから、そういえば夢を見ていた、と思った。漠然と、その事実だけは理解していた。
何を見ていたかは覚えていなかったけれど、まあ大切なことならばそのうち思い出すこともあるでしょう。夢とは総じて
耳を立てて見渡すと、カリカリと何か書き付ける音だったりが相変わらずしている。
どうやらセラピー待ちの人は今は未だ居ないらしい。たまにふらりとやって来るようになった三毛猫も今日は見ていなかった。
ポートマフィアとやらに潜入しているらしいご主人(なんと、ご主人の名前は私の人間の知識では結構有名人のうちに入っている坂口安吾と同名である)は、少なくとも私を拾ってからはここ数日、本来の仕事場の異能特務課にずっと詰めている。だから、書類地獄に忙殺されている以外の仕事の姿を、私は確認していない。
人が圧倒的に足りていないのだろう。
かなり仕事が溜まっている書類、その上に潜入、たまに新人の育成。体を壊すに決まっている。
……ご主人はもう少し他の人に書類仕事を割り振るとか、細々としたものでも案件は出来るだけ引き継ぎ処理とかするべきだと思うの。
「小雪、あなたも一緒に潜りましょうか」
ソファーに上半身だけ乗り上げながら、ソファーに転がる私を抱えるご主人は何だか甘えているようだ。
潜る、とは潜入のことである。
返事なんて求めていないような、断言する形で言ったご主人に、そういえばこの人が私を拾ったのは激しくなりつつある抗争の人死にの記録付けというボランティア活動に心を潰されそうになったからだった、と思い出した。
気まぐれに拾った、なんて嘯くけれど、すがるための何かを無意識にでも求めていたのだろう。無理もない、組織の中でも割と上の地位にあるのだろうと察せられるご主人は、有能だというのがあっても若すぎる。
自分の精神に益なんてない慈善事業なら手を出さなければいいのに──とはいっても、その記録をポートマフィアの首領に提出しているから、接点を得たという点では益だったのだろうけれど、それはそれである。
とんだお人好しなご主人を、だから私は好ましいと思っている。
私は拾われた後に逃げることも出来たのだ。自由に気ままに、私が何故人間の記憶を掘り起こしたのか、ゆったりと模索しながら野良のまま生きてもよかった。
何だか放っておけないこの人を、その精神の安定を少しばかりでも手助けしてやれるなら。その程度の情は湧いていた。
私は傍に居ることしか出来ないけど。それでもいいのなら、一緒に居てあげるよ、ご主人。
彼の腕からするりと抜け出して(幸いにもその拘束はゆるかった)、同じ高さのテーブルにひょいと飛び乗る。五十音表の紙は、綺麗に書き直されてラミネートまで行い、私との意思疎通が出来るようにされている。
振り向いたご主人に見えるように。了承を示す◯印に前足を乗せて、にぃ、と私は鳴いてみせた。
疑問符もつけないで、潜りましょうか、そう言ったくせに、私の返事にひどく安心してよかった、とやや気の抜けたように微笑むものだから。
大丈夫だよ、ご主人。
ご主人が頭を撫でて、すっぽりと首輪を嵌めて、「迷子にはならないでくださいね」と言った。
野良だったから、そのままふらりと居なくなることを心配してるんだろうか。拾われたのは私だけど、結局望んでご主人のとこに居るって決めたのだから気にしなくてもいいのにね。恥ずかしいから言わないけど。
それにしてもご主人、私外の散策とか諸々を控えてまであなたとほとんど一緒に行動してたと思うのですが、いつこの首輪を手に入れたんです?
にゃんこ:小雪。猫主。異能特務課セラピー担当。
連日徹夜or重要案件(殺伐)に心を疲弊させた職員が滑り込んでオギャるのを眺めながらよしよししている。
人間の意識はあっても、個人の記憶はない。あくまでも一般知識や、周りにあったものだったら既視感を感じる程度。猫の記憶はあるけど意識的に思いだそうとしなければあんまり思い出さない。夢の出来事も実際は記憶にはあるけど、起きたら夢を見たという事実すら朧気になるのでほとんどノーカン扱い。
安吾さん:ご主人。
小雪さんを拾ってからしばらくはずっと特務課に詰めて書類と格闘していた。肉体的には割と強いゴリラだがそれに比べると精神的にやや弱い(という設定。本作品内のみです)。
一番頻繁にセラピー受けてるのはこの人。ただし頻度が多いかつそもそも飼い主で触れ合う時間が長いため割と落ち着いている。オンオフの切り替えが早い。
他職員:特務課。
初めは遠慮してたけど猫セラピーに負ける。
そのうち幼児返りを起こし盛大にオギャってからスッキリした後何事もなかったかのように仕事に戻るというサイクルを繰り返すので、正気の職員たちからすれば最早ホラー扱い。
個人的な意見なんですけど、安吾さんって精神的に少し弱いかな?と思うことがあります。懐に入れた人に対しての情が篤いというか。精神的に弱いけど交渉とか得意なせいで面の皮が厚そう。それで溜め込みそうだなぁ、と。
『黒の時代』で、情報員の重要性について書かれている箇所があります。そのなかでも特に優秀な安吾さんともなれば、拷問して情報を吐かせれば、それは黄金よりも貴重だから生半可な人間には任せられない、とも。
潜入するくらいなので身辺は整理していると思います。何も知らない一般人に類が及ぶことがないと踏まえると、◯◯がどうなってもいいのか?という脅しはきかず、必然的に身体的苦痛を与える拷問オンリーになると思うんですけど、でも潜入前に多分拷問の訓練しますよね?特務課だって情報漏らしたらやばい機関には違いないし、治癒の異能の一人くらいは確保してそうですし。
という訳で、安吾さんって、自分ならどうされてもあんまり気にしないけど、他者の、特に生き死にに関しては弱そうだな~って思った結果、本作品のちょっとメンタル弱めな安吾さんが社畜コンボをくらう→小雪ちゃんを拾うに至る、という感じになります。一応解説。