横浜が “魔都” という呼称を持つなんていうのは多分、初耳であった。
人間の頃の、よく覚えていない記憶を探ると、ふっと林立するビルや人の群れが頭をよぎった気がする。この街よりも煙たいような空気で、人はもっと無機質だったと思う。
私もそれなりに都会といえるところに住んでいたのだろうけれど。日々をのんのんと生きていただろう私が、でも知らない可能性というのは、考えにくかった。
密やかにささやかれるものでも、人の口に戸は建てられぬ。そういうものだから、魔都、といわれて、イコールで横浜、となるこの世界に、少し驚いた。
その結論を出してしまうのを、怖がっていた節があるのを、認めよう。
私は、確かに怖かったのだ。
人間と同じレベルで考える頭が出来たということは、野生の赴く本能のままに動けないということを意味する。深い思考は特権ではあるけれど、同時に、複数の選択肢の中から一つを選びとらなければならないということを意味する。
……ご主人が、私のご主人でない知識上の「坂口安吾」と同一であるとは、到底考えられないから。
私が猫になった、それでも唯一猫足りえないこの人間の意識に食い違うものがあるというのは、今更ながら未知に遭遇していたと気づかされたようで。それを認めるのは恐ろしいものなのだと、今は十分に思い知らされている。
ご主人が私の知る「坂口安吾」であるならば、まず存在しえないはずの人物が生きているのだから。
夏目、と名乗った猫の友は、「銀髪の男に出逢ったら仲良くしてやってくれ」と──前回遭遇してお喋りをした去り際に、そんなことを言っていた。
銀髪なんていくらでも居るのに、それだけの特徴で分かると思っているのだろうか。どうにもこの男は、猫の私と話す時、どうにも色々と簡略化して話す節があった──そういう最低限の情報を、普通の猫であったなら、何の興味も起こらなければそれすらも咀嚼しない。本来の猫には、そういう奔放さがある。私が違うだけで。
「前のように、腰に剣を佩いていれば判るというものを」とぶつくさ言われても、そんな特徴だけでは分かるものも分からないでしょうに。
……というか、剣?その彼は剣客なのか。
どれだけ物騒な世の中なんだ。
よく分からないけれど、ならせめて名前だけでも、と私は普通じゃない猫らしく提案をして、結局その内心の困惑しているそばから墓穴を掘ってしまうのだから笑える話である。
いや、実際何にも言われなかったのだから多分挙動不審にもなっていないのだろうだけど、心情的にね。全く笑えることじゃなかった。
何でもその人は不器用な性格で、ちょくちょく野良猫を手なづけようとして失敗するという。声を掛けられたのは、一応私も元野良だから。私は例外中の例外だから何の参考にもならないと思うけど。
基本おやつを持っていけば野良はそれなりに寄ってくるでしょう、とは言ってみたものの。
「いつも煮干しを持っていくのに触らせてもらえないらしい」
そもそも野良に馴れ合いを求めるのが無駄というものだと思うのだけど、そこのとこどうなんでしょう……というか、多分それ、うまいように貢がされているだけではと思うの私だけですかね。
なるほどなるほど、それで空気の読める猫もとい私に白羽の矢が立つと。理解しましたよ。
……いやでも、仲を取り持つとか普通に無理なのでは。取り敢えず持っていくおやつをグレードアップさせれば…………いやそれこそ貢いでるじゃないかダメだこれ。
「猫と遊びたいだけならナツメが行けばいいじゃない」
「中身が人と知れていながら無邪気に戯れることなぞ出来るものか」
──その、男の名前は福沢諭吉、といって。
私は素っ気なくへぇ、と言ったつもりである。
もしも見つけたらね、とだけ断ってから、隣に座っている三毛猫から顔ごと逸らした。
これでも私は、娯楽溢れる日本で暮らしてきたという意識を持っている。
だから異能という存在もまあどこぞのファンタジーにありがちな固有魔法のようなものかと自分を納得させたし、日本の近現代文学史に名を連ねている人々の名前とまるっと同じ人が文学活動なんて知らないと言わんばかり、その異能とやらが関わる仕事に従事していて、しかも私が知識として把握している文豪たちの生年?没年?そんなの知ったこっちゃねえと言わんばかりのことも、それがここの事実であるならと、なんとか咀嚼しきったけれど。
少なくとも私の生きていた世界、そこの知識では、ご主人である坂口安吾という文豪と、同じく文豪の福沢諭吉という男は、生きた年を重ねてはいない。
そのことに気づいてしまったから、まざまざと見せつけられたようで、ぞっとした。
ご主人から首輪をつけられて(たまに緩んでいないか確認されて、その度に満足そうな顔をされるので、大事にされているのだなあとは思う)、数日経ったある朝に外出許可が出た。
ご主人いわく、「そもそも閉じ込めているつもりはなかったのですが」と言っていたけれど、まあ危険でもなんでもない屋内でぬくぬくと出来るのだから、そこまで苦ではなかった。
ただ、まあ、たまには外に出たらいいだろう、ということで。あと、思い出したように私のお腹にぐりぐりと頭を押しつけてくるこの飼い主様のストレスも、なんとなくやわらかくなった表情なので多少は改善されてきていると判断したから。
ふふん、これでも私、ご主人の気をつかえるセラピー猫なのでご主人の苦になることはしませんよ!
──と、そういった具合で外に散策に出ることにした。
今日は、出勤するご主人に途中まで一緒に行って、職場への道のりを半分ほど進んだ四つ角の場所で別れた。
「暇になったら僕のところに来てくれると嬉しいんですがね」
苦笑してわしゃわしゃと頭を撫でて、そうしてまた歩いていくご主人の後ろ姿を塀の上から見送り、さて、と。
この体、人間の意識のない、正真正銘の猫だった頃、私はこの横浜のそこかしこを放浪していたらしい。ぱた、と目を閉じたところから記憶を掘り起こそうとして、でもまあどうにかなるだろう、と思い直しすぐに目を開けた。
この横浜という街は、一定以上の生活水準を保てている人と、そうでない人で居住地が綺麗に分かれているように思う。
もちろん後者の方が治安が悪く、警察などの目が届かない。黙認されている節すら見えるのは、きっと取り締まる人員が足りていないからで、ご主人が終わらない仕事と組み合っているのにも納得できる。
薄暗い路地裏への入口近くを通りすぎる。……興味はそそられるけれど、遠慮しておこう。
私は平和志向であるし、そもそもあの辺りを縄張りにするような猫は、大体が荒っぽくて好戦的で、私はあんまり好きじゃない。そういう気性の猫には近づかないのが吉だ。なにより、ご主人が洗って整えてくれた毛並みが汚れるのはちょっと嫌なので。
ててて、とそのまままっすぐ進む。
途中から見覚えのある場所に来て、そういえばここでご主人に拾われたのだった。
住宅街の手前、店が建ち並ぶ商店街。通りの端に沿って歩く。
ふ、と影がかかって、幼い歓声で「ねこだ!」という言葉が聞こえた。
幼い少女が屈んで私に手を出している。周りをさりげなく見渡しても親の姿は見えない。この年頃の子なら好奇心のままに動くのも仕方ないね、と納得する。
差し出されている手は、幼子らしくふくふくとして柔らかい。子ども特有の日向の匂いがする。
ふ、と差し出された手がダブって、何か足りないような気がするのを知らない振りをした。
火薬の匂いをさせる人は、少なくともこの表の道を歩く雑踏の中にはほとんどいないだろう。
私は、にぃ、と鳴いた。
嬉しそうに小さな手で私を撫でて、頼りない手つきで抱き上げられる。小さめの猫なので、子どもでも頑張ればギリギリ抱っこできるらしい。
なお、私は太っておりませんので。まぁ、食事が嗜好品になってしまうこの体で太れるのかも分からないけども。
ぽそぽそと喋りかけるのがいじらしいので、その肩口あたりに、ぐりぐりと頭を押しつける。
くすぐったそうに、くふくふと少女が笑った。
「
「────おかあさん!」
探したよ、とため息まじりの女が「まったく、はぐれるんじゃないよ」と言って、私に目を止めた。つい、と手を伸ばして、ご主人がつけてくれた首輪を確認したらしい。
「飼い猫か。……なら安心だね」
「一緒に待ってくれたの!」
「そうなのかい。どれ、…………大人しいね」
少女の腕から取り上げて地面に下ろされたので、利口に座って彼らを見送ることにする。
少女──サクラが母親に手を引かれながら、空いたもう片方で私の方へ手を振った。
ゆら、と尾を揺らしたのは見えただろうか。
また会えたらいいね。その言葉だけを、心の中で転がして、私も取り敢えず商店街を抜けたかった。
雑踏を横目に進むと、住宅街が現れる。
この辺りまで来ると、もう猫は野良でも温厚な性格の方が多くなってくる。数も多いから、縄張り争いについても緩いもので、あまり機能していないといってもいい。
密度が高いから、お気に入りの場所というものは自然と重なるものだ。風通りのいい場所、涼しければなおよし。
開けた公園の木陰に、たくさんの猫と人影を発見する。
一番近くに居た猫がのっそりと首だけ持ち上げて、新入りか、というように私の方を見た。
一人の人間から一定の距離を空けて、半円状にも見える形でくつろいでいる猫たち、煮干しの袋を傍らに置いて長椅子に腰かけ、何をするでもなくそれを眺めている壮年。銀髪だ。
まさか初っぱなから
ぱちん、と目が合って、いやこれは猫が近づかない理由も分かると思った。というか動物全般。
剣客と言っていた夏目の言葉が思い出されて、まあ正にそんな感じ。研ぎ澄まされたような強者の気配だ。不器用にもそれを隠そうとしないままに手を伸ばしたところで、元々馴れ合いを嫌う野良の猫たちが近づくかといったら、答えは否である。
まあ、例外はどこにでも存在するし、人間的な性格ではこの壮年は悪い男じゃないのだろう。近づくのは猫の本能が躊躇うけれど、まあ出来ない訳ではない。
ところで、これはご主人にも言ってないんですが。
私、煮干しよりも鰹節派の者なので、ご主人以外で私を手なづけたいなら鰹節持ってきてくださいね。
小雪:猫主。新装備は首輪。
自分が人間の頃に過ごした世界と全く異なる所で生きているのだと確信する。異世界は実在していた。社長、咲楽に散策中遭遇。さりげなくフラグ建築士。
実は煮干しより鰹節派。
ご主人:安吾さん。
セラピーなしの出勤。着いてから◯徹中の部下を見て、やっぱりアニマルセラピーを導入すべきでは、と真面目に考える。
取り敢えず部下は仮眠室へ向かわせた。
咲楽:後に織田作に拾われることになる女児。
まだ両親は存命。街はピリピリしているけど、まだそこまで危険が迫っているとは思っていない。商店街で迷子になったときに、道の端にいる小雪を発見する。
綺麗なオッドアイがお気に入り。
社長:福沢諭吉。武装探偵社社長。
猫集会に足繁く通う壮年。剣客としての強者のオーラが自然と発せられているので、動物はあんまり近づかないし近づいても大人しいか元々気性が荒いのが喧嘩を売ってくるかの両極端。
本人的には不器用なので、構ってほしいと近寄ってくる程懐かれないと手は伸ばさない奥手。おやつをやって眺めていても、悲しいかな実際に野良猫に懐かれるような日は来ないことは小雪だけが知っている。
▫️ひえっ、なんか評価に赤色ついてるしお気に入り一気に増えてるの何事ですか……???もうひとつの連載よりも何となく期待度が高いような気がしますね(震え声)
▫️文ストって、交友関係とか好きなもの嫌いなもの、大まかなキャラ設定は合致させていますけど(まあ性別やら云々はおいといて(・×・))、年代順で年齢決まってる訳ではないのですよね。私的にはそこが少し残念であったりします。
この作品でだと、ちょうど目に見えて分かりやすい形で猫主と関わり深くなるだろう人が都合よくいらっしゃったので(安吾さん(1906~1955)と福沢社長(1834~1901)ですね)。
ただ、年代順でやったら多分福沢社長が一番御年を召されてる感じになるし、夏目先生のいかにも全て知っています的な強キャラ臭が若干薄れてしまうので、まあ文ストだとそういうものなんだなと考えないことにしました……敦くんが太宰さんと同年生まれで織田作より歳上になっちゃうからね…………それなのに現実も文ストも織田作(推し)が夭逝されていることが一番心が辛かったです。泣く。