その男を正面から見た時に、強烈な既視感があった。
最初の初対面があまりにも酷くて、あまりの酷さにところどころ意識が飛びかけていたから、実際にきちんと認識したのはご主人が彼らを備え付けの小さな浴室にぶち込んだ後のことだ。
その場に居ないと分からないだろう。最初なんて、そりゃあもう酷かった。
正直私が猫であることを後悔するくらいの悪臭。
まだ彼らが地上の会計事務所に居ただろう時から既に背中がざわざわとしていて、隠し部屋への道が空いた瞬間に扉越しでも分かるような臭いが流れ込んでくる。
冗談じゃなく嗅覚の死を覚悟した。
私は私の鼻への甚大なるダメージを回避するのか、あるいはご主人と共に逝く(誤字ではない)のを臨むかを天秤に掛けた。しかし前者を選んだところで風通りのない地下に逃げ場なんて無い。酷い二択だった。これが外だったら脱走してたかもしれない。
……うん?ご主人を見捨てる?私がそんなことする訳ないじゃないですかはははそんなまさか。
悪臭も酷いものだったけど、それ以上にヤバいものがあったからね!本当何で生きてるのかなあの包帯だらけの少年は……変なもの周りに撒き散らかさないで欲しいですよもう!!!何かぬるっとした触手っぽいもの余波としてこっちに来たんですからね!!気合でひねり出したにゃんこぱわー的なやつで消し飛ばしたから害ないけど。
霊的に悪いものが纏わりつきすぎて正直本人が見えただけでも奇跡だと思っている。
そしてその横に立っている人からまじまじとした視線が突き刺さっていることを、色んなインパクトにやられてうまく視覚情報を認識しきれていなかったその時の私に求められても困るとしか言いようがない。
ご主人は駄目にされた一張羅を悲しげに見やって、上着を脱いでから、鞄の中に入っていたビニール袋に突っ込んでいた。人間の嗅覚はすぐに馴れてしまうから(いわく腐った佃煮の匂いらしいけど、ご主人食べたことあるの?)、こういう時ばかりは羨ましいなぁ、と思って、私が余裕を取り戻したのは二人の人が浴室に押し込められた後のことだ。
まったく、ご主人にも仕事があるんだから勝手にしないでもらいたいですね…………ところであの二人、着替えとか手持ちにあるんでしょうか。
そんな自分かわいさからの心配を彼らが知る由もなく、浴室から出てきた二人を見て、私はぱちりとまばたきをした。
お風呂に禊効果があったのかは定かではないけれど、包帯塗れの少年は周りを蠢いた何かはつるっと消えてさっぱりとしているし、臭いも綺麗に無くなっていた。発するものが無いからか部屋に漂う臭気も心なしか薄くなっている気がする。私は安堵の息をついた。
半径一キロ内にだって入りたくないような代物をそれこそ目と鼻の先といわんばかりに嗅がされたのだから、こういう反応をしてしまっても仕方ないと思う。
そして彼らの姿を改めて見てから、片方の人の視線の強さに、動揺からゆらりと尻尾を揺らす。
……私は転生を繰り返す猫であるからにして、それなりの記憶を(人間のはすっぽり抜けているが)有している。
その生で出会う人が、次、あるいはそれよりも以降に再び接触することは、考えなかったといえば嘘になる。
ただ、あり得ないとまでは言わないけど、可能性はほとんど無いと、私はそう思っていた。
転生を繰り返す、けれどその生まれる時期も時代も、私の一存で決めることは不可能だ。時は何時だって過去から未来へ流れゆくことは変わらないし、その間隔がどれくらいなのかそもそも一定ではないから悟ることこそ不可能だ。その上私は実際に、世界線が異なることだってあるだろうことを既に知っていた。
だから、これはきっと幸運なことだ。
────とぷん、と。
私にしては詩的かもしれないけれど、言葉に表すのなら、起きながらにして夢に飛び込んだようだ、とでもいうべきか。
戸惑ったけれど、それも一瞬で、お互い様だと思うのだけれど、彼が動揺を面に出すのなら、それは真実初見の風呂に突っ込まれる前だ。
……なんとも締まりがないのは、許してほしい。不可抗力だし、それでも足りないくらいの汚泥と血と油や鉄は、大抵は動じない(ように見せている)私でも刺激が強かったのだから。
ぱち、ぱちとまばたきをして、そういえばそうだったなぁ、と考えた。撫でられる時に「これじゃない」と思わされることも、硝煙の匂いを身近に懐かしく思うことも理解した。
ふわりと湧いた記憶は、夢で見ていたことで。
そもそも私が嘗て経験したことだけれど、それは人間の私ではなく。
その時の仔猫の意思が、あるいはそれを半端に引き継いだ
人間の意識を主軸とする限りははっきりと思い返すことの無かった筈のこと。この意識が人に依っている限りは無闇に掘り返そうとすら思わなかったことは、かといって、実際無遠慮に掘り返された訳でもなく、かの人の姿を
そっと目を伏せて、不自然ではなかろうかと思いながら、私はその視線から顔だけは逃げた。
──かつて。
ある仔猫がその命を拾われて、けれども、ある時、些細な出来事で死んでしまった。
それまで細々とその命を繋いでくれた少年が探す声がした。私は、着実にその命の灯火を小さくして、動こうにも動けず、死に際に姿の見えない人の声だけを聞いていた。
仔猫は見えづらい場所で事切れようとしていて、…………ああ、うん、そうだ。この
夏の暑い日、緑の香り、体臭に混じる硝煙の匂い。
本能が震えて、けれどもこの時、私はその少年の名前すら知らなかった。
彼がご主人に名乗るのを聞いて、あぁこの人もなのか、というのが感想だった。
無頼派の三羽烏。
私の知る文豪と異なる性格だろうことはともかく、彼らとご主人との付き合いがここから長く続いていくのだろうことは容易に察せることだ。
赤みがかった髪、鳶色の瞳、あの頃は身に纏っていなかった砂色のコート。取れない硝煙の匂い。
織田作、ともう一人の少年が親しげに呼ぶのを聞いていた。
**
それから時は緩やかに過ぎたけれど、事態までもが平穏なままではなかった。
てんやわんやになっている異能特務課では、猫一匹姿をくらませたところで気に止める人が居ないくらいに情報が錯綜している。──龍頭抗争、と名付けられた一連のことは、急速に終息へと向かっていた。
途中からその片鱗は現れはじめていたけれど、それが一気に噴出したのだろう、そう思っている。
守りの堅い政府の重要施設は、堅牢だが去るものを追うほど余裕がある訳ではない。
外へ向かうべく足元をすり抜けるように行く私に気づいた人は居るのだろうが、引き留められはしなかった。因みにご主人からは完全に気づかれていない。そっちの方が都合がいいことは言うまでもないのだけれど。
都合がいいものだなぁ、と思う。
単純に、好奇心のようなものではなく、半ば義務感のような心にさせられているのは、虫の知らせよりは余程的確な…………私の目にだけ、いつかの少女の手を引いていった母親の霊が、見えているからだ。
女は死してなお、その執念でもって子供を生かせる為のすべを求めた。
──さくら、を。
あの、商店街の端での一度きりの出会いであれ、私が覚えているのなら縁は繋がっている。
建物から出た瞬間から駆ける。人の道は人が作ったもので、つまり猫は道ならぬ道であっても越えていける。直線距離ならばかなり近いところを、塀やら屋根やらを駆け抜ける。
随分と中心のところ──被害が大きく、見渡すばかりに死が転がっている。ほのかに薫る甘い死臭がひどく不快だ。……赤い満月が、不気味に輝いている。
風に煽られる枯れ葉がかさりと落ちるのが、いやにはっきりと聞こえた。
生き物の気配を感じない不自然な静けさ。時折遠くに銃声が聞こえる。
駆けて駆けて、あるところを曲がると、血の臭気が一気に強くなった。鉄の嫌な臭いだ。雨が降っても当分落ちなさそうな。
横転した車の横に佇んだ、道案内の母親の霊の側に寄り、彼女の遺体を見やってから、また幽霊の方を見た。微笑んで首を振って、つまり手遅れなのだと、私は分かっているのにその事実は割と衝撃だった。
私は、少し羨ましいと思った。人間の意識は、こういう無償の愛をひどく懐かしいものとして感じていたから。──……子供を守ろうという、親の愛だろう。
家族を庇うように覆い被さったまま事切れている父親の方の冷たくなり始めた体を猫の体で何とかして退かす。見覚えのある、私の色違いのオッドアイを「きれいだね」と笑った幼い少女の姿。
服が親の血で濡れていても、確かに生きている。気を失ったのは、抗争に巻き込まれたことによるものか、それとも親の死を目の前で見てしまったからか。私には分からない。
ぺろりと、頬を舐めて、残酷なことだけれど、覚醒を促した。私の危機察知が、めちゃくちゃ反応している。此処もじきに安全とは程遠い、爆心地とも過言じゃないくらいの何かが起きるだろう。
もぞり、と身じろぎしてゆるゆるとまぶたを開いた子供が、私に焦点を合わせて、同時に、知りたくもないことを思い出したような、身を絞られるようなか細い悲鳴を上げた。
私が何を言っても、猫であるゆえに、それが通じることはないのだ。ましてそれが保護者を喪い、依る処を一気に亡くしたのならなおさら。……それでも、鳴いた声に入れた気持ちが伝わるといい。
──これを見て大丈夫と言い切る程残酷な私を許してね、サクラ。両親が望んだように、サクラが死んでしまうには、まだ早いから。
何も知らないこの子供の、柔らかいところについた傷は、仔猫であった私が死んでしまった時のことによく似ていると分かっていた。
誰かが走る音がして、私はその足音に聞き覚えがあったから、未だ動かないことが危ないことも、銃声がだんだん近くなっていることも理解していたけれど、途中から逃げようと子供に促すのを止めて、その人が来るのを待っていた。
サクラの泣き声を聞いて、その場にそぐわない存在を、けれども切り捨てることが到底出来る人じゃないことを、私は誰よりもよく分かっていた。
鳶色の眼が私を見て驚いたように見張られて、それから幼い少女に気づいて「こんな状況で生きてるとは、運がいいな」と呟いた。
私はとと、と助走をつけて、彼の肩に乗っかる。いつものご主人とは異なるけれど、これはこれで中々安定感があっていい。
一声、鳴いてみせた。
「にゃぁ」
──連れていってあげて。
小雪:猫主。霊的ヒエラルキー上位存在。
大抵の悪霊とか怪異とか悪い気配のものはにゃんこぱわー的な何かで軽く吹っ飛ばせる。もしかしなくても:霊的チート。
今回ようやく織田作と出会う。人間目線でも好ましいので割とごろにゃんじゃれついている。生前の仔猫の記憶を本式に共有(今までアーカイブを閲覧する感じだったのが実際経験したような=より主観的に捉えられるようになっている)したので、懐き度は高い。
安吾さん:ご主人。今回あまり出番なし。
何故か妙に織田作に友好的な猫に危機感を抱く。見た感じの懐き度は安吾さん≧織田作なのでその心境は推して知るべし。
龍頭抗争終結前夜、やっぱりてんやわんやしていて、小雪が抜け出して外に行ったのに気づかなかった。織田作と一緒に居るのを見てギリィッ……!となった。
織田作:咲楽を拾う。
その場に昔よく可愛がっていたのに似た同僚の飼い猫が居たのを見て、仔猫を見つけた時のことを思い出した。仔猫のことはシロと呼んでいたので、小雪のこともこっそり(安吾の前以外で)そう呼んでいるのだが、シロ呼びでもちゃんと反応することにちょっと感動している。
咲楽:織田作に拾われた。
衝撃的な場面に直面(両親が自分を庇って亡くなる)して意識が飛んだ。かなり心の傷は深いが、覚醒した時に小雪が居なかったら多分もっと酷いことになってた。
しばらく情緒不安定で、小雪を抱っこしていた時だけ表情が和らぐので、織田作が小雪レンタルを安吾さんに打診するようになる。
太宰:あまり出番なし。
安吾が小雪に尋ねた第一印象、所感:「むり」
(※意志疎通用の五十音表を使用)
更に詳しくした場合↓
小雪「(動物と仲良くなりたいなら祓をし死んで生まれ直してから早々に前世の宿業を甘んじて受けてみっちり神社でお祓いしてもらって心から懺悔しないと)むり」
生命の輝きおじさんこと澁澤さんを出そうか出すまいか投稿間際までかなり迷ったんですが、この人のキャラ掴みにくくて表現に納得のいかないまま投稿するのはちょっと…………となって出しませんでした。龍頭抗争の首謀者なのにね。申し訳ない。
多分小雪ちゃんが霊的フィルター通して見たら「高密度の妄執で出来たエネルギー体……?」ってドン引きします。