極東の城塞   作:アグナ

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お久しぶりです。まだ生きてました()




英雄たちの船団

 父に権能が与えられる以前、権力とは即ち信仰と宗教を指し、権力者とは巫女や祭司者のことを指した。

 これは古代ギリシャ世界においても例外ではない。

 

 母権は元々、東方(オリエント)文化が原始農耕とともに成立させた概念であるが、彼らは広大な砂漠や草原を隣人と持ち、絶えず侵入と侵攻を繰り返す牧畜民の存在によって早期にこれを放棄している。

 明確な侵攻者たちを前にした彼らにとって何より力の象徴となるのは暴力であり、宗教やら権威やらよりも優先される概念であったからだ。

 

 しかし、そういった事情のある彼らとは逆に、ギリシャ世界を語る上で外すことの出来ないエーゲ文明、取り分けミノア文明を伝承するエーゲ海地域では父権よりも母権の方が力を持つ者として優先されるようになる。

 これはミノア文明の中心地となったクレタ島が島国であり、外界からの干渉……特に遊牧民の圧力とは無縁であったことが影響しているだろうと考えられる。

 

 少なくとも古代ギリシャ世界において原初、権威とは女性のものであり、男は彼女たちの知恵を授かる者として女性優位の社会が成立していたのだ。ミノア文明の女性神官や古代ギリシャ世界で権威を誇ったドドーナの神託所における女預言者たち。

 彼女たちのような神々の言葉を聞き届ける女性こそ、権威の象徴として社会の中心に君臨してきた。

 

 そしてその影響は当然、神々の世界においても通用することとなる。母神を差して母なる大地や地母神などと例えるのは、権威を持つ女性こそが何よりその土地の所有者であり、また人々に知恵を授ける賢人であったからである。

 古代より地母神と呼ばれる神格の類いが、悉く大地と知恵を権能として司るのはこういった古代の社会構造が深く影響しているのだ。

 

 だが、そんな女性優位も時代の流れと共に変わっていく。地中海にて同じく興ったミケーネ文明との衝突。彼らの侵入と侵攻に伴ってミノア文明は崩壊する。

 またこの頃、ミケーネ文明はトローアスのイリオスも滅ぼしており、ミケーネ文明が極めて強い武力を保有していたことが窺える。

 

 因みにこのイリオスとミケーネの激突は後の時代に語られる『トロイア戦争』のモデルとなった言われているが……閑話休題。

 

 ともあれ、農耕による穏やかな日々は、侵略を前に過ぎ去り、武力が重んじられる時代が到来する。これに伴い、社会の中心には男たちが座ることとなり、嘗て権威を誇った女性たちは転じて彼らの所有物が如き扱いとなっていく。

 

 当然この偏差は神話においても影響しており、地中海域で絶大な権能を誇っていた知恵持つ母神は、その力を男神に奪われ次々に零落していく。

 女神テティスは智恵を奪われ、メドゥーサは魔物に落とされた。

 ヘラもアルテミスもヘカテーも……原初、統治者であったはずの彼女たちは神格こそ失わなかったものの、全盛期に保有していたはずの権能を多く失い、女神として、その権威を大きく減退させた。

 

 こうして母権に変わり、台頭するは武力を象徴とする父権の時代。

 強き武力を誇る王こそが重んじられる社会である。

 そして、そんな時代の象徴的とも言える神こそ──。

 

「神々の王ゼウス。曰く、神話において全知全能と謳われる神だ」

 

 霧の都と成り果てた長崎の風景を視界に収めながらアレクサンドル・ガスコインは電話先の少年にそう告げた。

 

 遡ること──数日前。

 アレクは『まつろわぬ神』が出現する以前より日本に訪れていた。

 その目的は宿敵グィネヴィアの暗躍を感知したから……だけではない。

 彼の訪日にはとある『まつろわぬ神』の消滅が関係していた。

 

 嘗て、アレクが『最後の王』に関する研究を進めていた時分。

 その手がかりを求めて、彼はとある神器を用いて女神を復活させたことがあった。

 名を『まつろわぬキルケー』。

 『暁の魔女』の異名を取るギリシャ神話古参の魔女神だ。

 

 太陽神ヘルメスの娘にして、魔女メディアの師。

 『オデュッセイア』にて英雄を虜にすると伝承されるアイアイエ島の主にして、英雄オデュッセウスの愛人でもある女神である。

 アレクはその魔女と契約することによって『最後の王』に関する考察を高めようとしたのだ。

 

 しかし、そこは神殺しとまつろわぬ神。

 詳細は省くが色々と話が拗れた結果、神殺しと魔女神はともに激突することとなる。

 結果はアレクの逃走による不戦敗。

 最も去り際に魔女神を封印し、逃げ延びるという目的を達した以上、アレクの勝利とも言えるだろうが。ともあれ、アレクと女神の縁はそこで途絶えた……はずだった。

 

 先日、島の封印ごと女神が消されるまでは。

 そう──『暁の魔女』は襲撃され、そして破られたのだ。

 他ならぬギリシャ神話の最高神、ゼウスによって。

 

 それを知ったアレクは女神が殺された事実よりその目的に関心を持った。

 『まつろわぬ神』が『まつろわぬ神』を討つ──。

 《蛇》と《鋼》の例を見れば指して珍しいことではないが……。

 

 対象がゼウスでなければ彼も見逃しただろう。

 だが、対象がゼウスと合っては目聡い黒王子は見逃さない。

 何せあの(・・)グィネヴィアと組んでいる神である。

 加えて、数ヶ月前の《鋼》に関する目論見を考えればかの神もまた『最後の王』を追っているのは明白。

 

 そんな神が嘗てアレクの目を付けた『最後の王』に関する鍵を握っていると思われた女神と遭遇し、これを殺害したとなれば……ゼウスが何らかの目的を遂げようとしているのは明らかだ。

 そしてそれが『最後の王』に関連するであろうことも。

 

 斯くてアレクは訪日する。

 表だって(・・・・)暗躍するグィネヴィアのことも視野に入れつつ、兎にも角にも彼はゼウスの気配を追っていた。

 その過程で、彼は先んじてグィネヴィアと接触していた中国の神殺し、羅翠蓮を警戒していた台湾方面の魔術師たちから日本に向けて「とあるアホ」を乗せた不審船が日本の近隣海域で確認されたとの情報を手に入れることに成功し、先回りして九州へと訪れていたのだ。

 

 結果、彼の狡知は神々の動向を先回りできたものの、こうして動乱に巻き込まれる憂いにあったのだ。

 さらに言えば今回の動乱に関して、アレクの訪日を都合が良いとして巻き込んだものの存在もある。

 

 他ならぬ電話先の少年──アレクの講義に飄々と言葉を返す春日部蓮だ。

 

『ゼウス神が色々、女関係で問題児なのはその当たりが原因だよな。嘗て女神を信仰してきた都市の悉くがウチもウチもと手を上げている内に雪だるま方式でゼウスは多妻になっていったと。くくっ、いやはやゼウスも大変だね、どうも』

 

「ゼウスの苦労など知ったことか。文句ならばそれこそ古代の人々に言えというものだ。言ってしまえば連中は挙って、自分たちのために偉大な祖先を作り上げたようなものなのだからな……フン」

 

 何故か不機嫌気味に反応するアレク。

 それに対して、蓮が耳ざとく反応した。

 

『おっ、意外な反応。王子様は古くから信仰してきた女神を捨てて、男共が好きそうな格好良いカミサマに鞍替えしたギリシャ人たちが気に食わないとか?』

 

 

「ありえんことを抜かすな馬鹿め。時代によって新しい思想や考えを取り込むのは歴史の道理だ。結局の所、女神なんぞよりも力持つ男神の方が魅力的だったというそれだけの話だろう。俺にとってはそれ以上の興味も関心も無い」

 

 そういって強い否定の言葉を返すアレクだが、その言葉を聞いて蓮は思わずくぐもった笑みを溢す。

 それを聞いて、アレクは舌打ちをした。

 何となく、何となくだがそこに腐れ縁(アリス)に通じるものを感じたからである。

 

「何が可笑しい」

 

『いやいや、別に。ただ本心では長年お世話になったカミサマをあっさりと捨てて人気者の方に走った当時のギリシャ人がぶっちゃけ気に食わないし、捨てられた女神様の神話を改めて解説したら割と酷いその話を思い出して若干、彼女たちに同情をしているけど、そんな自分は似合わないし、素直じゃないから優しさを見せたくないという王子様の複雑な心と逆張り精神が面白──もとい、慮っただけですよ。ツンデレ王子』

 

「誰がツンデレ王子だ貴様!」

 

 あらぬ風評被害に吼えるツンデレ王子。

 素直になれない王の心境を一言で表す言葉選び。

 それが、どこぞの性悪女を思い出させる。

 

 だからこそアレクは野生の勘で確信する。

 電話先の少年はアリスと類を共にする者であると。

 

「チッ、アイツも自分の臣の躾ぐらいちゃんとしておけと言う」

 

『残念。『女神の腕』は自由奔放とボランティア精神と個々人の能力によって構成されています。労働時間も休暇もついでに給料も特に定まっていないサークル組織ですので、人材育成は管轄外でございます』

 

「……組織運用についても講義しておくべきだったか」

 

 嘗て、後輩に対して神話や神殺し関連の話については教鞭を取ったものの、ついぞ王としての振る舞いに関しては口を出さなかった。

 そのことについて少しだけ後悔しながらアレクは横道に漏れた話題を戻す。

 

「神々の王ゼウスは、ゼウスと言う名それ自体が天空に通じる。ラテン語においてdiesは昼を意味する言葉であり、光輝く空の観念を呼び起こすからだ」

 

『加えて、diesはインド・ヨーロッパ祖語のdyausに語源を求めるから差し詰め、その意味は輝く天空って所か。……ん? もしかしてゼウスって元々太陽神の類いだったのか?』

 

 ふと蓮は素朴な疑問を思い浮かべる。

 『空』に『輝く』という単語が思わず太陽を連想させたのだ。

 しかし、間髪入れずに言葉を返したアレクがその予想を否定する。

 

「いや、この場合は「太陽を含めた天空という概念の支配者」というのがゼウスの正しい理解だろう。少なくともギリシャ神話においては太陽と天空は別の概念であり、天空に居座る太陽は、天空に従属するものとしてあるからな。オリュンポス十二神などと呼ばれる主要な神格において尚、ゼウスが圧倒的な権威を誇ることからそう推測できる」

 

『あくまで天空の支配者って訳ね。っとそういえばゼウスの別名にはゼウス・リュカイオスなんて言葉もあったか。語根にあるのはlux、その意味は光。成る程、こいつは太陽を意味してるんじゃなくて明るい空、つまり昼の空を指しているのか!』

 

 アレクの補足を聞きながら、蓮はゼウスの神性について、また一歩理解を深めた。

 ゼウスは天空神にして神々の王。だからこそ一見して、全てを支配する存在と錯覚するが、彼は何も最初からそれほど絶大な力を持っていたわけではないのだろう。

 

 恐らくゼウスをあくまで天空神ゼウスと見たとき、彼の本質は光輝なる天空、即ち昼の空という限られた時間領域の支配にあると考えられる。

 だとすると……蓮の考察を聞いたアレクもまた思考を深めた。

 

「輝く天空、昼間の空か……確かにな。だとすればゼウスとレトの神話はある種の太陽神話であったと考えられるのか」

 

『というと?』

 

「女神レトは知っているな? ティターン神族のポイベーの娘にして、星の女神アステリアの姉妹神だ」

 

『あーっと……アポロン、アルテミス兄妹の母親だったか? 一説には夜の女神だったっていう──そうか、この伝承は輝く天空と夜の天空から太陽と月が生み出されたって言う話なのか』

 

「そう考えられる。古代ギリシャ人たちにとって天空は、星々よりも優先されるものとして在ったのだろう。そしてそれが父権台頭と結びつくことによって数多の神々を支配する全知全能としての神々にまで奴を押し上げたというわけだ」

 

 元々、天空神という最も高い格を有していたのがゼウスである。それが母権の象徴であった女神たちの役割を取り込むことで全知全能となった。

 即ち、ゼウスを最も象徴する権能とは……。

 

「父権的象徴。全知全能も、神々の支配も、突き詰めれば奴が父権を代表する存在だからこそ与えられた後付けの力に過ぎない。神々の王ゼウスという神の本質は父権という権力を約束する存在であるということだ」

 

 言うなれば神話的な役割においてゼウスはあらゆる権能を代替できる力を持っているのだろう。都市ごとに異なる女神たちは、それぞれ異なる権能を司っていたが、それがゼウスという一つの神格に役割が集約される過程で、様々な権能が跡づけされていった結果、ゼウスは全知全能の力を持つ神として強大な力を持つようになった。

 

 これこそがギリシャ神話に語られる神々の王──ゼウスの真実。

 

『ふーむ、王子様の予測を正しいものだとすると、もしかしてうちの大将が取り逃がした今顕現しているゼウスは……』

 

「ああ。今の奴に全知全能の力は無いだろう。俺も一度、奴と交戦したことがあるが、今のアレに全知全能と言える程の力は感じられなかったからな。恐らく、奴自身が持つ最も古き(若き)姿、輝く天空を統べる天空神ゼウスというのが、今のゼウスの形なのだろう」

 

『ははん、そういうことね』

 

 理解したと言わんばかりに蓮は不敵な電話越しに不敵な笑みを浮かべる。

 つまり──『天空神ゼウス』と『神々の王ゼウス』は別物なのだ。

 後者が父権台頭によって誕生した新たなゼウスの形であるとするならば、前者はゼウスという神が持つ本来の機能にして神格である。

 

 現界するゼウスは前者……即ち『天空神ゼウス』として顕現している。

 だからこそ今の彼は全知全能と言える力を持っていないのだ。

 そして、彼が『まつろわぬ』身として地上を流離う理由とは……。

 

『全知全能を取り戻すこと。より正確に言うならば、全知全能としての役割を再び得ること。コイツが目当てって訳か』

 

「最終目的はともかく、目下の目的はそれで間違いないだろう。現にゼウスは各地で神を自らの手で呼び出しながら屠るということを幾度か繰り返している。以前、英国で起きたバトラズの一件然り、そして……」

 

『暁の女神キルケーの一件然り……か。いやはや流石は英国が誇る黒王子。かのゼウスの策謀すらお見通しとは恐れ入ったぜ』

 

 『女神の腕』の情報網を以てしてもアレクに告げられるまで知らなかったキルケー消滅の一件を口にしながら電話先で蓮はほうと畏怖と関心のため息を付く。

 自分たちが王と定める衛の先を行く先達。

 時に神々を上回る狡知と目聡く謎を追い続ける姿は異端なれど神殺しらしい。

 

「下らん世辞は良い。問題は全知全能の力を持つ神としての一面を取り戻そうとしている奴が態々、日本に訪れたという意味だ。単純に新たに神の役割を奪うことで力を得ようとしているのか、それとも……」

 

『ゼウス神が求めるに相応しい『力』がこの地に眠っているか、か』

 

 そもそもアレクが日本に足を運んだのはそれが理由だった。

 グィネヴィアに関する懸念もそうだが、今のアレクは強烈と言って良いほど、ゼウスが求める『力』に関心がある。

 何故ならば……。

 

(力を求めるゼウスがグィネヴィアに協力する理由は、グィネヴィアの目的がゼウスの目的を遂げる上で、役に立つからだろう。バトラズに、キルケー、ゼウスもまた『最後の王』を探している)

 

 曰く、この世に魔王が溢れた時。

 その悉くを屠る救世の英雄。

 正しく全知全能を欲するゼウス神が手に入れたがる器だろう。

 

(サルバトーレや魔教教主(羅濠)に加え、複数の神々を嗾けたこの事態。グィネヴィアの謀略だけではない。神祖とはいえ、奴だけでは此処までの規模で事を起こすことなど不可能だ)

 

 如何にグィネヴィアが人ならざる神祖なれど、複数の神殺し招来に、複数の神格顕現。

 どちらか一方でも高難易度なのにも関わらず、両方を同時に引き起こす奸計。

 まず間違いなく──間違いなく、この策謀にはゼウスが絡んでいる。

 

「……クッ」

 

 知らず、アレクの唇が獰猛に歪む。

 それは宝を前にした大怪盗(アルセーヌ)か。

 或いは謀略にほくそ笑む大悪党(モリアーティ)か。

 口元の笑みには不遜なものを含んでいた。

 

 しかし、それも仕方なきことだろう。

 アレクの第一研究テーマは『聖杯』に関する考。

 されど同時に謎多き『最後の王』にも深い関心があるのも事実だ。

 

 実際、彼は過去にその謎を解くために女神を召喚する暴挙にも出ている。

 表面上には斬った張ったの暴力的なイメージとは遠いアレクであるが、彼もまた神を殺した羅刹の一人である。探求の過程で神を殺してのけたアレクは、ある面において神殺しの中でも特に己の欲望に忠実であると言えよう。それこそ剣バカ(サルバトーレ)のことを言えない程度には。

 

 故に彼は笑うのだ。

 数年越しの謎に届きそうな手がかりが降って湧いた絶好の機会に。

 

「九州に出現したまつろわぬ神の討伐……長崎(こちら)の方は引き受けてやる──英国の時の借りもあるからな。この機会に、諸共全て返上させて貰うとしよう」

 

『そいつは助かる。うちの大将は今は動けないからな。同盟よしみで此方も全力でバックアップするんで……そっちの事は任せたぜ、四番目の神殺し(センパイ)?』

 

 不貞不貞しい軽口を最後に電話は途切れる。

 アレクは暫く途切れた電話に思惟の視線を向けた後……。

 

「つくづく食わせ者(この手)の人種と縁があるな。俺は」

 

 苦虫を噛みつぶしたような渋い顔をしながら雷光へとその姿を変じた。

 

 

 

 

 そして──時系列は現在。

 英雄船団の乗組員を幾人か蹴散らしたアレクはオルフェウスと対峙する。

 恐らくはこの英雄たちの首魁、船長イアソンに代わるその男を。

 

「さて──貴様には色々と聞きたいことがある。答えて貰うぞ琴弾の英雄」

 

 不貞不貞しく笑いながら告げるアレクに対して、オルフェウスは一度だけ驚いたように瞠目した後、次いで疲れたようなため息を吐く。

 

「もう少しだけ彼らと遊んでいて欲しかったんだけれど……やはり仮にも我らが主神の大敵、神殺し。私たち如きでは務まる相手ではなかったか」

 

 オルフェウスの言葉に告げたアレクと傍目に聞いていた雪が眉を顰める。

 それは目前の英雄の言葉がやや意外だったからだ。

 

 英雄オルフェウス、或いはオルペウス。

 ギリシャ神話に語られる屈指の吟遊詩人にして、アルゴー船にも同乗したギリシャ屈指の英雄である。

 その功績は多々あれど、最も名高き誉れと言えば『冥府下り』の伝承であろう。

 

 曰く、オルフェウスは毒蛇に嚙まれ、死した妻エウリュディケを救うために冥府へと趣き、冥府の住民たるカローンやケルベロスをその自慢の琴弾で魅了して、遂には冥府の神ハデスの下へと辿り着き、妻を救うべく直談判を行ったという──。

 

 冥界訪問譚──世界にはそのような伝承の型が無数と存在しているが、目の前のオルフェウスこそ冥府下りを敢行し、地上へ帰還した英雄の最たる人物であると言える。

 まして彼は神々の血が混ざった半人半神とはいえ、人間である。

 その身を思えば成した偉業は、並大抵のモノでは無い。

 

 ギリシャ世界最強の英雄あるヘラクレスやアキレウスと見比べれば、武功という意味合いでは一段格は下がるものの、世界でも屈指の英雄であることが間違いない。

 それほどの英雄が自らを謙遜した……その事実が、二人には意外だったのだ。

 

「……フン、どうやら貴様は他の連中とは毛色が異なるようだな。言葉を交わすことも出来ない英雄の影(にんぎょう)共と違い、こうして会話が出来るところを見るにこの騒動の核はお前ということか」

 

「さて、どういう意味での“核”かはともかく、彼らの顕在に私が関わっていることは間違いないよ。不本意ながらね。……全く、我らが父も人使いの荒い。君を釘付けにするためだけ(・・)に、こうして私を叩き起こすとは。しかも英雄の影(かれら)を使わすために私の力の大半を奪うとは、酷い話だとは思わないかい?」

 

「──何だと?」

 

 やれやれ困ったと言わんばかりに肩を竦めるオルフェウス。

 だが、飄々としたオルフェウスの態度とは裏腹にアレクは厳しく目を細めた。

 今、目前の英雄はなんと言った?

 

「俺を、釘付けにするためだと? つまり貴様らは俺が日本に来ることを読んでいたとでも言う気か?」

 

「さあね。私も詳細を聞いたわけではないからその疑問には答えられないな。我らが父、大神ゼウスはこう述べられた『我が知謀が成す所に獣が寄ってくるだろう。故に貴様は集まってくる獣を狩れ。先んじて、貴様は極西より来たる知恵の獣を討て。特にアレは邪魔だ。獣狩りの武功を立て、ギリシャの英雄として相応しき姿を示すが良い』とね」

 

「…………」

 

 謡うようにゼウスの言葉を告げるオルフェウス。

 美声で以て行われる語り口調は見事なモノで流石は吟遊詩人というだけのものがある。

 平時ならば聞き入っているだろう詩人の言葉にしかしアレクは無反応だった。

 だが、表層上の無反応に反して、その頭脳は高速で回転を始めていた。

 

 ゼウスが極東で何かを目論んでいることをアレク読めていた。

 それは監視するグィネヴィアの動向から知れたし、魔教教主やイタリアの阿呆に見られる不審な動きからも察することが出来る。何を企んでいるのかはともかく、極東を舞台に大規模な動乱が起きるであろうことは予想できたことである。

 だからこそアレクは自らの足で極東に趣こうと思い、手下の人間にもそこで起こることについて注視するように告げていた。

 こういったアレクの動きを、大神ゼウスは予測していた?

 そして読んだ上で『迎撃』を選んだと?

 

“……俺が何らかの変事を起こすならば邪魔が入らぬように極力事前に障害になるだろうことを予想して事を隠蔽して運ぶだろう。それが出来ないならば何らかの工作を施した上で邪魔立てを防ぐ。だが、ゼウスは敢えて迎撃を選んだだと? 迎撃に失敗し、途中で邪魔立てされるリスクを飲んでまで?”

 

 それはグィネヴィアと組んで暗躍する大神のやることとしては随分と中途半端だった。

 あの大神が神殺しを獣と読んで煙たがっているのは知っている。

 だからこそ計画に際して獣を排除しようと動くのは……筋が通らない話ではない。

 

 だが、あり得るだろうか。

 真実はともかく恐らくは全知全能を取り戻したがっているゼウス。

 今は不完全な彼が、力を取り戻す瀬戸際に態々、それが頓挫しかねない要因を持ち込むなどと。

 

 全知全能を取り戻した直後に一気呵成に神殺しを皆殺しにする。

 そのために予め集めておく、ということも考えられなくはないが……。

 それでは不完全な状態の時に複数の神殺しに付け狙われるというリスクを背負う嵌めになる。

 加えて今は不完全だからこそ完全になるために動いていると分かれば妨害されるリスクは上がる。

 これでは余りにもハイリスクハイリターンだ。

 

 少なくとアレクならば絶対にこんな方法は取らないだろう。

 まず神殺しが邪魔にしても、己が不完全ならば力を取り戻すことこそ優先するべきだ。

 神殺し排斥を行動に映すにしても、それは万全の状態でこそ望ましい。

 故に、全知全能を取り戻すと計画するならば、水面下での暗躍こそが最良のはず。

 

 否──だからこそグィネヴィアと組んでまであの神は暗躍していたのではなかったか。

 

 中途半端、そう中途半端なのだ。

 入らぬリスクを背負い、目的も方向性も散らかっている。

 計画としては杜撰に過ぎるし、これでは余りにも雑だ。

 

 態々、神殺しを集めてから力を取り戻そうなど、と。

 場合によっては本末転倒になりかねない有様だ。

 

 いいや、否、そもそも今回の異変。

 これは本当にゼウスが力を取り戻すために企んだことなのだろうか。

 自らの謀略の過程で態々、神殺しを集め、それを留める神を用意して。

 

 これでは火に油を注ぐように、無駄に騒ぎを広げて──。

 

「……そういうことか」

 

 大神の狙いに行き着き、アレクは吐き捨てるように低く呟く。

 話に聞く栃木県は日光での異変。

 そして、此処長崎での大騒ぎに、宮崎での乱痴気騒ぎ。

 

 これら全て、ゼウスの計画(・・・・・)には(・・)何の関わり(・・・・・)もない(・・・)

 ある意味では多少関わりもあるのだろうが、大神の本命には程遠いのだろう。

 何故ならそもそも、計三カ所でのこの騒ぎは本命から目を逸らさせるための工作。

 先ほどアレクが思い描いた所で言う、邪魔立てを防ぐためのものだ。

 

 恐らく、当のゼウスは既に火中からは居なくなっており、騒ぎに乗じて本命を取りに行っているはず。

 ともすれば此度の動乱に関わっている全ての神殺しはゼウスが本命とする舞台から既に降ろされている可能性が非常に高い。いや、アレクすらも釣り出されている現状を見るに、皆が皆、動乱の真実から最も遠い所に置かれているのだろう。

 

 火のない所に煙は立たず、ならば大火をばら撒くことで火を隠す。

 つまりは、そういうことだ。

 

「小癪なマネをしてくれる……やってくれたな琴弾の英雄」

 

 事の全てを察し、普段の七割増しで不機嫌に言うアレク。

 その瞳にはまんまに釣り出された自らへの怒りと片棒を担いだ英雄への怒りがあった。

 一度はゼウスを嵌めてみせたアレクが、期せずして返された形だ。

 負けず嫌いの気質がある彼にしてみれば許せることではない。

 神殺しの竦むような威に、しかし当の矛先を向けられた本人は柳に風と受け流す。

 

「ふむ、何やら知れないが、その様子だと我が父に一杯食わされたことに気づいたようだね。随分と頭の回転が速いようだ。オデュッセウスの奴を思い出すよ。成る程、その賢しらに巡る頭は確かに我が父が警戒するに値するだろうね。神殺しという奴は総じて、頭に血が上りやすいと聞くが、君は少々変わり種というわけだ」

 

「御託は良い。貴様が奴の狙いとは全く無関係なところにいると分かった以上、とっとと片付けるまでだ。生憎と、別に用が出来たのでな。それとも道を開けるつもりがあるのか?」

 

「はは、まさか。言っただろう。私はその『別の用』とやらに君を行かせないために此処に居るのだと。特に君は我らが父からすれば厄介な人物みたいだからね」

 

 微笑し、嘯くとオルフェウスは琴に手を掛け、ポロロンと鳴らす。

 すると音に応じて周囲に無言の英雄たち──英雄の影と呼ばれた者どもが集う。

 百戦錬磨の戦士達が都合、数十。

 並の騎士や魔術師では、それだけで絶望を覚える光景だが、しかし。

 

「フン、本人たちならばいざ知らず。有象無象を集めて俺を倒すつもりか? 野蛮な戦いは好むところではないが、だからといって記録如きに負けるつもりはないぞ」

 

「おや、気づいていたのかい?」

 

「気づけないとでも思ったのか?」

 

 驚くオルフェウスを嘲笑するように、アレクが告げる。

 

「如何に『まつろわぬ神』とはいえ、縁もゆかりもない英雄を無限に召喚することなど不可能だ。貴様はアルゴー船に同乗していたとはいえ、船長でもない一の組員。ましてや『まつろわぬ神』ではない召喚された英雄に過ぎない。そんな男にそれほどの力があるとは思えん。貴様の伝説を考えるに、だとすれば答えは一つだ──これは貴様の物語(・・)だ。貴様が知り得る英雄たちの姿を謡い、伝承に形を与え、影を現実に召喚している、そんなところだろう」

 

 無造作に投げられるアレクの推理、いや答えにオルフェウスは思わず苦笑する。

 

「いや、お見事。慧眼だよ。確かにその通り、彼らは私が謡う物語の影に過ぎず本来の彼らではない。『英雄の影』というのも言い得て妙だね。これは彼らの武勲を、功績を謡い、その真似事を現実に興した今風に言う所の投影さ」

 

 君の言う通り、私に召喚師としての能力は無いからねーと笑うオルフェウス。

 今も取り囲む英雄たちの影を指すように両手を広げて、続けて補足の言葉に繋げる。

 

「因みに数を呼び出す都合、語れる伝承も限られてね。伝説が多いと語るのにも時間がかかるだろう? ヘラクレスやオデュッセウス、我らが船長イアソンが此処に居ないのはそういうこと。英雄の影として呼び出すにしても、些か彼らの物語は色が濃すぎてね。数刻そこらで歌えるものではないのさ」

 

 戦力欲しい状況に、本来ならば力ある英雄を影として呼び出せないことを惜しむべきだが、何故かオルフェウスは彼らが呼び出せないことを誇るように言った。

 まるで数多の伝説を打ち立てた偉大なる英雄たちを自慢するかのように。

 

「ほう、貴様がヘラクレスを呼び出さないのは因縁のせいだと思っていたが?」

 

「ん、ああ。私の弟の件か。まあ思うところが無いわけでもないがね。私人としての事情と吟遊詩人としての事情は別なのさ。……例え誰のモノであっても、認めざる得ない輝きというものがあるだろう?」

 

 嫌みを言うアレクの言葉に、オルフェウスは困った笑みで受け流した。

 次いで誇るように告げた言葉には英雄の英雄足るプライドが込められていた。

 形はどうあれ、誰のものであれ、素晴らしい物語は素晴らしいのだと。

 伝説の吟遊詩人はそう告げる。

 

 そして意識を切り替えるように浮かべていた微苦笑を消し、

 

「さて、吟遊詩人としては神殺しと問答する機会は惜しいが、我らが父の命もある。それにギリシャの英雄として相応しき所を見せろとまで言われてしまっては私としても引くに引けない。武人の誉れなど私にはよく分からないが、妻に相応しき私たれとは常々、心がけているのでね──」

 

 オルフェウスの闘気を受けてアレクの背筋に震えが奔る。恐怖では無い、武者震い。

 戦を前に神殺し足る肉体がその身体を戦場に適したモノへと移行させる。

 闘気を露わにしたオルフェウスの側にはメーデイアの姿もある。

 どうやら問答をしている間に復帰したようだ。

 

「──援護します」

 

 と、気づけばアレクの側にも付き従う影が一つ。

 他でもない、《女神の腕》に所属する武人、雪鈴である。

 会話に混ざらず無言を貫いていた彼女が拳を握りしめ構えを取っている。

 共闘せんという意思。しかしその意に対してアレクは否と返す。

 

「不要だ、大人しく下がっていろ。それに俺の見るところお前はただの人間だろう。アイツの下にいるのは変わり種と承知しているが、文字通りただの人間では返って足手まといだ」

 

「ええ、少なくともあのオルフェウスにはそうでしょう。しかし影に対しては幾らかやれなくもありません。それに囲われたこの状況では是非もありますまい。見たところ、我らが王とは異なり、守りが得手なわけではないでしょう」

 

「……む」

 

 雪鈴の言う通り、確かにアレクは単独で動くことが多く、その戦い方や行動は守るという行為に向いていないのは事実だ。そもそもをして策を張り巡らせ、敵を嵌めるというアレクのやり方自体、正面からの攻防に向いているモノでは無い。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 お世辞にも誰かを守りながら戦う者の戦いでは無い。

 加えて囲まれているこの現状、下がっている方がかえって不測の場合に危険とさえ言える。

 

「それにセシリア嬢の知己として、その思い人を放置するなど、義を重んじる士としては矜持に反しますしね」

 

「セシリア? ……貴様、あの娘の知り合いだったのか」

 

 思わぬ人物の話題にアレクは微かに驚いたように瞠目する。

 セシリア・チャン──アレクが以前、極東を旅したときに知己となった少女だ。

 

「ええ。魔導は門外漢ですが、幇の人間であれば私の知らぬ通りはありません。裏方に関わるモノであれば、多かれ少なかれ関わる機会はあるので」

 

「成る程。だが、情報は正確に伝わらないようだな。あの娘が俺を懸想しているなどと。確かに一度、恩を売る機会はあったが、それ以上でも以下でも無い」

 

 肩を竦めるように言うアレク。

 本人は正確な真実を告げたつもりなのだろうが……。

 時として、当人の認識のすれ違いは事実を歪めるもの。

 外野から見た方がかえって本当の真実を見つめている、そういうこともままあるのだ。

 だからこそ雪鈴は思わず嘆息した。

 

「やれやれ、戦歴はともかく色恋沙汰は我らが王に分がありますか。とはいえ、二桁も違う少年と比べる時点でどうにも……」

 

「何だ? 言いたいことがあるならばハッキリと言え」

 

「いえ、何でもありません。今は非常時、この手の話は後にしましょう……雑兵の相手は私が務めます。アレク王子には、速やかなる事の元凶の排除をお願い致します」

 

「アレクで結構だ。そして援護はいらん……と重ねて言いたいが、言っている場合では無いか。出しゃばって俺の邪魔だけはするな。そうすれば、少なくともお前が生きて帰れる状況は作ってやる」

 

 肩を並べる女傑に対し、極めて遠回しに助けてやると告げながらアレクはその身に雷を纏う。

 

「さて──俺に無駄足を踏ませた責、貴様の首で取らせてやる」

 

「見かけによらず好戦的な……いや、怒らせた私の責任か。まぁ良いか、どのみち我らは相容れない運命にあるのだから──では奏でよう。我らが神話、伝説の続編を。

 時代を渡り、我ら英雄船団(アルゴナウタイ)、再度の出航の時だ!」

 

 紫電が奔り、弦が高らかに響く。

 魔力が高まり、それを討たんと武人が構える。

 

 英雄たちが相争う──此処に戦端は開かれた。




久しぶりに手を付けたものだから違和感ががが……。
やはり継続は力なりですね。

されど、継続はいと難し……。
せめてこの作品だけは完結させてみたいところですが。
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