勇者達の心は平行世界と繋がったようです   作:ルシエド

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犬吠埼風の場合

 ある日目覚めると、犬吠埼風は蚊になっていた。

 

「なんですとー!?」

 

 とびっきり遠い世界には、似ても似つかぬ平行世界の自分がいる。

 完全に異なるにもかかわらず、同一たる自分。

 それは仏教の輪廻転生にも似たものだろう。

 

 平行世界の自分同士は、どこか何かが似た、別の宇宙の道筋を辿った自分。

 ゆえに似ているが別人である。

 前世と来世の自分同士は、魂を共通にした別人。

 別人に見える同一人物である。

 前世が同じでも、平行世界であれば、平行世界の数だけ来世の種類は存在する。

 

 そういう意味では、この宇宙においては犬吠埼風という個人の魂は、犬吠埼夫妻の血を引く赤ん坊の中にではなく、犬吠埼夫妻の血を吸ったメス蚊の卵の内一つに芽生えたのだと言える。

 つまり風っぽい蚊なのであった。

 

「オゥ シット……人間に潰されないように立ち回るしかないわね」

 

 よりにもよって蚊。

 人間から目の敵にされている上、人間の血を吸わないと餓死する蚊。

 スプレーで死に、手で叩けば死に、蚊取り線香でも死ぬ。

 ハエと違って蚊は非常に死にやすいのだ。

 犬吠埼家周辺で、蚊になった犬吠埼風はふらふらと飛び回っていた。

 

 その途中、トンボにロックオンされ、必死に逃げる。

 

「ああっー!? お、大型バーテックスより強い! 無理! これ勝てない!」

 

 蚊の飛行速度は時速2km程度。

 ハエは凄まじい反応速度と視界の広さを武器にして、飛行時速10km程度。

 オニヤンマともなれば時速140kmを超える。

 一般人とバーテックスの間には本当に絶望的な戦力差が存在するが、トンボと蚊の間に存在する戦力差も実はこれと大差ない。

 自然界のパワー差は、厳しいのだ。

 

「ぜぇー、ぜぇー、ぜぇー……なんとか振り切れた……

 うどん食べたい……いやこの口じゃ食べられない……

 うどん食えない時点で蚊は人生の九割ほど損してる……

 いやもしかしたら血の方が美味しく感じるのかしら蚊ってやつは……」

 

 ヘトヘトになってタンスの角に着地する。

 通常のトンボの飛行速度は時速30km程度と言われ、オニヤンマほど速くはないが、それでも蚊にとっては絶望的な速度差だ。

 振り切った風には、ナイスファイトとしか言いようがない。

 

「そういえば、蚊って滅びると思われてたんだっけ」

 

 ふと、学校で後輩の眼鏡男子に教えてもらった話を風は思い出した。

 

 1901年(明治34年)1月の報知新聞で、100年後の未来予想が立てられたのだという。

 そこでは「衛生状態の改善が進み蚊やノミは全滅している」と予想されていたのだとか。

 2001年から見れば100年前の人類、風から見れば400年前の人類は、蚊やノミはその内絶滅するものだと考えていた、ということだ。

 

 その予想から400年。

 蚊も、ノミも、今だ絶滅していない。

 それどころか結界外は燃え盛り、人類の方が先に滅んでしまいそうだ。

 バーテックスが人類だけを滅ぼそうとするなら、人類が滅んだ後も元気に蚊は生き残ったりするのかもしれない。

 

「まあ、こんな貧弱な虫っ子なら滅びる未来が目に見えるわよね……」

 

 人類に滅びを予想された蚊と、神様に滅びを確信されて結界内で生きてることを許されている人類が、風にはなんだか重なって見えた。

 

 多分、その時の人間が蚊に対して抱いていた"滅び"の気持ちこそが、天の神様が人間に抱いている"滅び"の気持ちと似たものなんじゃないかと、風はちょっと思ってしまう。

 

「……あ」

 

 ここは犬吠埼家の中。

 トンボから逃げてきた風は今も一休み中。

 そこに、二人の大人がやってくる。

 風の父と、風の母だ。

 

 昔、風はまだ中学生だった頃に両親と死別し、子供であるにもかかわらず気丈に振る舞い、涙を流す妹の手を引き続けた。

 愛する妹のために親代わりを頑張り、料理の一つもできない子供から頑張って『頼りになる姉』に相当のスキルを付けていき、親がいなくなった穴を埋めていった。

 

 寂しかったことだろう。

 辛かったことだろう。

 親に甘えたい年頃だった少女が、親の死をきっかけとして、妹が甘えるための親にならなければならなかった。

 その苦しみ、悲しみ、辛さ、苦労はいかばかりか。

 

 生きている両親を見た風の胸の奥に、湧き上がる熱い気持ちがあった。

 

「生きてるんだ……こっちの世界だと……」

 

 蚊の体に涙を流す機能が付いていてば、きっと涙を流していたに違いない。

 

 風は玄関の方を見る。

 玄関の靴の数を見れば、その家に何人住んでいるかもだいたい分かる。

 当たり前のことだが、風がいない分、両親と樹で三人家族をやっている様子だ。

 

(ま、そりゃそうか)

 

 元気な両親と『自分』が絡んでいないことに、風は一抹の寂しさを覚える。

 けれども、そういった暗い気持ちをウジウジと引きずらないのが、犬吠埼風のいいところだ。

 

「樹のオーディション合格祝いとしては、ちょっと足りなくないかな?」

 

「そうね、もっと飾ってもいいかもしれないわ」

 

「樹はあと一時間は帰ってこないだろうから、その内に……」

 

 樹のお祝いをしたいらしい両親。

 だが、タンスの上にいた風には窓越しに見えていた。

 窓の向こう、道路をてくてく歩いている樹の姿を。

 

 両親の時間の見込み違い。

 これではお祝いの準備が完了する前に樹が帰宅してしまい、サプライズのおめでとうが台無しになってしまう。

 

「はっ、これは!」

 

 心根がおかーさんでイケメンな犬吠埼風が、ここで立たないわけがなかった。

 叩かれれば潰されるその身で、家族のためにと飛翔する。

 

「……しょーがない、生前全然やってあげられなかった親孝行、やってあげますか!」

 

 風のように――と言うにはあまりにも遅く――風は飛翔し、夏の炎天下の下、とても薄いワンピースを身に着けた樹の背中に止まる。

 薄い服なら服の上からでも血を吸ってくるのが蚊の嫌なところだ。

 

 満開で鍛えた飛行スキルと、バーテックス戦で鍛えた間合い感覚でするりと背中にひと刺し。

 "血は吸わないけどかゆくなる唾液は注入していく"、人間側はかゆくなるだけという最悪の攻撃が実行に移された。

 

 風がふらっと樹の耳元を飛ぶ。

 眼球の前を飛ぶのではない。

 耳元を飛ぶのだ。

 それが一番叩き潰されにくく、かつ確実に"蚊の存在"を認識させる有効手。

 

 蚊の羽音を聞いた樹はぎょっとして、見当違いに首筋を叩き始め、やがて背中を既に刺されていることに気付いた。

 

「わっ、蚊っ!? ……ってもう吸われて、背中かゆい!」

 

 樹はまとわりついてくる蚊を探し、見つけるもののちっちゃな手を振ったところで中々当たらない。

 樹の身のこなしは運動が苦手な少女のそれで、風の身のこなしは蚊の肉体にもかかわらず、樹を翻弄してあまりあるものである。

 運動に関するセンスの差が露骨に出ていた。

 

 昔、風が勇者として戦っていた時、最大のサイズ差は大雑把に1.5m対100m。

 大きい蚊と人間のサイズ差は、大雑把に1.5cm対1.5m。

 勇者・犬吠埼風VSレオ・バーテックス、蚊・犬吠埼風VSクソザコ可憐美少女犬吠埼樹、どっちも百倍前後というサイズ差。風からすれば慣れたものであった。

 

 樹は耳元を飛んでいる蚊をどうにかしようとするあまり、変な姿勢で腕を振り、すってんころりと転んでしまった。

 

「あうっ」

 

「樹……私が言うのもなんだけど、本当どんくさいわね……」

 

 風の言葉は樹に全く届いていないが、樹は樹で蚊にバカにされているという気持ちになってきたらしい。

 むーっと、ふくれっ面になってきた。

 シスコンの風のテンションが上がっていく。

 

「そういうところも可愛いわよ樹っー!」

 

「あーっまた吸われ……掻けない!」

 

 夏の死闘。

 夏の宿敵。

 それは、暑い時期とその後のちょっと涼しくなってきた時期に行われる蚊との終わりなき死闘を指す言葉。

 

 蚊と必死に、かつ可愛らしく、顔を真っ赤にして戦う樹の姿を見た讃州中学男子生徒が通り過ぎていったが、樹は気付いていない。

 風は気付いていた。

 明日学校で樹が可愛いいじりをされるだろうと思うと、風の中の姉力が高まっていく。

 

 そうしてまんまと、風は両親がサプライズパーティーの準備を完了するだけの時間を稼ぎきったのだった。

 

「よーしもう十分ね。すたこらさっさよー!」

 

 風が樹を涙目にして去って行った後には、微妙に関節が固くて背中に手が届かない樹が、かゆいのに背中をかけずに涙目になっている姿が見られたという。

 樹は背中のかゆみに耐えながら、とぼとぼ帰宅した。

 

「ううっ、今日は厄日かも……ただいまー」

 

 風の時間稼ぎもあり、サプライズの準備は完了。

 家に帰った樹が着替えるため、脱衣所で服を脱いだところに、樹の母がやって来る。

 

「おかえり樹。ちょっと見てほしいんだけど、このカタログの……」

 

 樹母は樹に話しかけた。

 正面から話しかけたつもりで話しかけた。

 だが、それは背中だった。

 膨らまなかった平たい胸ではなく、生来平たい背中だった。

 風が刺した部分が少し赤くなり、ちょっと乳首みたいに見えてしまったゆえの悲劇。

 

 背中二箇所を刺された樹の背中と、樹の胸を、母は見間違えていた。

 

 リバーシブル。

 裏表ない優しい性格で皆に好かれる犬吠埼樹。

 裏表ないような胴体で胸にスカっと虚無ができる犬吠埼樹。

 歌手の最高峰の一つが松平健(まつだいらけん)なら、歌手を目指す謙虚な胸の樹は胸平謙(むねたいらけん)とでも名乗ってデビューすべきなのか。

 

 其は、悲しみの地平であった。

 

「なんで私の背中に話しかけてるのお母さん」

 

「えっ、こっち背中……ご、ごめんなさい」

 

「言いたいことあるならハッキリ言ってお母さん」

 

「私の乳の遺伝子はどこに行ったの?」

 

「グッサリ言った! グッサリ言ったぁ!」

 

 犬吠埼母の胸は大きい。

 

「まだ成長期だもん……希望はあるもん……」

 

「そうやってまた失敗しかしない豊胸マッサージを試すのね」

 

「人は失敗を繰り返して成長していくんだよ?」

 

「人は失敗を繰り返して破滅していくのよ樹」

 

 母の言うことには含蓄がある。容赦はない。

 

「こうして見ると、やっぱ樹に必要だったのはお母さんだったのよね……」

 

 わちゃわちゃと、樹が甘えるようにして、母が時折からかうようにして絡んでいるのを見ると、風は改めて自分の気持ちを整理していける。

 風と樹の関係と、母と樹の関係は違う。

 それでも、どこか似通うものはあった。

 

 母のようにと心がけ、姉らしくと心がけ、風はありったけの愛を樹に注いできた。

 風がいなくて母がいるこの世界を見ていると、風が選んだ選択は間違っていなかったということと……結局のところ、風は完璧には母の代わりにはなれなかったのだということを、風は肌で感じ取ってしまう。

 

 母のような姉として振る舞った。

 それは間違いではなかった。

 けれどもやはり、樹に必要だったのは母だったんだなあと、風はしみじみ感じ取る。

 

 樹がオーディションに受かっていることも。

 それを両親が褒めていることも。

 風からすれば、嬉しいことばかりだ。

 両親に会えないと諦めていた風からすれば、まるで夢のような光景。

 

「よかったわね、樹」

 

 喜びを感じれば感じるほど、風は"そこに自分が居ない"ことに寂しさを覚えるが、その寂しさを笑って誤魔化した。

 両親に頭を撫でられている樹を見て、羨ましいと感じる自分の心を省みて、蚊の体のままちょっとばかり反省をする。

 

「樹」

 

「なぁに? お父さん」

 

「樹のお姉さんの話をしようか」

 

 蚊の風が、息を飲んだ。

 

「それって、死産だったっていう?」

 

「そう。姉がそうだったから、樹は随分と甘やかして育ててしまった気がするな」

 

「うう、学校で散々言われたよ……もうちょっと厳しく育ててほしかったです」

 

「ははっ、なんだかな」

 

 しょんぼりする樹を見て、母と父は微笑む。

 その微笑みは、風の記憶の中にあった微笑みそのもの。

 両親の微笑みを見て初めて、風は両親の記憶も薄れ、正確に両親の微笑みを思い返すこともできなくなっていた自分に気付いた。

 

「樹は立派に育ってくれて良かった。それだけで私は嬉しい」

 

「もー、お父さんったらいっつも大げさなんだから」

 

「樹も好きな人が出来て、結婚して、子供が出来たらこの気持ちが分かるさ」

 

 一人目の子が死産に終わり、二人目の子が立派に育ってくれた親の喜びと安心というものは、親にしか分からないだろう。

 これはとことん、この夫妻の『死んでしまった最初の娘』が話の前提にある話であり、それを『生きている娘』に聞かせることに意味がある。

 

 既に死した"樹の姉"のことを、樹の両親が想い、瞳を閉じる。

 

「親が子に望むことは、独り立ちしてくれること、幸せになること、ちゃんと大人になること」

 

 難しいことなど望んでいない。

 

「健やかに育ってくれれば、親は本当は、それだけでいいんだ」

 

 そんな簡単なことなのに、こんな願いすらも、この世界では叶わない。

 子が成長する前に親が死ぬこともある。

 子が先に死ぬこともある。

 子供が生贄にならなければ、守れないものも多くある。

 こんなささやかな親の願いですら、叶わないのがこの世界。

 

 だからこそ、父と母は、愛おしげに樹の髪を優しく撫でる。

 

「いつも、いつまでも、愛してるわ。私達の娘だもの」

 

「お母さん」

 

 それは樹に向けられた言葉であったが。

 

 両親を亡くした犬吠埼風がついぞ貰えなかった言葉であり、犬吠埼夫妻が無念にも娘に伝えられなかった、二人の愛娘に向けられた言葉でもあった。

 

 ぶぅん、と、風はどこか誇らしげに飛び立っていく。

 

「私も、大好きだったわ。恥ずかしくて、二人に言ったことなんて一度もなかったけどね」

 

 たまには蚊になってみるもんね、と風は思い、あんまりにもヘンテコな文章を頭に浮かべてしまったことに、思わず笑ってしまった。

 

 

 

 

 

 そして、意識の入れ替わりが再度行われ、蚊と人間の意識が正常な状態へと戻り。

 人間としての風の意識が、人間の風の体に戻ってきた時。

 風の目に映ったのは、ぼんやりと朝日に照らされた薄暗い部屋の中で、キスマークだらけで転がされている樹の姿であった。

 

「お姉ちゃん……やっと正気に……」

 

「あれ?」

 

 蚊の体の中に、人間の風の意識が入っていたならば、蚊の意識の方は入れ替わりで風の体の中に入っていたわけで。

 血も吸えない口で、蚊が人間の血を吸おうとするとどうなるか?

 その答えが、半裸でキスマークだらけで転がされた樹の悲しき姿であった。

 

「……あーそっか、入れ替わってた感じだった」

 

「お、お姉ちゃん」

 

「ごめんね樹。今助け起こしてあげるからね」

 

 風は樹の背中に手を回して持ち上げようとして、迷った。

 

 胴体全体、背中にまでキスマークが付きまくっている。

 そして部屋が薄暗いせいで、キスマークと乳首の見分けがつかない。

 薄暗い部屋の中では乳首のみが樹の体の前後を見分ける道標。

 それを見失った風は、さしずめ闇夜に迷う哀れな子羊。

 

 薄暗い部屋の中で、風はどっちが樹の背中なのか分からなかった。

 

(……どっちが背中かしら)

 

 だが、そこは偉大なる姉の知恵の見せ所。

 風は目を閉じ、先日絶望顔で体重計に乗っていた樹の姿を思い出す。

 そして背中か腹か分からぬその部分に触れた。

 ちょっとぽこっとなっていて、ちょっと柔らかい。

 油断、慢心、食欲が脂肪となってひっついている樹の腹が、そこにはあった。

 

「……こっちが前ね!」

 

「お姉ちゃんのバカー!」

 

 南無三。

 

 

 

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