悪。
それは
大いなる悪である故に、善望を孕みながら全貌を蜃気楼のように霞ませる悪。
それは巨悪にして虚悪。
仮想としてある虚数を基幹に定義しながら、確かに実を結ぶ実体ある虚像である。
間桐桜は壊れている。
間桐桜は被害者である。
間桐桜は加害者である。
間桐桜は愛している。
これらのそれぞれは、他のそれぞれを肯定する。
そしてその事を間桐桜は誰より実感している。
目の前にいるのは
自分の大切な人であり別人。
そして、悪を裁く者。
だとしても――――戸惑うその顔は例え自分の知らぬ表情を被せていても、やはり彼女の恋した少年の面影があった。
先程兄が言ったことが真実ならば、なんと冥利に過ぎることだろう。
その事が申し訳なくて、でも嬉しくて、それでも浅ましくて、その上でやはり嬉しい。
その資格が無いのだと知りつつも、その権利を求めてしまう。
だからわたしを助けて欲しい。
だからわたしを許して欲しい。
だからわたしを受け入れて欲しい。
だからわたしを愛して欲しい。
だから―――――――
…そこから、間桐桜は自分の思考を良く覚えていない。
慎二が席を外した後、桜が落ち着くまでの間、アーチャーは様々な話をして、様々な話を聞いた。
落ち着かせようとしたのに、衛宮士郎であって衛宮士郎でないアーチャーが語ったこと――――護りたかった者達こそ守りきれずに切り捨てたこと。
それを聞いて桜の感情はかえって落ち着きを手放した。
それは、自分が殺されたということだけでは無く、『先輩』が辿った道に悲しみを覚えた為だ。
そして、アーチャーは今度こそ違う運命を往く為に元凶を抹殺しようとした。
だが、臓硯が先手を打った。
アーチャーの本来のマスターは慎二では無く、桜である。
そして、桜の心臓には臓硯の本体が巣食っている。
桜の意識を奪い、アーチャーのマスターとして命じた。
「令呪を持って命ず。間桐臓硯を害する事を禁じる。
…残念じゃったな」
桜を解放する為に、駆け寄ってきた彼女を抱きしめながら、彼女から見えないように桜の背中から
「後少し、後少しだった。
しかしその後少しが来ることは無い」
可憐な少女の口を使って、醜悪な老人は残酷に事実を告げた。
「儂を出し抜いたつもりとは、我が孫にしては己惚れたものよ」
臓硯は桜にでも無く、アーチャーにでも無く、戸の向こうにいるもう一人にそう問いかけた。
問われた者は先程己が閉めた戸を再び開けて姿を現した。
「まさか。出し抜いて己が祖父にして師を殺すなんてとんでもない。
遠坂家に倣う訳でも無いのに、間桐の代替わりには流石に早すぎる」
この状況を望んでいたのは明確でありながら、白々しくも無実を語る臓硯の子孫、間桐慎二。
剰え、いずれは成り代わることを平然と公言した。
小心者の無能であれば、廃嫡による血統の断絶も臓硯は認めたかも知れない。
だが、こうも
魔術の先天的な才こそ無いが、一家の当主として何処か大成を期待してしまう。
故に―――――――
「儂の勘違い…ということにしておこう」
「…話がわかってくれて良かったよ」
化け物と交渉する慎二の内心は冬の夜よりも冷えて背中にはびっしりと水気がしたたっているが、それでも余裕は貼り付ける。
化け物を殺すのは臆病者では無く勇気あるものだ。
化け物は勇気ある者をして初めて対象を贄以外と認識する。
とはいえ、間桐慎二は正義の勇者では無い。
正義の味方なんて面倒なものは、今化け物に
間桐慎二が目指すのは、悪の勇者。
悪に虐げられる弱者を救うヒーローなどでは無い。
悪を以て己の身の安全と自尊心だけを救うトリックスターもどきだ。
その過程で結果として善行を生むのなら、正義の味方もうるさくは言わないだろう。…恐らくという但し書きも付くが。
「サーヴァントと本来のマスターである桜に会話の時間を設けてやっただけだから他意は無いんだ」
「言い訳はいい。
それよりはもっと面白い話をもってこい」
「面白い話、ねえ。
…さっき考えたんだけど、無いことも無いよ」
慎二はこの聖杯戦争で勝ちたい。
それは認められたいというのが大きい。
彼は多才であり優秀だった。
だが、魔術師の家に生まれながら魔術の才だけが欠落していた。
それが彼の欲しくて認められるに相応しい手段だった。
とはいえ、それは彼の責任では無い。
彼の数代前からマキリの一族の魔術の才能は先細りとなっていた。
いうなれば才能が無かった。
馬鹿な親から馬鹿な子供が生まれる。
運動音痴な親から運動音痴な子供が生まれる。
行ってみればその派生の一つに過ぎなかった。
魔術においては間桐はサラブレッドでは無く、駄馬の一族であった。
故に、その頼りない魔術の才で何とかして魔術師であれるように研鑽をした者は少なくなかった。
家の蔵書の中からそれらを幾つも何度も読みあさっては、己の中で複合昇華させることによって、少なくとも理論においては慎二はそれなりのものであった。
「どうやってそれを為すかまでは責任取れないけどさ、聖杯の『虚』とアサシンの『虚』。
異なる二種類の『虚』を掛け合わせることが出来れば、負のエネルギーが顕在する…ハズなんだよね」
「それはっ!! それはどういうことか自分でわかってるのか」
思わず叫んだアーチャーの反応は正義の守護者として極めて正しい。
負の実像を布武する。
それはこの世の地獄を実体化させるに等しい行為だ。
「まあ黙って聞きなよ。桜を通じて聖杯に働きかけてその虚数を、アサシンと直接繋げる。
無限に実体化する負をもってすれば、太陽王を下すことも無理な話でも無い。
正義の味方がそれ程反応する辺り、かなりヤバいことになるとは思うけど」
「ふむ、確かに面白くはあるが」
だが、その手段を実行する為の具体的な手段が無い。
そう言おうとした臓硯を、現れた彼の契約者が手を翳す仕草で止めた。
「面白い。
間桐のこれからが実に不確定で不明瞭。実に結構。
道化というのは面白おかしく無ければならない。
私の所の後継者は所詮は私の劣化模造品に過ぎず喜劇役者にすらなれないので羨ましく思うよ。
我がマスター、理論は私にまかせてくれて構わない。
箱舟に乗ったつもりでいたまえ。残りは全て流してくれよう」
己が保身の為に、己が肯定が為にここまでするのか…。
アーチャーは今度こそ慎二を見限ろうとした。
幸い、殺せない縛りがあるのは臓硯だけだ。
そして、この場の誰もアイデアを出した後の慎二の身の安全など気にしてもいない。
だから――――
「だけどさ、無指向に垂れ流すのは勿体ないと思わないか。
どうせなら、敵をはっきり打ち倒した実感が欲しい。
起こすなら洪水じゃ無くて、日食が良い」
「なるほどなるほど。実に芸術を理解している。
無指向は無思考。思考こそ至高。我々以外全てを冥府に送ったのでは、彼方から見れば我々だけが取り残されたようなもの。
なればこそ明確に、敵対者のみを地獄に送り明確に勝利を刻みたい。
なるほど歌劇には観客が必要であり、観客無き一人芝居は練習と変わりが無い。
何を言い出すかと思えば、
全く――――――筋が通っている。
なればこそ、勝者は聖杯では無く我々でなければならない。
我々は我々のまま勝利を自ら掴む。
故に、負の実体は数千年の神秘に充分な傷を付ける添え物として、我々の衣装にするのが適当」
タタリは、
これにより、実体化した地獄は太陽の父娘に対して明確に向けられた。
そして、決定権を持つ臓硯が、これを決定した。
故に間桐は、マキリは、その為に動く。
「では、決まりじゃな。天を貫く白羽の矢を射るのは、やはり弓兵以外にはおるまいて」