卯月。空はどこまでも透き通ったブルーが広がっていた。その先に大いなる虚無があるというのに。
男は広場にあるベンチに座って読書をしていた。学校の制服を着ているが、ブレザーは無く、ネクタイも外されている。
『――太陽が放射線の量を増し、もはやそれほど遠くないところに迫った新星化の日へと刻々寿命を縮めるにつれ、植物は比類ない優位を誇って繁茂するようになり、他のすべての生物を圧倒して、それらをあるいは絶滅へ、あるいは黄昏へと追いやった』
終末は眼が痛くなるような夕焼けを迎えていた。人類にとっての地獄が、植物にとっての天国であり、思いあがった人類の反逆は、自然が意識するまでもなく押しつぶされ、その王位は正当なる存在が、大地を覆いつくすことで奪い返した。
唯一知性をもった人類というのは、逆らうべきではなかった存在にその諸刃を向けてしまったのだ。
「こんにちは、津田沼さん」
「……ああ、こんにちは、アウデンリートさん」
後ろから声を掛けられた男は、その方向を向いて挨拶をした。傾けた首がさらに曲がる。
彼女は私服だった。彼はファッションについてあまり詳しくなかったため彼女の服装のセンスを正確に推し量ることは出来なかったが、かわいいという月並みな感想を抱けるほどの着こなしであったのは確かだった。
彼女はそのまま足を止めず、男の隣に座った。男は立ち上がろうと腰を浮かしかけたが、途中でそれをやめた。
「迷惑でしたか」
「いや、こちらが悪い。何か話があるのか?」
「………あまり勘が鋭いと窮屈ですよ」
「そうだな。エドガー・ケイシーは嫌いか?」
「いえ。そうではなくて、いつも張り詰めすぎていませんか、ということです」
「…そうか?」
「無意識ですか」
はあ、と彼女はあからさまに呆れて見せた。ブロンドの髪が揺れ、惑う。
「今立ち上がろうとしかけたとき、同時に周囲を見渡していましたよね。相当なスピードでしたよ? ただぼんやり眺めたというには」
真昼間だというのに、夜の闇に眼を凝らしたかのように男の瞳孔が広がり、そして閉じた。
「そうかもしれない。俺が警戒する必要はここではないのかもな。すまない、相談まがいのことをしてしまった」
「お構いなく。何か聞きたいことがあるのでしょう?」
その警戒を必要とさせる悩みを解決するために、と言って彼女は笑った。人を引き付けるような花が咲いていた。
"考察を更新:彼女の存在は周囲の存在を集めすぎる"
"提案:目的達成の難易度の上昇を軽減するため、プランを変更する"
"反論:それを理由にプランを変更して失う利益は大きい"
「よし、行こう。今日はかなり忙しい」
「お手柔らかに」
"考察を更新:彼女は優先して確保しておくべき人物に昇格。葛城や坂柳とはまた別のヴェクタの才能を持つ人物"
"疑問:どうやって?"
"参照:オクタヴィア・フォン・アウデンリート。Aクラス所属。出席番号8番。女性。ドイツ人"
彼女は一般的なドイツ人のご多分に漏れず、勤勉で、合理的な思考を好み、冷静であり、責任感が強く、自己主張がはっきりしている。
"疑問:本官へのコンタクト"
いや、確かに俺は学校施設調査に参加する気がある生徒は名乗り上げてほしいと言った。そして彼女は手を挙げた。だから彼女が今日ここに来るのは当然の帰結だし、何の疑問の余地もない。
その動機を除いて、だが。
俺の記憶が正しければ、ドイツ人は初対面の人にも臆せず接するため意見の対立や不一致が起こると容赦なく攻撃を仕掛けるし、友人として認められない限り面接官張りの冷酷さがデフォルトではないのか?
勿論日本人の勤勉体質が全員に当てはまるわけではないように、彼女もそうではないのかもしれない。
彼女の言うように、考え過ぎの可能性もある。
少なくとも、今優先すべきタスクではないか。
"リストに追加"
「先ずは何処に?」
「憲法第25条を満たすための施設に」
「………?」
「すまん、何でもない。スーパーマーケットに行く」
「そうですか」
"疑問:おい、柄にもなく緊張していないか?"
"反論:未知の事柄に対して緊張しないのは無理な話だ"
意識を切り替えろ。情報を集めるんだ。法則性が見つかれば、そこに真理が見いだせる。
"検知:目標に到達"
"推奨:内部調査"
「さて、何があるのか、値段はどれくらいなのか、何が出来るのか」
「そこまで真剣な表情でスーパーマーケットに入った人は初めて見ましたけど」
「見落としは許されないからな」
彼女の溜息を後ろに置き去りにしながら、俺は歩き出した。
「ざっと、こんなもんか」
「えっと、それは?」
「実験だな」
「?」
カゴに突っ込まれた食料品の数々に堪えきれなくなった彼女はその理由を求めたが、与えられた解は彼女をさらに困惑させるには十分なものだった。
「大きな発見があった。無料で買えるものがいくつもあったというのは貴重な情報になる」
「…具体的には、どんなことが分かったのですか?」
会計の為カゴをレジスターに立つ店員に手渡し、バーコードを読み取られていくのを見ながら彼は答えた。
「先ず無料の商品が存在する必要性があるということ。別に無料のものであっても有料のものと違って著しく品質が劣化しているというわけではなかったことから、それは明白だ」
「確かにそうでした」
「じゃあ何故存在する必要があるのか?」
その言葉に彼女は指で髪の毛をくるくると回しながら考え込み、やがて答えにたどり着いたようで、その人差し指を立てた。
「それを買うポイントが無くなるから?」
「恐らく、そうだろう」
会計を終え、カゴに戻された食料品を生徒全員に共通で配布されたマイバッグに詰め替えながら自論を語りだす。
「ポイントが無くなるというのはつまり、支出が収入を上回った時のみしか起こりえない現象だ。そして、日本の円の感覚をポイントに適用しても問題ないと仮定するならば、贅沢をせず慎ましい生活を続けた場合、10万というのは一か月を過ごすには十分な金額だ。ましてや光熱費や住居費がかからないとくれば、尚更だ」
「それは、食費を考慮してですか?」
「この無料のヤツをか?いいや。仮に一か月分の三食を全て無料のものですませた場合、驚異的な節約が可能だろうな」
具体的には、一か月での支出を三から四万前後まで抑えることが出来るだろうと彼は付け加えた。マイバッグのチャックを閉じ、右肩に担ぎ上げた彼は出口に向かい、彼女はそれに続いた。
「ちなみに、それ、どうするんですか?」
「………ああ、そうか。先に買うべきじゃなかったな。どうしたものか」
肩に下げたバッグに視線を落とし、自分の犯してしまったミスをどう対処したものかと考え始めた彼は、やがて答えを見つけ出したようで、無言で端末を取り出した。
「配送サービスというものがあるのか。……どうやら、あのロッカーに預ければ指定した時間に然るべき場所に輸送し、搬入もしてくれるシステムらしい」
「便利ですね」
「値段もリーズナブルだ。利益を度外視すれば、確かにこんな値段にはなるだろうな」
スーパーマーケットの脇に配置されたロッカー群の一つにあったタッチパネルにアクセスし、学籍番号と指定時刻、搬入場所を指定して保存の為に最適化されているらしいロッカーにバッグを置き、ロックが掛かっていることを確認して料金を支払った。
「話が逸れたな。確か、何故無料のものが存在するのかという話だったか」
「そうです」
「無料のものが存在する必要があるのは、つまり支出が収入を上回っている状況によって引き起こされ、しかし通常ならそれは考えられない。まあ順当に考えれば、その収入が減ることがあるんだろうな。……これらの情報からわかるのは、そのポイントが不足する状況は赤字の状態が『ある程度』継続する必要がある、つまりポイントの供給は一定期間を置き――これは既に知られているが――、そして大きく減少する恐れがある」
「あの話ですね?」
「ああ。また一つ信頼性の高い情報が見つかったと考えるべきだろう。どうも嫌な予感がするが」
もっと情報が必要だ、と彼は言った。それこそが自らを覆う暗雲を追い払う突風になると信じて。
「ユニクロも真っ青のシンプルイズザベストだな」
「いっそ清々しいほどですね」
「安いのも良い」
「まさか、普段着にしようなんて思っていませんよね…」
「何か悪いのか?」
「これは、下手すれば何でも揃っているのか?」
「誰がこんなベッドを必要としているのでしょうか」
「在庫限りだし、あまり気にする必要もないか」
「誰が買うのか気になりますね」
「本屋はないのか?」
「図書館があるからでしょうか」
「ほぼリアルタイムで対応しているから助かるが、うむ、これは…」
「………ルービックキューブ」
「解けるのですか?」
「いや。手順は把握しているが、どう動かせば良いかが分からない。出来る人を探すのもいいかもしれない」
「面白そうですね」
「調べる…いや必要性はないだろう…しかし情報が手に入るのかもしれない…だが時間が…」
「好きにすれば良いと思いますよ」
「待て…これが最適解なのか……?」
「優柔不断な男は嫌いですよ」
「え?」
"考察を更新:これまでの情報を統合して考えるに、学校側はポイントが不足する状況を想定している(参照:無料の商品群)。これは『クラスポイント』の仮説を強く支持するものであり、さらに深い調査が推奨される"
「生活費需品は全て無料のものが存在。それもそうか。生存権は保証されなければならないからな」
「………疲れません………?」
「とても。しばらくこんなことは御免だな」
「………」
実際疲労困憊だ。並列作業は集中を必要とするし、クールタイムを挟んで何度も使用することで持続時間の短さを補完するため繰り返される飴と鞭が脳を完全に打ちのめしてしまった。
既に外は彩度が低下し、道行く人影が誰かを不鮮明にし、不気味な影を落としている。
「今日は一緒に探索を行ってくれたことに感謝する。ありがとう」
「こちらこそ。色々なことを知ることが出来ました」
「それは良かった。後で調査結果をまとめて報告をするから、良ければ明日、ラーニングコモンズに来てくれ。勉強も行う」
「何か教えてくれるのですか?」
「あなたに俺が教えることがあるならな」
ほぼないと思われるが。
「そんなことはありません。色々新しいことが学べそうです」
では明日、と言って彼女は夜の帳に消えた。
静かに幕が下りていった。
「どうも世界は俺の意思を悉く踏みにじることに味を占めたようだ」
「それは所謂自意識過剰というヤツではないのか?」
「そうであったらどんなに良かったことか。…誰だ?」
「お前の先輩だ」
「答える気はないと」
「そういうことだ。こちらもお前の名を聞く気もない。それで良いだろう?」
「…賛成だな。音も無く背後に寄ってくる暗殺者まがいの先輩の名を知る気はない」
「ふっ。やはりお前は見込んだ通りか」
「見込んだ? 嫌だな、ストーカーでもあるのか」
「あまり年長者を馬鹿にするなよ」
「この実力至上主義の学校でそれを言うか?」
「ならば俺が武力行使に出ても何ら問題はないというわけだな」
「出来るなら。ビッグブラザーはいつも俺たちを守ってはくれない」
「………日を改めてまた挨拶に行く。『宿題』だ。俺が誰かを当てて見せろ」
「『報酬』は?」
「力を与える、と言ったら?」
「…考えよう」
「答え合わせが楽しみだ」