虹色のアジ   作:小林流

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もし先にラーメンを食べていたら、漁師たちは全員、大変なことになっていました。


第16話

 黄泉川がアジを連れてきた例の話題のラーメン屋は混雑していた。二人は列になった客の後ろに並ぶ。黄泉川はすぐに食べることができないことをアジに謝罪したが、彼は全く気にしていなかった。

 

 

 そんなことを気にするよりも、魅力的なものが溢れ退屈する暇がなかったためだ。アジの周りには大勢の学生がいたが、彼らの持つ携帯電話一つとっても、アジにとって神秘だった。スマートフォンのような形ももちろんあったが、中には球体型でありそこからホログラムが飛び出し操作するものや、完全に無音でありながらプロペラで宙に浮く小型の鳥のようなものまであった。何世代も先をゆく学園都市は実験品という名目で次々と新作を発売し、学生たちはそれを、外に比べればありえないほどの値段で購入できるのだ。

 

 

 もっとも、機能的で利便性に富んでいるかはかなり微妙である。しかし、アジはそんなことを知る由もなかった。他にもビルに取り付けてある大型の画面には、新発売のゲームや最新のテーマパークなどが流れている。どれもアジが持つ前世ではお目にかかれないものばかりである。好奇心旺盛なアジ少年はキョロキョロと顔を動かして、時折感情の発露からか、腰の下から伸びる尾を揺らしながら、未知の情報を楽しんでいた。

 

 

 ちなみにアジは、とりあえず病院に常備していた適当なTシャツとズボンを着ているので全裸でも患者服でもなかった。例の病院は、様々な患者が日々利用するために、本来ならば取り揃えていないようなものも置いている。その一つが学生用の服だ。様々な理由で、服が調達できない患者のためにカエル顔の医者が用意させたのだ。患者に必要なものは全て揃える。それが彼のポリシーだった。

 

 

 Tシャツの隙間から短くない尾を左右にゆらゆら揺らす彼の姿を黄泉川は見る。

その様子に黄泉川は微笑みながら、同時に彼の過去を想像する。

おそらくは実験室のようなところから一切出ることができなかったのだろうと。学園都市の学生にしてみれば、今アジが見ているものは見慣れた物ばかりである。次々と新作は発表される様々な品々だったが、よほどそれが好きなものである以外は、学生の反応は淡白なものだった。外の数十年先をゆく科学力も慣れてしまうものである。黄泉川にしたってそうだった。駆動鎧も当初は顎が外れるほど驚いたものだが、今や新たにバージョンアップしたものを見ても驚きよりも、冷静に使えるかだけを考える。

 

 

 今のアジのようになるのは、たまに外から来場する観光客か、新たに学園都市に入学する新入生ぐらいのものだ。慣れていない、それがアジの過去を表現する重要な証拠である。

 

 黄泉川は、相も変わらずアジの認識をズラしながら、アジのことを見ていた。

 

 

 店内にようやく入る二人は食券を購入した。黄泉川は、件の話題のラーメン「ミドリムシ入り鳥白湯ラーメン、煮卵セット」のボタンを二度押す。アジに選ばせたいのもあったが、そもそもアジがこうした制度を理解しているとは思えず、彼女は配慮したのである。

 

 

 アジは人知れず、自分で選びたかったと肩を落としている。だが彼の表情は未だに硬く、それを看破できる者はここにはいないのである。店員に通されたのは奥の座席。二人は座って料理が運ばれてくるのを待った。アジが座ると、椅子は苦しそうな声を上げたが、どうやら耐えたようである。

 

 

 お冷が運ばれるまで数秒、黄泉川は並んでいた時に体に蓄積した熱を追い出すように水を飲み干した。さらに机にあるピッチャーから水を注ぎ、さらに半分まで一気に煽った。アジはそれを見る。確かに暑かったもンネ、とアジは言いたかっただけなのだが、黄泉川は違うとらえ方をする。

 

 

「こう手で持って口に運ぶじゃん。そんで中の液体を飲むんだ、こう、ごっくんて」

 アジは、流石にいや知ってますよと思った。どうもこの黄泉川という女性は、ものすごく世話好きというか、相手を子ども扱いしすぎるなぁとアジは思った。見つめる黄泉川の優し気な視線は好ましいが、こうした言動や対応はそろそろ恥ずかしいなとアジはさらに考える。とはいえ、それを伝えるのは言葉ではない工夫が必要だった。しかし現状、意思疎通は困難であるから、アジは黙っていた。

 

 

 アジは黄泉川と同じように水を飲もうとして、そこでふと思った。そういえば折角、何年かぶりの食事なのに味覚がないのは勿体ない。というか味覚がなければ全くの無駄である。アジは自分の喉に手を当てながら、本体とパスをまたつなぎなおす。本体は今、海上に浮上中のはずだった。距離が近づいたためにパスがつながるのがさらに早くなったとアジは感じた。

 

 

 アジは集中しながら、本体の巨体で味覚回復の術式を発動する。何年もまえに、しかも焦りながらかけていた術式だったので、すぐに回復した。これでこのアジが食事をすれば味がわかるはずだ。パスで本体とつながっているので、栄養の共有もばっちりである。

 

 

 アジは、コップを掴んで水を飲んだ。

 とはいえ、所詮は水でショ?とアジは思う。久方ぶりのラーメンの前の味覚のウォーミングアップその程度の簡単なものだと思っていたのである。

 

 しかし、アジは舐めていた。8年というブランクが味覚の素晴らしさを忘れさせていたことを。水を口に含んだアジは目を見開いた。その冷たさはなんとも爽快。ゴクンと飲み込めば、冷水は食道に冷たさを感じさせながら胃に落ちていく。体の中に物を取り入れる感覚。すっかり忘却していた感覚に、アジは言葉を一時失う。気づけば夢中で水を飲み干した。

 冷たく、そしてなんとも気持ちが良い。

 

 

 生きるために、生物は食欲があり、睡眠欲がある。それらは本能的に好まれるよう、快感が付随する。寝ると気持ちがいいし、食べると幸せに思うのは、生きるための脳が、本能がそれらの行動を肯定するためである。

アジは味覚を封じ、ある意味で禁欲的な生活を強いられてきたのである。

 

 

 まぁ、ぶっちゃけ、要するに

「うぅあイッ!?」

 (うっまイッ!?)

 のである。

 美味しすぎるのである。

 ただの水が美味すぎるのである。

 アジは思わず声を出してしまう。普段、何気なく行ってきた食事。それが封じられ、久方ぶりに再開すると、これほどまでに感動的になるのか。アジは興奮した。黄泉川と同じように、ピッチャーから水を注ぎ、また一気に飲み干す。

 う、うますギル。水に感動する少年アジ。

 当然、黄泉川はその光景を、彼女なりに受け止めていることは言うまでもなかった。

 

 

 

               ○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

 とある海上に、漁船がいくつかあった。彼らは生活のために魚をとっている。しかし、この日は全くの不漁だった。いつもなら網いっぱいになる魚が、影一つない。というよりも、近くには普段ならばわらわらと湧いている厄介者のカモメなどの鳥やクラゲの姿さえなかった。まるで先に誰かに取りつくされたみたいだなぁと、漁師の一人が言った。

 

 

 そんな中、その漁師を含む、すべての漁船の乗組員は少し先の海上に奇妙なものを発見する。それは大量の湯気だった。まるで海中が凄まじい勢いで熱されたような湯気、そしてボコボコという泡。瞬間、その部分が爆発した。いや、それは正確ではない。海中から赤黒い何かが飛び出したのだ。それは火山の噴火のようにも見えた。赤黒い火柱、そう表現せざるを得ない何かだ。

 

 

 その場所から火柱が止むと、次に見えたのはうねる波だった。あの下から、あの海中から何かが浮き上がってくる。そう漁師たちが感じた時には、その姿は海上に現れていた。

 

 

 最初は島のように見えたが、違う。あれには、角があった。瞳があった。牙があった。腕があり、いくつものヒレと触腕があった。その大きさは、おそらくは100メートルを大きく超えている。見えている以上の体は未だ海中にあることを考えるならば、全長は数百メートルはあるだろう。

 

 

 漁師たち全員は誰もが呆然としてそれを見る。脳が、心が、それを受け止めることができない。さまざまな伝説の存在、映画の中の存在を総動員すれば、きっとあれにぴったりの名前が付けられるかもしれない。しかし、その余裕はなかった。

 

 

 それは大口を開いた。瞬間、音が消し飛んだ。それも違うだろう。あれの口から放たれたのは咆哮。その莫大な音の衝撃が、漁船を殺到した。漁師たちは本能で知る。あれは我々の考えられる存在ではない。そういった存在は、こう呼ばれている。

 化物である。

 

 

 化物は再びは咆哮を上げた。巨体からあふれる何かを外へ吐き出そうとするように、空を仰いで叫んだ。その凶悪な瞳には似合わない虹色の煌きが見えた。

 

 

(水ッ!!!!!うますぎルゥ!!!!!!!!!)

 

 

 漁師たちはすぐさま船を進ませた。神よ、神様、どうかお助けください。あの怪物から我らをお助けください。彼らは体の震えを打ち消そうと懸命に神へ祈った。

 

 

              ○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

(水ッ!!!!!うますぎルゥ!!!!!!!!!)

 アジは、目を物理的に輝かせて水を堪能している。今や、三杯目である。叫ばないようにするので精一杯だった。味覚とは、かくも素晴らしいものであった。アジの感情は当然、本体と共有しているので、本体もどこかで叫んでいるだろうとアジは思った。思ったというのは、意識が分裂体にかなり集中してしまったからである。ゲームで熱中しすぎて、母親の声が聞こえない子供のようなものである。本来は本体の感覚、分裂体の感覚は共有し続けているものだったが、分裂体の方の刺激が強すぎると、本体の感覚は鈍くなるのである。

 

 

 それもこれも水がアジを感動させてしまったので、仕方がないのである。

「お待たせしました~」

 アジと黄泉川の前に例のラーメンが置かれた。立ち上る湯気、アジは当然のように嗅覚も解禁しており、その匂いにだらだらとよだれを垂らした。黄泉川は苦笑して、近くにあった紙を使い、よだれを拭いてやった。

 

 

 アジの心臓はうるさいほど鼓動している。

 ラーメンの味に自分はどうなってしまうのだろうと、アジは表情が変えられない分、グルルと唸った。

 


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