たくさんの感想とアドバイスありがとうございます。
今後の展開に役立てていきたいと思います。
それでは、よろしくお願いいたします。
アジの体が震えた。あまりの衝撃に彼の頭は使いものにならなくなった。暖かい白いスープは鳥の旨味を凝縮しており、濃厚でありながらさっぱりとしている。これならばいつまでも飲んでいられるとアジは思った。スープの中で踊る細麺の色は黄金、歯ごたえはモッチモチ、のどごしはつるっつるであった。
アジは手に持つフォークを乱暴に持ちながら、ラーメンを夢中で食べる。浮かぶ少々の野菜とチャーシュー、煮卵は味わいを広げ、味覚の荒波がアジを飲み込んだ。アジの手は休むことはない。ムシャムシャ、つるつると口も休まらなかった。
美味しいという感情が彼の中で暴れ狂った。長きに渡る味覚の封印は、美味しいという思いを何百倍にも倍増させている。しかし、今の凝り固まった表情や要領を得ない言葉ではその感情は上手く出力しない。彼の人外生活8年間の負の集大成であった。では、体の変異で表現するのだろうか。ちがう、そんな暇はない。一口、一飲み、一嗅ぎするだけで、味覚の喜びが体を駆け巡ってしまう。体内にあふれ出るそれを何とかして放出しないと、体が爆発しそうだった。
そしてその想いの放出は突然やってきた。
最初は湯気だと思った。視界が歪み、よく見えなくなるのは湯気のせいだと。それは違った。頬に違和感、アジは自分の顔に触れる。
それは涙。
大粒の涙である。
少年アジ、美味すぎて号泣である。
アジは涙を止めようと顔に手を触れたり、目をこすったりしたが無駄だった。アジの感じる、美味しさビッグバンはそう簡単にはおさえられないようである。アジは、とうとう自分の制御できないほどボロボロと泣き出した。もちろん、悲しいわけではない。むしろ嬉しいのである。心はどこまでも満ち足りて、理性はどこまでも冷静に今の状況を鑑みることができたが、涙は止まらなかった。
(このままジャ、せっかくのラーメンが食べられナイ)
ラーメンはまだ半分は残っている。このまま最高の状態でアジは完食したいと思った。時間が経てば経つほど麺は伸び、スープは冷える。それは許されざることである。
しかし、自分の涙が器に入ることで味の調和が乱されるのも論外だ。完全なる膠着状態である。アジは悲しみで唸った。はヤク、はやく食べタイ。
アジが食べるのを一時ストップしていると、突然の感触。見てみると黄泉川がアジの頭に手を伸ばしている。そして撫で始めた。片手では紙ナプキンでアジの涙をぬぐっている。アジは突然、泣き出した自分のことを思い出し、気恥ずかしくなった。それゆえ自分で、処置できますと彼女の手を優しく払いのけようとする。しかし、そこは体格差と黄泉川のなぜか慈愛に満ちた笑みによって失敗した。
(そこまでやらなくて大丈夫でスヨ、本当ニ)
アジの気持ちは、当然のことながら届かないのである。
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少年アジは味覚というものを知らなかった。カエル顔の医者は口で咀嚼した形跡があると言っていたが、おそらくそれはごみ溜めで、生きるために何かに齧りついたためだろうとも説明した。純粋に、人が食べるための物を、彼は口に入れたことがなかったのだ。
水を飲んだだけで彼の瞳は物理的に輝いた。彼の瞳は感情によって発光するのかもしれない。嬉しさ、リラックス時に彼は表情ではなく、瞳や体で感情を表現するのだ。アジは夢中で水を飲んだ。数杯、飲み干して言葉ならざる言葉を言っていた。食べることにアジは感動しているようだった。
次にアジは運ばれてきたラーメンを凝視した。湯気、匂い、見た目に至るまでおそらく初めてみるものばかりだろう。テーブルの端にある割り箸を割って、ラーメンをすする黄泉川。
「おっ、けっこう美味しいじゃん」
その言葉が終わるとアジは水を飲んだのと同じように、黄泉川の動きを真似した。割り箸を割って、ラーメンをすすろうとする。しかし、彼の手はどうも箸がうまく握れないようで、ふるふると震え四苦八苦していた。そうだ、と黄泉川は気づく。これまで使ったことのない箸だ。急に使えと言う方が無理がある。コップで水を飲むのとはわけが違うのである。
黄泉川はすぐに店員にフォークを借りて、アジに渡す。アジはまじまじと箸とフォークを見比べていたが、すぐにフォークを選んでラーメンを食べた。一口、二口とアジはラーメンを食べていく。彼の瞳は見開かれて、無表情ながら驚いていることがすぐにわかった。水とはレベルの違う味の変化、歯ごたえに彼は夢中になって、ラーメンを食べているのだろう。
アジの瞳がキラキラと輝いた。よかったじゃん、と黄泉川は息を吐く。どうやら彼はこの料理を気に入ったようである。黄泉川もさらにラーメンをすすった。話題であるこの「ミドリムシ入り鳥白湯ラーメン、煮卵セット」は、学園都市にありがちな実験的嗜好品と思いきや、中々に美味しい仕上がりだった。40種類以上の栄養素を持つ健康食品ミドリムシをふんだんに使いつつも、化学調味料によって緑色を消し、驚きの白さを生み出したと口コミで書かれたこのラーメン。よもやここまで美味しいとは。黄泉川は久々の当たりの店を開拓でき、ニコニコと笑った。
さてアジはどんな様子だろうか、教員にありがちな早食い体質によって、すでに一通り食べた黄泉川は彼の方を見た。泣いていた。彼は、涙を流しラーメンを食べていた。彼自身、どこかキョトンとした顔で自分の顔に触れ、目をこすっている。自分の状況が把握できていないのだ。苦しいわけでも、悲しいわけでもないだろう。彼の生活の一端しか知らない、黄泉川でさえも彼の心の中に渦巻く感情は理解できた。一言では表すことができないあたたかな気持ちに、彼は涙を流している。
黄泉川はしばしそれを見つめ、そして思わず彼の頭を撫でた。彼のこれまでを労うように、これからを想うように、優しく彼の頭に触れる。そしてもう片方で、紙ナプキンをとって彼の涙をぬぐってやった。アジは黄泉川に触れられて、身をよじっていたが、途中から脱力した。傍から見れば彼女に心開いたようであった。
アジの涙が止まると、彼は食事を再開した。スープの最後の一滴まで完食すると、アジは大きく息を吐いた。満足したようである。そして、彼の瞳はキラキラと光っていた。黄泉川は思う。これまでは確かに暗く冷たい世界に彼はいたのだろう。しかし、これからは違うものになるはずだ。食事ひとつとっても、光の中を生きる人たちと同じように、食べたいから食べる、美味しいから食べるという当たり前の生活を彼は歩み始めるだろう。そして、そうなるように自分も、彼に協力しようと改めて思った。
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二人は食事を終えると、一度病院に戻った、黄泉川はカエル顔の医者に再び話をする。
「本当にいいんだね?」
「もちろんじゃん」
黄泉川は快活に笑うと、近くにいたアジにこれからの話をした。彼女はアジを一時的に自分の家に住まわせることを伝えた。アジは驚いたように目を見開いた。彼の住居についてカエル顔の医者の提案を遮り、黄泉川が自分の家に居候させようと思ったのには理由がある。
まず病院という環境にアジがどのように感じるのかを、黄泉川は考慮した。アジの今までの扱いを見るに、彼を創り育てていた機関はロクなものではないことは確実。そしてそこで彼に接していたのは、十中八九、白衣を着た科学者だろう。白衣を着た集団を見て、アジは気を休めることができるだろうか、おそらくは難しい。
次に、黄泉川宅へ住まわせるメリットは、アジに人の生活を学ぶ機会を与えられるためである。アジは普通の学生や社会人の生活を知らない。ついこの間まで、ゴミ捨て場で生きていたことからも明白だ。病院で生活した場合、普通の人間生活と同じとはいえない。何もない簡素な部屋で寝て起き、点滴バッグのようなものを食べ、働きまわっている大人の中で生活する。それでは今後アジが自分の部屋をもったり、生活したりする上で戸惑ってしまう。少しでも誰かが生活している部屋に一緒に住む方が、そういったことに慣れるだろう。
だから黄泉川は自分の家に居候させようと考えたのだ。幸いなことにアジは黄泉川を信頼し始めている。大人は怖い人だけではなく、優しい人もいると伝えていきたいと彼女は思う。アジが大人や他人とどんどん関わり、信頼できるようになれば、彼の生活はよりよいものになるはずだ。
当然だが、黄泉川がここまでやる必要はない。けれども関わった子供をそのままにしておくことを黄泉川は良しとしない。自分が救ってやるなどと、傲慢は言うつもりはない。だが、自分ができる範囲で、救えるのなら努力は惜しまないと彼女は言う。それが黄泉川愛穂という人間の生き方だった。
黄泉川の突然の同居話にアジは混乱したようだ。アジは不明瞭な何かを言って頭を左右に振った。黄泉川はその反応に快活に笑って話をしてやる。気にする必要なんてない。部屋は自慢ではないが広い。それにあんなごみ溜めに住むより、何倍も良いと言った。アジは少し唸る。考えているようだ。しばしの沈黙のあと、アジは小さく頷いて黄泉川を見た。そして深々と頭を下げてくる。
「オッケーじゃん、今日からよろしくなアジ」
黄泉川はそう言って手を伸ばし、アジと握手する。そうと決まれば買い物もしつつ、家に帰るじゃんよ、言いながら二人は病院から外へ出た。
手を握る二人は仲の良い姉弟にも見えた。カエル顔の医者は、また一人患者が退院するのを見届けると院内に戻っていく。途中で受付に備えついているTVがついていたので、彼は何気なく見る。
どうやら太平洋で謎の爆発があったようである。
旅客機からスマホで撮影した提供者映像には、海上から天を貫く赤黒い閃光が捉えられている。
映像が切り替わる。
今度は近くの島にいた旅行者からの提供映像。笑顔で海で遊ぶ子供の後ろ、地平線で赤黒い爆発が数回あり、海から水蒸気が立ち上っていた。
さらに関連して、先ほどその近海に漁に出ていたいくつかの漁船との連絡が途絶えているようだった。その安否が心配され、救助隊はすでに向かったとのこと。
爆発の原因は不明だが、海底火山の爆発にも見えると専門家は指摘していますと、キャスターは説明した。
カエル顔の医者はしばしニュースを見て、そして歩みを進めた。少し興味を覚える内容だった。しかし目の前に患者に関係あることを重要視する彼にとって、患者とはなんら関係のない、はるか遠くの太平洋での爆発騒ぎは、彼の頭からすっかり抜け落ちていった。
漁船が心配です。