よろしくお願いします。
アジはかき氷を勢いよく食べたのは久しぶりだった。だからすっかり忘れていた。あのキーンという痛みを。思わず唸ってしまうほどの痛みがアジの頭を襲ったのだ。途中から、「まるで頭に剣でも刺さってる?」というぐらい痛かったのだが、今はなんとか落ちついてきたのである。冷静を取り戻しはじめたアジは、ものすごい勢いで頭を撫でられているのに気付いた。
黄泉川の仕事仲間である鉄装が、いつも以上に困った顔でアジの頭を撫でていた。眼鏡の奥の瞳がアジを心配そうに見ている。大げさである。黄泉川の同僚は皆優しく、尊敬できる人たちばかりだったが、とにかく過保護というか、子ども扱いが激しいのだ。
特にこの鉄装はとびきりだった。いつも手をつなごうとするし、話すときはイチイチしゃがんで目線を合わせようとしてくれるのである。心遣いには感謝しかないが、それでももう今世でも成人しているアジにとっては、モヤモヤが募った。
一応、筆談にて「大人」と、自分のことを伝えたのだが、どうにも曲解されているらしく、それをみた黄泉川は大笑いして、結局頭を撫でるのである。体が治ったら、お礼もきちんと伝えるが、成人しているとも伝えよう。そう心に決めたアジだった。
アジが自分の考えに頷いていると店員さんがスープを一つ、テーブルに持ってきた。アジは頼んでいないので、鉄装かと思ったが彼女はレンゲでスープをすくい、フーフーを途中で挟んで、アジの前に差し出した。
アジは恥ずかしく思った。恋人とだって、そんなことやったことはないのだ。いや、今世ではいないけれど。前世でも、モテた記憶はないけれど。とにかくこんな恥ずかしい体験はしたことはない。
アジは非難気味に鉄装を見た。彼女は心配そうに、早く飲んでとアジに言った。意味が良く分からない。しかし、これもまた好意である。アジは好意には弱いのだ。
アジは彼女をレンゲからスープをズズッと口に含んだ。冷たくなっていた口に温かなスープが流れ込んでくる。悪くはなかった。冷えすぎて味はすぐにわからなかった。どんなスープなのだろう。
アジは机の横にある調味料入れの近くの箱から、レンゲをとる。鉄装を見ると頷いたので飲んでもよいのだろう。アジは再びズズっとレンゲでスープを飲んだ。
少しして、違和感。
唇がピリピリしているような感じがした。頭を傾げながらも、アジはもう一度スープを飲んだ。瞬間、原因がわかった。喉がものすごく熱くなっている。いや、口全体も同じように熱かった。アジはたまらず、舌を出した。そして大きく唸って、思わず言った。
「あアイッ!?」
(辛イッ!?)
再び、悶えるアジ。
原因に気付いた鉄装はさらに焦って、よくわからない注文を続けた。
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天草式の戦闘によるものか、海面が数回大きく爆発した。流石は手練れの魔術集団だと、海魔撃退連合の面々は考えた。ついに、あの海魔を葬ることができるかもしれない。希望が彼らの心の中に芽生え始めた。
少しして、海中が静かになった。海魔、天草式共に反応がなくなった。必要悪の教会の魔術師は、警戒を解かずに戦闘地帯だった海面を睨みつける。すぐに、攻撃を再開できるように指示を飛ばした。考えたくはないが、天草式が全滅した可能性もあったからだ。
すぐに海面に異常が現れた。高熱で沸騰したように蒸気が立ち上った。
ゆっくりと巨体がその姿を見せた。その凶悪な顔は、おそらくは天草式との戦闘により、片目がつぶれ雷のようなヒビが半分以上も入っていた。これまでとは違う、明確な傷だと、全員が色めきだった。
しかし、彼らの喧騒は徐々に小さくなっていった。
海魔の顔のヒビは、そのまま全身に走り始める。まるで生まれようとする卵のように、全体に満遍なく広がっていった。そこで、さらなる変異が始まる。
海魔の黒くゴツゴツとしたその肉体、ヒビから見える内側が淡く光り出した。色は赤黒い。吹き上がる蒸気。内側の赤黒い光が、どんどん高熱を帯びていくのはわかった。そしてつぶれた片目、その眼窩が赤熱する。その様子は体の色と相まって溶岩のように見える。噴火直前、爆発直前の活火山だ。
すべての魔術師は本能的に防御結界を展開した。すでに転移術式で逃げ出したものすらいた。それを魔術師たちは笑わない。賢明な判断だとすぐに理解したからだ。
赤黒い光がさらに強くなった。
海魔のヒビ割れた部分から莫大な閃光が迸ったのだ。正体は濃縮した魔力のかたまりだ。膨大な魔力の閃光が背から、胸から、肩から、腹から、ヒレから、尾から、触腕から、眼から、一気に放出される。赤黒い無数の魔力の塊は、その一筋一筋が超電磁砲をしのぐ威力だった。名をつけるならば、拡散型放射魔炎だろう。全身から、これまで貯めてあった膨大な魔力を炎か雷のように吐き出していく。
結界など、もはや無意味だった。戦闘機の積んでいるミサイル程度ならびくともしない、魔術世界の英知の一つが、引き裂かれ、消滅していく。結界を突破してきた爆音と閃光が魔術師たちを襲った。
世界が引き裂かれたようだった。
海魔のもたらす死の閃光は、阿鼻叫喚の地獄を生んだ。海面は熱量で爆発し、雲は霧散していく。魔術師たちは必死に逃げていく。光に直撃し、飲み込まれれば骨も残らない。
必要悪の教会の魔術師は全軍に退避命令を出し、すぐさま転移した。
命からがら逃げだしたのは日本の海岸だ。息を荒くして脂汗を垂らしながら倒れ込んだ。土が顔や服に付くが、そんなことを無視して、彼は海を見た。視線の先には数十キロ以上先にいる海魔だ。数百メートルもある巨体だろうが、見えるはずがない距離だった。そこでさらに魔術師は恐怖する。
そこには赤黒い雷の花が咲いていた。死をまき散らす魔の花だ。
地鳴りのような、雷鳴のような音が魔術師まで届いた。海魔の咆哮だと、すぐにわかった。
その日、魔術世界は敗北した。一体の怪物を、数百人の魔術師の連合軍が打ち取ることができなかったのだ。その事実に、数多くの魔術結社は恐怖した。さらにはイギリス清教、ロシア成教、ローマ正教といった宗教機関は、海魔の存在を危険視することになった。
今後、これまで以上に海魔に対する攻撃は激化してくことになることは、誰の目からも明らかだった。
海魔は、今も咆哮していた。自身の現状を知ることもなく、ただスープの辛さに悶え苦しんで、叫んでいる。
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激痛で目を覚ますと、風に揺れる緑のカーテンと零れる陽光が見えた。建宮は苦悶の声を上げながら、身を起こす。彼はここが天草式の隠れ家の一つの廃病院だと気づき、すぐに自分の失敗を知った。
「.........クソッ!」
建宮は激情に任せて声を荒げるが、それにより激痛が再び体中を駆け巡った。彼の声を聴きつけて、天草式の面々が8人ほど入ってきた。他のメンバーはどこかで待機しているのだろう。
「1週間です」
8人のうちの一人、五和が言った。
「1週間も、建宮さんは寝ていました。それぐらいの重傷でしたし、今もまだ完治には程遠い状態です、咳をしただけでも激痛が走ると思います。でもですね、それでも私たちはやらなくてはいけないことがあるんです」
「.........なにが言いたいのよ?いつワッ!!?」
五和は建宮の頬を思い切り平手打ちする。ビンタなんて可愛らしい表現は到底できない威力である。建宮は手で頬を押さえつつ、驚愕した表情で五和を見る。彼の頬には見事な紅葉が咲いていた。
五和は後ろの大男、牛深とバトンタッチした。牛深はまさに牛のように鼻から一気に息を吐いて、建宮の頭に拳骨を落とした。
「おおおおおッ!!?」
建宮の災難は続く、牛深はフンと鼻を鳴らしてさらに背後の女性、対馬にバトンタッチ。対馬は包帯の上からわき腹を思いっきり抓った。
「ぎゅあッ!?」
次にポニーテール女子の浦上はチョップを脛に、小柄な香焼は耳を引っ張り、古参の一人諫早は鳩尾に拳をぶち込み......全員からの突然の攻撃に建宮は虫の息であった。
「お、お前ら......な、なにをするのよ?.........」
「わかんねぇのかよ」
牛深は建宮を睨みつける。建宮はすでに涙目である。
「勝手に憤って、勝手に盛り上がって、勝手に死にかけて、仲間に散々迷惑かけた教皇代理サマは、俺たちが何にムカついてるのか、本気でわかんねぇのか?もう一回ぶん殴るか?ああ!?」
建宮は本気で殺されると思って、ひぃと小さな悲鳴を上げた。興奮してきた牛深を片手で制した対馬は建宮を睨んだ。
「一人で終わらせようとしたんでしょ?アジのこと」
建宮は対馬を剣呑な雰囲気を見て、態度を変えた。そして周りを見回す。建宮は息をのんだ。その場のメンバー、そしておそらく天草式全員が海魔のことを、アジのことを知ったのだとわかったからだ。海中で響いていたアジの苦しむ声、自分の迂闊な叫び声が、彼らに海魔の正体を伝えてしまったのだろう。
「アンタ、知ってたわね?いつから?あの大雨のとき、海魔が必要悪の教会の拠点をつぶそうとしたとき?」
「.........そうだ」
建宮は苦しそうに、観念するように言った。
「なんで、すぐに」
「言えるわけがないのよ!?」
建宮は大声を出す、痛みで咳込み、その咳でなおも苦しみながら、それでも絞り出すようにして吠える。
「アイツは他人や仲間を救うために死んだ!皆がアイツの死を苦しみながらも受け入れた!神裂の抜けたことにも耐えて、それでも前を向いて歩きだしたところに、そんなことを知って良いことなんて一つもないのよ!アイツが、アジが他人を襲い、大地を侵し、生物を食い殺す化物になったなんて何で言えるのよ!?言えるわけがない!!そんなの皆が辛くなるだけだ!!!」
建宮は守るべき仲間を睨みつけて続ける。
「あの時、アイツが肉塊に喰われた時、俺は目の前にいたのよ!?何もできず、指くわえて突っ立てた!海に身を投げた時も間に合わず、神裂が泣いているときも駆けつけられず、今日までノウノウと生きてきたのよ!?アジが、今も苦しんでいることなんて知らずに!今日も誰かを助けられたと、少し喜んで酒飲んで寝て、莫迦みたいに過ごしてきたのよ!許されるわけがないのよ.........俺だけが知ったのには意味があったはずなのよ、神様がくれた愚かな俺への罪滅ぼしチャンスだと思ったのよ」
だから、と建宮は絞り出すように言う。
「だから、俺がアイツへ引導を渡さなくちゃいけないのよ。今回は失敗した、それは謝るのよ。でも、俺の刃は海魔の肉を絶ち、効果的なダメージを与えられていたのよ。次は、もう失敗なんてしないのよな。まだ、倉庫には置き土産の霊装がある、傷を癒して、それさえ使えれば今度こそ」
「ふざけんな!」
対馬は建宮の胸倉をつかんでキレる。勝手なことばかり言う、目の前の男に、ついに我慢ができなくなったのだ。
「さっきから聞いてれば!なんなのアンタ!?うぬぼれてんじゃないわよ!」
「何を」
「悲劇のヒーローにでもなったつもり!?ふざけんじゃねぇよ!辛いのはアンタだけだと思ったら大間違いだ!!」
「だ、だから俺が一人で」
「全部間違ってんのよ!クソ野郎!」
対馬は建宮を殴りつけて、さらに感情を爆発させた。
「アンタだけが後悔してるような口ぶりが!その独りよがりが!本当に頭にくる!ハラワタが煮えくりかえるって言ってんのよ!どうして私たちが、全員が、後悔してるって考えない!?アジが死んだときも、神裂が抜けた時も、私たちも一緒にいただろうが!?」
対馬は言った。お前がアジを殺したのか。お前が神裂も追い出したのか。そんなわけがなかった。すべては不幸が原因だったし、スレ違いが原因だった。対馬の言葉にその場の全員が頷いた。天草式のメンバー、その誰もがアジの死を彼を救えなかったことを後悔し、神裂の悲しみと苦しみを受け止めることができなかったことを悔やんでいる。全員の気持ちは一緒だった。
それなのに、建宮は一人で抱え込んで、死ぬことも恐れずに行動したのだ。対馬にとって、そして仲間たちにとって、それは許されないことだ。それは裏切りだ。仲間たちに何も言わずに、苦しむなど、仲間の信頼に泥を塗る行為だ。もっとも恥ずべき裏切りだ。
「なんで、勝手に悩んでんのよ、なんで勝手に一人でやろうとしんのよ。神裂みたいに抱え込むんじゃねよ、クソ野郎。おいクズ、私たちはなんだ?鼻たれのガキの集まりで、お前は親か?ちげぇだろ、全員同じ仲間でしょ、どっちが上とかじゃない。仲間でしょ。なんで、言わないのよ......なんで頼らないのよ.........そんなに信....よう......できないの?」
建宮を殴り続けていた対馬は、ついに声を上げてボロボロと泣き始めた。
建宮が泣きじゃくる対馬を見て思う。自分の想いが、どうして仲間を苦しめてしまうのか。自分のやろうとしたことは、間違っていたのか。呆然とする建宮に、諫早は近づいた。
「お前の気持ちはわからないでもない。でもな、勝手なことばかりするな。教皇代理に、いや、ちがうな。お前の身に何かあったら苦しむのは天草式全員だ。アジや、神裂がいなくなったのと同じように、お前も仲間の一人なんだよ」
「.........」
「お前が、仲間のため考えてくれたのはわかる。でも、もういいんだ建宮。これはお前だけの問題か?違うな、私たちの問題だ。じゃあどうするか?もうわかるだろ?」
建宮は見回す。仲間たちは建宮を見ている。
何だクソ、と建宮はまたもや自分の愚かさを嘆いた。
建宮は聖人でも、神様でもない。たんなる人間だ。だからできることは限られている。
「俺が悪かったのよ.........みんな、助けてくれ」
その場の全員が頷いた。対馬はのそのそと建宮から離れ、五和に抱き着いた。建宮は、対馬に、もう一度謝罪したが睨まれるばかりだった。
「ぶふぅ.........ギザギザ頭の、クズ…ウッ.........見んな、カス......」
「そうですね、建宮さんはクズですね。はい、うんうん」
対馬は五つ以上も歳の離れた五和に慰められていた。流石に今、これをネタにできるほどの度胸と無謀さは建宮にはなかった。
牛深は鼻を鳴らして、口を開いた。その場のメンバーは思案する。
「んで、どうすんだ?」
「.........そうなのよな、まずはアジをどうするかってことよな」
「本当に、殺す以外の手はないのか」
「.........人外化してしまった者を治す術式は、天草式には伝わってなかったと思うのよ。」
「ふむ、まぁ早急に解決策を導くのは難しいだろう。このバカのように自爆など御免だしな。この場だけではなく、すぐに天草式全体で策を練ろう。場合によっては、元女教皇にも連絡をする必要があるだろうな」
「そ、それは」
焦る建宮に諫早は言う。
「確かに、元女教皇がアジのことを知れば後悔するだろう。でも後から知れば、さらに後悔するはずだ。あの海魔の影響力から見て、次に迎撃があるなら聖人である彼女は必ず投入される。その時、あの目の輝きや通信でバレた方が厄介だ。彼女が海魔を殺しても、海魔が彼女を喰っても悲劇しかうまれん」
諫早の言葉に建宮は納得した。仲間たちは話し合いを重ねていった。建宮は横になりながら思う。問題は全く解決していないが、それでも胸を締め付けるような苦しみはもうなくなっていた。