虹色のアジ   作:小林流

38 / 50
第38話

 

 

 山道を駆け抜け、科学の城壁を超えた先に見えてきたのは、学園都市に似つかわしくない魔の怪物だった。神裂は速やかにその怪物に七閃を放った。聖人たる彼女の一撃は怪物の体を容易く切り裂いた。怪物は不気味に体を蠢かせ、再び体の肉を変化させようと試みる。

 

しかし、

 

 

「遅いです」

 神裂の腕が一瞬ぶれると、巨体は静止した。

 怪物の体が真ん中からズレた。数十メートルはある怪物はまさに両断される。左右に分かれた肉塊はゆっくりと倒れた。大地を揺らして沈黙した怪物を見て神裂は小さく息を吐いた。

 

 

 神裂は倒れている人々を、人外染みた眼や耳で観察していく。小さいが呼吸をしているのを確認し安堵する。これほどの惨状でありながら幸いにして死者はいないようだった。

 科学が支配する街でまず目にすることのない魔術を見て、神裂は自身が感じている恐ろしき予感を再確認した。

 

 

 神裂は嫌な考えを追い出すように頭を振って、すぐさま人払いの術式を唱えた。このおぞましき肉塊を調べる必要がありそうだった。

 

 

 神裂が巨体に触れようとするところで、彼女は背後に蠢く気配を感じ取った。

 龍神に蛸のような触腕が喰らいついた姿。アレも魔術の生み出した怪物に間違いなかった。その龍はひどく興奮した様子で、体を翻すと一人の倒れている女性に肉薄した。

 

 

 

「七閃」

 神裂は怪物が人を喰らおうとしていると判断。龍の体は中心から裂かれるが、しぶとく女性に近づこうとしている。神裂は少々焦り、怪物と女性の間に割って入ると手に持つ七天七刀で怪物を切り裂いた。もはや顔だけになった龍はそれでも女性に近づこうとする。どういった魔術でどのような性質なのか、神裂にはまだ理解できていない。

 

 

 龍の頭部を神裂は七天七刀の鞘で押さえつけた。するとなぜか龍はその眼を一度大きくさせ、徐々に力を抜いていく。まるで安堵したかのような、不可思議な仕草だった。力の抜けた龍の頭部は少しずつ変化していった。

 

 

 突如、神裂の鼓動が速くなった。冷や汗すら流れ始めている。息苦しくなった。それは予感だ。今、この龍を見続けてはいけない。そう彼女の聖人所以の未来予知のごとき感覚。戦場で何度も命を拾ってきた、自身を守ってきたその感覚が、神裂の脳内で警告している。

 

 

 見るな。

 龍の頭はいつしか角が落ち、鱗や毛も抜けて地肌が見えていた。

 

 見るな。

 長く突き出た牙や舌は引っ込み、人の鼻や口が現れる。

 

 見るな。

 頭部だけになり力の抜けた眼は暗くなっている。魔術世界では珍しくない。死体の顔を見るのも慣れたもののはずだった。しかし、その顔は見覚えがあった。今その顔は見たくはなかった。

 

 

「あ、あ、あ」

 基本的に魔術は術者の意識がなくなれば解けるものだ。それが肉体変化であれば術者本人の体に変化することが多かった。アジも同じだったようで、神裂の目の前には仲間の頭部が残されることになってしまった。

 

 

「............これ......は」

 絞り出すような声が口からこぼれる。胃や内臓を直接つかまれたような不快感が彼女を襲う。首の後ろは氷のように冷えているが、心臓は燃えるように熱かった。

 自分がこれを斬ったのだ。アジの姿をしたものを徹底的に切り裂いたのだ。

 胃液がせり上がっていく感覚に苦しむ彼女の頭に、これまで感じてきた違和感が駆け抜けた。

 

 

 切り裂いた異形、シカを喰った怪物、学園都市で聞こえた声。

 神裂は自身の考えがまとまらぬ中、半ば無意識の状態で七天七刀を振り回した。

 何かが彼女に飛び掛かったのを、迎撃したのだ。手ごたえと共に、ぐちゃりという粘液が落下する音が聞こえた。

 まただ。

 神裂は、見るな、という予感を無視して自身が吹き飛ばしたものを見る。

 

 

 それはアジによく似た何かだった。少年の下半身は、内臓がそのまま零れだしたような触腕が蠢いている。それが神裂の方を見た。七天七刀で砕いた頭部もそのままに、神裂に牙をむいている。立ち上がる力はないのか彼女に再び飛び掛かることはなかったが、その眼は血走っている。それは、まるで神裂への怒りを燃やしているかのように思えてしまう。

 

 

 神裂はふらふらと後退りして、切り裂いた巨体に近づいた。これが一体なんなのか。神裂は様々な術式を用いて怪物を解析していく。様々な海生生物の名残、肉体を変化・融合していく術式、莫大な魔力とそれをつなぐパス。そのパスがつながっているのは日本近海だ。それは自分が駆り出されている討伐対象が潜んでいる場所ではなかったか。

 

 

 さらに彼女は思い出す。異形に編み込まれている術式には覚えがあった。否、術式などとはとても言えぬ代物だ。これは呪いだ。肉体に融合し貪欲に膨れあがるおぞましき呪い。

 目の前でアジを飲み込んだ肉塊が帯びていたものと同じものがここにある。

 

 

 ふと神裂は未だ脈動する肉塊の中に、腕をねじ込んだ。掴み上げたのは10cmにも満たない小さなチェーン。あの少年が好んで使っていた七歩蛇を模した霊装に他ならない。霊装には微かだが、間違いなくアジの魔力と人間の肉の痕跡があった。

 

 

 まるで脳が弾けたような感覚に彼女は襲われた。

 動悸が止まらない、息が上手く吸えない。

 あの夜は終わっていなかったのだ。

 自分が勝手に絶望し、勝手に諦めている間も、アジは蹂躙され続けていたのだ。

 今まで、私は何をやってきたのか。神裂の心は悲鳴を上げた。

 

 

 無防備になった聖人の周囲に、ワラワラと動くものがあった。アジの肉片はしぶとかった。肉片は建宮たちのように連続して攻撃し魔力を枯渇させるか、本体とのパスを断ち切ればすぐにでも物言わぬ死体になるだろう。それは聖人、神裂にとってどちらもたやすいものだ。

 

 

 バグンと神裂の足に喰いついたのは先ほど切り捨てたアジの頭部だ。続けて肩や腰にも不気味なものが牙を立てて張り付いた。痛みはなかった。ただ力が抜けていく感覚だけがあった。聖人の皮膚は邪悪なものたちに対して、その防御力を十全に果たした。彼女の肌には傷ひとつ付くことはなかったが、魔力は少量ずつ貪られていった。神裂は一度腕に力を込めて、肉片たちをはじき飛ばした。

 

 

 彼女の体は無傷そのものだ。これから先の肉塊との戦闘でも外傷を負う心配はなかった。真っ二つにした巨体の異形の脈動はいつしか大きくなった。彼女を襲うための変異が始まっている。

 

 

 この戦闘で彼女は確実に勝利を収め、倒れ伏した人々を救い出すだろう。

 その結果、彼女の心が砕かれようとも。

 

 

 

 

                  ○○○○○○○○

 

 

 

 光すらまばらな深海。そこに沈んでいるのは、あまりも大きな影。神話の海龍か悪魔のごとき異形。その怪物の眼がゆっくりと開かれた。そして体に比例した巨大な顎からブクブクと泡を吐き出す怪物。アジの本体だ。

 

 

 アジは数回、頭を振った。それだけで莫大な水の流れができ、海底が悲鳴をあげるように揺れている。アジは酩酊していた思考が徐々に元に戻っていくのを感じていた。彼には分らぬことだったが、木原の実験が中断したためにアルコールの吸収が止んだのが理由である。

 

 

 アジは再び巨大な口を開いて唸る。彼は、良かった!と言っていた。

 怪物アジは心底安心していた。分裂体がこれ以上被害を出さぬように追いかけた先に黄泉川たちがいたのは、まさしく誤算であり、彼女たちが傷ついたのには腸が煮えくりかった。分裂体がなぜか複数現れ、黄泉川たちに襲い掛かったのは実際ピンチだった。

 

 

 けれども颯爽と現れた人影をみて、もう心配はないと心のそこから安堵した。

 非常に際どい切込みのデニム、胸を強調するような着こなしのシャツには驚いたが、あの華憐な顔には覚えがあった。少女の面影のある凛とした目元と、何よりもあの大太刀。あれはまさしく七天七刀だった。あれを操る人物は一人しかいない。

 

 

 聖人、神裂火織である。

 天草式一の魔術師だ。アジが知る中で最強の魔術師。神裂が刃を振るったのなら分裂体など粉みじんだろう。黄泉川たちの命は助かったも同然だ。

 

 

 喜ぶアジだったが、すぐに血の気が引いていった。あれほどの被害を出し、なおかつ他の天草式から攻撃された事実を思い出したからだ。なぜ、彼らは唐突に自分を猛攻撃してきたのかは、定かではないものの、アジは自分が反撃してしまったことを後悔している。なぜかあの時、上手く体を操ることもできず、思考もまとまらなかった。その理由もまるでわからない。すぐにでも再び学園都市に向かう必要があるだろう。

 

 

 謝らなくてはいけない。全身全霊で弁明しなくてはいけない。

 そして天草式の皆と上条さんに協力を仰いで、すぐにもこの体ともおさらばしなくては。分裂体との戦闘に夢中になっていたが、学園都市の被害も心配だ。黄泉川たちの怪我の具合も気になる。あの分裂体の体内には回復を促進する霊装もあったはずだ。

 

 

 アジは逸る気持ちを抑えることなく、全速力で巨体を動かしていく。今度こそできるだけ本体を学園都市に近づける必要もあった。上条さんに学園都市から外に出てもらうのであれば、せめて彼の移動距離は少なくしなくてはいけない。

アジが巨体をくねらすたびに、体の周りには小さな光が揺らめいていた。

それはイギリス清教の魔術師や騎士を含む手練れたちの魔術による、監視術式だった。

その術式は海魔の様子を逐一知らせていた。日本海沿岸では、続々と海魔を滅する準備が進められていた。

 

 

 




ようやく神裂を合流させることができました。
短くてすみません。
よろしくお願いいたします。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。