気がつくと、私は持ち歩ける大きさの竪琴を携えて街の広場に立っていた。太陽が天高く昇る青空の下、人々は各々平和なひと時を楽しみながら行き交っている。その姿を傍から見ていた私は小首を傾げた。ここはどこで、私は誰なのだろう。誰もが把握できていることを、私は把握できていなかった。
風が吹き、腰まで真っ直ぐ伸びた淡い金色の髪がさらさらと揺れる。
「……どうする」
ほんの少しだけ考えてみても、すぐに答えは出ない。
今は腰を据えてゆっくり考えようと思い、近くにあったベンチに座る。日当たり良好。過ごしやすい気候に眠気を誘われるけど、ここで眠っていても問題は解決しないと思って気を強く保つ。
「……ねぇねぇ。あの子、すごく可愛くない?」
「本当だ。綺麗な金髪。お人形さんみたい……」
「アイドルか何かなのかな?」
大人の女性三人組が、目の前を横切りながら私のほうを見て何かを話していた。
後ろに何かあるのだろうか。気になって後ろを振り向いてみるけど、背後には日の光を浴びて煌めく噴水がある。きっとこれについて感想を述べたのだと思う。噴水を見つめながらもどこかへと歩き去っていく。
しばらく、似たような反応をする人達を観察しつつ、思案に耽る。
記憶を探ってみたけど、やはりすぐに何かを思い出せそうな感じではない。そうなると、記憶もなしに生活を送る必要がある。しかしそれはかなり過酷だ。人の生活は衣食住で構成される。衣については、今着ている白いワンピースでしばらくは持つと思う。住む場所もできればあると嬉しいけど、ない場合は野宿でも構わない。だから今もっとも問題なのは食だ。人間は食事をしないと生きてはいけない。
私は白いワンピースを手で叩く。
「……お金なし」
無一文。私が着ていた服にはポケットもなく、お金がどこかに収納されているわけでもない。竪琴以外は何も所有していない。どうして私はこんな状態で記憶を失ってしまったのだろうか、と記憶を失う前の自分を責めたい。
最悪、竪琴を売ればお金になると思う。陽射しを受けて輝く金色の外装の竪琴。表面は磨きあげられ、アメジストのような色合いの瞳を宿す私の両目が映っていた。弦も銀色の糸のように煌びやか。質の良い材質で作られたものだろうから、高く売れるはず。でも、それは最後の手段だ。
「……オルペウスの竪琴」
自分の名前も覚えていないのに、思い出すことのできた竪琴の名前。やはり、私にとっては大切な物のようだ。私が持っていた唯一の所持品にして、私の記憶を呼び覚ます手掛かりになるかもしれない。やっぱり売るのはやめておこう。
「……奏でてみよう」
音楽というのは人の生活の身近に存在する。もしかすると、音色を聞いたことがきっかけで記憶が蘇るかもしれない。
そう思い、私は何気なく竪琴を奏でてみた。
美しい音色が鳴り響いた。それは弾いた私の心にすら染み渡る不思議な音。弾けるということは体が覚えているということ。それなのに、初めて耳にしたかのように新鮮で、心が洗われるようだった。
竪琴の調べは私だけでなく、近くにいた人々をも魅了した。
気がつくと、私を中心に人の壁ができていた。皆、私が弾く竪琴の音を惚けた表情で聞き入っている。何人かは携帯電話を手にして私を撮影しつつも、その視線はじっと私にくぎ付けになっている。
本当に不思議な音。竪琴を奏でていると、私の中に自然と歌詞が浮かび上がった。
「Gatrandis babel ziggurat edenal」
自然と口が開き、その歌詞を滑らかに紡ぎ合わせる。自分でも驚くほどの声量が出た。私の声は濁りのない澄み切った音色となって高らかに周囲へ拡散し、その場にいた人達の心を包み込んだ。
周りにいる人達の悩みや苦しみがわかる。それら一つ一つ決して私には解決できないことだ。こればかりは他人が肩代わりできるものではない。
「Emustolronzen fine el baral zizzl」
だけど、気分を和らげてあげることができる。この竪琴と私の歌声ならばそれが可能だ。だからどうか、ひと時でいいから、この場では苦しみから解放されてほしい。何もかもを忘れ、耳を澄ませてほしい。
「Gatrandis babel ziggurat edenal」
人は弱い。誰かと支え合わなければ生きていけない弱い生物だ。だからこそ、こうして繋がり合える。皆で共有し、慰め合うことができる。音楽を通じて、ばらばらのはずの人々の心は繋ぎ合い、一つになれる。
皆の感情が流れ込んできた。私はそれを受け入れ、音と歌で包み込んで癒す。澱んでいた負の感情が澄み渡り、浄化されていくのが感じ取れる。これでしばらくの間は大丈夫。また辛くなったら、この歌を思い出してほしい。
「Emustolronzen fine el zizzl」
歌を通じて、きっと皆を支えてあげられる。
演奏が終わった直後、周囲は静寂に包まれた。目の前にいた人の顔を見てみると、放心状態だった。周りにいる人達も同様だ。言葉が出てこない様子で、黙って私を見つめている。
数え切れない視線に晒され、心が落ち着かない。
私は耐え切れずに立ち上がると、竪琴を抱えて頭を下げた。
すると、それを皮切りに拍手が起こる。最初はまばらだったその音はすぐに周囲に伝播し、割れんばかりの大音量に変わった。指笛も聞こえ、一気にお祭りムードだ。
満面の笑顔を浮かべる人達。中には涙を流している人もいた。そんな大勢の人達の中心で拍手喝采を浴びる私。今更ながら、人前で大声で歌ったのが恥ずかしくなってきた。
「……失礼します」
再び頭を下げ、私は竪琴を抱きながら人の壁を掻き分けた。壁は厚く、いったい何人が私の歌を聞いていたのかと驚愕するほどだった。そう考えると余計に恥ずかしくなり、耳障りでなかったと不安になった。
頭の中が真っ白になりながら、私は夢中でその場を離れた。
「ま、待てっ!」
すると、観客の中にいた一人が追ってきた。大きく横に広がるような長い赤色の髪の女性。胸が慎ましいというか薄っぺらい私とは違い、グラマラスな体型と露出度多めの格好。サングラスで目元を隠しているからはっきりとわからないけど、年齢は十代後半くらいに見える。
どうして追ってくるのか。恥ずかしさで悶えそうになりながら懸命に逃げた。
見知らぬ街を、細い路地を多用してひた走る。胸の大きな女性では辛いだろう場所も、小柄な私の体はスルリと抜けられる。悲しい気分になるが、気のせいだ。自分の年齢も覚えていないけど、私は多分成長期。これからに期待。
「あぁっ、ちょこまかと……! おいっ、本当に待ってくれ! 聞きたいことが……」
今が好機。相手は私の追跡に苦戦している。
私は速度を上げ、女性の声を背後に置き去りにした。
走って十数分ほど経っただろうか。
「……はぁ……はぁ……」
完全に息が上がっていた。苦しい。喉が渇き、ひりつくようだった。記憶を失う前の私はあまり運動が得意なほうではなかったらしい。いや、数十分も走り続ければ誰でもこうなるか。
訪れたのは住宅地にある小さな公園。寂れているために誰もいない。でも、そのおかげで落ち着く。先ほどまで衆人環視にこの身が晒されていたのが嘘のようだ。
「……ふぅ」
呼吸を落ち着かせ、公園のベンチに腰を落ち着かせる。
やがて、ざわついていた心も落ち着き、静まり返る公園の中で先の出来事を想起する。
「……楽しかった」
竪琴の音を響かせ、それに合わせて遠慮なく歌うことの快感。それは非常に魅力的で、出来ればまた歌いたいと思ってしまうほどだった。歌えばまた人が集まってしまうけど、恥ずかしささえどうにかできれば夢のような時間になるに違いない。
頑張ろう、と心に誓い、私は立ち上がった。
とりあえず、今は喉の渇きを潤したい。
そう思い、公園の隅にある自動販売機へと足を向ける。
「……あっ」
目の前に立ったところで、お金を持っていないことを思い出した。
どうしよう。公園の水飲み場で水でも飲もうか。
ほんの少し逡巡していると、横から自動販売機へと手が伸びてきた。男の人の手だ。太くて、筋肉に覆われている。指先に持った小銭を投入口に入れたことで、飲み物が購入可能になった。
「飲みたいものを選ぶといい」
「……え」
低い声で言ったその男の人を見上げる。
斜め後ろに立っていたのは、ワインレッドのカッターシャツとピンク色のネクタイをつけたガッシリとした体格の男性。先ほど私を追跡した女性よりも濃い赤色の、毛先がツンツンと尖った短い髪。人を見た目で判断するのはどうかと思うけど、顎鬚を蓄えた野性味の溢れるその表情に浮かぶ穏やかな微笑みに、私は少しほっとした。
包容力があり、頼りがいのある大人。そんな印象を私に抱かせる人だった。
「遠慮することはない」
だから、私はお言葉に甘えることにした。
自動販売機でお茶を購入し、ベンチに座ってゆっくり飲むことにした。隣にはお金を貸してくれた男性。話したいことがあると言われて、特に何の警戒もせずに私は男性と相席している。多分、この人は良い人だろうから、安心してもいいだろう。
喉にお茶を流し込み、渇きを潤す。やはりお茶を飲むと心が落ち着く。
「まず、最初に聞きたいことがあるのだが、いいか?」
和の心に癒されていると、男性が尋ねてきた。私は小さく頷き、お茶をベンチに置いて話を聞く体勢を取った。
「その手に持っている竪琴は、いったいなんだろうか」
男性が自身の顎に手を当て、興味深げに聞いてきた。
「……これですか」
私は手に持った竪琴を掲げる。
「……これは、オルペウスの竪琴といいます」
名前は知っているけど、それ以上のことは私にはわからない。
「オルペウス、だと……?」
だけど、男性のほうは何か知っているようだった。目を大きく見開き、口も軽く開いている。それほどまでに驚くべき品のようだった。
「……これが何か知っているのですか?」
「あ、あぁ、一応職業柄、神話などには詳しいからな……」
何故そこで神話? これは、神話の何かを模した竪琴なのだろうか。
私のほうから男性に質問しようとしたときだった。
突然、公園の前に止まった黒塗りの車。中から黒いスーツとサングラスを着用した男性が三人ほど降りてきて、公園に入ってくる。いったいなんだろうと思っていると、その男性達は私達の前まで歩み寄り、立ち止まった。一人が、手に大きな金属の塊を持っている。
「……え」
いったい何事。
「突然だが、君の身柄を保護させてもらう」
そう言ったのは、新しく来た男性達ではなく、私にお金を貸してくれた男性。
「申し遅れた。俺の名前は
その風鳴さんから自己紹介を受けたかと思うと、一歩前に進んできたスーツ姿の男性の一人が竪琴を掴んだままの私の両手を取り、金属の塊を押し付けてきた。それはガシャンと私の手首に嵌まると、頑丈な手枷に変わった。非常に重たく、物理的に破壊は不可能だろう。何となく、風鳴さんならばそれが可能だと思えたが。
「……え?」
訳がわからない。何故拘束されているのだろうか。
「手荒な真似となってすまない。特異災害対策機動部二課まで、同行してもらう」
風鳴さんは表情を引き締めてそう言った。
「……あれ?」
風鳴さんと黒服の人達に連行された私は、理解も追いつかぬまま車に乗せられた。
「竪琴は一時的にこちらで預かってもいいだろうか?」
「……あ、はい」
風鳴さんに聞かれ、大人しく竪琴を渡しておいた。風鳴さんならば大切に扱ってくれるだろう。少なくとも、今の私が持っているよりは安全そうだった。拘束されたままの私が竪琴を持って、転んだ拍子に破損などということになりかねない。
左右を黒服の人達に囲まれ、拘束されたまま車は走る。気分は売られていく仔牛の気分だったため、イディッシュ民謡である『ドナドナ』を盛大に歌った。無茶苦茶感情を込めて歌ったけど、助手席に座る風鳴さんは竪琴を大事に両手で持ったまま黙っている。左右の黒服の人達は少し動揺したようだった。運転席に座る茶髪ショートの人の良さそうな男性が、運転しながら軽く苦笑いをしていた。
この人達はいったい何なのだろうか。そして、特異災害対策機動部二課とは。その謎の組織が、何故私に接触をしてきたのか。
それらの疑問に対する答えは、ドナドナを最後まで熱唱し切った頃にたどり着いた、とある学院の地下で明かされることになるのだった。