本来の歴史では皇帝夫妻が新婚旅行中にフェザーン航路局の航路データが消去される事件があった。
当時の軍務尚書のオーベルシュタインが事前に軍務省の緊急用コンピューターにデータをバックアップしていた為に致命的な損失を免れた。
後世の歴史家がオーベルシュタインの功績で最大の功績と評価している。
ハンスが晩年に読んだオーベルシュタイン元帥評伝にもオーベルシュタインの最大の功績と記されていた。
ハンスの記憶に強く残っている事件だったのでハンスは大本営移転時にオーベルシュタインに航路局のデータのバックアップを取る事を進言していた。
オーベルシュタインもハンスの進言を認めて本来の歴史通りにバックアップを軍務省の緊急用コンピューターにバックアップを取った。
更にハンスは保険を掛けてガイエスブルグ要塞のコンピューターにもバックアップを取った。
(あれは、ルビンスキーが黒幕だったがルビンスキーが此方の陣営にいるなら杞憂かな)
ハンスの認識は甘かった。ラインハルトが新婚旅行中にフェザーン航路局の航路データが何者かに消去されたのである。
一時的に軍務省とフェザーン航路局がパニックになった。
フェザーンから出立する商船や巡回任務の軍艦等からの問い合わせが航路局に殺到したのである。
「航路データが無ければフェザーンに釘付けでは無いか!」
「回廊を出たが、行く事も戻る事も出来んではないか!」
幸いにも回廊内に戻っていた軍艦から軍務省に報告があった為にオーベルシュタインの耳にはいり、オーベルシュタインの迅速な対応で大過なく事なきを得た。
ラインハルトが新婚旅行先のフェルライテン渓谷の山荘でシュトライトに報告を受けた時には既に事態は沈静化した後であった。
「航路局は何をしていたのか!航路データの重要性を理解していなかったのか!」
ラインハルトの怒りはシュトライトが副官となってから経験した中でも群を抜いての激怒であった。
「恐れながら陛下。航路データの消失は重大な事ですが、致命的損失になっておりません。軍務尚書閣下が既に軍務省の緊急用コンピューターにバックアップを取っておりました」
「だが、軍務省の緊急用コンピューターでは容量が足りまい?」
「はい。陛下の御指摘の通りに容量が足りませんが軍務尚書閣下が他のデータを消去してでもと命じられましてバックアップを取っておりました」
「オーベルシュタインが」
ラインハルトは暫しの間だけ考えると指示を出した。
「宜しい。オーベルシュタインの功績を大とする。そして、ケスラーに事件の全貌を明らかにさせよ」
「御意」
ラインハルトは通信を切ると傍らで静かに会話を聞いていたヒルダに意見を求めた。
「フロイライン、ヒルダは何か言いたいのでは?」
「恐れながら陛下。私が口を出すべきでは無いと思います」
「ヒルダ、ラインハルト」
結婚を機に互いに名前で呼ぶ事を提案したラインハルトであるが双方ともに慣れないままである。
「ラインハルト!」
ヒルダは夫の名前を呼ぶだけで頬を朱に染めている。
「名前で呼ぶのは二人だけの時にしましょう」
「そうだな。余もヒルダの可愛い姿を他の者に見せたくない」
ラインハルトのからかいに頬だけではなく耳まで真っ赤にしたヒルダがそっぽを向く。
確かに二人だけの時にするべきであろう。間違えてもリュッケに見せるのは酷である。
「兎に角、今回の黒幕は地球教だと思います。そして、彼らが最終的に頼みにしているのは同盟の軍事力でしょう」
「ふむ。やはり貴女も同じ考えか」
「この銀河に新王朝に対抗するのは地球教のみです。そして彼らの狙いはテロで新王朝の力を削ぎ取り最終的に同盟の軍事力で帝国に対抗する事でしょう」
「狂信者の奴らは同盟を操り人形にする気か」
「既に地球教はヨブ・トリューニヒトを操った気でいました。恐らくは同じ手を使う気でしょう」
ヒルダの洞察は正鵠を射ていた。デグスビイの基本戦略を完全に読んでいたのだ。
「では、対策は?」
「これは、地道な司法捜査により首謀者と幹部達を逮捕するしかありません」
「余が囮になってもか?」
ラインハルトの大胆な意見にもヒルダは首を縦には振らなかった。
「陛下御1人を暗殺しても既に遅いですから」
ヒルダは自らの腹部を擦りながら否定する。
「それに、地球教に囮に手を出す程の余力があるとも思えません」
ラインハルトはヒルダの見解の正しさを認めた。
「しかし、狂信者も色々と陰険な策を考えるものだ。次は、どんな手でくる事か?」
ラインハルトの言葉にヒルダは思わず吹き出してしまった。
「何か余は笑いを誘う事を言ったか?」
「失礼しました。でも、帝国には地球教に対抗が出来る頭脳の持ち主がいますけど」
数瞬の間だけ、ラインハルトはヒルダが誰を指しているか理解が出来なかった。
「なるほど。確かに奴ならセコい相手の考えも読むだろう」
「あら、そんな言い方だとミューゼル元帥に失礼ですわよ」
「余は名前を出して無いが、何故にハンスの名前が出てきたのかな?」
「陛下もお人が悪い!」
頬を膨らますヒルダは実年齢よりも幼い少女の様に見えてラインハルトを楽しませるのであった。
その頃、皇帝夫妻から話のネタにされたハンスは航路データ消去の捜査をしているケスラーを除いた上級大将以上の将官を参集して会議を開いていた。
「皆さんも同じ考えだと思いますが航路データ消去の黒幕についてですが地球教で間違いないと思います」
「確かにハンスの言う通りだと俺も思うが他に候補者となるものが居るのか?」
ミッターマイヤーがハンスの言葉に応じて疑問と言えない疑問を提示する。
「強いて言えば共和主義者でしょうか?」
ミュラーも形式的に候補を出す。
「ミュラー提督も承知しているだろうが共和主義者でも航路データの消去の様な暴挙はしないであろう。成功すれば同盟の民衆を餓えさせる事になる」
ミュラーに応じたのはロイエンタールである。
「しかし、連中は事の重大さを分かっているのか。航路データを消去したら自分達も困るだろうに」
ファーレンハイトの疑問は常人なら当然の疑問である。
「ふん。故に狂信者なんだろう」
ビッテンフェルトが吐き捨てる様な一言は核心を突いていた。
「私もビッテンフェルト提督と同感だ。連中には信徒以外の人間は考慮するに値しないのであろう」
意外な事にオーベルシュタインがビッテンフェルトを支持する。
「連中もテロを重ねて新王朝に対抗する気なら気の長い話だ」
「成功したとしても、その時には、ここに居る者で生きている人間が居るかも怪しいもんだ」
レンネンカンプの感想にシュタインメッツも呆れながらも未来を予測をしてみせる。
「しかし、連中も本気で数十年先の事を考えていないと言いたいが、九百年前の亡霊だったな」
ルッツの言葉に全員の気が重くなった。
「それだけ長いと逆に感心してしまう」
ハンスの言葉は出席者全員の思いでもあった。
「それで、肝心な対抗策は?」
ミュラーが話を本題に戻す。
「しかし、対抗策と言っても地道な捜査で連中を追い詰めるしか策は無いだろう」
ロイエンタールがミュラーの意見に代表して応える。
「まあ。食い付いて来るか分からんが囮で誘ってみるか」
ハンスの言葉に全員がハンスに注目する。
「卿は意外と囮が得意だな。バーミリオンの時もウルヴァシーの時も」
ミッターマイヤーが感心しながらハンスに作戦の内容を目だけで促す。
「今度の我々の結婚式は連中にしたら最大のチャンスですからね」
「結婚式なら先日の陛下の結婚式も千載一遇のチャンスだったではないか」
ハンスの言葉にロイエンタールが反論する。
「あの時はキルヒアイス元帥がいた。キルヒアイス元帥が亡くなれば帝国は内乱となり同盟が勢力を回復してしまう。トリューニヒトが健在なら同盟を操る事が出来たが、トリューニヒトが亡き今では同盟も操れない」
「キルヒアイス元帥が健在なのが狂信者には都合が良いのか?」
「キルヒアイス元帥が居れば帝国の内乱もキルヒアイス元帥と反対派の二派になり、同盟も加われば三竦みになる。旧王朝時代と同じになり、どの陣営も地球教を相手にする暇が無くなる。勢力を回復するには絶好の環境でしょう。それ以前にウルヴァシーでの後始末で間に合わなかっただけかもしれない」
「では、囮に食い付くかも分からんではないか!」
「それはそれで、相手の力が分かるでしょう。準備不足で軽挙してくれるのが理想的なんですけど」
「確かに駄目で元々、何らかのリアクションが有れば儲けと考えれば悪くはないなあ」
ビッテンフェルトがハンスの提案に乗り始めた。
他の提督達も代案が無く、兵制改革で忙しい身の提督達にすれば、三回も結婚式に出るよりも一回ですませたいのが本音であった。
「では、今日の会議は終わりで宜しいでしょうか?」
ハンスが会議の終了を宣言する寸前にケスラーが会議室に入って来た。
「間に合ったみたいだな。卿らの予想通りに黒幕は地球教だった。航路局の職員を買収して航路データを消去させていた」
ハンスが挨拶も省略して質問する。
「買収金額は?」
「買収金額は二十万フェザーンマルクだった。空手形だったがな」
「空手形にしては安いなあ」
「借金も二十万フェザーンマルクあったらしい」
「哀れだな」
ハンスが心から買収された職員に同情した。金が無いのは首が無いのと同じとは誰の言葉だっただろう。
「まあ。連中が二十万フェザーンマルクを払えん程に困窮している事が分かって安心した」
ハンスの中の不安要素の一つが消え去った。ハンスは結婚式場にロケット弾を遠距離から打ち込まれる事を心配したが、地球教が資金難とすると高価な陸戦用兵器などは買えないと判断したのだ。
(まあ。適当に何かしてくれたらテレビの視聴率も上がりギャラも増えるのだがなあ)
この男、ちゃっかりとテレビ局を最大限に利用していたのである。