ハンスは無表情のまま、目の前の書類に目を通してサインをする。
二枚目の書類に目を通すと不可の判子を押して「再検討」と付け加えてサインをする。
三枚目の書類に目を通してサインをする。
既に出勤してから八時間も同じ作業をしている。
「ふむ。こんな時間か」
ハンスの横で作業していたオーベルシュタインが正面の時計を見て呟く。
「ミッターマイヤー元帥、ミューゼル元帥。今日は定時で終わりにせぬか?」
ハンスの正面に居たミッターマイヤーが時計を確認する。
「そうか。こんな時間か。俺に異存は無い」
ハンスも時計を確認するとミッターマイヤーと同じくオーベルシュタインの案に同意した。
「私も今日は流石に疲れました」
三人が同意したので三人は自分の部下達にも仕事の終わりを告げた。
そこにリュッケが入室して来た。
「元帥方、陛下が至急にお召しです」
三人は互いに顔を見合わせて無言のままラインハルトの執務室に向かうのであった。
執務室にはラインハルトだけではなく、ケスラーも待機していた。
「お三方に御足労を願いましたのは昨日の件です」
ケスラーが前置きもなく話を始めたのだが、ケスラーの表情にも疲労の影を認めた全員が無理からぬ事だと思った。
「昨日、ロイエンタール元帥が過去に交際された女性達から詰め寄られた件ですが、その後の捜査で新事実が発覚した事と手落ちがあった事の報告です」
ハンスは「詰め寄られた」のではなく「袋叩きにあった」の間違いではと思ったが黙る事にした。
昨日はハンス達の合同結婚式であった。帝国でも有名な女優のヘッダの結婚式と帝国の高官の結婚式でもあったから見物客も多かった。
地球教を誘い出す為の合同結婚式である。保安上の警備は一見して緩やかな様であったが実は裏では厳重を極めた。
結婚式は順調にトラブルも無く進行していった。
シュタインメッツ夫妻が教会から出て来ると見物客達からの祝福の声に包まれた。
その次にハンスとヘッダが教会から出て来た時はハンスが思わず指で耳を塞ぐ程の祝福の大歓声であった。
(ビッテンフェルト提督に釘を刺しても意味が無い!)
観衆の目がヘッダに集中している間に幸いとばかりにロイエンタール夫妻が教会から出て来た。
ロイエンタールにしてもローザにしても自身が見世物になる気が無く。ヘッダに観衆の目が向いているのは都合が良かった。
警備兵達も観衆の目がヘッダに向いていたので自然とヘッダを中心に警備兵としての意識が集中していた。
そして、警備兵と観衆の意識がヘッダに集中していた時に急に変化が起こった。
最前列にいた見物客の女性達が一斉に警備兵の股間に蹴りを入れたのである。
その場で警備兵達が股間を押さえて蹲る。警備兵が消えた穴から女性達がロイエンタールを目掛けて殺到した。
「オスカー説明しなさい!」
「裏切り者!」
女性達が口々にロイエンタールに呼び掛けながら突進して行くので帝国軍の将兵達は一瞬に事態を悟った。
ロイエンタールは咄嗟の事で対応が出来ないローザをハンスに向けて突き飛ばして避難させたのは賞賛される事であろう。
ハンスはローザを受け止めると両脇にローザとヘッダを抱えて一目散に教会に逃げ出した。
「逃げなきゃ駄目だ。逃げなきゃ駄目だ!」
呪文の様に呟きながら成人女性を二人を脇に抱えて走るのは火事場の馬鹿力である。
教会に逃げ込んだ後にもロイエンタールと女性達の声が聞こえて来る。
「俺は結婚を出来ない男だから別れろと言ったじゃないの!」
「俺なんかと一緒に居るには勿体ない女だと言った癖に!」
「俺は生涯、結婚が出来ない男だと言ったのは嘘なの!」
「私には貴方が初めてだったのに!」
ローザの顔は怒りの為に赤くなる一方である。反対にハンスとヘッダの顔色は青くなる。
ローザが教会を再び出て行く事を止める事が出来る人間は誰も居なかった。
教会の外では警備兵達が遠巻きにロイエンタールと女性達を眺めていた。
彼らが臆病なのではない無い。彼らは民衆を守る為なら己の身体を盾にして命を賭ける事も出来る勇敢な者達だったが、それでも怖い物は怖いのである。
それに、ロイエンタールが漁色家なのは帝国では有名だったので積極的に危険地帯に飛び込む気も無かった事も事実であった。
更に恐怖の存在が一人。教会から歩いて来ているのが見えたので警備兵達も金縛り状態になったのは誰も責められないであろう。
ロイエンタールを取り囲む女性達にローザが加わるとローザの怒声も教会内に聞こえてきた。
「初めてを奪ったのは私だけじゃないのか!」
「違う!」
「嘘!私は初めてでした。オスカー様!」
「てめえ!」
修羅場である。ハンスは最高責任者に視線で止めに入る様に懇願した。
懇願された最高責任者は視線だけで無理だと断言してロイエンタールの親友に視線だけで命令を出す。
命令を出された親友も無理だと視線だけでラインハルトに断りハンスに視線を向けた。
ハンスはミッターマイヤーの視線に視線で抗議しながらも視線を最高責任者の姉に向けた。
その場に居た全員の気持ちが一つになった。
(おい、無理だろ!)
しかし、アンネローゼは全員の予想外の行動に出た。
アンネローゼはハンスの視線を受けると頷いたのである。
(う、嘘!)
頷いたアンネローゼはハンスに背中を向けると見事な長い金髪を持ち上げたのである。
そして、持ち上げられた金髪の下からハンスが愛用している火薬式のリボルバー拳銃の姿があった。
ハンスはリボルバーを素早くアンネローゼの背中から受け取ると慣れた手つきで銃から弾を抜き弾丸と薬莢とに分けて薬莢だけを再び銃に込める。
空砲を手にハンスは教会を出ると空に向けて引き金を二回引く。
この当時の人間では火薬式拳銃の銃声を知る人間は少なく、全員がハンスに注目した。
「はい。終了!」
ハンスは叫ぶとロイエンタールの襟首を掴む。
「はい。まだ、この男を殴って無い方は手を挙げて!」
ハンスの声に二人の女性が手を挙げた。
「では、一発、どうぞ!」
二人が一発ずつロイエンタールを殴る。
「今のは腰が入ってない。遠慮せずに、もう一度!」
二回目は見事なフルスイングがロイエンタールの頬を鳴らした。
「警備兵!フロイライン達を詰所まで丁重に御案内しろ!」
ハンスは警備兵に指示を出した後に片手でロイエンタールの襟首を掴んだまま反対の手でローザの手を握り、二人を待機していた車に放り込んだのである。
これが、ケスラーの言う「ロイエンタール元帥が過去に交際した女性達から詰め寄られた件」なのである。
帝国の歴史上、空前の事であり恐らくは絶後の事であろう。
「ふん。昨日の事で何があっても俺は驚かないぞ!」
「手落ちがあったと言われるが既に昨日の件で帝国軍の面目は丸潰れになった」
「昨日の件では誰も悪くはないよ。悪いのはロイエンタール元帥だけ!」
ミッターマイヤー、オーベルシュタイン、ハンスの順でケスラーを一応は慰めているつもりである。
「実は昨日の事は地球教の陰謀でした。昨日のフロイライン達からは住所と氏名を聞き取りした後に全員を解放しましたが一人だけ架空の名前と住所の人間が居た事に後で気付いてしまいました」
「まあ。別に事が事だけに正直に言わないでも不思議ではないだろう」
ミッターマイヤーの意見に残り二人の元帥も同意する。
「それが、件の女性が今回の騒ぎの首謀者である様です。一人一人の女性の所に行きフロイライン達を焚き付けた様です」
「で、焚き付けられたフロイラインの話を総合したら矛盾が出て来たという訳ですね」
「その通りでした。恐らくはフロイライン達を焚き付けて詰め寄った時にロイエンタール元帥を暗殺する気だったかもしれません」
「奥方の迫力に怯えて何も出来なかったという事か。無理もない」
流石のオーベルシュタインも地球教に同情している。
「今回に限り、地球教の陰謀ではなく義挙だと思えますな」
ハンスは同情を越えて応援している様である。
これまで沈黙していたラインハルトが初めて口を開いた。
「そこで、卿達を呼んだのは他でもない。卿達に事実を伝えたが、この事実は帝国軍の歴史から抹消する。帝国軍が狂信者に恥を掻かされた事になる」
「陛下。事実を抹消したら、どうなるんでしょう?」
「ロイエンタールの恥になるだけだ!」
「はい。納得しました」
その後、ラインハルトの前から辞去した三人は真っ直ぐに帰宅する気が起きずに三人で安酒場に行くのであった。
ミッターマイヤーはオーベルシュタインを嫌っていたが昨日の騒動で急遽、ロイエンタール夫妻を新婚旅行の名目で世間から隔離した手腕には感謝していた。
ハンスが案内をして、以前に引き抜き工作で使用した個室付きの店である。
「しかし、件の女性が地球教だとしても本当にロイエンタールの女だったかもしれんな」
ウイスキーを片手のミッターマイヤーの感想にオーベルシュタインが応える。
「どちらにしろ。ロイエンタール元帥の身から出た錆びには違いない」
オーベルシュタインが酒の席でも正論を話す。
「しかし、奥方は怖かったなあ」
ハンスの述懐には実感が溢れていた。
「まあ。ロイエンタール元帥には丁度よい奥方かもしれん」
モテる男は敵と公言するハンスさえロイエンタールには同情した。
「これで、ロイエンタール元帥も漁色家として最期だな」
ロイエンタールは浮気をする様な男では無いが、仮に浮気心を起こしても相手にする女性は居ないであろう。
「確かに、あの奥方を敵に回す程の勇気のある女性が宇宙に居るとは思えん」
ミッターマイヤーの感想にオーベルシュタインとハンスも納得する。
「では、漁色家のロイエンタール元帥の最期に乾杯!」