オーディンに凱旋したハンス達には昇進が待っていた。
ラインハルトが軍功第一とされハンスが軍功第二とされた。
ラインハルトの軍功には異論もあったが不利な状況から逆転させた事実は変わりなく大将に昇進となりキルヒアイスも少佐から中佐に昇進となった。
ハンスも准尉から少尉になった。一つの功績が一つの昇進になるなら、敵の行動を正確に予測した事と対応策を提示した事も合わせて中尉にという話もあったが、これはミュッケンベルガーが制止した。
「軍隊の階級は功績の為の賞品ではない。少尉は士官の基礎を学ぶ軍人には大事な地位である。功に対して報いる事が少ないなら一時金にすれば良い。此方の生活を始めるにも色々と物入りだろう」
これには誰も反論せずに情と理の両方を納得させた。何よりハンス当人が喜んでいた。
「これで大型の冷蔵庫が買える!」
自炊生活に慣れたハンスにとっては独身者用官舎の小型冷蔵庫では食材が入りきらずに困っていたのだ。
キルヒアイスもハンスも昇進したが役職は副官と情報武官のままである。
ラインハルトの役職は権限の無い名誉職のみで軍首脳部の思惑は露骨であった。ラインハルトを本当に喜ばせた礼遇もあった。
皇帝から個人に旗艦が与えられるのである。
ラインハルトが溺愛し生涯の旗艦とした「ブリュンヒルト」との出会いである。
ラインハルトとキルヒアイスが旗艦の受け渡しに赴いた日にハンスはアンネローゼの元にケーキ作りを習いに来ていた。
「本当にハンスは筋がいいわね」
「お師匠様の教え方が上手なだけですよ」
アンネローゼは弟子の成長を喜ぶと同時に自己鍛練も怠る事はなくケーキを作る毎日であった。
酒飲みのフリードリヒには顔を見せる度にアンネローゼが笑顔で差し出すケーキが苦行だったらしく最近はアンネローゼを避けてベーネミュンデ侯爵夫人の元に通っているらしい。
(何か良い方向に向かっているのでは)
ハンスとしたらベーネミュンデ侯爵夫人は気の毒に思えていた。市井の庶民の娘でさえ恋人や夫が浮気をしたら怒り狂うものである。
ましては浮気じゃなく本気になられたら刃傷沙汰も珍しくない。
ハンスに理解が出来ないのは裏切った男ではなく相手の女性に怒りが向かう事なのだが。
(この場合、怒りの矛先がラインハルトなら別に良いか。こんな優しい美人の姉がいて女に苦労はしてないみたいだし)
完全に僻み根性である。
(このままフリードリヒとベーネミュンデ侯爵夫人との仲が持続すればベーネミュンデ侯爵夫人本人だけではなく周囲の人間も幸せなんだが)
「ねえ、お師匠様。作ったケーキをベーネミュンデ侯爵夫人にプレゼントしたら如何でしょうか?」
「あの方は私をお嫌いの筈ですよ」
「だからです。ケーキと一緒にアンケート用紙も送ればお世辞とか言わずに本音で駄目な部分を指摘してくれると思いますよ」
「そういうものかしら?」
「何もせずに嫌われたままよりは少しでも関係改善の努力はするべきだと思いますよ」
「それもそうね。何もしないよりは良いわね」
翌日からベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷にアンネローゼのケーキとアンケート用紙が届けられる事になる。
その事をアンネローゼから聞いたラインハルトとキルヒアイスは複雑な心境であった。
ベーネミュンデ侯爵夫人には何度も命を狙われた二人としてはケーキ如きで懐柔できる相手とは思えなかったからである。
しかし、懐柔が出来たかは謎であるが細かく駄目出しが書かれたアンケート用紙は返ってきている。
アンケート用紙を見たキルヒアイスは呆れ半分に感心していた。
「これ程、細かく駄目出しをする事も実際に文章にして自筆で書く事も大変な労力だと思うんですけど」
キルヒアイスの感想にラインハルトも応じる。
「確かに女性特有の細かい視点だが、自筆で書くとは根はかなり生真面目な性格みたいだなあ」
二人はベーネミュンデ侯爵夫人の意外な一面に苦笑するしかなかった。
因みにハンスもベーネミュンデ侯爵夫人にケーキとアンケート用紙を送っているが赤マジックで大きく点数を書かれてるだけである。
「ハンスは論評に値せずという事か。あいつの店を持ちたいという夢は、かなり遠いみたいだな」
ラインハルトも口にはしなかったがハンスはコックより軍人を続けた方が幸せではと思った。
その頃、ベーネミュンデ侯爵夫人から赤点を付けられたハンスはヘッダの千秋楽の舞台を観劇をしていた。
ヘッダの舞台は評判以上に素晴らしく演劇などと縁がない人生を送ったハンスさえ感嘆した程である。
演目はマクシミリアン晴眼帝の若き頃から即位して失明した後まで支え続けたジークリンデの物語である。
最大の見せ場は失明したマクシミリアンがジークリンデの身を案じて荘園生活を勧めるが断固として拒否して終生ともに生きる事を誓うシーンである。
ヘッダがジークリンデ役であったが素のヘッダを知るハンスさえ涙を流した。
舞台が終わり他の観客が帰って後も係員から促されるまで立ち上がれない程であった。
「もう、遅い!」
待ち合わせの場所で頬を膨らませるヘッダを見て、年齢相応の表情をしていて先程まで中年の女性を演じていた人物とは思えなかった。
「ごめんなさい。貴女の芝居を観て感動して椅子から立ち上がれなかった」
「女性に対しては陳腐な言い訳だけど役者には殺し文句だわね」
照れ隠しにハンスの頬っぺたを指先でツンツンと突っつく。
「それより、千秋楽に自分なんかと食事するより、演劇の関係者の人との付き合いとか大丈夫?」
「大丈夫よ。子供が気にしなくてもいいの!」
ヘッダは笑い飛ばしてハンスを連れてレストランに行く。
ヘッダの行き付けの店らしく予約も取っていたようで個室に案内された。
「ここはオーディンでも老舗で昔からの味を守っている店なのよ」
「一度でいいから帝国の伝統料理を食べてみたいと思っていました」
出された料理はクヌーデル(ジャガイモ団子)とソーセージがメインで健啖家のハンスも満足する味と量であった。
「本当に美味しかった!特にクヌーデルは美味しかった!」
「まあ、帝国ではジャガイモでフルコースを作れないとお嫁に行けないと言われてる程だからね」
「へえー」
ハンスは曖昧な返事をしながら
(ヘッダさんは出来るのかな?)
と思っても、ヘッダに直接に聞く程の勇気はない。
「まあ、それも昔の事みたいだけど」
「帝国のシチューと言えばフリカッセかと思ったけど、今日のグラーシュも美味しかった」
「今の帝国ではフリカッセの方が一般的みたいね」
「まあ、グラーシュはサワークリームが必要だからなあ。フリカッセの方が楽と言えば楽か」
「男の子なのに作る人の視点なのね」
「まあ、元はレストランの住み込み従業員の子供ですからね。しかし、今日の料理は美味しかった」
「満足してくれたみたいで私も嬉しいわ」
「今日はご馳走様でした」
「それから大事な話があるの」
ヘッダが急に真剣な顔する。
「何でしょうか?」
ハンスも真剣な顔を作り応じる。
「あのね。私の弟にならない?」
「えっ!?」
「養子縁組して私の弟にならない?」
「何を言い出すかと思ったら……」
「軍隊を辞めて私の弟になったら料理学校でも大学でも好きな道を歩けるわよ」
ヘッダは帝国で一番の女優である。恐らくはフェザーンと同盟を合わせてもヘッダ以上の女優は居ないだろう。そして、ヘッダの収入もヘッダの実力に見合ったものでハンス一人を楽に養えるものであるだろう。
悪魔の誘惑だった。幼い頃から貧困生活をして来たハンスには魅力的な誘惑である。
「駄目ですよ。僕は僕です。亡くなった弟さんじゃありませんよ」
「誤解しないで!弟と重ねた訳じゃないの」
「……」
「最初は貴方と弟が重なったけど、今は違うわ」
「……どちらにしても、直ぐに返事が出来る話ではありません」
「当然よ。私も感情的になってご免なさい」
「いえ、お気持ちは分かりました」
「ゆっくりと考えてね」
「はい」
このままヘッダの弟となり動乱の帝国の中で自分の安寧だけを考えるのか。それとも軍に身を置き流れる血を減らす努力をするのか。
自分が軍に身を置いても流される血の量は激流の大河の水をコップで掬う様なものだろう。そして自分も激流に呑み込まれるかもしれない。
亡命直後から先伸ばしにしていた悩みを急に突き付けられてしまった。
何故だか急にキルヒアイスとアンネローゼの顔が浮かんだ。あの二人はお似合いのカップルだと思う。
(アンネローゼ様に相談してみよう)
それが問題の先伸ばしである事をハンスは自覚していた。アンネローゼに相談しても最後は自分が決める事なのだから。
清眼帝がジークリンデにフェザーンに亡命を勧める描写がありましたが清眼帝が即位した頃はフェザーンは、まだ誕生していませんでした。
フェザーンではなく荘園生活に訂正しました。