太陽の光が窓辺のカーテン越しに室内を照らし始め小鳥の鳴き声が朝の到来を知らせる。
ハンスは見慣れた天井に視線を向けたまま溜息をつく。
(結局は結論が出ないままか。まあ、二つに一つだが本人が決断を下せないから当たり前か)
ハンスは自分の優柔不断さを自嘲しながら体を起こして洗面所に向かう。
洗面所の鏡を見た時に自分の目の下に大きな隈がある事に気付いた。
(昨日は一睡もせずに考え事をしてたからなあ。若い体でも限度があるか)
ハンスは冷蔵庫からソーセージとパンとバターを出すとシャワーを浴びた。シャワーを浴びて目の下の隈を消すと常温に戻した食材で朝食を作り始める。
鍋にソーセージを入れてポットのお湯を鍋に注いで火を点ける。パンにバターを塗り軽く焼いた後に鍋の中のソーセージを取り出しパンに乗せて焼きなおす。残った鍋の中の湯にスープの素を入れてスープを作る。
かなりの手抜きの朝食だが朝食を摂り終わると身支度を済ませ新無憂宮に出掛けた。
運が良いのか悪いのか。通された部屋ではアンネローゼだけではなく、ラインハルトとキルヒアイスの二人が先にアンネローゼに会いに来ていた。
「これは、昨晩は絶世の美女とデートだったハンス少尉殿ではありませんか。羨ましい事だ」
開口一番にラインハルトが皮肉を言ってきた。どうやら以前に朴念仁と呼ばれた事を根に持っているらしい。
事情を知るキルヒアイスは苦笑するしかない。
逆に事情を知らないアンネローゼは弟の大人気ない態度に頭を抱えるが知っていても抱える事だろう。
「実は、その事でアンネローゼ様に相談に来たのです」
ハンスの表情と口調で三人は深刻な話だと察した。
「姉上、私達は席を外した方が宜しい様ですね」
ラインハルトが椅子から腰を浮かせ掛かったがハンスが制止する。
「いえ、お二人の耳に入れておくべき話なので」
ラインハルトとキルヒアイスはお互いの顔を見合せたがお互いに心当たりが無い。
「まずは紅茶とケーキでも食べて落ち着いてから話をしましょう」
アンネローゼは屋敷のメイド達の相談に乗る事も有るので場慣れしていた。
美味しい物を食べれば少しは気分も晴れる。気分が晴れば話し易くなるものである。
四人の無言の茶会が行われた後でアンネローゼが四人に新しい紅茶を注いでから話を始めた。
「ヘッダさんと喧嘩でもしたの?」
どうやら自分が来る前にラインハルトから茶会の話題にされていた様である。
「いえ、逆なので迷っているのです」
「逆と言うと告白でもされたの?」
笑顔で聞き返すアンネローゼの言葉にラインハルトとキルヒアイスの動きが一瞬だけ止まる。幸いにもアンネローゼもハンスも気付いていない。
ラインハルトとキルヒアイスはドルニエ侯の娘がハンスを見初めている事を知っている。
更に夕食に招待されてハンスの女性の好みを探る様に依頼されている。
まさか「こんな娘がタイプで既に交際してます」とは言えるものでない。
「いえ、そんな色気がある話ではなく、養子縁組して弟君にならないかと言われまして」
「あら、良い話ではなくて?」
「失礼な例えですが、アンネローゼ様なら弟君の閣下が亡くなり閣下に似た人を弟にしたいと思いますか?」
「私の場合は無いわね。でもヘッダさんなら同じ姉として理解が出来るわ」
アンネローゼとヘッダの違いが男であるハンスには理解が出来ない。
「姉上、それではハンスだけでなく私も違いが理解が出来ません。説明して下さい」
ハンスの様子を見てラインハルトが助け船を出した。
「それはね。ラインハルト。年齢の問題よ」
「年齢ですか」
「そう。私達はお互いに姉離れ弟離れしてよい歳よ。でもヘッダさんはまだ若いわ」
姉離れを暗に示唆されたシスコンのラインハルトは渋い顔をする。
ラインハルトの顔を見て内心は頭を抱えるアンネローゼであったが口に出したのは別の事であった。
「私もだけど弟がいると女性は強くなれるのよ。弟の存在が支えになるの」
「支えですか」
「そうよ。ヘッダさんが自分で意識して気付いているか分からないけど、自分には弟が必要だと姉の本能で分かっているのよ」
「姉の本能ですか」
「そう、それに貴方も家族が必要だと思うけど」
「家族ですか」
(家族とかに縁が無いからなあ)
「特に貴方は家族との縁が薄いから将来的に家庭を持った時が不安だわ」
ハンスは亡命して余裕のある生活を目指していたが自分が家庭を持つ事は意識的に考えないでいた。自分は良い夫になる事が出来ても良い親になる自信がなかったからてある。ましては兄弟姉妹などは考えた事もなかった。
「まあ、自分も欠損家庭で育った人間ですから」
「どうしても駄目なら養子縁組を解消すれば済む事よ。一度、試してみたら?」
「分かりました。それと閣下」
「姉上ではなく私とは?」
「実は養子縁組をして軍を辞めてはと言われてもいます」
ハンスの言葉を聞いた途端にラインハルトが慌てだした。
「それは困る!卿の知識と見識は大変に有用である。卿に辞められるのは軍としても私個人としても重大な損失だ!」
ラインハルトの剣幕にハンスとアンネローゼも驚く。特にアンネローゼにはラインハルトがキルヒアイス以外の事でムキになるのを初めて見たので驚きも新鮮である。
「僕は別に辞めるとは言ってませんよ。でも、僕は最初からの軍人志望でもないんですよ」
ハンスの言葉にラインハルトも鼻白む。ラインハルトは他人から強制される事を極端に嫌う。
故にハンスを強制して軍に縛りつける事が出来ない。
「卿はどうしたいのか?」
「迷っています。大学で歴史を勉強したい気持ちもありますし料理学校に行きたい気持ちもあります。軍に残って現場の暴走を止めて少しでも流れる血の量を減らせればと言う思いもあります」
「その卿が料理人志望なのは知っていたが歴史を学びたいとは初耳だな」
「同盟にいた時は大学進学は夢のまた夢だったので最初から諦めてました」
「そうか」
ラインハルトの返答は短い。ラインハルト自身は子供の頃に姉を取り戻す事が人生の目標になっていたので夢を諦める事の心情が理解が出来ない。そして、自分の意に反して状況に流されざるを得ないのは、かつてのラインハルトも同じ体験をしているので理解が出来る。
「閣下がアンネローゼ様の前で決して無駄な血を流さないと誓って頂けるなら、自分は微力ながら粉骨砕身して平和の為に閣下の元で働きます」
それはラインハルトがキルヒアイスに立てた誓いと合致するものであった。かつてラインハルトはキルヒアイスに誓っている。
『自分達の目標の為には血を流す必要があるが、だが決して無駄な血は流さない』
ラインハルトがキルヒアイスに視線を向けるとキルヒアイスもラインハルトの視線を受けて頷く。キルヒアイスの返答を得てラインハルトはハンスに顔を向け口を開く。
「卿の気持ちは分かった。私も卿と姉上に約束しよう。これから先も血を流す事になるが決して不必要な血を流さないと」
「平和の時代が来るまで微力ながら閣下と共に戦います」
この時に銀河の歴史の流れは変わった。ハンスだけが知っている事だが確かに歴史の流れは変わったのである。
「まあ、平和の時代が来たら小さい店でも開きますから閣下達も来て下さい。サービスしますから」
ハンスが抜け目なく将来の顧客獲得の営業を始る。その場にいたアンネローゼとキルヒアイスが思わず笑い出す。
「はあ……。招待しますと言わんのが卿らしい」
ラインハルトが文字通りに頭を抱えて呟いた。
後にハンスが、この時の茶会の事を地球時代の歴史の逸話に習い「茶会の誓い」と名付けたが後世の歴史家からは全く無視される。だが何故か巷では有名になり歴史作家が必ず取り入れる場面となる。
こうして、ハンスは亡命以来の悩みに決別したのだが、ハンスが歴史に介入した事で、本来の歴史から、どれ程の歴史の変革を成せるのかを知る者は宇宙には存在しなかった。