朝は遅く起きて夜は早く寝た為か夜中の十二時半に目が覚めたハンスであった。
(本当に危なかった。公園の管理人になった頃に獅子帝編伝記が刊行されて読んだのは何年後だったかな?)
ナイトテーブルの上にあるペットボトルの封を切り、水を一口飲む。
(あの本の中には爆発物は荷物としか書いてなかったから荷物が何か分からんかったわ。まさか杖とは思わんかった。しかも杖に仕込んだ爆薬があれ程に強力とも思わんかった。無理も無いか。所詮は本人が死んだ後で周囲の人の記憶や記録から作った本だからなあ)
ハンスは昨晩の事を思い出す度に背筋に冷たいものが走る。
(本当に運が良かった。防寒着じゃなく防護服を着込んで良かった。本当に良かった。貧乏性に乾杯だわ)
ペットボトルを掲げて、また一口だけ飲む。
(しかし、この後は確か未来の双璧が麾下に入るんだよなあ。さて、原因となる事件が問題だよなあ)
後に言う。ミッターマイヤー暗殺未遂事件である。
(スフィンクス頭の子分が民間人を虐殺してミッターマイヤーが射殺するんだよなあ。軍規には違反していない事だが、スフィンクス頭の頭の中は空っぽだからなあ)
現実問題として入院中の身に何か出来る訳でもなく退院していても出来る事は少ない。
(もし、虐殺を防いだら双璧が他の陣営に行く可能性も考えないと)
虐殺事件が引き金になり双璧がラインハルト陣営に加わるのである。
(でも、二人の性格を考えたら結局は他の陣営に行く事はないか。しかし、他の陣営に行かなくとも暫くは双璧無しで戦う事になるのは苦しいか)
ハンスは自分の軍事的な才能を信じていない。故に双璧がラインハルト陣営に加わる時期が問題になる。
(アムリッツァには居て欲しい人材だよなあ。能力もだが頭数がいる)
このまま本来の歴史の流れに任せるか。それとも何か手を打つか。手を打っても効果があるのか。
(駄目だ。八方塞がりだわ!)
ハンスの優柔不断さが出てしまっていた。
気が付けば午前二時半である。
(まだ時間はある。明日から講習だから寝るとするか)
ハンス自身も自覚している事だが問題を先送りする癖が出てしまった。
小川のせせらぎと小鳥の鳴き声が聞こえてきた。優しい女性の声とともに体を穏やかに揺すられる。
「目が覚めましたか?」
どうやら特別室だけあって朝も起こし方は特別らしい。
優しい声の主は看護婦であり、小川のせせらぎと小鳥の鳴き声はスピーカーから流れている。
(看護婦が起こしに来るのは別にして小川と小鳥は一般病棟でも使えるな)
目が覚めているが体を起こせずにいると看護婦が指先に何かを巻き付けている。
(何をしてるんだ?)
作業が終わったらしい看護婦が呆れた様な声で宣言した。
「明日からは一時間前に起こしますからね。こんなに若い男性の低血圧も珍しいわ」
どうやらハンスは重度の低血圧だったらしい。
(低血圧だと自覚していたが看護婦が驚くレベルとは思わんかった)
結局は看護婦に手を借りて朝からシャワーを浴びる事になった。
朝食を予定時間の半分で済ませて時間調整をしてからスケジュールの帳尻を合わせる。
「朝も早くからお疲れ様です」
昇進講習の講師陣に挨拶をしてから講習を受ける。ハンスは逆行前の世界では最終階級は上等兵だったが少尉講習までは受けていた。同盟末期になると事務処理も遅れがちであり講習を済ませても単純に事務処理の遅れで昇進が出来ない者も多かった。ハンスもその一人である。
(少尉までは昔に習った事だが中尉とか大尉とかの講習は受けてないぞ)
結果としては何とか初日の講習はこなす事が出来た。逆行前後で士官達の仕事を見たり聞いたり手伝いをしたりで士官の仕事の内容を把握していた事が幸いしていた。
(今日は何とかなったけど。しかし、何日も続くのか。堪らんなあ)
唯一の楽しみは食事の時間である。昼食はマリーだったがマリーが自分で作って来たのは驚いた。師が優秀なのか料理自体も初心者にしては上手である。
夕食のヘッダは完全に自分好みの味である。流石に義理とはいえ姉である。
夕食の後も面会時間ギリギリまで講習は続き面会時間が終わった後にラインハルトが面会に来た。
「大変そうだな」
「はい、後何日も続くと思うと地獄ですよ。それより面会時間が過ぎているのによく看護婦さんが入れてくれましたね?」
「ああ、頼んだら入れてくれたぞ。意外と融通が利くものだな」
(けっ!美形は得だな。コイツは自分が女性から優遇されてる事に気付かないままかよ!)
完全な僻み根性だが事実でもあった。美男美女は異性から優遇されるものである。
「で、何の用で」
「ふむ、まずは少し心苦しい話だが、私は成人すると同時にローエングラム家の名跡を継ぐ。そこでミューゼル家の名跡は卿が継ぐ事になった」
「閣下、同盟で生まれ育った人間には分かりにくいのですが?」
「まあ、分かり易く言えば私は成人後にラインハルト・フォン・ローエングラムになり、卿はハンス・フォン・ミューゼルになる」
「え、宜しいので」
「陛下の勅命である!」
「それは本当にありがたい話ですね。私は今の姓が嫌いですからね。ハンス・フォン・ミューゼルとは良い響きです」
「卿が喜んでくれたら私も助かる。私もミューゼルの姓は嫌いだからな。自分が嫌いな物を他人に押し付けるみたいで心苦しかったのだが」
「いえ、私は嬉しいですよ」
「卿のお陰で私も二重に助かった。私がローエングラムの名跡を継ぐのを批判的な人間も今回の事で文句を言えなくなった」
「まあ、何処にも僻み根性を持つ者は存在しますから」
他人事の様にぬけぬけとハンスは言う。
「それと、預り物があったのだ。まずは姉上からケーキとベーネミュンデ侯爵夫人からブランデーの逸品の差し入れだ」
「閣下、ケーキは閣下が帰りに看護婦達に渡して下さい。看護婦は社会的地位も高く無く仕事もハードで収入も仕事の割には低いですが良くしてくれます」
「分かった。卿の名前で看護婦達に渡しておこう。ブランデーはどうする?」
「ブランデーは冷蔵庫に入れて貰えますか。明日、姉に渡します」
「なんだ。卿が飲むのかと思っていたが意外と真面目なんだな」
「閣下、自分は未成年ですよ」
「隠す必要はないぞ。卿が酒を嗜む事は知っている」
ラインハルトの顔には悪戯っ子の笑みが浮かんでる。
「閣下も人が悪い」
「まあ、個人の趣味嗜好には口を出さん。飲み過ぎるなよ」
「分かりました」
ラインハルトがブランデーを冷蔵庫に入れるとハンスが口を開いた。
「それと、閣下。真面目な話なんですが宜しいでしょうか」
ラインハルトも表情を改めてハンスに向き直る。
「何の話だ?」
「はい、帝国では地方叛乱が起きて鎮圧の度に無辜の領民が略奪暴行されると聞きました。今回も起きるかもしれないので閣下から陛下に略奪暴行厳禁の勅命をお願いして欲しいのです」
ラインハルトは最初はハンスの顔を凝視してから柔らかい表情になった。
「卿の危惧も当然であり私も同感である。明日にも陛下にお願いしてこよう」
「有り難う御座います!」
「卿は同盟で苦労したから優しいのか。生まれた時から優しいのか。分からんが卿の優しさは貴重だな」
「……有り難う御座います」
「では、お大事に」
ハンスはラインハルトが帰った後に後悔をした。
(これで双璧の陣営加入が遅くなってしまった。双璧が加入するまでは大変だな)
結果としてハンスの不安は杞憂になった。後で事情を聞いた時にハンスは憮然とするしかなかった。