長い入院生活も終わりハンスが退院したのは五月の半ばであった。
退院した翌日からフリードリヒをスタートに挨拶行脚に回る。
フリードリヒには形式通りに挨拶をするとベーネミュンデ侯爵夫人が礼を言いたいと言われてベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷に行く。
ハンスはベーネミュンデ侯爵夫人には苦手意識がある。ケーキを贈っては赤点をつけられているからである。
「本当に無事で良かった。妾も心配しましたよ」
「いえ、侯爵夫人には過剰な褒美を頂き恐悦至極で御座います」
「いえ、其方に報いるには足りませぬ。妾とアンネローゼの仲も取り持ってくれました」
ハンスが知らぬ間に和解したらしい。和解と言ってもベーネミュンデ侯爵夫人が一方的にアンネローゼに敵意を持っていたのだが。
(瓢箪から駒だな)
ベーネミュンデ侯爵夫人の説明によるとクロプシュトック事件の後にフリードリヒから、これからは二人で出掛ける事を止めて代わりにアンネローゼを連れて行く事にすると言われた。
当然、ベーネミュンデ侯爵夫人は納得が出来ない。そこで、初めてフリードリヒが本音を語ってくれた。
フリードリヒはベーネミュンデ侯爵夫人の流産を宮廷陰謀であると思っていて、ベーネミュンデ侯爵夫人を近くに置くと侯爵夫人自身が陰謀の的になる事を心配をして距離を置いた事を告白した。
また、アンネローゼは実家の後楯もなく後見人も居ない為に陰謀の的になり難い上に弟がエリート軍人であり誰も陰謀の的にしないからアンネローゼを側に置いたと言われた。
ましてやクロプシュトック事件の時はラインハルトが身を挺して守ってくれたのである。
アンネローゼとラインハルトには、いくら感謝しても足りないと言う。
それにアンネローゼを連れ出す事はベーネミュンデ侯爵夫人も賛成だと言う。
「失礼ですが、侯爵夫人は宜しいので?」
「妾も賛成です。陛下にアンネローゼを屋敷の外に連れ出して頂かないと色々と困る人々もいます」
「困るとは?」
ベーネミュンデ侯爵夫人の説明にハンスも驚き呆れた。
今年に入りアンネローゼのケーキ作りは拍車が掛りアンネローゼのケーキは宮廷の上は貴族の茶会から下は警備兵や小間使いの少女のオヤツになっていた。
(知らんかった。新年休暇の後はティアマト会戦の準備で忙しかったからなあ)
2月に入り評判を聞いた宮廷の内でケーキ作りの好きなメイド達がアンネローゼの屋敷で働く事になっていた。
するとケーキの質が上がり出入りの業者がアンネローゼのケーキの一部をケーキ屋に卸さないかと話を持ち掛けた。
「伯爵夫人。宮廷内は所詮は身内です。身内の評価など信用が出来ますまい。それよりは外で一般人に評価してもらえばケーキの質も上がると思いますよ」
この言葉にアンネローゼも納得した。質を落とさずに出来る分だけを卸す事を条件に業者と契約した。
そして、卸したケーキは評判となりアンネローゼの屋敷にはオーディンのケーキ屋の娘がケーキ作りの修行を兼ねて働きにきた。
これが3月の始めの話である。
ケーキ屋の娘が働き始めるとケーキの質と量も上がり評判を聞きアンネローゼの屋敷のメイドの全員がケーキ屋の娘となり巷では「グリューネワルトケーキ道場」と呼ばれる様になった。
そうなるとアンネローゼの屋敷はケーキ工場と化していく。
ここまでが4月の話である。
(道理で病院の看護婦達がアンネローゼ様のケーキを喜ぶわけだ。まさかと思うがケーキが食べたくて入院を長引かせたとかは無いよなあ)
そして5月になると業者からアンネローゼのケーキの専門店を出さないかと話を持ち掛けられたらしいのだが、流石に宮廷内の管理人であるリヒテンラーデ侯が黙っていなかった。
アンネローゼと業者に、それとラインハルトまでがリヒテンラーデ侯からお説教をされたのである。
(そりゃ、リヒテンラーデ侯も怒るわ。ラインハルトは気の毒だけど)
ハンスは頭の中でグリューネワルトの文字が光る看板と店の奥でアンネローゼがケーキを持って微笑むポスター貼られたケーキ屋を浮かんでしまった。
(簡単に想像が出来たわ)
説明したベーネミュンデ侯爵夫人も神妙な顔になっている。恐らく表情の選択に困っているのだろう。
「その様な理由で陛下にアンネローゼを外へ連れ出して頂かないと困るのじゃ」
「……」
ハンスの思い過ごしだと思いたいがベーネミュンデ侯爵夫人の視線が冷たい気がする。確かにアンネローゼの暴走の元はハンスなのだ。
ハンスは逃げる様にベーネミュンデ侯爵夫人の屋敷から辞去した。
ベーネミュンデ侯爵夫人の次にアンネローゼの屋敷ではなくブラウンシュヴァイク公の屋敷に挨拶に行く。
ベーネミュンデ侯爵夫人の話を聞いた後でアンネローゼの元に行く事は憚れたからである。
ブラウンシュヴァイク公の顔を見たハンスは驚きの声が出そうになった。
げっそりと痩せた顔が髪型を引き立て、スフィンクス頭に磨きが掛かっている。
「失礼ですがお体の具合が悪い様ですが?」
「その、討伐から帰ってから色々とあったのだ」
話を聞けばブラウンシュヴァイク公が気の毒になってきた。
討伐から帰ってきたらラインハルトが凄い剣幕で怒鳴り込んで来たらしい。部下のアンスバッハやシュトライトが間に入り何事かと聞くと一門の馬鹿が出征前にだされた勅命のクロプシュトック領民に対する略奪暴行の禁止令を破り未成年の姉弟を虐殺した上、軍規によってその場で射殺した士官を逆恨みして一門の者が監禁して謀殺を企んでいるという。
慌てて調査するとラインハルトの言は事実であり監禁されていた士官を解放して監禁した一門を叱りつけ射殺された者の家とは絶縁した。
怒り狂うラインハルトを宮廷の要人に間に入ってもらい宥めてもらった。宥めてくれた要人には謝礼を払い監禁された士官に謝罪に行き殺害された遺族には賠償金を払いとオーディンに帰ってきてから後処理で忙殺されていたのだ。
ブラウンシュヴァイク公にしてみれば皇帝臨御の時に自宅で爆弾を仕掛けられ面子を潰された上に一門の馬鹿が勅命を破り、面子を潰されてしまった。更に被害者が未成年となれば宮廷内外での評判が悪くなり娘の帝位継承にも影響するかもしれない。
ブラウンシュヴァイク公の心労は大変なものである。
流石にハンスも気の毒に思い気休め程度だが励ましの言葉を掛けて早々に辞去した。
最後に上司である。ラインハルトに挨拶に行く。幸いラインハルトは軍務省の自分の執務室にいた。
「丁度良い所に来た。卿を紹介したい」
ハンスが執務室に入るとキルヒアイスは当然としてロイエンタールとミッターマイヤーが居た。
「既に知っていると思うが紹介しよう。情報参謀補佐のハンス・オノ大尉だ」
「情報参謀補佐を拝命しております。ハンス・オノ大尉であります」
「オスカー・フォン・ロイエンタールだ。卿の噂は色々と聞いている」
(どんな噂を聞いているんだ?)
「俺はウォルフガング・ミッターマイヤーだ。俺も卿の噂は色々と聞いている。卿には一度、会ってみたいと思っていた」
(だから、どんな噂だよ?)
「あのう、お二人とも噂を聞いていると言われますが、どんな噂なんでしょうか?」
ラインハルトが意外な表情をして口を挟んできた。
「意外だな。卿が噂を気にするタイプとは思わなんだ」
「そりゃ、ご高名な両提督に言われたら気にもなります。それに噂を気にしない人間を情報参謀補佐にしたら駄目でしょう」
ラインハルトがからかったつもりがハンスが素で返したのでラインハルトが苦虫を噛んだ顔になる。
黙って聞いていたキルヒアイスが顔を下に向けて声を殺して笑っている。
場を取り繕う為にロイエンタールがハンスの疑問に答える。
「卿は年齢に似合わぬ見識と知識に行動力のある優秀な士官と聞いている」
「誤解も甚だしいですね」
「しかし、第三次ティアマト会戦では敵の行動を正解に予測して対抗策も提案したと聞いたぞ」
「あれは、敵に大馬鹿者がいたからです。敵軍内部では有名人でしたからね」
「俺は別の噂を聞いたぞ。軍人の枠に入りきらぬ。才能の持ち主と聞いたぞ」
「完全な間違いです。私は完全な凡人です」
それまで黙っていたキルヒアイスが初めて口を開いた。
「まあ、悪い噂ならともかく、良い噂ならいいじゃないですか」
「単なる過大評価だと思いますけどね」
「それより、早く帰って姉君の側にいてやりなさい。明後日からは卿にも頑張って貰う事になる」
「出征が決まったのですか?」
「うむ、七月に出征が決まった」
「敵も懲りませんなあ」
ロイエンタールがハンスの言葉を聞いて質問する。
「ほう、何故、卿は敵が仕掛けると思った」
「もうすぐ選挙ですからね。取り敢えず出兵して実際の勝敗と関係なく勝ったと自慢して票集めをしたいだけですよ。向こうの人間なら子供でも知っていますよ」
これは嘘ではなく帝国では選挙と出兵の関係が研究の対象にもなっている。
(また、無駄な血が流れるな)
ラインハルトとヤンが初めて互いを意識した歴史的な戦いであり戦略上は全く意味の無い第四次ティアマト会戦である。