自分の執務室で一枚の辞令書を見て怒り心頭のラインハルトをキルヒアイスが必死に宥めている。
「ラインハルト様、落ち着いて下さい。お気持ちは分かりますが、理不尽な辞令では有りません」
ハンスを少佐に昇進させて司令部付きの情報武官に命じる人事異動の辞令書がラインハルトの手元にある。
キルヒアイスの言う通りで客観的に見れば昇進して司令部に栄転の辞令である。
「ラインハルト様、確かに最初は少佐を押し付けられた格好でしたが、前回の戦いで少佐の知識と見識は帝国軍全体としても貴重であると分かりました」
「分かっているが、それでも頭に来る話ではないか!」
「それはそうですが、私とラインハルト様が幼年学校卒業以来、常に一緒にいる事も既に特別な事なのですよ」
これにはラインハルトも黙るしかなかった。
それでもラインハルトにして見れば、最初にハンスの知識と見識に気が付いたのはラインハルトでありドルニエ侯の兼ね合いでハンスを押し付けたのはミュッケンベルガーである。後から使えるからと言って自分の麾下に異動させるのは人材の横取りに思える。
「キルヒアイス。取り敢えずハンスを呼んできてくれ」
「分かりました。閣下」
数分後にキルヒアイスに連れられてハンスが入室して来た。
「何のご用でしょうか?」
ラインハルトは無言で辞令書を指先で詰まんでハンスに渡す。
それを見たハンスは落ち着いて口を開いた。
「これは危ないですね」
「ミュッケンベルガー元帥は優秀な方です。だから戦死の危険は少ないですよ」
「いえ、自分ではなく閣下の事がですよ」
ラインハルト本人よりキルヒアイスが先に反応した。
「どういう事でしょうか?」
「何で今更、僕を司令部に移す必要があるんですか?」
「それは、少佐の才幹が認められたからでしょう」
「それなら、前回の戦いの後に自分を異動させれば良いだけの話でしょう」
確かにハンスの才幹は既に第三次ティアマト会戦で証明されている。このタイミングでハンスを司令部に異動させるのは不自然な話でしかない。
「閣下は門閥貴族に嫌われてますからね。ミュッケンベルガー元帥も年齢的に数年後には引退しますから天下りするには門閥貴族の歓心を買う必要があるかもしれません」
ここでラインハルトがハンスの入室以来、初めて口を開いた。
「戦場で無茶な命令でも出して私を謀殺するつもりか」
「だと、僕は思います。それには僕が邪魔ですし僕の利用価値を発見したんでしょう」
ハンスの意見には説得力がある。何せ逆行前の世界ではラインハルトの大胆な転進は有名であり、命令を出したミュッケンベルガーの動機も研究対象になっていて、数ある説の中で定説となっている説をハンスは自分の意見として言っているのだから。
「門閥貴族には閣下を謀殺して歓心を買いドルニエ侯には少佐を昇進させて栄転として麾下に置いて命を救い恩を売る訳ですか。老獪な手段ですね」
キルヒアイスの言葉のドルニエ侯に反応してハンスは情けない声を出してしまった。
「その、キルヒアイス中佐、ドルニエ侯の話は何とかなりません?」
「何だ。卿はフロイラインの想いに、まだ応えてなかったのか?」
ハンスが弱気になった途端にラインハルトはハンスをからかう。
「思い出した!閣下!入院中に可愛い部下の僕を見捨てて逃げたでしょう!」
ラインハルトの言葉で入院初日の事をハンスは思い出してラインハルトに抗議を始めた。
「ち、違うぞ。私は軍務省に一刻も早く事の事実を告げる必要があったからで」
「まあ、呆れた!大将閣下とあろう人が見苦しい言い訳を!」
キルヒアイスは二人の子供の面倒を見る事を放棄して、二人を残してハンスが抜けた後の穴埋め人事の為に退室した。
キルヒアイスは色々と忙しい。
八月の下旬にイゼルローン要塞に到着した翌日にハンスは自室のベッドで軍服を着たまま二日酔いで苦しんでいた。
オーディンからイゼルローン要塞に向かう道中で少佐講習を受けた後に、ついでに中佐講習も受けさせられ講習漬けの道中であった。
昨日、イゼルローン要塞に到着して講習から解放されたと思ったら新しい職場の同僚や上司に歓迎会として酒場を連れ回されたのである。
「帝国軍の人って、もっと真面目な人ばかりと思っていたけどね」
取り敢えずシャワーを浴びるつもりで服を脱ぐと下着の中から紙幣が大量に出てきた。
「なんじゃ、こりゃ!」
昨晩の事は途中から全く記憶に無いのだが、この時にハンスはイゼルローン要塞が軍事基地で一般人が居ない事に心から感謝した。
(姉さんに見られたら怒られるなあ。しかし、どんな芸を披露して、こんなにチップを貰ったんだ?)
困惑しながらも下着に入れられた紙幣を集めて封筒に入れて大事に取っておく。
(これで帰りに土産でも買って帰ろう)
取り敢えずシャワーを浴び体内から汗と共にアルコールを出して体調を整えてから新しい軍服を着て外に出る。
ハンスにとっては初めてイゼルローン要塞の中の散歩は目に入る全てが珍しい。
結局は要塞内を散歩して回り一日が過ぎた。
翌日からは司令部付きの情報武官として書類の作成に集められた情報の分析にと多忙を極めた。
9月に入り同盟軍の艦艇がティアマト星系に集結中との報告が偵察部隊から報告された後に惑星レグニッツァにて同盟軍の艦艇が発見の報告もされた。
「叛徒共は決戦前に兵力分散をするとは何を考えている」
ミュッケンベルガーの疑問は当然である。実は同盟軍にはトラブルが生じていた。
前回の時と同様に一部の物資が不足して軍では迅速な対応が出来ずに民間船に委託を打診したが「グランド・カナル事件」の記憶も新しく全ての民間船から断られた。
仕方なく各星系の警備部隊を使い物資を運ぶ事になったが時間が掛かるので帝国軍の目を補給部隊から逸らす為に惑星レグニッツァに囮部隊を派遣したのであった。
「少佐、卿の意見を聞こう」
「まあ、何かのトラブルを隠蔽する為の囮なんでしょうけど、決戦前に少しでも敵の兵力を削ぐ事は大事です。それに、元気が有り余っている人もいるみたいです」
ミュッケンベルガーにはハンスが言外にラインハルトに出撃させろと言っている事が分かった。
つい先程、ラインハルトがフレーゲルと口論をしていたからである。二人の仲の悪さはフリードリヒも知っている程に有名なのである。
決戦前に軍内の喧嘩騒ぎで大将を営倉入りさせる訳にもいかない。
「元帥閣下も色々と大変ですね」
ハンスもミュッケンベルガーに同情してしまった。ラインハルトとフレーゲル。ゼークトとシュトックハウゼンと帝国軍には犬猿の仲が多い。
ハンスにはミュッケンベルガーがラインハルトを謀殺したくなるのも理解が出来る様に思える。
「そう思うなら卿も酒は控える事だ」
「……自分は記憶が無いのですが何をしたのでしょうか?」
「聞きたいか?」
「……いえ、これからは酒は控えます」
「宜しい」
この様な事情でラインハルトの出撃が決まった。
旗艦ブリュンヒルトの艦内ではキルヒアイスがラインハルトの愚痴を聞いていた。
「それで、ラインハルト様が要塞を追い出された訳ですか」
「追い出されたとは人聞きの悪い」
「言葉を飾っても意味はありません。フレーゲルなどの小物相手に本気になられますな」
キルヒアイスが珍しく本気で怒っているのがラインハルトに分かった。
「すまん。キルヒアイス。もうフレーゲルなどを相手にしない」
「分かって下されば宜しいのです。ラインハルト様」
キルヒアイスも本気でラインハルトがフレーゲルと喧嘩しないとは思っていないのだが。
(オノ少佐とフレーゲルとは正反対の意味でラインハルト様を子供にしてしまう。ある意味で貴重な存在かもしれない)
キルヒアイスに貴重な存在と評されたフレーゲルはミュッケンベルガーから説教をされていた。
「男爵にも考えて頂かないと困りますなあ!」
流石のフレーゲルもミュッケンベルガーが完全に正しいので反論も出来ないでいる。
ミュッケンベルガーもストレスが溜まっていたのだろうか。ラインハルトのレグニッツァでの勝報が届くまで延々と説教を続けたのである。
これが第四次ティアマト会戦、一週間前の帝国軍の内情であった。
この状況を見てハンスを含む若手士官達は口に出さないが同じ事を思った。
「大丈夫なのか。我が帝国軍は?」