ハンスはヘッダに抱きしめられながら口を開いた。
「今更ながらですけど、僕達は何処に向かっているんです?」
「……確かに今更の話よね」
「はあ……」
「内務省に向かっているのよ。内務省で貴方の臣民籍を作る必要があるわ」
「臣民籍ですか?」
「臣民籍が無いと健康保険や年金とか受け取れないわよ。結婚も出来ないわよ」
「健康保険や年金が受け取れないのは困ります!」
「他にも簡単な帝国の法律の勉強もあるわよ」
ハンスにしたら一難去ってまた一難の気分である。
「大丈夫。本当に簡単だから」
ハンスの気持ちを察したヘッダが軽く励ます。
「勉強を始める前は皆さん同じ事を言いますけど……」
ヘッダはハンスの体から離れるとハンスの前髪を手でかきあげた。
「大神オーディンの御加護を」
ハンスの額に口づけをする。
「あっ!」
途端に顔を赤くするハンスを見てヘッダは満足そうな笑みを浮かべる。
「本当に可愛いわね」
ハンスとしては孫の様な年齢の娘に翻弄されて忸怩たる思いだが不思議に嫌な気がしない。
「子供の僕をからかって楽しんですか?」
「うん、楽しいわ。生き甲斐!」
「……他の有意義な生き甲斐を見つけて下さい」
他に人が居れば呆れる会話をしている間に地上車は目的地の内務省に到着した。
「私は舞台に戻るけど、忘れ物とか無いか確認した?」
(この人は本質的には世話焼きタイプの人なんだなあ)
ハンスは内心の気持ちを隠してヘッダに言われるまま地上車の外でポケットの中を確認して見せる。
「大事な事を忘れてた!」
「もう、何を忘れたの?」
ヘッダは言いながら既にシートの上を見回して忘れ物を探し始めている。
「フロイラインに花束を」
軍港でヘッダから受けとった花束をヘッダに差し出す。
「ダ、ダンケ」
ヘッダもハンスの意外な行動に驚きながら花束を受け取る。
「花もフロイラインの様な美しい女性に貰われる方が幸せです」
「も、もう」
照れるヘッダにお構い無しにハンスは膝を折りヘッダの手の甲に口づけをする。
「もう、子供の癖に!」
言葉と逆にヘッダの顔が赤くなっていく。ハンスの意趣返しは成功したようだ。
「いずれ、お食事でも御一緒させて頂きます」
第三者が聞けば言う方と言われる方が逆じゃないかと思われる言葉を残してヘッダは去っていた。
「お待ちしてました。御案内します」
地上車を見送り振り返ると出迎えの内務省職員が此方を見ていた。職員はハンスの顔を見て笑いの発作を抑えているのが丸分かりだった。
(確かに顔に似合わない気障な真似はしたけど)
職員の後を歩きながらハンスは自分の行動の迂闊さを反省した。
(そりゃ、皇帝ラインハルトやユリアン・ミンツなら絵になったけどね。どうせ自分だと漫画だよ)
僻み根性丸出しである。
「此方になります。中へどうぞ」
案内された部屋の中には頭頂部が見事に光輝く肥満体の中年の男性が待っていた。
「ハンス君、疲れただ……ろ」
一瞬だが男が硬直した。
「私は内務省社会秩序維持局、局長のハインドリッヒ・ラングです。ハンス君には帝国臣民になる為の研修を受けて貰います」
「はあ……」
(ハインドリッヒ・ラングと言えば確かロイエンタール元帥に私怨を抱きルビンスキーに利用されて死刑にされた秘密警察の親玉じゃないか)
「まずは手始めに顔を洗いましょう」
「えっ!」
ラングの意外な言葉に驚きを隠せずにいるハンスを放置してラングはインターホンで女性職員を呼んだ。呼ばれた女性職員もハンスの顔を見て一瞬だけ驚いたがラングを見て首肯く。
一連の流れでハンスだけが事態を理解してなかった。
(一体、何?)
「此方に来て下さい」
ハンスは事情が飲み込めないまま女性職員に促されて後をついて行く。女性職員が女子トイレに入るのでハンスは隣の男子トイレに入ろうとしたら女性職員から女子トイレに引っ張られてしまった。
「ちょっと、僕、男の子ですよ!」
思わず叫ぶハンスを無視して女性職員が洗面台の鏡の前にハンスを立たせる。
「なんじゃこりゃ~!」
鏡を見てハンスの絶叫がトイレ内にこだまする。
鏡の中のハンスの両頬と額には鮮やかなキスマークが鎮座していた。
「その、気の毒だけど中継で帝国中の人が観てましたよ」
「あ、あ、あの腐れ外道女め~!」
怒りのあまりに同盟語で叫ぶハンスを女性職員が冷静に宥める。
「起きた事は仕方ないです。取り敢えずはキスマークを落としましょう」
「は、はい、お願いします」
ヘッダへの怒りは別にして、ハンスがキスマークの落とし方など知る筈もなく、今は女性職員の指示には素直に従うしかない。
「ちょっと、冷たいけど目を閉じて我慢してね」
大人しく白いクリーム状の物を顔全体に塗られる。
「そのままで、ちょっと待ってね。クリームが汚れを吸い取るのに時間がいるから」
ハンスは手でOKサインを出して答える。
「彼女の事を怒らないであげてね。彼女は三年程前に貴方と同じ歳の弟さんを亡くされてるの」
ハンスは黙って聞いてるしかなかった。
「弟さんと貴方が重なったと思うわ。貴方のエスコート役のオファーしたらノーギャラなのに二つ返事で引き受けてくれたもの」
「……」
「私も弟がいるから彼女の気持ちが分かるの」
弟と重なったのに、こんな仕打ちとは歪んだ愛情だと思ったが一人っ子の自分が知らないだけかもと思った。
機会があれば姉のいるラインハルトに聞いてみたいと思った。参考になるか怪しいのだが。
「そろそろ、クリームを落としても大丈夫ですよ。普通に顔を洗って下さい」
顔に塗られたクリームを水で洗い流して鏡を見ると光沢のある艶々した肌が現れた。
「うお、凄い!口紅の跡形も無い!」
「羨ましいわ。若いから口紅と一緒に毛穴の汚れも取れただけなのに、こんなに肌が美しくなるなんて」
「お姉さんも綺麗ですよ」
「ありがとうね。でも、肌のお手入れが大変なのよ」
「ところで弟にキスマークを付けるのも姉の愛情なんですか?」
ハンスはどさくさ紛れに弟がいる女性職員に先程の疑問を聞いてみた。
「あら、当然じゃない。弟を可愛がるのが姉の特権なら、弟を玩具にするのも姉の特権よ」
「……」
早速、質問する相手を間違えた様である。
「さて、無駄話はやめて局長の所に戻りましょう」
ラングの所に戻るとラングが書類の束を用意して待っていた。
帝国も同盟も一緒で役所の書類とは分かりにくい上に面倒な物である。
ラングが意外な事に一つ一つ丁寧に説明してくれて記入する箇所も教えてくれる。
「それからハンス君には帝国の養子縁組制度を予備知識として覚えて欲しい」
「はあ、養子縁組ですか?」
「帝国では養子縁組が多いのだよ。貴族間の政略目的の養子縁組も多いが150年も戦争していると孤児も多くなる」
(同盟も似た様なもんだけどね。トラバース法とか悪法が出来る程だから)
「帝国の場合は地方反乱等もある。必然的に孤児も多いから養子縁組も多いのだが養子縁組は両親が揃わないと許可が出来ない。そこで兄弟姉妹の養子縁組も存在する」
「親子関係だけじゃなく、兄弟姉妹の養子縁組とは変わっていますね」
「こちらの方が一般的には多いのだよ。親子になると遺産相続でトラブルになるケースも多い。兄弟姉妹なら実子との遺産相続でのトラブルが少ない」
(同盟でもトラバース法でも遺産相続でトラブルに発展する事も多いからな)
「もしハンス君にも養子縁組の話が有れば親子関係でなく兄弟姉妹関係の養子縁組もある事を思い出して欲しい」
ラングは秘密警察の責任者として世間からは嫌われてるが、実際は誠実で優秀な官僚であった。
書類にサインする作業が終わるとラングと共に昼食となった。昼食の席の間にラングは何度も、これから先に困った事が有れば自分が相談相手になる事を約束してくれた。
ハンスはラングが自分を政略に利用する気なのか疑ったが直ぐに考えを改めた。
(そう言えば、この人は下級官吏の頃から匿名で福祉事業に寄付をしてる篤志家なんだよなあ。孤児の自分に善意で言ってくれてるんだろうなあ)
ラングはロイエンタールとの確執で身を滅ぼして後世に悪名を残す事になるのだが、それ以外は公人としての枠を越える事はなく、逆に私人としては善良なる人物である。
食事が終わるとラングは食後のコーヒーを飲みながら、これからのハンスの処遇に対する予定を教えてくれた。
まず明日は戦勝式典で皇帝との謁見があるので謁見の為の作法の練習。
そして、謁見の後はハンスは三日間程は内務省で研修を受けた後に軍務省の預かりとなり年内は軍務省で研修を受ける事になる。
予定を聞かされたハンスとしては研修とか講習とか懐かしい単語であった。
(講習とか食品安全責任者の取得した時が最後かな)
口に出したのは平凡な一言であった。
「研修ばかりですね」
逆行前の人生では上等兵どまりのハンスにとって縁の薄い話である。
帝国でも同盟でも昇進する度に研修や講習を受けるのは当たり前であり、ハンスも例外ではなく、帝国軍人として苦労する事になる。
その前に謁見の作法の練習が深夜遅くまで続く事をハンスはまだ知らなかった。